君を帰すことだけはできない〜町娘と敵国の人質王子〜

三日目の朝、リリーは物置小屋の古びた木戸をそっと開けた。
湿った空気と共に、藁の上に横たわる少年の姿が目に入る。
最初の夜に運び込んだ時は、死んでしまうのではないかと焦った。
朝の薄明かりの中で見る彼は、まるで壊れかけの人形のようだった。

血の気の引いた肌。
濡れて額に張り付いたプラチナブロンドの髪。
伏せられた睫毛が長く、その下にある瞳が見えないことが、逆に彼を謎めいて見せた。

(綺麗な人)

泥と血に汚れていても隠せない気品。
市場の喧騒とは無縁の研ぎ澄まされたような佇まい。
リリーは無意識に息を潜めた。
自分とは住む世界が違う。
その確信だけが、胸の奥で冷たく疼いていた。

木箱の上に盆を置き、リリーが膝をつくと、ノアのまぶたが微かに震えた。

まぶたの向こう側で光が揺れる感覚。
意識が浮上すると同時に、脇腹の鈍痛が走った。
だが、それ以上に鮮明に感じたのは、近くにある人の気配だった。
警戒心が体を強張らせる。
ゆっくりと瞼を開ける。

視界に入ってきたのは、心配そうに覗き込む緑色の瞳。

「起きた?」

リリーが安堵の息を吐く。

「……ああ」

短く答え、ノアは上半身を起こそうとして、痛みに眉を寄せた。

「無理しないで」

細い腕が枕元にあった水瓶へ伸びる。
差し出されたコップの水を受け取ろうとした時、互いの指先が触れ合いそうになり、ノアは咄嗟に指を引っ込めた。

リリーはきょとんとし、それから困ったように微笑んだ。

その無防備さに、ノアは苛立ちと同時にどうしようもない戸惑いを覚えた。
自分に触れようとする優しさが、まるで鋭い刃のように感じられる。
彼女の温もりに触れれば、自分の中の冷たい殻が溶けてしまいそうで恐ろしかった。

◆

四日目の夜だった。

雨は小降りになり、代わりに湿った風が物置小屋の隙間から忍び込んでいた。
深夜の時刻。
リリーはふと目を覚まし、藁の上から身を起こした。

「……うっ……」

苦しげな吐息が闇に溶ける。
ノアが悪夢に魘されているようだった。
汗で張り付いたプラチナブロンドの髪。
苦悶に歪めた白い顔。
荒い呼吸が、狭い小屋の空気を震わせていた。

(また、熱が出たのかしら)

リリーは水瓶の水で布を湿らせると、恐る恐る彼に近づいた。
これまでも何度か汗を拭いてあげたことはあった。
しかしそのたび彼は意識が混濁しており、リリーの存在に気づいていないようだった。

今夜もそうだと思った。
そっと枕元に膝をつき、震える指先で汗ばんだ頬へ布を押し当てようとした――その瞬間。

ガシッ。

大きな手が、リリーの手首を強く掴んだ。

「っ……!」

息を呑む間もなかった。

痛みはない。
思いがけない強さに、リリーは息を呑んだ。




ノアの手は熱い。
ノアの手は高熱に浮かされ、驚くほど熱かった。

「……行くな……」

低く、掠れた声。
懇願するような、縋るような響き。
目は閉じられたままだ。
彼はまだ夢の中にいる。
だがその手は確かにリリーを捕らえて離さなかった。

リリーは動けなくなった。
手首を握る指先の震えが伝わってくる。
その手には、誰かに縋るような切実さがあった。
怖いというより、胸が締め付けられた。
夢の中でさえ誰かを求めている彼の孤独に、リリーの心臓が強く鳴った。

彼は、誰かを求めている。
闇の中で、ひとりになることを恐れている。
その事実が、痛いほど胸に伝わってきた。

「……大丈夫。ここにいるよ」

小さく囁いてみたが、ノアの手は緩む気配がない。
それどころか、さらに力が込められ、リリーの手を自分の頬へと引き寄せた。
熱に浮かされた手が、微かに震えている。

リリーはただ呆然と、暗闇の中で彼の苦悶の表情を見つめていた。
逃げようと思えば引き剥がすこともできたかもしれない。
けれど、彼の手首から伝わる切実なまでの孤独が、リリーの足を完全に縫い止めていた。

やがてノアの呼吸が少しずつ穏やかになっていく。
だが手だけは、一晩中リリーの手首を離すことはなかった。