恋愛結婚がしたいだけなのに。

20代最後の夜、私はなかなか眠りにつけずにいた。部屋の明かりは消していたが、モノクロのカーテンの隙間からは街の明かりがぼんやりと差し込んでいた。静寂の中で、時計の針が進む音だけがやけに大きく聞こえる。
明日になれば30歳になる。

華の20代が終わり、30歳になることが怖い。
このまま少しずつ老いていくことが怖い。
この先も一人で生きていくことが怖い。

20代の頃は、30歳になっても独身だったら、生きている意味なんてないのではないかと本気で考えたこともあった。目を閉じると、これまでの思い出が走馬灯のように蘇ってくる。

小学生の頃、いじめに遭ったこと。
中学生の頃、友人たちと笑い合い、青春を謳歌したこと。
高校生の頃、二度と誰からも舐められたくないと思い、ギャルになったこと。
大学生の頃、初めて心から好きになった人と付き合ったこと。
社会人になり、友人たちが次々に結婚していく中、必死で婚活をしてきたこと。

これまでの人生を思い返しながら、天井を見つめていた。

世の中では30歳の独身は珍しくない。
頭では分かっていた。
それでも、仲の良い友人たちはみな結婚した。子どもが生まれた友人もいる。グループLINEには、夫婦や子どもの写真が次々と送られてくる。今ごろきっと、彼女たちは隣で眠る夫や小さな子どもの寝息を聞きながら、穏やかな眠りについているのだろう。

学生のときは、みな同じ場所にいたはずだった。それなのに、いつの間にか、今では残酷なほどにライフステージの差が開いていた。できることなら、大学生からやり直したい。婚活なんかせずに、大学で付き合った彼氏と結婚したい。
そんなことを考えているうちに、気づけば眠りについていた。

目が覚めると、私は30歳になっていた。
あれほど恐れていたのに、いざその日を迎えてみると「まあ、こんなものか」という妙な安心感があった。

昨日と今日で世界が変わったわけではない。
この部屋も窓から見える景色も、自分自身も、何ひとつ変わっていない。変わったものは、年齢という数字だけだった。



それから数週間後のことだ。
私の精神状態を大きく揺るがす出来事が起きた。最も親しい婚活仲間の華奈子から、恐れていた報告が届いたのである。

『朱音!彼氏できた!!』

その一文を目にした瞬間、頭の中が真っ白になった。胸の奥が、すっと冷えていく。
まるで、自分だけが取り残されたような感覚だ。今にも崩れ落ちそうな心をどうにか支えながら返信を打つ。

『おめでとう!』

送信ボタンを押したあと、スマホの画面をしばらく見つめていた。張りつめていた糸が切れた。大切な友人の幸せを心から祝いたいはずなのに、声を出して泣いてしまった。嗚咽が1Kの静かな部屋に響く。
ついに、華奈子までいなくなってしまった。

もちろん、華奈子が悪いわけではない。
幸せになってほしいと願っている。
それでも、同じ戦場で戦っている貴重な仲間を失ってしまった絶望のほうが大きかった。



『週末、空いてたらランチしない?』

数日後、華奈子からLINEが届いた。
私はしばらく画面を見つめたあと、返信を打った。

『ごめん、街コン入れちゃった』

本当は予定なんて入っていなかった。
会えばきっと、彼氏との幸せな話を聞くことになるだろう。一方で、自分には彼女に話せるような報告事項は何一つない。その差を突きつけられるのが怖かった。

せめて、次に会うときは「私にもいい人ができたよ」と笑って話せるような話題を手に入れておかなければ、正気を保っていられない気がした。

その後も華奈子から食事に誘われるたびに、何かと理由をつけて断り続けた。華奈子の前で平静でいるためには、何か一つでも話せるネタが必要だった。そんな焦りに突き動かされるように、マッチングアプリを開いた。

華奈子に彼氏ができ意気消沈していた頃、マッチングアプリで出会ったのが、熱心にアプローチをしてきた2歳年下の圭介だった。

写真を見るとなかなかの好青年で、メッセージも積極的だった。自分好みの男性で、こんなに好意を向けてくれる人は久しぶりだった。自然と期待が膨らんだ。
何かが始まるかもしれない。
そんな予感がした。


実際に会ってみると圭介は想像以上にタイプだった。自分より身長が高く、見た目も写真通りで、立ち居振る舞いもスマート。会話も弾み、自分への好意と興味も感じられた。

「朱音ちゃんって、どんな人がタイプなの?」
「変なこと言っても、笑ってくれる人」
「じゃあ、俺いけるわ」
「ギリかな」
「うっそー!」

冗談めかして笑う圭介にますます惹かれた。
今度こそうまくいくかもしれないと、胸の高鳴りを抑えきれなかった。



食事を終えると、圭介が「駅まで送るよ」と提案してくれた。彼の車に乗り込み、駅へ向かう道中も会話は途切れなかった。
最寄りの駅に到着すると、自分から「また会いたい」と切り出そうか迷っていた、そのときだった。圭介が何気ない口調で言った。

「今からホテル行かない?」

一瞬、耳を疑った。
先ほどまでの高揚感が一気に冷めていく。

「圭介くんって彼女探してるんじゃないの?」
「まぁ、彼女も探してる」

久しぶりに心を動かされた相手は、私との将来ではなく、一夜限りの関係を望んでいた。
普段の私なら迷わず「無理」と断っていただろう。だが、30歳を迎え、華奈子の報告を聞き、ようやくいいと思えた相手にまで突き放されたとき、心が限界を迎えた。

