君を帰すことだけはできない〜町娘と敵国の人質王子〜

ノアは傷が癒えるにつれ、物置小屋の中でできることを始めた。
朽ちかけた壁の隙間を古布で塞ぎ、漏れた屋根を修繕する。
王宮で袖を通すことしか知らなかった指先は不器用だった。
それでも、リリーの生活を守るための作業は、彼にとって苦行ではなく願いのようだった。




夕暮れ時、リリーが冷え切った体を抱えて小屋に寄って来ると、決めてあった薪で小さな火が焚かれていた。
湯気が立つスープ。
粗末な黒パン。
変わらない食卓。
だがそこには、冷たい城では決して味わえなかった温もりがあった。

「今日はね、トムが新聞を全部売れたの」

リリーが市場での出来事を語る間、ノアは静かに耳を傾けながら彼女の動きを目で追う。
湯気の向こうで揺れる栗色の髪。
火に照らされて朱に染まる頬。
スプーンを握る細い指先。
何気ないその一つ一つが、ノアの乾いた魂に沁み入るようだった。

◆

ある夜のこと。
雨がようやく上がり、久しぶりに夜空が覗いた。

二人は小屋の裏手にある古井戸のそばに並んで座っていた。
工場地区の空は煤煙で濁っているが、それでも瞬く星々だけは地上を見下ろしていた。

沈黙が心地よかった。
言葉を交わさずとも、肩が触れ合うほどの距離に彼女がいる。
それだけで凍てついた心が少しずつ溶かされていく気がした。

彼女は時折、小さな鼻歌を歌うことがあった。
それは子守唄のような、どこか物悲しくも温かい旋律だった。
か細いけれど澄んだ声が夜気に溶けていく。
決して上手な訳ではないが、不思議と心落ち着くメロディだった。

ノアが視線を送ると、彼女は少しだけ恥ずかしそうに目を伏せた。

「お母さんがね、よく歌ってくれたの。思い出しちゃって」

ノアは息を止めて聞いていた。
かつて白い宮殿で耳にした荘厳な楽曲とは違う。
心の琴線に触れる素朴な響きが、胸の奥底まで浸透し、封印していた感情を揺さぶった。

(俺は……生きていてよかったのだ)

二年間死んだように生きてきた。
だが、この瞬間彼女の歌を聴き、星明かりの下で息をしている今この瞬間だけは、そう思えた。

歌い終えたリリーが恥ずかしそうにノアを見上げた。

「変だった?」

ノアは首を横に振った。

「……綺麗だ」

その言葉は歌に対してなのか、彼女自身に対してなのか、自分でも分からなかった。
ただリリーの頬がほんのりと朱に染まるのが見えた。

月明かりに照らされたその横顔を見つめながら、ノアは胸の奥で激しい葛藤と戦っていた。

(この幸福は永遠ではない)

自分が「旅人」という仮の名の殻を被っている限り、この穏やかな日々はいつか必ず壊れる。
正体が知れれば彼女はどう思うだろうか。
敵国の人質王子。
自分を助けたことすら後悔するかもしれない。

だが明かせるわけがなかった。
彼女を巻き込みたくなかった。
同時に、真実を知ればこの優しい手は離れてしまうかもしれない、という恐怖があった。

(それでも……)




リリーの肩が夜風に震えた。
ノアは無言で自分の上着を脱ぎ、彼女の肩にかけた。
驚いて見上げる緑色の瞳と深い青の瞳がぶつかり合う。

「……冷える」

短い言葉と共にノアは視線を逸らした。
指先が触れそうな距離。
その一ミリが永遠のように遠く同時に、致命的にもろい壁であることを知っている。

それでも抑えきれない衝動が、ノアの中で膨らんでいた。
初めて触れた打算のない優しさが、彼の凍てついた世界を確実に変えていた。

彼女は、もうただの恩人ではなかった。
自分を一人の少年として見つめ、生きる意味を思い出させてくれた、かけがえのない存在だった。

離れなければならない。
なのに、もう彼女から目を逸らすことはできなかった。