「セックスしたくないけど結婚はしたいんだよね」

 ◆

 十月の冷え込みが始まったばかりの朝だった。

 落合 加奈は通勤電車の吊り革に掴まりながら、手元のスマートフォンを親指で弾いた。画面の中央に白い枠で囲まれた通知が浮かび上がっている。

『七年前の今日、あなたが投稿した言葉です』

 見覚えのある文字列が並んでいた。十九歳の誕生日、日付が変わる直前に下宿のアパートの隅で打ち込んだ文章だ。

 当時の加奈はつきあっていた同い年の大学生に手ひどい振られ方をした直後だった。誕生日の夜、ファミレスのドリンクバーで二時間粘ったあと冷たい階段の下で「ヤれないならつきあってる意味ないじゃん」と吐き捨てられた。加奈は拒んだ自分が悪かったのかと惨めさに震えながら、凍える手で液晶を叩いたものだった。

 文字列にはこうある。

『私の体じゃなくて、私そのものを誰よりも欲しがってよ』

 と。

 画面に表示された文字を眺めていると、胸の奥に淡い誇らしさが湧き上がってくる。

 あの投稿は信じられない速度で拡散された。ン十万というリポストが付き、同じ思いを抱えた同世代の少女たちの悲鳴が連鎖した。それはやがてネットの片隅を飛び出しテレビのワイドショーが取り上げ、国会前のデモへと膨れ上がった。

 フェミニズム隆盛の時代背景もあったのだろう。

 国が動いたのだ。

 結果として成立したのが、性衝動緩和処置促進法──世間が言うところの「返納法」だった。

 あれから七年が経ち、加奈は二十六歳になった。大手化粧品メーカーの広報室でSNSの運用を担当しながら、きちんと自活している。

 世の中はずいぶん静かで清潔になった。夜の改札を出ても、泥酔した男に執拗に声をかけられることはない。電車の女性専用車両は役目を終えて自然に廃止された。

 加奈の勤める会社でも売れ筋のラインナップは一変した。「異性を惹きつける香り」や「男のフェロモン」を謳う整髪料は棚から消え、代わりに売れているのは薬用リップや頭皮ケア、無香性の低刺激ローションばかりだ。男たちはただ小綺麗で健やかであることを好むようになった。

 世界を少しだけましな場所にしたのは、間違いなく自分たちの声だった。

 加奈は満足げに頷き、画面を消した。

 ◆

 銀座裏の小さなビストロ。

 誕生日のディナーに久住悠真が予約してくれた店は、加奈の好みを正確に反映していた。重すぎない赤ワインと香草を利かせた子羊のロースト。テーブルの向かい側で悠真は少し緊張した面持ちでグラスを傾けている。

 大学院を出て就職活動を続けている悠真は、加奈と同い年の二十六歳だった。そして今の時代には珍しくなってしまった「生男(なまお)」の一人だった。世の男たちの九割が腕にインプラントを埋め込んで衝動を返納した社会で、彼はまだ処置を受けていない。

「お誕生日おめでとう、加奈」

 差し出された小さな紙袋の中には、細身のシルバーブレスレットと、濃紺のインクでびっしりと文字が埋められた手紙が入っていた。

 加奈は礼を言って手紙を開いたが三行ほど読んだところで気恥ずかしくなり、そっと二つ折りに戻した。出会った日の天候から加奈の笑顔の美しさに至るまで、飾りの多すぎる言葉で埋め尽くされている。少し重い。

 店を出ると秋の夜風が肌を刺した。悠真は加奈の右手を握り、離そうとしない。手のひらにじんわりと汗が滲んでくる。

「駅まで、あっちの並木道を通っていこうよ」

「遠回りじゃない? もう十時半だよ」

「少しでも長く一緒にいたいんだ」

 悠真は子供のように唇を尖らせた。その執着が嬉しい日もあれば鬱陶しい日もある。今夜はどちらかといえば後者だった。明日は朝一番で役員向けのプレゼン資料をまとめなければならない。

