恋と焦燥のロードマップ

「うん」
母さんは俺を見つめたあと、少しだけ間を置いて言った。
「湊」
「ん?」
「……また帰っておいでね」
その言葉を聞いて、俺は一瞬だけ黙った。
昔なら、きっと何も考えずに「うん」答えていたと思う。でも今は、その一言が少し違って聞こえた。
ここへ帰ってくることを、ずっと避けていた。父親と顔を合わせることも、昔のことも思い出すことも、どこか怖かったのだと思う。けど、昨日親父と話して、母さんと過ごして、雫とこの場所で一晩を過ごした。
そうしてみたら、ここに帰ってくることは、もう昔の自分が考えていたほど難しいことじゃなかった。
「……うん」
一度だけ頷いてから、母さんを見る。
「また来る」
母さんは少しだけ驚いたような顔をして、それから嬉しそうに笑った。
「そう。待ってるから」
「うん」
その言葉を聞いてから、俺は雫と一緒に玄関を出た。
旅館の前まで歩き、駅へ向かおうとしたところで、ふと足を止めて振り返った。
二階の窓に、親父の姿が見えた。いつからそこにいたのか分からない。
親父は窓越しにこちらを見ていて、俺と目が合うと、ほんの少しだけ口元を緩めた。
ふっと笑ったように見えた。俺は何も言わず、ただ小さく笑い返した。
それだけだった。けれど、それで十分だった。昔は、ここから離れることしか考えてなかった。
もう戻らないつもりで家を出た。それでも、時間が経って、こうしてまた帰ってきた。
それでも、時間が経って、こうしてまた帰ってきた。しかも今は、隣に雫がいる。
「行こうか」
雫が声かけてくる。
「うん」
俺は頷いて、駅へと向かって歩き始めた。
帰る場所は、ずっと同じ形で残っているわけじゃない。そこにいる人も、自分自身も、少しずつ変わっていく。それでも、また帰りたいと思える場所があることは、悪くないと思った。
隣を歩く雫を見て、俺は小さく笑った。
これから先、どんな道を歩くことになるのかは、まだ分からない。それでも、今はそれでいい。
雫と一緒に歩いていけば、きっとまた、知らない道が見つかる。そう思いながら、俺は駅へと続く道を歩いていった。