教室の空気は、日を追うごとに私にとって都合の悪い方向へ傾いていった。
颯真は私が何を言おうと構わず、当然のように「穂乃果」と呼び続けた。最初は訂正していたけれど、三日も経つ頃には諦めの境地に達していた。訂正するたびに、彼はそれを新しい会話のきっかけにしてしまうのだ。抵抗すればするだけ、かえって彼を喜ばせる結果になる。それに気づいてからは、聞こえないふりをすることに決めた。
けれど、聞こえないふりをしたところで、状況はさして変わらなかった。
休み時間になると、颯真は当然のように私の席の近くに来て話しかける。移動教室のときは、いつの間にか隣を歩いている。廊下ですれ違えば、必ず声をかけてくる。まるで、私と関わることが彼の日課にでも組み込まれたかのようだった。
「穂乃果、次の時間何?」
「一ノ瀬くんには関係ないです」
「関係あるよ、俺も同じ授業だから」
「知ってます。聞かなくてもわかることを聞かないでください」
「じゃあ話しかける理由がなくなるじゃん」
理由なんて、最初から必要ないはずなのに。
美月はそんな私たちのやり取りを、遠くから面白そうに眺めていた。
「ほら、やっぱり狙われてるじゃん」
「ああいう人は誰にでもああなの。気にしすぎ」
私は繰り返しそう答えていたけれど、正直なところ、その説明にはだんだん無理が出てきていることも自覚していた。誰にでも同じように優しい、というのが颯真の基本仕様だとしても、この頻度と距離感は明らかに常軌を逸している。他の女子には、こんなふうに毎日話しかけたりはしていない。少なくとも私の観察する限りでは。
観察。そう、これはあくまで観察だ。危険な生物の生態を、安全な距離から確認しているだけ。何度も自分にそう言い聞かせながら、私は日々を過ごしていた。
☆
その日の放課後、私はいつものように図書室へ向かった。今週末に控えた有志の生物観察会。そのために、標本作りの参考資料を探すつもりだった。
図書室に入ると、窓際の席に見覚えのある人影があった。颯真だった。
机に肘をつき、頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めている。いつものような、教室で見せる完璧な笑顔はどこにもなかった。むしろ、ひどく疲れた顔をしている。
私は迷った末、いつもの棚へ向かおうとしたけれど、その途中でどうしても視界の端に彼の姿が入ってしまう。
「……なんですか、その顔」
気づけば、声をかけていた。
颯真はゆっくりとこちらを見て、それから力なく笑った。
「今日、愛想笑いしすぎて頬痛い」
冗談めかした口調だったけれど、目の下にはうっすらと疲労の色が滲んでいた。机に突っ伏すように、腕の中に顔を埋める。
「一ノ瀬くんでも疲れるんですね」
「俺を何だと思ってたの」
(毒キノコ)
もちろん、そんなことは言えない。
「愛想がいいのが標準装備だと思ってました」
「標準装備って何。ロボットじゃないんだけど」
「機能面では近いものを感じます」
颯真は突っ伏したまま、くぐもった声で笑った。
「ひどいなあ」
「事実です」
しばらくの間、私たちの間には奇妙な沈黙が流れた。窓の外は、いつものように夕方の光が差し込んでいて、蛍光灯の白い光とオレンジ色の陽射しが図書室の中で混ざり合っている。埃っぽい空気の粒子が、光の筋の中でゆっくりと漂っているのが見えた。
私は本来、彼に構う義理などない。さっさと目的の棚へ向かえばいいだけの話だ。なのに、なぜか足が動かなかった。
「今日、何かあったんですか」
気づけば、そう尋ねていた。
颯真は顔を上げて、少し驚いたような表情を浮かべた。
「珍しいね、穂乃果が俺のこと心配するの」
「心配じゃないです。単に興味本位です」
「それもじゅうぶん珍しいけど」
颯真は椅子に座り直して、大きく伸びをした。それから、少しだけ声のトーンを落として話し始めた。
