朝が来た。
と言っても、アッシュワの朝は常に灰色だ。
雨雲に覆われた空からは、白々とも言えない鈍い光が漏れるだけ。
物置小屋の隙間から、冷たい湿気が忍び込んできた。
ノアは目を覚ました。
最初に感じたのは痛みだった。
脇腹の傷が、心臓の鼓動に合わせてずきずきと脈打っている。
続いて、全身の重さ。
鉛を流し込まれたように四肢は動かず、指一本曲げるのにも激しい労力を要した。
(……生きている)
それが最初の思考だった。
あの路地裏で力尽きた時、もう二度と目は覚めないと思っていた。
それなのに、今こうして意識がある。
脇腹には丁寧に巻かれた包帯。
その下には、昨夜少女が塗ってくれた軟膏のひんやりとした感覚が残っていた。
ノアはゆっくりと視線を巡らせた。
狭い物置小屋。
積み上げられた木箱と古びた農具。
埃っぽい空気。
そして、自分の横に敷かれた古びた藁。
昨夜の記憶が、断片的に蘇る。
――『死なせないからね』
あの声。
迷いのない緑色の瞳。
雨に濡れた栗色の髪。
自分の体重を支えようと、細い腕を必死に回してきた少女。
ノアは天井を見上げた。
この二年間、目覚めた時に誰かの気配を感じたことなど一度もなかった。
アッシュワの城で与えられた部屋は、いつも冷たく、無機質で、誰の温もりもない空間だった。
それが当然だと思っていた。
人質に与えられるのは、生かされているための最低限の場所だけ。
そこに心など介在しない。
城で目覚める朝に、誰かの気配を探したことなどなかった。
それなのに今、この埃っぽい物置小屋の中で、ノアは奇妙な安らぎを感じていた。
理由は分からない。
ただ、昨夜あの少女がここにいたという事実が、小屋の空気を変えているようだった。
ノアは身体を起こそうとした。
腹筋に力を込めた瞬間、脇腹に激痛が走り、息が詰まる。
冷や汗が背中を伝った。
だが、それでも身体を動かそうとした――その時。
扉が開いた。
軋む音と共に、湿った外気が流れ込み、そして――見覚えのある栗色の髪が姿を現した。
彼女だった。
薄い朝の光の中で、リリーは両手に盆を抱えて立っていた。
雨に濡れた肩。
少し乱れた髪。
そして昨日と変わらない、静かな緑色の瞳。

ノアの呼吸が、一瞬止まった。
昨夜は暗がりの中で、輪郭しか見えなかった。
だが今、微かな光の中で見る彼女は――
美しかった。
頬のライン、睫の影、小さな唇。
すべてが穏やかで、淡く、この灰色の街の中で唯一色を持っているように見えた。
リリーはノアが身じろぎしたのを見とめ、すぐに駆け寄ってきた。
盆を傍らに置き、ノアの額に手を伸ばす。
その指先が再びノアの肌に触れた。
「あ、動いたら駄目よ、まだ熱があるの」
少し咎めるような、それでいて心配そうな声。
諭すように、けれど有無を言わせない力があった。
ノアは反射的に身体の力を抜いた。
従わなければならないという義務感ではなく、ただその声に逆らいたくないという、奇妙な服従の意志が働いた。
リリーは熱を確認した後、持ってきた布を水で濡らし、ノアの額に当てた。
その手際は慣れたもので、昨日と同じように丁寧で優しい。
ノアは身じろぎもせず、ただ彼女を見つめていた。
この距離。
触れそうなほど近い。
彼女が息をすれば、その温かい息遣いが届く距離。
二人の間に沈黙が降りた。
雨音だけが小屋の外で立て続けに屋根を叩いている。
と言っても、アッシュワの朝は常に灰色だ。
雨雲に覆われた空からは、白々とも言えない鈍い光が漏れるだけ。
物置小屋の隙間から、冷たい湿気が忍び込んできた。
ノアは目を覚ました。
最初に感じたのは痛みだった。
脇腹の傷が、心臓の鼓動に合わせてずきずきと脈打っている。
続いて、全身の重さ。
鉛を流し込まれたように四肢は動かず、指一本曲げるのにも激しい労力を要した。
(……生きている)
それが最初の思考だった。
あの路地裏で力尽きた時、もう二度と目は覚めないと思っていた。
それなのに、今こうして意識がある。
脇腹には丁寧に巻かれた包帯。
その下には、昨夜少女が塗ってくれた軟膏のひんやりとした感覚が残っていた。
ノアはゆっくりと視線を巡らせた。
狭い物置小屋。
積み上げられた木箱と古びた農具。
埃っぽい空気。
そして、自分の横に敷かれた古びた藁。
昨夜の記憶が、断片的に蘇る。
――『死なせないからね』
あの声。
迷いのない緑色の瞳。
雨に濡れた栗色の髪。
自分の体重を支えようと、細い腕を必死に回してきた少女。
ノアは天井を見上げた。
この二年間、目覚めた時に誰かの気配を感じたことなど一度もなかった。
アッシュワの城で与えられた部屋は、いつも冷たく、無機質で、誰の温もりもない空間だった。
それが当然だと思っていた。
人質に与えられるのは、生かされているための最低限の場所だけ。
そこに心など介在しない。
城で目覚める朝に、誰かの気配を探したことなどなかった。
それなのに今、この埃っぽい物置小屋の中で、ノアは奇妙な安らぎを感じていた。
理由は分からない。
ただ、昨夜あの少女がここにいたという事実が、小屋の空気を変えているようだった。
ノアは身体を起こそうとした。
腹筋に力を込めた瞬間、脇腹に激痛が走り、息が詰まる。
冷や汗が背中を伝った。
だが、それでも身体を動かそうとした――その時。
扉が開いた。
軋む音と共に、湿った外気が流れ込み、そして――見覚えのある栗色の髪が姿を現した。
彼女だった。
薄い朝の光の中で、リリーは両手に盆を抱えて立っていた。
雨に濡れた肩。
少し乱れた髪。
そして昨日と変わらない、静かな緑色の瞳。

ノアの呼吸が、一瞬止まった。
昨夜は暗がりの中で、輪郭しか見えなかった。
だが今、微かな光の中で見る彼女は――
美しかった。
頬のライン、睫の影、小さな唇。
すべてが穏やかで、淡く、この灰色の街の中で唯一色を持っているように見えた。
リリーはノアが身じろぎしたのを見とめ、すぐに駆け寄ってきた。
盆を傍らに置き、ノアの額に手を伸ばす。
その指先が再びノアの肌に触れた。
「あ、動いたら駄目よ、まだ熱があるの」
少し咎めるような、それでいて心配そうな声。
諭すように、けれど有無を言わせない力があった。
ノアは反射的に身体の力を抜いた。
従わなければならないという義務感ではなく、ただその声に逆らいたくないという、奇妙な服従の意志が働いた。
リリーは熱を確認した後、持ってきた布を水で濡らし、ノアの額に当てた。
その手際は慣れたもので、昨日と同じように丁寧で優しい。
ノアは身じろぎもせず、ただ彼女を見つめていた。
この距離。
触れそうなほど近い。
彼女が息をすれば、その温かい息遣いが届く距離。
二人の間に沈黙が降りた。
雨音だけが小屋の外で立て続けに屋根を叩いている。
