恋と焦燥のロードマップ

雫には、もう会えない家族がいるかもしれない。そう考えたとき、母さんから聞いた「親父は元気にしている」という言葉が、ふいに頭に浮かんだ。
会おうと思えば、会える。話そうと思えば話せる。なのに、俺は何年も親父や母親に会ってない。
そのことを考えていると、今までずっと避けていた父親の顔や、実家の旅館の光景が、妙にはっきりと思い浮かんだ。
玄関を開ければ聞こえてくる、従業員の声。夕方になると少し慌ただしくなる厨房の音。廊下を歩けば、いつもどこかから聞こえてくる食器の触れ合う音や、客を迎え入れる親父の声まで、遠い記憶のはずなのに鮮明だった。
あの頃はそれがずっと続いていくことが嫌だった。
旅館を継ぐことを期待され度に、自分の人生を決められていくような気がして、親父と話すことさえさえるようになった。役者になりたいと言った時も、親父は簡単に認めてくれなかったし、俺も自分の気持ちを曲げるつもりはなかった。だから、あのとき家を出たことを後悔しているわけじゃない。
役者になったことも、あの旅館を飛び出したことも、今の俺には必要なことだったと思っている。ただ、それと親父に会わないことは、別の話なのかもしれない。そう思った瞬間、今まで自分の中で一緒になっていたものが、少しだけ分かれて見えた。
俺は旅館を継がなかったことを後悔しているわけじゃない。親父と喧嘩したことを、なかったことにしたいわけでもない。ただ、何年も会わないままにしていることだけは、もう一度考えてもいい気がした。
パソコンの横に置いていたスマホへ手を伸ばし、連絡先を開く。
親父の名前を見つけても、すぐには何もできなかった。
電話をかけるには、少しだけ勇気がいる。メッセージを送るのも、なんとなく違う気がした。
画面を見つめたまましばらく考えて、結局、そに日はスマホを伏せた。
それでも翌朝になっても、親父のことが頭から離れることはなかった。
会いに行こう。
そう思った時には、もう迷いより先に、その言葉が自分の中に残っていた。
翌日、仕事を終えたあとで雫と、俺が気になっていたイタリアンの店で食事をしていた。