「今日、クラスの女子から相談されて。友達の恋愛相談。それで放課後まで付き合って、その後、別の子から部活の悩み聞いて、その後また違う子から進路の相談されて」
「大変ですね」
「うん。全部、俺には関係ない話なんだけどね」
その言葉に、私は少し引っかかりを覚えた。
「関係ないなら、断ればいいのに」
「断れないよ、頼られたら」
「頼られるたびに引き受けてたら、いつか潰れますよ」
「かもね」
颯真はそう言って、また笑った。今度の笑いは、いつものような軽やかなものではなく、どこか自嘲めいた響きを含んでいた。
「でも、断ったら、たぶん嫌われるから」
その一言が、思ったよりも重く私の中に落ちてきた。
誰にでも優しくて、誰にでも笑いかけて、誰の頼みも断らない。それが彼の処世術なのだと、なんとなく気づいてはいたけれど、本人の口からはっきりとその理由を聞いたのは初めてだった。
「一ノ瀬くんって、意外と面倒なタイプなんですね」
「面倒って何」
「嫌われることに、必要以上に怯えてるタイプ、という意味です」
颯真は一瞬、虚を突かれたような顔をした。それから、ふっと視線を逸らした。
「……鋭いね、穂乃果」
否定しなかった。それが、何よりも雄弁な肯定に思えた。
私は自分でも意外なことに、彼のその表情に少しだけ心が動いた。完璧な人気者だと思っていた少年の、こんな弱々しい一面を見てしまったからかもしれない。
けれど、すぐに自分に言い聞かせる。
――これも、毒キノコの罠かもしれない。
同情や共感を引き出すことで、相手の警戒心を解く。そういう戦略的なものである可能性は、決してゼロではない。少なくとも、警戒を怠るべきではない。
「一ノ瀬くんでも疲れるんだ」
私はわざと軽い口調でそう言った。深刻な空気を払拭するように。
「俺を何だと思ってたの?」
さっきと同じ台詞を、颯真は繰り返した。今度は少し困ったような笑い方だった。
「完璧超人だと思ってました」
「そんなわけないでしょ」
「知ってます、今知りました」
颯真はそれを聞いて、また声を立てて笑った。今度の笑いは、さっきまでの疲れた様子が少し和らいだような、自然な響きを持っていた。
しばらく他愛のない会話を交わした後、颯真はふと真面目な顔になって、ぽつりと言った。
「穂乃果には、こういうこと言ってもいい気がする」
その言葉に、私の胸が一瞬だけ、大きく跳ねた。
「……なんでですか?」
なるべく平静を装って尋ねたけれど、声が少し上ずっていたかもしれない。
颯真は少し考えるような間を置いてから、答えた。
「なんでだろうね。穂乃果、俺のこと特別扱いしないから、逆に安心するのかも」
その答えに、私は何と返せばいいのかわからなかった。
特別扱いしない。それは、私が意図的にそうしているつもりだった。彼のような人間に近づいて、特別扱いなんてしてしまえば、あっという間にその他大勢の一人になってしまう。だから距離を取っている。それだけのはずだった。
なのに、その距離の取り方そのものが、彼にとっては特別なものに映っているらしい。
――これは、まずいかもしれない。
そんな予感が、胸の奥をちくりと刺した。
「そろそろ、私、資料探さないと」
私はそう言って、逃げるように棚の方へ向かった。背中に視線を感じたけれど、振り返らなかった。
棚の陰に隠れて本を選ぶふりをしながら、私は自分の胸に手を当てた。心臓が、思ったよりも速く鼓動していた。
――落ち着け。
何度も自分に言い聞かせる。今日のはただの、疲れた同級生への一時的な同情心だ。それ以上の意味はない。
けれど、その夜。
布団の中で今日の出来事を思い返しながら、私は颯真の弱々しい笑い方を、何度も頭の中で再生してしまっている自分に気づいていた。
綺麗なものには、近づいてはいけない理由がある。
