恋と焦燥のロードマップ

翌朝。寝不足の重い頭を抱えて出社した私は、デスクについた瞬間から、フロアの入り口ばかりを意識していた。午前八時四十五分。いつも通り始業の十五分前に、神谷くんが姿を現した。乱れのない黒髪に、シワ一つないネイビーのスーツ。手にはいつもの黒いビジネスバッグ。彼はフロアに入ると、周囲の女子社員からの「神谷くん、おはよう」という黄色い声を「おはようございます」と低く短い声で受け流し、迷いのない足取りで自分のデスクへと向かう。
その横顔は、昨日と何一つ変わらない、完璧に冷ややかなポーカーフェイスだった。
(昨日のメッセージは、やっぱり私の夢か何かだったのかな……)
あまりの普段通りの姿に、私は急に恥ずかしさと不安が押し寄せてきた。アプリの中でのあの猛烈な熱量はどこへ行ったのだろう。やっぱり、何かの間違いか、からかわれただけなんじゃ…。そう思って視線を落とした、その時だった。
「お疲れ様です。杏奈さん。営業二課の、先週分の経費データの修正分です」
頭上から降ってきた低い声に、肩がびくりと跳ね上がった。見上げると、神谷くんが私のデスクの横に立っていた。メガネの奥の切れ上がった瞳が、真っ直ぐに私を見下ろしている。会社での彼は、完璧にビジネスライクだった。声のトーンも、差し出されたファイルを持つ指先も、一ミリの動揺も隙もない。周囲から見れば、ただの有能な後輩が、先輩の事務員に書類を提出しているだけの、ありふれたオフィスの光景だ。
「あ、うん。ありがとう、神谷くん。確認しておくね」
私も必死で「頼れる先輩」の仮面を張り付け、平静を装ってファイルを受け取ろうとした。その時、ファイルの端を握る私の指先に、彼の長い指が、偶然を装うようにしてかすかに触れた。
ほんの一瞬の、生身の肌の接触。驚いて彼の顔を見ると、神谷くんの表情は相変わらず氷のように冷ややかなままだった。けれど、私を見つめる瞳の奥の光だけが、ほんの一瞬、夜のメッセージと同じ深い熱を帯びて、じっと私の視線を絡め取った。
「――よろしくお願いいたします、杏奈さん」