 並木道に入ると悠真が急に歩調を緩めた。

「加奈さ、さっき店に入る前に電話してたの、会社の佐々木さん?」

「そうだけど。明日の引き継ぎの件」

「なんか、すごく楽しそうに笑ってたからさ」

 悠真の眉が寄っていた。加奈は呆れて足を止めた。

「佐々木さんは処置済みだよ。社内でも一番穏やかな人。やましいことなんて何もないって分かってるでしょ」

「頭では分かってるよ。でも、加奈が他の男と楽しそうにしてると胸がざわざわするんだ」

 街灯の光の下で悠真は真剣な顔をしていた。

「……ねえ、加奈。今日、俺の部屋に来ない?」

 加奈は静かに首を横に振った。

「明日、朝早いの。さっきも言ったよね」

 悠真は露骨に肩を落とし、握っていた手を緩めた。不満を噛み殺しているのが横顔で分かる。

「ごめん。困らせるつもりはなかったんだ。ただ、加奈じゃなきゃだめなんだよ、俺は」

 搾り出すようなその声を聞きながら、加奈の胸に冷めた呟きが落ちた。

 ──生男って、やっぱり面倒くさい。

 はあ、と小さく吐いた溜息さえも少し冷えているように思えた。

 ◆

 駅前の居酒屋の座敷席。

 注文した焼き鳥の皿に手をつけないまま、悠真はジョッキの底を見つめていた。最終面接まで進んでいた大手精密機器メーカーから、不採用の通知が届いたのは夕方のことだった。

「最終でさ、面接官が雑談みたいに訊いてきたんだよ」

 悠真は低く濁った声で言った。

「健康管理の一環として返納証明書の提出をお願いできますかって。任意ですって言いながら、提出しない場合の業務適性についてどう思うかって畳みかけられてさ」

 言葉に詰まり、曖昧に笑って誤魔化したのだと悠真は言った。結果は不採用だった。

 法律上、企業の採用において返納の有無で差別することは禁じられている。だが実態は違った。突発的なハラスメントのリスクがなく情緒が常に安定し、労働環境の調和を乱さない処置済み男性を企業が選ぶのは今や公然の秘密だった。

 未処置の「生男」はいつ暴発するか分からない不発弾のように扱われる。電車の混雑した車両に生男が乗ってくると周囲の乗客がそれとなく距離を取る光景を、加奈も何度か目撃していた。

「受けなよ、悠真」

 加奈は箸を置き、テーブル越しに身を乗り出した。

「私のこと、本当に大事に思ってくれてるならさ。受けて損することなんて何もないじゃない」

「でも……」

「一時金で二千万円も出るんだよ? 協力年金だって毎月十二万振り込まれる。公務員の試験だって加点されるし、住宅ローンの金利だって優遇されるの。二人で暮らす家だって買えるんだよ」

 悠真は目を伏せ、ジョッキの結露を拭った。

「俺が、俺じゃなくなる気がするんだ」

「どうして? ただ無駄な衝動を抑えるだけだよ。腕に小さなカプセルを入れるだけじゃない。合わなかったら抜けば元に戻るんだし」

 加奈は自分のグラスを悠真のジョッキに軽く当てた。

「私を本当に愛してるなら、証明してよ。あたしたちの将来のためにさ」

 悠真は膝の上で拳を固め、じっと俯いていた。やがて肩の力を抜くと、ゆっくりと顔を上げた。瞳から張りつめていた頑なさが抜け落ちていた。

「……分かった。加奈がそこまで言うなら」

 ◆

 処置センターの待合室。

 区役所に併設されたそのフロアは、高級ホテルのラウンジか最新のデンタルクリニックのように清潔だった。白と淡い木目を基調にした内装に、静かなクラシック音楽が流れている。

 壁の大型液晶パネルには、穏やかな笑顔の若い男女の写真とともに柔らかな青い文字でキャッチコピーが表示されていた。

『返納は、やさしさです』

 加奈はソファに深く腰掛け、番号札を握りしめている悠真の横顔を見つめた。昨夜からほとんど口を利いていなかったが、今の悠真の表情には穏やかな諦めが漂っていた。

「二十四番、久住悠真様」

 柔らかな声で呼ばれ、悠真が立ち上がった。処置室の自動ドアの向こうへ消えていく彼の背中を、加奈は見送った。

 処置は驚くほどあっけなく終わった。十五分後、ドアが開いて悠真が出てきた。左腕の袖が少しだけ捲られ、肘の上に四角い医療用テープが貼られている。

「どうだった?」

 駆け寄った加奈に、悠真は拍子抜けしたように笑いかけた。

「なんか、思ったより普通。局所麻酔をチクッとして、細い管でカプセルを押し込んだだけ。痛くもなんともなかったよ」

 クリニックを出ると午後の秋晴れの空が広がっていた。悠真の足取りは驚くほど軽かった。加奈の胸には、何か大きな試練を乗り越え、世界を正しい形へと導いたような達成感が満ちていた。

