君を帰すことだけはできない〜町娘と敵国の人質王子〜

冷たい雨が、容赦なく頬を打つ。

脇腹から滲む血が、雨に溶けて足元に赤い筋を作っていた。
呼吸をするたびに肺が焼けるように痛む。
敵地アッシュワの城から息を呑むような必死の逃亡を果たしたものの、すでに体は限界を超えていた。

十五歳の少年は、汚れた路地裏の壁に背を預け、ずるずると崩れ落ちた。
雨音だけが響く薄暗い世界。
遠くで犬の遠吠えが聞こえる。

(ここで、終わるのか)

ノア・レイ・グレンフォード。
十三歳でこの国に「人質」として送り込まれてからの二年間。
自由も尊厳も奪われ、ただ生かされているだけの日々。
祖国の父王は遠く、叔父のルナールとも連絡を絶たれている。
自分にはもう、帰る場所があると信じられず、待つ者の声も届かない。

意識が遠のきかける中、ノアはゆっくりと目を閉じた。
このまま冷たい雨に溶けて消えてしまえば、もう誰にも蔑まれることも、鎖に繋がれることもない。
――そう思った瞬間。

「……大丈夫?」

不意に、頭上から声が降ってきた。




ノアは反射的に目を見開き、鋭い殺気を孕んだ目を向けた。
荒い呼吸を殺し、身体に力を込めるが、指一本動かせない。

薄暗い雨のカーテンの向こうに、柔らかな栗色の髪をした一人の少女が傘もささずに立っていた。
ノアと同じくらいの年齢だろうか。
緑色の瞳が、怯えることなくノアを真っ直ぐに見つめていた。

「……離れろ」

ノアは掠れた声で警告した。
敵国の民だ。
自分を売り渡そうとする者か、あるいはただの残酷な傍観者か。
どちらにせよ、関わるべきではない。

しかし、少女はノアの警告を無視してしゃがみ込んだ。

「血、出てる……!」

彼女の視線がノアの脇腹に向けられ、はっと息を呑む。
そして、ためらいなく自分の身に着けていた薄手の肩掛けを引き裂き、傷口に押し当てた。

「触れるな……」

「じっとしてて。血が止まらないと……!」

少女の声は雨音に消えそうなほど細いが、その響きには迷いがなかった。
自分の着物が血と泥で汚れるのも構わず、彼女は必死に傷口を押さえる。

冷え切ったノアの肌に、少女の指先の微かな温もりが触れた。

ノアは恐怖と警戒で身体を強張らせた。
人質として過ごしてきた二年間、他人の善意に触れたことなど一度もない。
彼に向けられるのは、蔑みか、利用価値があるかどうかを測る視線ばかりだった。

だからこそ、目の前の少女の行動が理解できなかった。

「……君に、何の得がある」

ノアは低い声で問いかけた。
見ず知らずの自分を助けたところで、彼女には何の利益もない。
それなのに、なぜ手を差し伸べるのか。

少女は一瞬きょとんとした表情を見せたが、すぐに真剣な眼差しに戻った。

「得とか、そういうことじゃないよ。人が目の前で死にそうになってるのに、放っておけないよ」

その言葉は、あまりにも純粋で、不器用だった。
打算も計算もない。
ただ、目の前の命を救いたいという一心。

凍り付いていた胸の奥で、何かが微かに溶けた。

「……死なせないからね」

少女はそう言うと、ノアの身体を支えようと細い腕を回した。
ノアの体格は彼女よりずっと大きい。
うまくいかないことは明白だったが、彼女は諦めようとしない。

「立てる? 路地裏の物置小屋なら、雨はしのげるから」

ノアは拒絶しようとした。
正体が知れれば、彼女も巻き込まれる。
王族としての本能がそう警告していた。
しかし、彼女の瞳に宿る強い光と、触れるか触れないかの指先から伝わる温もりが、ノアの言葉を飲み込ませた。

(……ここで死ぬよりは)

ノアはゆっくりと自らの体重を預けた。
少女は小さく呻きながらも、ノアをしっかりと支えた。
雨に濡れた栗色の髪から滴る水滴が、ノアの頬に落ちた。

路地裏から小さな物置小屋までの道のりは、ノアにとって永遠のように長く感じられた。
少女の肩に体重を預けながら、ノアは彼女の温もりだけを感じていた。
雨音も、夜の冷気も、遠い世界の出来事のように思えた。