「ねぇ、拓也」
美月が缶を口元から離し、少しトーンを落として言った。ふと視線が交わる。街灯の光を反射して、悪戦苦闘したゲームのせいで、少しだけ崩れたハーフアップの隙間から、美月の強い瞳がまっすぐに俺を捉えた。
「今日、すっごく楽しかった。なんていうかな……こんなに自分を飾らずに、百パーセント素でいられる相手って、そうそういないなって改めて思った」
ベンチのわずかな隙間。ほんの少し肩を傾ければ触れ合ってしまいそうな距離で、美月がまっすぐ俺を見つめている。
マッチングアプリという、お互いの減点法で審査し合うような冷めた戦場で、これほど深く息をつけて、なおかつ胸を高鳴らせてくれる相手に巡り会える確率なんて、きっと天文学的だ。
俺は、喉の奥が少し熱くなるのを感じながら、言葉を返す。
「……俺も、全く同じこと思ってた。他の誰といる時も、美月といる時が一番――」
『落ち着く』と言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。その代わりに、美月のめを見つめ返す。美月は少し照れたように、だけど視線は逸らさずに、嬉しそうに目を細めて手元の缶を見つめた。
言葉にしなくても、お互いの気持ちがもう同じ場所を向いている。そんな確信に似た甘い空気が、秋の夜風の中にじんわりと溶けていくのがわかった。
ポケットの中のキーホルダーが、スラックス越しに微かな熱を持っているような気さえする。あの駅のホームで千切れてしまったはずの糸が、今、最も理想的な形で結び直されようとしている。
この心地よい空気のまま、もっと次の約束をしたい。俺は、自然と弾む声を意識して切り出した。
「あのさ、美月。もしよかったら、次はさ……」
「ん?」
「来週、新しくできた品川の水族館、一緒に行かない? ほら、音と光の演出がすごいって話題になってたところ」
少しだけ、美月の動きが止まった。
何かを言いかけるように、小さな唇がかすかに開く。けれど次の瞬間、彼女はパッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
「水族館! 行きたい! あそこ、SNSで見て気になってたんだよね」
「あ、よかった。じゃあ、チケットの予約とか俺やっておくよ」
「本当? 助かる。じゃあ、私は美味しそうなランチのお店探しとくね」
美月はベンチから立ち上がり、小さく伸びをした。名残惜しいが、楽しいデートの終わりを告げる時間だ。駅の改札へと向かって並んで歩く。
歩調を合わせるたび、二人の手のひらがかすかに触れ合いそうになっては、お互いに少しだけ距離を意識する。そのもどかしさが、今はたまらなく愛おしかった。
改札の手前で、美月が振り返って手を振る。
「じゃあ拓也、また来週ね! 楽しみにしてる」
「うん、また来週。気をつけて帰れよ」
去っていくベージュのコートの後ろ姿を見送り、スマートフォンの画面に表示された美月からの「今日は本当にありがとう!」のメッセージを見つめながら、俺は夜の帰路を歩く。
胸の奥の、あの長年抜けない棘だったはずの痛みが、今は嘘のように心地よい熱へと変わっていた。
美月が缶を口元から離し、少しトーンを落として言った。ふと視線が交わる。街灯の光を反射して、悪戦苦闘したゲームのせいで、少しだけ崩れたハーフアップの隙間から、美月の強い瞳がまっすぐに俺を捉えた。
「今日、すっごく楽しかった。なんていうかな……こんなに自分を飾らずに、百パーセント素でいられる相手って、そうそういないなって改めて思った」
ベンチのわずかな隙間。ほんの少し肩を傾ければ触れ合ってしまいそうな距離で、美月がまっすぐ俺を見つめている。
マッチングアプリという、お互いの減点法で審査し合うような冷めた戦場で、これほど深く息をつけて、なおかつ胸を高鳴らせてくれる相手に巡り会える確率なんて、きっと天文学的だ。
俺は、喉の奥が少し熱くなるのを感じながら、言葉を返す。
「……俺も、全く同じこと思ってた。他の誰といる時も、美月といる時が一番――」
『落ち着く』と言いかけて、俺は言葉を飲み込んだ。その代わりに、美月のめを見つめ返す。美月は少し照れたように、だけど視線は逸らさずに、嬉しそうに目を細めて手元の缶を見つめた。
言葉にしなくても、お互いの気持ちがもう同じ場所を向いている。そんな確信に似た甘い空気が、秋の夜風の中にじんわりと溶けていくのがわかった。
ポケットの中のキーホルダーが、スラックス越しに微かな熱を持っているような気さえする。あの駅のホームで千切れてしまったはずの糸が、今、最も理想的な形で結び直されようとしている。
この心地よい空気のまま、もっと次の約束をしたい。俺は、自然と弾む声を意識して切り出した。
「あのさ、美月。もしよかったら、次はさ……」
「ん?」
「来週、新しくできた品川の水族館、一緒に行かない? ほら、音と光の演出がすごいって話題になってたところ」
少しだけ、美月の動きが止まった。
何かを言いかけるように、小さな唇がかすかに開く。けれど次の瞬間、彼女はパッと花が咲いたような満面の笑みを浮かべた。
「水族館! 行きたい! あそこ、SNSで見て気になってたんだよね」
「あ、よかった。じゃあ、チケットの予約とか俺やっておくよ」
「本当? 助かる。じゃあ、私は美味しそうなランチのお店探しとくね」
美月はベンチから立ち上がり、小さく伸びをした。名残惜しいが、楽しいデートの終わりを告げる時間だ。駅の改札へと向かって並んで歩く。
歩調を合わせるたび、二人の手のひらがかすかに触れ合いそうになっては、お互いに少しだけ距離を意識する。そのもどかしさが、今はたまらなく愛おしかった。
改札の手前で、美月が振り返って手を振る。
「じゃあ拓也、また来週ね! 楽しみにしてる」
「うん、また来週。気をつけて帰れよ」
去っていくベージュのコートの後ろ姿を見送り、スマートフォンの画面に表示された美月からの「今日は本当にありがとう!」のメッセージを見つめながら、俺は夜の帰路を歩く。
胸の奥の、あの長年抜けない棘だったはずの痛みが、今は嘘のように心地よい熱へと変わっていた。