 ◆

 日曜日の昼下がりのリビング。

 処置から一ヶ月が過ぎ、加奈の部屋で過ごす時間は劇的に快適になった。

 悠真はソファの端に座り加奈が職場の愚痴を話すのを穏やかな笑顔で聞き続けていた。以前なら話の途中で自分の意見を挟み込んできたり、退屈そうに貧乏揺すりをしたり、不意に体を寄せてきて話の腰を折ったりしたものだった。

 今の悠真は違った。加奈が言葉を区切るまでしっかりと頷き適切な相槌を打ち、感情的な反論をしない。加奈が紅茶を淹れ直そうと立ち上がれば、すぐさま代わって台所に立ってくれる。

 夜、同じベッドに入っても無理に触れてこようとはしなかった。ただ「おやすみ」と微笑み、背中を向けて規則正しい寝息を立て始める。

 加奈はスマートフォンの画面を開き、得意げに短文を打ち込んだ。

『返納の彼、本当に最高。理不尽に怒らないし、話を全部聞いてくれる。みんな受けるべき』

 数十件の賛同が瞬く間に付いた。同僚たちとのランチでも加奈は悠真の変化を自慢した。以前の彼を知るサークルの先輩・真希だけが、アイスコーヒーのグラスを見つめながら複雑な顔をしていた。

「まあ、加奈ちゃんが良いならそれで良いんだけどさ」

 その真希の曖昧な呟きの意味を、加奈はまだ理解していなかった。

 ◆

 映画館を出た夕暮れの駅前広場。

 冷え込んできた風に首を竦めながら、加奈は改札へと歩き出した。当然のように悠真が隣についてくるものだと思っていた。加奈のアパートは駅から歩いて十五分、悠真の実家とは逆方向にある。

 だが悠真は自動改札の手前で足を止めた。

「じゃあ、加奈。今日は楽しかったよ」

 加奈は振り返った。

「え? 送ってくれないの?」

 以前の悠真なら、どんなに疲れていても加奈のアパートの玄関先まで送り届け、少しでも長く一緒にいようと名残惜しそうに立ち止まったはずだった。

 悠真は穏やかに微笑んだ。その瞳には何の悪意も含まれていない。

「加奈の家まで行くと往復で四十分かかるからさ。ここで解散したほうがお互い楽だし、睡眠時間も確保できるでしょ」

 正論だった──ではある。女の夜道というとどうしても安全面が気になるところだが、このご時世、性犯罪なんてものの発生率はそれこそ航空機の墜落よりも発生確率が低い。

「……うん、そうだね」

 加奈が頷くと、悠真はスマートフォンの画面を提示してきた。

「あ、さっきの映画のチケット代とカフェ代、割り勘で計算しておいたよ。加奈のぶんは千八百七十二円。電子マネーで送ってくれる?」

「あ、うん……」

 以前の悠真はお金がないと言いながらも格好をつけて多めに出そうとしたり、端数を誤魔化して奢ろうとしたりした。それに対して加奈が「いいよ、半分出すよ」と押し問答をするのが常だった。

 今、悠真は一円単位で割り振られた画面を実務的な手つきで操作している。

 数週間後の夜、加奈はリビングのカレンダーを見つめていた。交際三周年の記念日だった。しかし悠真からの連絡は何もなく、日付が変わる直前に加奈からメッセージを送った。

 翌朝、届いた悠真からの返信は丁寧そのものだった。

『昨日はごめんね。すっかり抜けていました。記念日が年に何回もあると管理コストがかかるから、これからはお互いの誕生日に一本化しない? そのほうが効率的だと思うんだ』

 加奈は画面を見つめたまま、しばらく返信の言葉を探せなかった。

 ◆

 金曜日の夜の退勤時。

 加奈は駅のホームから悠真に電話をかけた。

「悠真? 急なんだけど、今夜は大学の男友達と飲んで帰るね。同じゼミだった佐藤くんと武田くん」

 加奈は受話器を耳に押し当て、悠真の反応を待った。以前なら男友達の名前を聞いた瞬間に声を低くし、「二人きりじゃないよね?」「何時に帰るの?」「迎えに行こうか?」と執拗に問い詰めてきたはずだった。

