恋と焦燥のロードマップ

午後七時十五分。
金曜日の定時を少し過ぎた頃、俺は渋谷の少し外れにあるミニシアターのロビーにいた。
映画批評部だった俺たちにとって、大手のシネコンよりも、こういう少し薄暗くて独特の匂いがする劇場の方が落ち着く。ネイビーのスーツの襟を少し整えながら、俺はスマートフォンの画面に目を落とした。使い慣れたグリーンのトーク画面には、さっき届いた美月からのメッセージが表示されている。
『もうすぐ着くよ!ロビーの券売機の近くにいるね』
『了解』と返してスマホのポケットに仕舞った、その直後だった。
「拓也」
背後から、先週の居酒屋の前で聞いたのと同じ、少し高くて懐かしい声がした。
振り返ると、そこに美月が立っていた。
先週のシックなコート姿とは違い、今日の美月は、深いグリーンのタイトなニットに、黒いロングスカートを合わせていた。髪はハーフアップにまとめられていて、耳元で小さなシルバーのイヤリングが揺れている。大人っぽいけれど、どこか高校時代の彼女の私服の面影を残す、絶妙なバランスだった。
「待った?」
「ううん、今着たところ。……なんか、お洒落してきたな」
俺が少し照れ隠しに言うと、美月は「そっちこそ、仕事帰りのスーツ姿、様になってんじゃん」と、悪戯っぽく笑って俺の肩を軽く小突いた。
その瞬間、先週の居酒屋の時と同じように、俺の肩の緊張がすっと抜けた。
アプリで出会った他の女性との初めてのデートなら、「私服のセンス、変に思われてないかな」とか、「第一声は何が正解だったかな」とか、頭が痛くなるほどシミュレーションを繰り返すはずなのに、美月が相手だと、驚くほど自然に言葉が出てくる。
「チケット、もう発券してあるよ。美月の一番好きだった監督の、初期のデジタルリマスター版。よく上映権突っ込めたよな、この映画館」
「さすが拓也、分かってる!あの映画、部室のあの画質の悪いブラウン管でしか観たことなかったから、劇場のスクリーンで観られるなんて夢みたい」
美月は少女のように目を輝かせ、嬉しそうに俺の手元にある紙のチケットを覗き込んできた。
その距離、わずか数十センチ。
高校時代なら、彼女の髪から漂うシャンプーの甘い匂いや、触れそうな距離にある肩に、心臓が口から飛び出そうになるほど激しく脈打っていたはずだった。
けれど、今の俺の鼓動は、驚くほど静かなものだった。