恋と焦燥のロードマップ

俳優をしていると、街を歩いているだけで「南條湊斗さんですよね」と声をかけられることがある。出演した作品の話をされたり、写真を頼まれたりすることもある。もちろん、それを嫌だと思ったことはない。自分が選んだ仕事だし、南條湊斗という名前を知ってくれている人がいることも、応援してくれる人がいることも、素直にありがたいと思っている。
けれど、その名前で呼ばれるたびに、ほんの少しだけ不思議な気持ちになることがあった。南條湊斗は確かに俺自身で、これまで積み重ねてきた仕事も、演じてきた役も、全部俺の人生の一部だ。それでも、雫の前で「湊」と呼ばれているときだけは、仕事のことを考えなくていい。俳優として何を求められているのかも、世間からどう見られているのかも関係ない。ただ、目の前にいる一人の女性と話していればいい。
そんな時間を、俺は少しずつ手放したくなくなっていた。
とはいえ、雫と会うたびに周囲ばかり気にしているわけにもいかなかった。せっかく二人で過ごすているのに、俺がずっと誰かの視線を探していたら、それこそ雫との時間を壊してしまう。だから、必要なところでは警戒しながらも、雫の前ではできるだけ普段通りでいるようにした。
会う回数が、少しずつ増えていった。二度目は仕事終わりに駅で待ち合わせて、近くの店で食事をした。三度目は映画を観て、その後、感想を話しながら駅まで歩いた。四度目は特に予定を決めずに、雫が気になっていたという小さな商店街を二人で歩いた。どれも、誰かに話せば大したことのない一日だったと思う。それでも俺にとっては、そんな何でもない時間こそが新鮮だった。
撮影現場では、朝から晩まで人に囲まれていることも珍しくない。スタッフに名前を呼ばれ、次の準備をして、台本を確認して、カメラの前に立つ。仕事が終われば、今度は次の撮影や取材の予定が待っている。そんな毎日を当たり前だと思っていたからこそ、雫と歩くときの静けさが心地よかった。何かを演じる必要もなければ、面白いことを言おうとする必要もない。話したいことがあれば話して、何も思いつかなければ黙って歩いている。それでも気まずくならないことが、俺には嬉しかった。