 電話の向こうから聞こえてきたのは、軽やかなトーンの声だった。

「了解。楽しんできてね。明日の予定に響かない程度にね」

 加奈は唇を噛んだ。

「……悠真、嫉妬しないの?」

 通話口から、本気で意味を測りかねているような短い間が返ってきた。

「嫉妬? なんで? 加奈の自由だし二人はただの友達でしょ。僕が口出しする筋合いじゃないよ」

 濁りのない、透き通った声だった。

 疑われていない。束縛もされていない。信頼されているのだと言い聞かせることはできた。だが加奈の胸の奥には冷たい隙間風が吹き抜けていた。求めていたはずの寛容さはもっと、こう──温かく、柔らかい手触りではなかったか? 

 しかしこ(・)れ(・)はどうだ。

 何だか冷たくて渇いているそれを、加奈は好きになれなかった。

 ◆

 週末の郊外。

 駅からバスで二十分ほどの住宅街に、元は企業の社員寮だった古い鉄筋コンクリートの建物が建っていた。玄関の表札には手書きのプレートで『男舎・清和寮』と掲げられている。

 悠真は最近、週末のほとんどをこの男舎で過ごすようになっていた。大学時代の友人である太一をはじめ、二十代から三十代の処置済み男性ばかりが十数人で共同生活を送っている。

「加奈、いらっしゃい」

 迎えてくれた悠真は、洗いざらしのシャツにエプロンを着けていた。

 案内されたリビングには埃ひとつ落ちていなかった。壁には整然と書かれた当番表が貼られ、掃除やゴミ出しや買い出しの役割分担が几帳面に管理されている。

 大型のテーブルの上には精巧な作りのボードゲームが広げられていた。隅の棚には釣り具やキャンプ道具が美しく整頓されている。

「こんにちは、加奈さん」

 太一たちが立ち上がり礼儀正しく頭を下げた。誰の目にも卑屈さや下心はなく過剰な愛想笑いもない。澄んだ穏やかな眼差しだった。

 悠真が丁寧に淹れた珈琲を出してくれた。男たちは加奈の仕事や最近の流行について理知的で節度ある会話を交わした。失言も下品な冗談もなく誰一人として声を荒げない。

 だが居心地の悪さは時間の経過とともに増していった。加奈が座っているこの空間はまるで高級ホテルのフロントだった。完璧に調律された接客の中に加奈という異物が丁寧に置かれているだけだった。

 帰り道、バス停までの道を悠真が並んで歩いた。

「どうだった? みんな良い奴らだろ」

 悠真は満足そうに微笑んでいる。

「うん。すごく親切にしてくれた」

 加奈は立ち止まり、悠真の袖を引いた。

「ねえ悠真、私って悠真にとって特別?」

 悠真は少し足を緩め、振り返った。

「なに?」

 加奈は悠真の目を覗き込んだ。以前の彼なら、待ってましたとばかりに抱きしめて「世界で一番特別だよ」と大袈裟に囁いたはずの問いだった。

 悠真は穏やかに目を細め、少しだけ小首をかしげた。

「大事だよ。すごく感謝してる」

「太一くんたちよりも?」

 悠真は少し困ったように、けれど誠実に答えた。

「比べるものじゃないよ。太一たちと同じくらい加奈のことも大事に思ってるよ」

 その答えに一片の悪意も混ざっていないことが、加奈の胸を容赦なく刺した。

 ◆

 真希の暮らす湾岸のタワーマンション。

 リビングの掃き出し窓から東京湾の平坦な海が見下ろせていた。テーブルの上には紅茶のカップとプリントアウトされた契約書類が置かれていた。

「圭吾から言われたの」

 真希は乾いた声で笑った。

 夫の圭吾は、住宅ローンの優遇金利を受けるために半年前、処置センターへ足を運んでいた。

「婚姻関係を解消して共同生活契約に切り替えたいんだって。共契にすれば税制上の控除も使い分けられるし、互いのキャリアにも縛りがなくなるから合理的だろって。向こうは親切のつもりで、ファイナンシャルプランナーまで同席させて説明してきたわ」

