仕事を終えて家に帰ると、玄関の明かりだけが妙に明るく感じることがある。
部屋の中には誰もいない。冷蔵庫を開けても、昨日の夜に買った水と、食べかけのサラダが入っているだけだった。テレビをつければ、この間撮影したばかりの番組の予告が流れて、画面の中の自分が笑っている。明日の朝になればまた迎えが来て、現場へ向かい、スタッフに挨拶をして、台本を開いて、カメラの前に立つ。そういう毎日が、もう何年も続いた。
不満があるわけじゃない。
むしろ、恵まれていると思う。子供の頃から憧れていた仕事をして、名前を覚えてもらえるようになって、それなりに忙しくさせてもらっている。街を歩けば声をかけられることもあるし、共演者やスタッフと食事をすることだってある。人に囲まれる時間だけなら、昔よりずっと増えた。
それなのに、ふとした瞬間に、自分がひどく一人きりになったような気がする。
それは、仕事が終わって一人で部屋に戻った時だけじゃない。大勢の人間がいる楽屋で、誰かの笑い声を聞きながらスマートフォンを眺めているときにも、同じような感覚になることがあった。
俺が俳優だから、俺のことを知っている人は多い。けれど、俳優じゃない俺を知っている人は、いったいどれだけいるんだろう。
そんなことを考えるようになったのは、いつからだったか。
別に、仕事を辞めたいわけじゃない。今の生活から逃げたいわけでもない。あれだけ憧れていた世界に、ようやく自分の居場所を作れたのだから、簡単に手放すつもりなんてなかった。
ただ、家に帰って電気をつけたとき、「おかえり」と言ってくれる人がいたら、少し違うのかもしれないと思うようになった。
俺が俳優だからじゃなく、俺の名前や顔を知っているからでもなく、ただ、俺という人間を知ったうえで、それでも隣にいたいと思ってくれる人。
そんな人が、本当にいるのだろうか。
そう考えていた頃、俺はスマートフォンに入っていたマッチングアプリを開いた。
『恋人が欲しい』
たぶん、それが一番分かりやすい理由だった。けれど、本当はもう少しだけ違ったのかもしれない。
何者でもない自分を、必要としてくれる人に会いたかった。
アプリを開いて、いくつか届いている通知を眺める。
プロフィールには、自分の仕事については書いていない。もちろん、俳優であることも伏せている。写真も、顔がはっきりわからないものを一枚だけ載せていた。
夜の街を歩いているときに、たまたま友達が撮ってくれた後ろ姿だった。
それでいいと思った。
顔を見せれば、そこからは早い。名前を検索されて、出演作を知られて、テレビで見たことがあると言われる。そうなれば、相手が見ているのは俺なのか、それとも画面の向こうにいる「俳優」なのか、分からなくなる。だから、最初くらいは何も知らないところから始めたかった。
好きな食べ物を聞かれて、好きな店の話をして、休日は何をしているのかを話す。そんな、誰にでもあるような会話をしてみたかった。
そんな、誰にでもあるような会話をしてみたかった。
俳優という肩書きも、名前も、顔もないところから、一人の人間として誰かと出会ってみたかった。そんなことを考えながら、何気なく画面をスクロールしていく。
何人かとマッチして、何度かメッセージを交わした。けれど、どこか違う。
相手が悪いわけじゃない。ただ、こちらが俳優だと知らないはずなのに、どうしても会話の端々から「条件」をみられているような気がした。
仕事は何をしているのか、年収はどのくらいなのか、休日はどこにいくのか、どんな車に乗っているのか。もちろん恋人を探すのだから、それくらい聞くのは普通なのだろう。それでも俺は少しだけ、疲れていた。
そんな中、一人の女性とマッチした。
プロフィールに載っていた写真は、顔がよくわからない横顔だった。派手な写真でもなければ、何か特別な趣味を強調しているわけでもない。自己紹介も、驚くほど普通だった。
好きなもの、苦手なもの、休日の過ごし方、仕事のこと、そして、最後に小さく、
――気が合う人と、ゆっくり仲良くなれたら嬉しいです。
そう書いてあった。その一文が、なぜか目に残った。
『ゆっくり』
その言葉が、今の自分には少しだけ心地よく感じられた。俺はしばらく画面を眺めた後、短いメッセージを送った。
最初は、本当に何気ない一言だった。それが、彼女――雫との始まりだった。
