恋と焦燥のロードマップ

あんなに甘くて、心臓が持ちそうにないほどの夜を過ごしたというのに、月曜日のオフィスに現れた神谷くんは、またしても完璧な「氷の王子」に逆戻りしていた。
フロアですれ違っても、彼は「お疲れ様です」と短く一礼するだけ。視線が合っても少しも揺らがず、いつもの冷徹なポーカーフェイスで通り過ぎていく。営業二課のデスクでテキパキと電話をこなし、周囲の女子社員から「やっぱり神谷くんって格好いいよね、冷たいけど」と噂されている姿を横目に、私の胸の奥はぐるぐるとかき乱されていた。
(あんなにドキドキして、敬語まで崩されたのって…私だけだったの……?)
まるで自分だけが舞い上がっているようで、恥ずかしさと焦りが波のように押し寄せる。仕事をしていても、気がつけば彼の背中を目で追ってしまい、完全に神谷くんのことで頭がいっぱいになっていた。
そんな生き殺しのような状態のまま迎えた、水曜日の午後。営業事務の古い契約書ファイルを整理するため、私はフロアの奥にある資料室へと向かった。薄暗く、背の高いスチール棚が並ぶ資料室は、普段は誰も来ない静かな場所だ。
重いファイルを抱えて棚に並べていると、背後でカチャリとドアが閉まる音がした。
振り返ると、そこに神谷くんが立っていた。手には営業用のファイルを持っている。彼はドアのノブに手をかけたまま、すっと中に入り、私の逃げ道を塞ぐようにゆっくりと歩み寄ってきた。
「か、神谷くん? 資料探し?」
私が動揺を隠すように声をかけると、神谷くんは何も答えず、ただ真っ直ぐに距離を詰めてくる。私の背中がスチール棚にコツンと当たった瞬間、彼は私の顔のすぐ横、棚の支柱に大きな手を突いた。
完璧な、壁ドンの体勢。彼の広い胸が目の前に迫り、会社用のシトラスの香水の匂いが鼻腔をくすぐる。
「……会社で、他の男と楽しそうに喋るの、やめてください」
低い、押し殺したような声が降ってきた。会社での氷の仮面が、音を立てて剥がれ落ちていくのが分かった。その瞳には、隠しきれない独占欲がぎらぎらと燃えている。
「え……? それって、仕事の話をしてただけで……」
「分かってます。分かってますけど、気が気じゃないんです」
誠也は棚を突いていた手を下ろし、私の両肩を優しく、けれど強く包み込んだ。彼の指先が微かに震えているのが伝わってきて、胸が締め付けられるように愛おしくなる。
「……あの時は、本当に必死だったんです」
「…え?」
「あの日、給湯室で先輩がアプリを始めたって話しているのを聞いた瞬間、頭が真っ白になりました。他の男に取られるかもしれないと思ったら、もうなりふり構っていられなくて。その日の夜、急いでアプリを入れて、誰よりも先に先輩を見つけなきゃって、画面を血眼になって探し回ったんです。だから……あんな証明写真のまま、本名でいいねを送りました。俺の気持ちが、ただのからかいじゃないって、先輩にどうしても伝えたくて」
いつも無口な彼が、堰を切ったように早口で本音を白状していく。あの時の私の『神谷くんもアプリやってるんだね』という的外れなメッセージの裏で、彼がどれほどの執念と必死さで私を追いかけてくれていたのか、その真実がようやく胸の奥に溢れ出してきた。
「何度でも言います。俺、あの日先輩がアプリを始めたって聞いて、誰にも渡したくなくて始めたんです。会社では必死に我慢してますけど……これ以上、俺を焦らせないでください」
職場の有能な後輩が、私のためにそこまで必死になって、必死の思いでアプリの画面を探してくれていた。その事実が、私の胸に温かい塊となって流れ込んでくる。もう、「私だけが舞い上がっていたのかも」なんて不安は、どこにもなかった。
「神谷くん……」
「もし、よかったら……名前で呼んでくれませんか。会社の外では」
彼はそう言うと、私の肩を抱く手にさらに力を込めた。薄暗い資料室の死角で、二人の速くなった鼓動だけが、静かに重なり合っていた。