 真希は冷めた紅茶のカップを見つめた。

「私、子どもが欲しかったんだけどね。でも圭吾は国立生殖バンクがあるからわざわざ身体的な負担を抱えて自然妊娠する必要はないじゃないかって言うの。全部、筋が通ってるのよ。反論できないくらいにね」

 真希は顔を上げ、加奈をまっすぐに見つめた。その瞳に浮かんでいたのは責め苦のような冷笑だった。

「あんたが望んだ世界だね、加奈ちゃん」

 加奈は言葉に詰まった。

「私は……そんなつもりじゃ」

「男の人から、厄介な熱情を全部抜いてくれって言ってたのは誰だっけ」

 真希は冷めた紅茶を一気に飲み干した。加奈は何も言い返すことができない。そうだ、こ(・)れ(・)は加奈が望んだ世界なのだ。

 それなのに──。

 ◆

 大手町にあるオフィスビルの会議室。

 職場の先輩である高野沙耶に連れられて、加奈は契約婚エージェント『パートナーズ』のサロンを訪れていた。

「いい? 加奈ちゃん。男が損得で女を選ぶ時代になったのよ。だったらこっちも感情なんて曖昧なものに頼らず、条件を提示して契約を結ぶのが一番安全なの」

 沙耶はタブレット端末の入力画面を加奈に見せた。

 入力画面には以前の婚活市場とは真逆の項目が並んでいた。年収や保有資産、家事労働の提供可能時間や介護保険の加入状況、そして最下部にある太字の項目。

『感情労働の要求度(一〜五段階)』

 沙耶は誇らしげに言った。

「私はもちろん『一』よ。相手に機嫌取りや共感を一切求めない。合理的な生活基盤の共有だけを提示するの。今の市場では感情労働を求めない女ほど価値が高いんだから」

 週末、加奈は沙耶に付き合わされてエージェントが主催する条件提示会に参加した。

 ホテルの宴会場には清潔なスーツを着た返納男性たちが整然と着席していた。誰の身だしなみも整えられ、体臭や無駄毛の処理も完璧だった。乱暴な言葉を使う者も、品定めするように女性の胸元を盗み見る者もいない。

 加奈の前に座った三十代前半の公務員の男性は、加奈のプロフィールシートを丁寧に読み終えると柔らかな笑顔で問いかけてきた。

「落合さんと共同生活契約を結んだ場合、私の生活にはどのような便益が生じますか?」

 加奈は喉を詰まらせた。

「便益……ですか」

「ええ。私は一人でも十分に生活が成り立っていますし男舎のようなシェアハウスでも快適に暮らせます。あえて落合さんと法的な生活共同体を形成することで、時間的あるいは経済的なリソースにどのようなプラスがあるのかをお聞きしたいのです」

 加奈は膝の上でスカートの生地を握りしめた。

 差し出せるものは何もなかった。

 料理がうまい?──外食で代替できるし、そもそも相手も料理くらいは当然のように出来る。

 顔が可愛い?──確かに加奈は顔が整っている。自分もそう言う自覚はある。しかし外見なんて、相手がもっともどうでもよいとする条件であった。

 話が面白い?──面白い話ができるなら、今この場で気の利く事一つくらいは言えているだろう。

 対して、加奈が欲しいただ一つだった。

 それは「私だけを理由もなく特別扱いしてほしい」という願いだ。

 だが平穏で公正な男たちの前では、それは単なる重荷であり何の利益も生まない負債にすぎなかった。

 ◆

 休日の午後の喫茶店。

 悠真は持参したタブレット端末をテーブルに置き、画面を加奈に向けた。見事なまでに整理された表とグラフが表示されていた。

「これ、加奈と同居した場合と今のまま男舎で暮らした場合の試算表なんだ」

 悠真は淡々と画面をスクロールした。

 生活費や家事にかかる時間、精神的な配分の詳細が記されていた。総合的に見て一緒に暮らすメリットはコストを上回らないという結論だった。

 加奈は乾いた唇を開き、震える声で尋ねた。

「……別れようって、そういうことなの?」

「嫌いになったわけじゃないんだよ」

 悠真は困惑したように眉を寄せ、穏やかに首を振った。

「加奈と話すのは今でも楽しいよ。でもその楽しさは太一たちとボードゲームをしている時と質的に変わらないんだ。男舎のほうが気を使わないし、感情のすり合わせにかかるコストがゼロで済む」