部屋の中には誰もいない。冷蔵庫を開けても、昨日の夜に買った水と、食べかけのサラダが入っているだけだった。テレビをつければ、この間撮影したばかりの番組の予告が流れて、画面の中の自分が笑っている。明日の朝になればまた迎えが来て、現場へ向かい、スタッフに挨拶をして、台本を開いて、カメラの前に立つ。そういう毎日が、もう何年も続いた。
不満があるわけじゃない。
むしろ、恵まれていると思う。子供の頃から憧れていた仕事をして、名前を覚えてもらえるようになって、それなりに忙しくさせてもらっている。街を歩けば声をかけられることもあるし、共演者やスタッフと食事をすることだってある。人に囲まれる時間だけなら、昔よりずっと増えた。
それなのに、ふとした瞬間に、自分がひどく一人きりになったような気がする。
それは、仕事が終わって一人で部屋に戻った時だけじゃない。大勢の人間がいる楽屋で、誰かの笑い声を聞きながらスマートフォンを眺めているときにも、同じような感覚になることがあった。
俺が俳優だから、俺のことを知っている人は多い。けれど、俳優じゃない俺を知っている人は、いったいどれだけいるんだろう。
そんなことを考えるようになったのは、いつからだったか。
別に、仕事を辞めたいわけじゃない。今の生活から逃げたいわけでもない。あれだけ憧れていた世界に、ようやく自分の居場所を作れたのだから、簡単に手放すつもりなんてなかった。
ただ、家に帰って電気をつけたとき、「おかえり」と言ってくれる人がいたら、少し違うのかもしれないと思うようになった。
俺が俳優だからじゃなく、俺の名前や顔を知っているからでもなく、ただ、俺という人間を知ったうえで、それでも隣にいたいと思ってくれる人。
そんな人が、本当にいるのだろうか。
そう考えていた頃、俺はスマートフォンに入っていたマッチングアプリを開いた。
『恋人が欲しい』
たぶん、それが一番分かりやすい理由だった。けれど、本当はもう少しだけ違ったのかもしれない。
何者でもない自分を、必要としてくれる人に会いたかった。
アプリを開いて、いくつか届いている通知を眺める。
プロフィールには、自分の仕事については書いていない。もちろん、俳優であることも伏せている。写真も、顔がはっきりわからないものを一枚だけ載せていた。
夜の街を歩いているときに、たまたま友達が撮ってくれた後ろ姿だった。
それでいいと思った。
顔を見せれば、そこからは早い。名前を検索されて、出演作を知られて、テレビで見たことがあると言われる。そうなれば、相手が見ているのは俺なのか、それとも画面の向こうにいる「俳優」なのか、分からなくなる。だから、最初くらいは何も知らないところから始めたかった。
好きな食べ物を聞かれて、好きな店の話をして、休日は何をしているのかを話す。そんな、誰にでもあるような会話をしてみたかった。
そんな、誰にでもあるような会話をしてみたかった。
俳優という肩書きも、名前も、顔もないところから、一人の人間として誰かと出会ってみたかった。そんなことを考えながら、何気なく画面をスクロールしていく。
何人かとマッチして、何度かメッセージを交わした。けれど、どこか違う。
相手が悪いわけじゃない。ただ、こちらが俳優だと知らないはずなのに、どうしても会話の端々から「条件」をみられているような気がした。
仕事は何をしているのか、年収はどのくらいなのか、休日はどこにいくのか、どんな車に乗っているのか。もちろん恋人を探すのだから、それくらい聞くのは普通なのだろう。それでも俺は少しだけ、疲れていた。
そんな中、一人の女性とマッチした。
プロフィールに載っていた写真は、顔がよくわからない横顔だった。派手な写真でもなければ、何か特別な趣味を強調しているわけでもない。自己紹介も、驚くほど普通だった。
好きなもの、苦手なもの、休日の過ごし方、仕事のこと、そして、最後に小さく、
――気が合う人と、ゆっくり仲良くなれたら嬉しいです。
そう書いてあった。その一文が、なぜか目に残った。
『ゆっくり』
その言葉が、今の自分には少しだけ心地よく感じられた。俺はしばらく画面を眺めた後、短いメッセージを送った。
最初は、本当に何気ない一言だった。それが、彼女――雫との始まりだった。