それなのに、今日見た彼の顔は、これまで見てきたどの表情よりも、私の記憶に強く焼きついていた。
颯真は私が何を言おうと構わず、当然のように「穂乃果」と呼び続けた。最初は訂正していたけれど、三日も経つ頃には諦めの境地に達していた。訂正するたびに、彼はそれを新しい会話のきっかけにしてしまうのだ。抵抗すればするだけ、かえって彼を喜ばせる結果になる。それに気づいてからは、聞こえないふりをすることに決めた。
けれど、聞こえないふりをしたところで、状況はさして変わらなかった。
休み時間になると、颯真は当然のように私の席の近くに来て話しかける。移動教室のときは、いつの間にか隣を歩いている。廊下ですれ違えば、必ず声をかけてくる。まるで、私と関わることが彼の日課にでも組み込まれたかのようだった。
「穂乃果、次の時間何?」
「一ノ瀬くんには関係ないです」
「関係あるよ、俺も同じ授業だから」
「知ってます。聞かなくてもわかることを聞かないでください」
「じゃあ話しかける理由がなくなるじゃん」
理由なんて、最初から必要ないはずなのに。
美月はそんな私たちのやり取りを、遠くから面白そうに眺めていた。
「ほら、やっぱり狙われてるじゃん」
「ああいう人は誰にでもああなの。気にしすぎ」
私は繰り返しそう答えていたけれど、正直なところ、その説明にはだんだん無理が出てきていることも自覚していた。誰にでも同じように優しい、というのが颯真の基本仕様だとしても、この頻度と距離感は明らかに常軌を逸している。他の女子には、こんなふうに毎日話しかけたりはしていない。少なくとも私の観察する限りでは。
観察。そう、これはあくまで観察だ。危険な生物の生態を、安全な距離から確認しているだけ。何度も自分にそう言い聞かせながら、私は日々を過ごしていた。
☆
その日の放課後、私はいつものように図書室へ向かった。今週末に控えた有志の生物観察会。そのために、標本作りの参考資料を探すつもりだった。
図書室に入ると、窓際の席に見覚えのある人影があった。颯真だった。
机に肘をつき、頬杖をついて、ぼんやりと窓の外を眺めている。いつものような、教室で見せる完璧な笑顔はどこにもなかった。むしろ、ひどく疲れた顔をしている。
私は迷った末、いつもの棚へ向かおうとしたけれど、その途中でどうしても視界の端に彼の姿が入ってしまう。
「……なんですか、その顔」
気づけば、声をかけていた。
颯真はゆっくりとこちらを見て、それから力なく笑った。
「今日、愛想笑いしすぎて頬痛い」
冗談めかした口調だったけれど、目の下にはうっすらと疲労の色が滲んでいた。机に突っ伏すように、腕の中に顔を埋める。
「一ノ瀬くんでも疲れるんですね」
「俺を何だと思ってたの」
(毒キノコ)
もちろん、そんなことは言えない。
「愛想がいいのが標準装備だと思ってました」
「標準装備って何。ロボットじゃないんだけど」
「機能面では近いものを感じます」
颯真は突っ伏したまま、くぐもった声で笑った。
「ひどいなあ」
「事実です」
しばらくの間、私たちの間には奇妙な沈黙が流れた。窓の外は、いつものように夕方の光が差し込んでいて、蛍光灯の白い光とオレンジ色の陽射しが図書室の中で混ざり合っている。埃っぽい空気の粒子が、光の筋の中でゆっくりと漂っているのが見えた。
私は本来、彼に構う義理などない。さっさと目的の棚へ向かえばいいだけの話だ。なのに、なぜか足が動かなかった。
「今日、何かあったんですか」
気づけば、そう尋ねていた。
颯真は顔を上げて、少し驚いたような表情を浮かべた。
「珍しいね、穂乃果が俺のこと心配するの」
「心配じゃないです。単に興味本位です」
「それもじゅうぶん珍しいけど」
颯真は椅子に座り直して、大きく伸びをした。それから、少しだけ声のトーンを落として話し始めた。