「私のこと、もう好きじゃないの?」

「好きだよ。一人の人間として尊敬してる」

 悠真の言葉には一片の迷いもなかった。

「でもわざわざ生活を縛り合う必要はないよね。加奈だって僕に不満があったんじゃないかな。最近は一緒にいても楽しそうじゃなかったし」

 別れ話はわずか三十分で合意に達した。もめ事も涙も怒号もなかった。

 店を出る際、悠真は心からの笑顔で加奈の手を握った。

「本当にありがとう加奈。加奈が背中を押してくれたおかげで僕は処置を受けられた。頭の中がいつも静かで本当に楽になったよ。加奈には感謝しかないんだ」

 加奈はその手を握り返せなかった。泣くべき瞬間がどこにも見当たらなかった。

 一ヶ月後、悠真は給付金の二千万円を使って男舎の持分を買い取り完全に引っ越していった。かつて居酒屋で加奈が語った「家が買える」という言葉は、まったく別の形で実現していた。

 ◆

 年が明けた二月のオフィス。

 昼休みの女子トイレの洗面台で、沙耶がファンデーションのコンパクトを開いていた。鏡に映るその目元が少しだけ赤く腫れている。

「更新、されなかったわ」

 沙耶は乾いた声で言った。契約婚を結んでちょうど一年を迎えるはずだった。

「夫から今朝メールが届いたの。『当初見込んだ便益が得られなかったため契約の更新を見送らせてください』って。丁寧な敬語で、違約金の計算書まで添付されてた」

 パフを叩く沙耶の手がかすかに震えていた。

「条件で選ばれた人間は条件で切られるのよね。当たり前のことなのに、なんでかしらね」

 沙耶は鏡の中の自分に向かって口角を無理に引き上げ、足早にトイレを出て行った。

 同じ週、真希からもメッセージが届いた。共契を完全に解消し、区内の『ゆりかごセンター』に申請を出したという。

『国立生殖バンクから提供を受けて、人工子宮で育ててもらうことにしたの。来年の秋には母親になるよ。一人で育てるつもり』

 カフェで会った真希はどこか晴れ晴れとした顔をしていた。

「子どもならね、最初の何年かは私を特別扱いしてくれるでしょ。理由なんてなくても私じゃなきゃだめだって泣いてくれるでしょ」

 真希の言葉に、加奈は何も返せなかった。

 ◆

 五月の連休、加奈は埼玉の実家に帰省した。

 居間の座卓には母が作った山菜の天ぷらと煮物が並んでいた。定年を間近に控えた父の修は昨年、高齢者向けの給付金特例を利用して処置を受けていた。

「お父さん、最近どう?」

 加奈が尋ねると、父は穏やかに目を細めた。

「ああ、毎日が穏やかだよ。朝は町の『男の会』で散歩をして午後は公民館で将棋を指している。血圧も下がって医者にも褒められたよ」

 食卓には言い争いもなくテレビのニュースに対する愚痴もなかった。父は母が膳を下げるのを自然に手伝い流し台で皿を洗い始めた。理想的で非の打ち所のない老後の風景だった。

 台所で茶を淹れている母の隣に加奈は立った。

「お父さん、優しくなったね」

 母は急須の蓋を押さえながら小さく吐息を漏らした。

「そうねえ。怒鳴ることもなくなったしお酒の失敗もないわ。本当に手がかからなくなった」

 母は湯飲みに茶を注ぎ分けながら、誰に言うでもなく呟いた。

「でもね、前のほうがうるさかったけど張り合いはあったわね。あの人、昔は私が髪を切ったら似合わないだの文句を言いながら必ずその日のうちに気づいたものよ」

 加奈は居間に戻る父の後ろ姿を見た。背中は丸く穏やかで、何の波風も立っていなかった。

 ◆

 初夏の深夜の自室。

 ベッドの中でスマートフォンを眺めていた加奈の目に、見慣れないハッシュタグが飛び込んできた。

『#もう一度欲しがって』

 画面をスクロールすると、同世代の女性たちの悲痛な叫びが連日タイムラインを埋め尽くしていた。

《優しくて公平なのは分かった。でも誰も私を見てくれない》
《誰にでも親切にするなんて、そんなの愛じゃない》
《返納法を見直してください》

 ネット上では、返納法の見直しを求める署名活動が急速に広がっていた。

 しかし数日後、厚生労働省が発表した追跡調査の結果がニュースで報じられた。処置済みの成人男性のうちカプセルの抜去を希望した者の割合は、なんと一パーセントを大きく割ったのだ。

