君を帰すことだけはできない〜町娘と敵国の人質王子〜

ーー『ここにいてもいいよ』

その言葉はノアにとってどれほどの救いだったかリリーは知らないだろう。

北の白い宮殿で生まれ、十三歳でこの灰色の大地に投げ出された。
それから、ノア・レイ・グレンフォードが「いていい」と許可された場所など一度もなかった。

人質として部屋は与えられていた。
だが、居場所を与えられたことはなかった。
誰も彼を望まなかった。
父王も、叔父も、アッシュワの人々も。
ただ政治的な駒として、そこに在ることを許されただけ。

それなのに。

この埃っぽい物置小屋で、粗末な藁の上で、見ず知らずの少女が「いていい」と言った。
何の条件もなく。
対価も求めず。
ただそこにいることを許した。

ノアは天井の古い木目を見つめたまま、静かに呼吸を繰り返した。
二年間凍りついていたものが、今にも溢れそうだった。
それを、ただ必死に飲み込んだ。

――危うかった。

リリーの優しさは、ノアにとってあまりにも無防備だった。
彼女は何気なく温もりを差し出す。
その一つ一つが、ノアの固く閉ざした心を少しずつほどいていく。

彼女は何も知らない。
自分が北の敵国の王族であることも、傷を負った理由も、追っ手がいずれこの街にまで及ぶことも。
だから無防備に微笑み、何の打算もなく「いていい」と言える。

もしこの少女が真実を知ったなら、あの微笑みは一瞬で消えるだろう。
恐怖と軽蔑に変わり、自分は再び独り、冷たい闇に放り出される。
それが分かっている。
分かっているからこそ、名を明かせない。
明かした瞬間にこの温もりは永遠に失われる。

ノアは目を閉じ、まぶたの裏に残るリリーの姿を辿った。

雨に濡れた栗色の髪。
穏やかな緑色の瞳。
春の花のような儚い微笑み。
触れるか触れないかの指先から伝わった微かな温もり。
どれもが網膜に焼き付いて離れない。
まるで渇ききった大地が雨水を貪るように、ノアは彼女の存在を全身で吸い込んでいた。

恐ろしかった。

この想いが何であるかを自覚することが、ひどく恐ろしかった。
王族として生まれ、人質として生き、誰にも心を許さずに育ってきた自分が、たった五日間で一人の少女に心を奪われるなど。
あってはならないことだ。
彼女を巻き込み、彼女を傷つけ、最後には二人とも壊れてしまう。

王族である自分と、この街で生きるリリー。
その間に簡単には越えられないものがあることを、ノア自身も分かっていた。
近づけば、彼女を危険に巻き込むかもしれない。

それでも――彼女の存在だけが、確かに胸の奥で灯り続けていた。
吹き消そうとしても消えない、小さなしかし確かな炎。

(リリー……)

名前を胸の奥で呼ぶ。
口には出せない、決して届かない呼び声。
その名前が唇に乗るたびに、喉の奥が熱く痺れた。

この温もりを手放したくない。
この光から離れたくない。
しかしいずれ来る別れの刻を、ノアは冷徹な理性で見つめていた。
去らなければならない時は必ず来る。
その時に、彼女を傷つけずに済むように。
自分の凍てついた世界が彼女の春を侵食しないように。

だから今だけは――この小屋の中で、名もなき旅人として、彼女の温もりに浸っていたい。

ノアは深く息を吐き、静かに目を開けた。
その深い青の瞳の奥に、決して口には出せない切実な想いが、暗く静かに燃えていた。