「今日、クラスの女子から相談されて。友達の恋愛相談。それで放課後まで付き合って、その後、別の子から部活の悩み聞いて、その後また違う子から進路の相談されて」
「大変ですね」
「うん。全部、俺には関係ない話なんだけどね」
その言葉に、私は少し引っかかりを覚えた。
「関係ないなら、断ればいいのに」
「断れないよ、頼られたら」
「頼られるたびに引き受けてたら、いつか潰れますよ」
「かもね」
颯真はそう言って、また笑った。今度の笑いは、いつものような軽やかなものではなく、どこか自嘲めいた響きを含んでいた。
「でも、断ったら、たぶん嫌われるから」
その一言が、思ったよりも重く私の中に落ちてきた。
誰にでも優しくて、誰にでも笑いかけて、誰の頼みも断らない。それが彼の処世術なのだと、なんとなく気づいてはいたけれど、本人の口からはっきりとその理由を聞いたのは初めてだった。
「一ノ瀬くんって、意外と面倒なタイプなんですね」
「面倒って何」
「嫌われることに、必要以上に怯えてるタイプ、という意味です」
颯真は一瞬、虚を突かれたような顔をした。それから、ふっと視線を逸らした。
「……鋭いね、穂乃果」
否定しなかった。それが、何よりも雄弁な肯定に思えた。
私は自分でも意外なことに、彼のその表情に少しだけ心が動いた。完璧な人気者だと思っていた少年の、こんな弱々しい一面を見てしまったからかもしれない。
けれど、すぐに自分に言い聞かせる。
――これも、毒キノコの罠かもしれない。
同情や共感を引き出すことで、相手の警戒心を解く。そういう戦略的なものである可能性は、決してゼロではない。少なくとも、警戒を怠るべきではない。
「一ノ瀬くんでも疲れるんだ」
私はわざと軽い口調でそう言った。深刻な空気を払拭するように。
「俺を何だと思ってたの?」
さっきと同じ台詞を、颯真は繰り返した。今度は少し困ったような笑い方だった。
「完璧超人だと思ってました」
「そんなわけないでしょ」
「知ってます、今知りました」
颯真はそれを聞いて、また声を立てて笑った。今度の笑いは、さっきまでの疲れた様子が少し和らいだような、自然な響きを持っていた。
しばらく他愛のない会話を交わした後、颯真はふと真面目な顔になって、ぽつりと言った。
「穂乃果には、こういうこと言ってもいい気がする」
その言葉に、私の胸が一瞬だけ、大きく跳ねた。
「……なんでですか?」
なるべく平静を装って尋ねたけれど、声が少し上ずっていたかもしれない。
颯真は少し考えるような間を置いてから、答えた。
「なんでだろうね。穂乃果、俺のこと特別扱いしないから、逆に安心するのかも」
その答えに、私は何と返せばいいのかわからなかった。
特別扱いしない。それは、私が意図的にそうしているつもりだった。彼のような人間に近づいて、特別扱いなんてしてしまえば、あっという間にその他大勢の一人になってしまう。だから距離を取っている。それだけのはずだった。
なのに、その距離の取り方そのものが、彼にとっては特別なものに映っているらしい。
――これは、まずいかもしれない。
そんな予感が、胸の奥をちくりと刺した。
「そろそろ、私、資料探さないと」
私はそう言って、逃げるように棚の方へ向かった。背中に視線を感じたけれど、振り返らなかった。
棚の陰に隠れて本を選ぶふりをしながら、私は自分の胸に手を当てた。心臓が、思ったよりも速く鼓動していた。
――落ち着け。
何度も自分に言い聞かせる。今日のはただの、疲れた同級生への一時的な同情心だ。それ以上の意味はない。
けれど、その夜。
布団の中で今日の出来事を思い返しながら、私は颯真の弱々しい笑い方を、何度も頭の中で再生してしまっている自分に気づいていた。
綺麗なものには、近づいてはいけない理由がある。
それなのに、今日見た彼の顔は、これまで見てきたどの表情よりも、私の記憶に強く焼きついていた。