 九十九パーセント以上の男たちが、「元に戻す理由が見当たらない」と回答していた。

 腕の皮膚を少し切開すればいつでもあの熱情と嫉妬と執着の世界へ戻れる。制度としてもそれは完全に保障されていた。だが誰一人として戻りたがっていなかった。男たちは、欲望の重圧から解放されたこの静かで清潔な世界に心底から満足していた。

 加奈は署名サイトのページを開いた。画面には『署名する』という赤いボタンが表示されている。

 指を伸ばし、ボタンを押すことに迷いはなかった。

 あの十九歳の夜、自分が切り捨てたかったものは何だったのか。男たちの下品な眼差しや身勝手な性欲、鬱陶しい嫉妬や不条理な執着。それらをすべて取り除けば純粋な愛だけが残ると信じていた。

 だが誰かを他のすべてを差し置いて特別扱いするという非合理な偏りは、まさにその泥のような熱情を燃料にして燃えていたのだ。燃料を抜いたあとに残ったのは冷たい──とても冷たい灰だけだった。

 加奈はもう「冷たいの」は要らなかった。

 多少鬱陶しくても、「暖かいの」や「熱いの」が欲しかった。

 ◆

 十月二十四日の午前零時。

 二十七歳の誕生日を迎えた瞬間、枕元のスマートフォンが短く振動した。

 画面を開くと、悠真からのメッセージが届いていた。

『加奈、二十七歳の誕生日おめでとうございます。新しい一年が加奈にとって健康的で実り多いものになることを心から願っています。寒くなってきましたので体調にはくれぐれも気をつけて過ごしてください』

 句読点の一つに至るまで正しく、非の打ち所のない祝福だった。

 送信時刻は、零時零分零秒。

 カレンダーアプリと連動した自動の予約送信機能であることが一目で分かった。誰にでも送れて誰からも恨まれない完璧な親切だった。

 加奈はスマートフォンをベッドサイドに置き、テレビのモニターに動画配信サービスの画面を映し出した。

 おすすめ欄のトップに、最近追加された古いコンテンツが表示されていた。

『懐かしの恋愛リアリティショー(二〇二〇年代アーカイブ)』

 再生ボタンを押すと、十数年前の画質の粗い映像が流れ始めた。

 画面の中の男たちは、驚くほど愚かで、見苦しかった。

 気になる女性が他の男と話しているだけで露骨に不機嫌になり唇を噛み、酒の席でみっともなく絡んでいた。自分の仕事や将来の損得などかなぐり捨てて、客観的に見れば釣り合いの取れない一人の女性に対して必死に執着していた。

 最終回の映像が流れていた。

 夕暮れの地方都市のバスターミナル。乗客を乗せた路線バスがゆっくりと動き出す。

 画面の端から一人の男が走ってきた。髪を振り乱してシャツのボタンを外したまま、排気ガスの煙を浴びてバスを追いかけている。男は叫んでいた。

「行くなよ! 頼むから行かないでくれ! お前じゃなきゃだめなんだ!」

 画面の右側に、リアルタイムで書き込まれた視聴者のコメントが流れていた。

《わかる》
《こういうのでいいんだよ》
《生男ってこんなに必死だったんだ》
《泣いた》

 コメント欄は同世代の女たちの言葉で埋め尽くされていた。

 手元のスマートフォンが再び短く震える。画面を薄く開くと、通知センターに一行のメッセージが表示されていた。

『八年前の今日、あなたが投稿した言葉です』

 加奈はそれを開かなかった。画面を下にして、シーツの上に伏せる。ついでに枕も乗せて、完璧に封印をしてやった。テレビの画面の中では、男がまだ砂埃を上げて走り去るバスの後ろ姿を追いかけ続けていた。

 馬鹿だと思う。

 追いつきっこないのに。

 格好悪いと思う。

 女をあんな風に追いかけて。

 でも羨ましいと思った──女の人が。

 あそこまで求められて。

 加奈はサイドテーブルからティッシュペーパーを一枚引き抜き──ぐすんと鼻をすすり上げた。

(了)