彼が結婚してくれなくて

夜に家へ来て、朝には帰っていく。
そんな関係が続いた。

彼が私に本気ではないことくらい、誰の目にも明らかだった。

それでも、好きだった。

誕生日に優斗がプレゼントしてくれた、ベージュ色の財布。バッグから取り出すたび、初めてそれをもらった日のことを思い出す。
嬉しくて、何度も眺めた。
優斗が私のために選んでくれた。
そのことを思うだけで幸せだった。

財布を手に取ると、今でもあの日の気持ちがよみがえる。
あのときは、これからもずっと一緒にいられるような気がしていたのに。

いつの間にか、私は28歳になっていた。


周りの結婚ラッシュはピークを過ぎ、子どもが生まれた友達も少しずつ増えていった。
インスタを開けば、結婚式の写真や小さな赤ちゃんを抱いた友達の笑顔が目に入る。

「おめでとう」とコメントを送りながら、画面を閉じる。自分だけが同じ場所に取り残されているようだった。

このままではいけないと思い、マッチングアプリを使った。街コンにも参加した。
けれど、誰と会ってもどうしても比べてしまう。

優斗のほうが面白い。
優斗のほうがかっこいい。
優斗のほうが優しい。
それに、背が高くて仕事もできる。

街コンで出会った相手が、目の前で何か話している。頭の中では優斗の顔が浮かんでいた。

そうやって比べているうちに、誰にも惹かれなくなった。
きっと私は、彼を忘れられない限り、ほかの誰かを好きにはなれないのだろう。

これが愛情なのか執着なのか。
自分でも分からなくなっていた。



その日は、沙織と久しぶりにランチをした。
店内には食器の触れ合う音と、近くの席から聞こえる笑い声が響いていた。

沙織は今年、マッチングアプリで出会った彼氏と結婚したばかりだった。
結婚式の写真を見せてもらったとき、純白のドレス姿の彼女が照れくさそうに笑っていたのを思い出す。

「晴菜、最近は?」
「相変わらず。婚活もうまくいかないし。優斗は結婚する気ないし」
「結婚しても、次は妊活だからね」

沙織はそう言って、疲れたように笑った。

「妊活、大変そうだね」
「そうなんだよ。私、生理痛がひどかったから、ピル飲んでたんだけど、最近やめた」
「ピル?」

その言葉に、私は顔を上げた。
名前は聞いたことがあった。でも、何のために飲むものなのか詳しくは知らなかった。

「ピルって、妊娠しないの?」
「避妊のためにも飲むし、生理痛がひどい人も飲むよ」

沙織はテーブルに置かれた水のグラスを手に取りながら、何でもないことのように答えた。

「へえ……知らなかった」
「だから、彼氏とはずっとコンドーム使わずにしてたよ。ピル飲んでたから」
「そうなんだ」

曖昧にうなずいた。
沙織にとっては、ただの何気ない話だったのだと思う。

ピルを飲んでいれば、妊娠を防げる。
私は箸を持つ手を止めた。
頭の片隅に、考えてはいけないことが浮かんでいた。

――優斗は、このままだと私とは結婚しないだろう。それなら、

そこまで考えて、自分でも怖くなった。
卑怯だと思った。
絶対に考えてはいけないことだと思った。

沙織は、別の話を続けていた。
私は相づちを打ちながら、目の前の料理を食べた。味がしなかった。

一度浮かんだ考えは、なかなか消えてくれない。
忘れようとするほど、頭の中で繰り返される。

――それなら。

その先を考えるのが怖くて、何度も心の中で言葉を止めた。





先日、産婦人科で処方されたピルを手に取った。シートから何粒か外し、一粒一粒をゴミ箱に落とす。小さな音を立てて、白い錠剤が底に転がった。

指先が止まった。
本当にこれでいいのだろうか。
こんなことをしてまで、優斗と一緒にいたいのか。

自問自答を繰り返す。
頭では間違っていると分かっていた。
それでも、このままではいつか彼を失うことになる。

私はしばらく、ゴミ箱の中にある白い錠剤を見つめていた。



何週間か経った。深夜に優斗が家に来た。
その日は珍しく、私のほうが何倍も酒を飲んでいた。優斗はほとんど酔っていないようだった。

玄関から入ってきた彼が、テーブルの上に並んだ空き缶を見る。呆れたように笑った。

「晴菜、飲みすぎじゃん」
「……そうかな」

自分でも分かっていた。
頭はぼんやりしていて、頬も熱い。

優斗がいつものように、私との距離を縮める。その瞬間、ふと思い出した。
テーブルの上に置かれた、何粒か抜けたピル。それを指さした。

「優斗……」
「ん?」

一瞬、言葉が喉につかえた。

ここで言えば、もう後戻りはできない。
彼がどんな顔をするのか、何と答えるのか。
考えようとすると、怖くて、頭の中が白くなった。それでも。

「私、ピル飲んでるから大丈夫」

自分の声がひどく遠くに聞こえた。
優斗はテーブルの上のシートに目をやった。

「ピルって、避妊のやつ?」
「うん。生理痛ひどかったから。病院でもらったの」

口にするたび、嘘が現実の中で少しずつ形になっていく。彼は「そっか」と短く答えた。

「ちゃんと飲んでるんだよね?」

一瞬、息が止まった。

「……うん」

再び、何粒か抜けたシートを指差す。

「ほら。ちゃんと飲んでるから」
「…なら、いいけど」

そう言って、それ以上何も聞かなかった。私の性格を知っているから信じたのか、単純に深く考えなかったのかは分からない。

目を閉じた。

――本当に、これでいいの?

聞こえないふりをして、優斗を見つめた。



後日、生理が来た。当然だと思った。
避妊をしなかったからといって、簡単に妊娠するわけではない。
優斗が会いに来るのは、月に一度か二度だけ。
その日が排卵の時期と重なるとも限らない。
たとえタイミングが重なったとしても、必ず妊娠するわけではない。

それでも私は、何も変わらない日々を過ごしながら、どこかでその可能性を待ち続けた。葛藤など遠い昔に消え去っていた。

生理が来るたび、少しだけ落胆した。
何を期待しているのだろう。

自分を責めても気持ちは消えなかった。
そして、また次の月を待つ。
そんな生活が二年続いた。

気づけば、30歳になっていた。