それから三週間が経った。
大輔とは当然、一度も連絡をとっていない。アプリを消したのだから、連絡の取りようもなかった。
土曜日の午後五時。私はすっかり元の「干物女」に戻っていた。
髪は適当にクリップで留めただけ、もちろんノーメイクにメガネ。ヨレヨレのスウェットにサンダルを引っ掛け、向かったのは地元の駅裏にある汚い赤提灯の居酒屋だった。
換気扇から噴き出す焼き鳥の煙と、油臭い風。これこそが私の、本当の意味で一番落ち着けるホームグラウンドだ。
「いらっしゃい! カウンターどうぞ!」
大将の威勢のいい声に迎えられ、私は丸椅子にどっかりと腰掛けた。
「すいませーん、生ビール! あと、モツ煮とハツ元をタレで!」
お洒落なフレンチビストロでも、六本木のバーでもない。大声で注文を通した瞬間、肺の奥に溜まっていた澱がすべて吐き出されるような、圧倒的な解放感に包まれた。すぐに運ばれてきたキンキンのジョッキを両手で持ち上げ、喉を鳴らして一気に煽る。
「……ぷはぁ! 生き返るーーーっ!!」
至福の余韻に浸りながら、プハッと口元を拭った、その時だった。
すぐ隣の席から、じっと私を凝視する尋常ではない視線を感じて、ふと横を向いた。
――そこに、信じられない体勢で完全にフリーズしている男がいた。
いつも完璧にセットされていた前髪を完全に下ろし、度の強そうな黒縁メガネをかけ、ヨレヨレのグレーのパーカーを着たその男は、メガハイボールのジョッキを持った手の動きをピタリと止め、絵に描いたような驚愕の表情で私を凝視して固まっていた。
メガネの奥の、見覚えのありすぎる涼しげな瞳。
「だ、大輔……さん!?」
「ま、真由……さん?」
お互いに、あまりのギャップに絶句した。
画面の中の『ハイスペック港区男子』と『丁寧な暮らしの清楚系女子』の姿は、そこには一ミクロンも残っていなかった。ただの、地元の大衆居酒屋に生息する、スウェット姿のアラサー男女が二人、並んでいるだけだった。
数秒の沈黙の後、私たちはどちらからともなく、お腹を抱えて爆笑した。居酒屋の喧騒の真ん中で、店のお客さんたちが振り返るほど、涙が出るほど笑った。
「ちょっと、なんですかそれ! そのパーカー、袖口ボロボロじゃないですか!」
「真由さんこそ何ですかそのスウェット! 髪型、寝起きですか!?」
「うるさいです! 言ったでしょ!これが本物なの! そっちこそタワマンはどうしたんですか!」
すると大輔は、メガネを指でクイッと上げながら、照れくさそうに頭を掻いた。
「あのさ……実は、僕も全部嘘だったんだよ」
「え…?」
「タワマンだけど江東区寄りだし、部屋の中はニトリの組み立て家具だらけ。ウイスキーの蘊蓄だって、会社の社長の接待の付き添いで一回行ったバーの知識をそのまま喋ってただけ。パリだってプライベートの旅行じゃなくて、ただの泥臭い海外出張の技術カンファレンスだよ。この前の高級車だって見栄を張るために無理して出した愛車で、本当はもっと普通の国産車の方がずっと気楽で好きなんだ」
大輔はメガハイボールを一口飲むと、耳を真っ赤にしながら、静かに白状を続けた。
「僕、学生時代から友達とも遊ばずに、ずっとプログラミングの勉強と仕事ばっかりしてきてさ……。本気で努力して、エンジニアとして自分の力で稼げるようにはなった。そこだけは本当。でも、仕事ばっかりしてたから、二十八年間、女性と付き合ったことなんて本当に一回もなかったんだよ」
「二十八年、彼女なし……?」
大輔とは当然、一度も連絡をとっていない。アプリを消したのだから、連絡の取りようもなかった。
土曜日の午後五時。私はすっかり元の「干物女」に戻っていた。
髪は適当にクリップで留めただけ、もちろんノーメイクにメガネ。ヨレヨレのスウェットにサンダルを引っ掛け、向かったのは地元の駅裏にある汚い赤提灯の居酒屋だった。
換気扇から噴き出す焼き鳥の煙と、油臭い風。これこそが私の、本当の意味で一番落ち着けるホームグラウンドだ。
「いらっしゃい! カウンターどうぞ!」
大将の威勢のいい声に迎えられ、私は丸椅子にどっかりと腰掛けた。
「すいませーん、生ビール! あと、モツ煮とハツ元をタレで!」
お洒落なフレンチビストロでも、六本木のバーでもない。大声で注文を通した瞬間、肺の奥に溜まっていた澱がすべて吐き出されるような、圧倒的な解放感に包まれた。すぐに運ばれてきたキンキンのジョッキを両手で持ち上げ、喉を鳴らして一気に煽る。
「……ぷはぁ! 生き返るーーーっ!!」
至福の余韻に浸りながら、プハッと口元を拭った、その時だった。
すぐ隣の席から、じっと私を凝視する尋常ではない視線を感じて、ふと横を向いた。
――そこに、信じられない体勢で完全にフリーズしている男がいた。
いつも完璧にセットされていた前髪を完全に下ろし、度の強そうな黒縁メガネをかけ、ヨレヨレのグレーのパーカーを着たその男は、メガハイボールのジョッキを持った手の動きをピタリと止め、絵に描いたような驚愕の表情で私を凝視して固まっていた。
メガネの奥の、見覚えのありすぎる涼しげな瞳。
「だ、大輔……さん!?」
「ま、真由……さん?」
お互いに、あまりのギャップに絶句した。
画面の中の『ハイスペック港区男子』と『丁寧な暮らしの清楚系女子』の姿は、そこには一ミクロンも残っていなかった。ただの、地元の大衆居酒屋に生息する、スウェット姿のアラサー男女が二人、並んでいるだけだった。
数秒の沈黙の後、私たちはどちらからともなく、お腹を抱えて爆笑した。居酒屋の喧騒の真ん中で、店のお客さんたちが振り返るほど、涙が出るほど笑った。
「ちょっと、なんですかそれ! そのパーカー、袖口ボロボロじゃないですか!」
「真由さんこそ何ですかそのスウェット! 髪型、寝起きですか!?」
「うるさいです! 言ったでしょ!これが本物なの! そっちこそタワマンはどうしたんですか!」
すると大輔は、メガネを指でクイッと上げながら、照れくさそうに頭を掻いた。
「あのさ……実は、僕も全部嘘だったんだよ」
「え…?」
「タワマンだけど江東区寄りだし、部屋の中はニトリの組み立て家具だらけ。ウイスキーの蘊蓄だって、会社の社長の接待の付き添いで一回行ったバーの知識をそのまま喋ってただけ。パリだってプライベートの旅行じゃなくて、ただの泥臭い海外出張の技術カンファレンスだよ。この前の高級車だって見栄を張るために無理して出した愛車で、本当はもっと普通の国産車の方がずっと気楽で好きなんだ」
大輔はメガハイボールを一口飲むと、耳を真っ赤にしながら、静かに白状を続けた。
「僕、学生時代から友達とも遊ばずに、ずっとプログラミングの勉強と仕事ばっかりしてきてさ……。本気で努力して、エンジニアとして自分の力で稼げるようにはなった。そこだけは本当。でも、仕事ばっかりしてたから、二十八年間、女性と付き合ったことなんて本当に一回もなかったんだよ」
「二十八年、彼女なし……?」