全部、何もかもどうでもいい。
どうせ一生独身かもしれない。
それなら、せめて今だけでも誰かに求められて楽しむのもいい気がする。
そんな投げやりな気持ちが、自分を支配していた。

「行こ」

そう告げると、彼は黙って車を走らせた。






ホテルに着き、圭介が私に覆いかぶさる。
口元を歪めて笑った。

「恋愛はサバイバルだから」

その笑みは私の気持ちを見透かしたうえで、負け犬をあざ笑っているように見えた。
プライドが音を立てて崩れていく。きっと、彼にとって恋愛は簡単なゲームなのだ。これまでに何人もの女性を虜にしてきた恋愛強者なのだろう。私はその駒の一つにすぎなかった。

そうしてその日、人生で初めて一夜限りの関係を持った。




そんなことがあってからも、圭介のことを忘れられなかった。婚活地獄の中、数年ぶりに好意を抱いた男性のぬくもりは簡単には消えてくれない。圭介以上に心を動かされる相手がすぐ現れるとは思えなかった。彼からLINEや電話が届くたびに心が揺らいだ。

もしかしたら、今は自分と同じ気持ちなのかもしれない。
そんな期待を抱き続けた。




ある日の電話で、思い切って尋ねてみた。

「圭介って私のことどう思ってる?」

すると彼は少し笑って、

「俺はそんなにいい男じゃないよ」

とだけ言った。それ以上言葉はなかった。
その沈黙だけで十分だった。
この人にとって私はただの暇つぶしだ。
そう悟った瞬間、ようやく現実を受け入れた。





しばらくして、華奈子からの誘いを断り続けることが苦しくなった私は、久しぶりにランチの約束を交わした。

「久しぶりー!」

数か月ぶりに見る彼女は、以前よりも綺麗になっていてどこか眩しく見えた。

「彼氏、どんな人?」
「街コン出会った人で、年上なんだけど優しくてめっちゃいい人」
「えー、いいなー」

私は無理矢理、笑顔を作った。

「写真見せてよ」

華奈子はスマホを取り出し、何枚かスワイプした後、画面を差し出した。そこには、華奈子と彼女よりひとまわり背の高い短髪の男性が並んで写っていた。2人ともクレープを手に笑顔を浮かべている。

「イケメンじゃん!それに華奈子、ますます可愛くなってるし」
「ありがとう。彼氏できてから、毎日がめっちゃ楽しい」
「私も早くそのステージに立ちたいなぁ」
「朱音は最近どうなの?」
「……アプリで出会った年下が、ちょっと気になってるかな」
「えー! いいじゃん! いい感じなの?」
「まあね」

そう答えた瞬間、少しだけ胸が痛んだ。
つまらない見栄を張って、華奈子へ嘘をつく自分がひどく滑稽だった。




その後も、私は孤独な婚活を続けた。
気がつくと、婚活を始めてから10年近くが経とうとしていた。

マッチングアプリは数えきれないほど入会と退会を繰り返し、街コンにも何度足を運んだか覚えていない。

アプリを開けば見慣れた男性たちばかりが並び、街コンでも以前食事に行った人や、一度会ったことのある人、途中でやり取りが途絶えた人と再会することが増えていった。

30歳を迎えてからはアプリでアプローチされることもさらに減り、20代限定の街コンにも参加できなくなった。

20代ですらうまくいかなかったのだから、30歳になった現実はさらに厳しかった。ようやくつかんだ貴重な出会いも、一度会って少し話して終わってしまう。
残ったものは疲労と虚しさだけだった。



数ヶ月が経ったある日、高校の友人たちとオンライン飲み会をすることになった。
その中に優斗もいた。
飲み会が始まる前までは、友人たちの中で独身は私と彼だけだと思っていた。
飲み会が進むと、話題は自然と優斗に移った。

「俺、最近子ども生まれた」

友人たちは一斉に「えー!」と驚きの声を上げた。ついに、優斗まで。

「おめでとう」

そう口にするのが精一杯だった。
20代の頃、優斗がずっと婚活を続けていたことを知っていたので、どこかで彼とはまだ同じ場所にいる気がしていたのに。

「この間、デキ婚してさ。恋愛市場にいるの疲れたから。相手も同じような感じで、『子どもできたら結婚するか』って」

彼はこう続けた。

「先月生まれたけど、毎日大変だよ。何をするにも子ども優先で」

人生のステージが進み、愚痴をこぼす優斗が羨ましかった。飲み会が終わり1人の静かな部屋に戻ると、世界に独身は自分しかいないような錯覚に陥った。

デキ婚か。

昔はあり得ないと思っていたが、今はむしろ悪くない。婚活と妊活を一度に終えられるのなら、それはそれで合理的なのかもしれない。

圭介は私に本気ではないが、
もし、万が一、できてしまったら。
そのとき彼は何と言うのだろうか。

そんなことを考えながら、心に開いた穴を埋めるように圭介へ連絡していた。

『今月会える?』

送信ボタンを押す自分をどこか冷めた目で見ていたが、それでも止められなかった。