「おはよう、間下さん」
朝の教室に足を踏み入れた瞬間、私はその声に固まった。
昨日のことなど、なかったことになっているはずだった。少なくとも私の中では、そういうことにするつもりだった。あの図書室での一件は、不運な事故として記憶の奥にしまい込み、二度と掘り返さない。それが一番平和な選択のはずだった。
なのに、颯真は当然のように私の席の近くまで歩いてきて、こちらを見下ろしながら笑っている。
「……おはようございます」
なるべく事務的に返した。感情の起伏を悟られないように、教科書をカバンから取り出す作業に集中する。
「今日も生物図鑑?」
「違います」
「キノコの本?」
「違います」
「じゃあ何」
「数学です」
嘘だった。数学の教科書はまだカバンの中にある。手に持っていたのは古典の問題集だった。けれど、これ以上会話を続ける気力が湧いてこない。
颯真はしばらく私の手元を眺めていたけれど、やがて「ふうん」とだけ言って、興味なさそうに視線を外した。かと思えば、すぐにまた別の話題を振ってくる。
「昨日、あれから眠れた?」
声のトーンが少し落ちて、周りに聞こえないようにという配慮が感じられた。それが余計に、教室の中の空気を張り詰めさせる。
「普通に眠れました」
「そう。ならよかった」
それだけ言うと、颯真は自分の席に戻っていった。
けれど、教室の空気は既に変わっていた。
「ねえ、一ノ瀬くんと知り合いなの?」
休み時間になるなり、クラスメイトの女子二人が私の席に寄ってきた。好奇心を隠しきれない目をしている。
「知り合いというか、同じクラスなので」
「そういうことじゃなくて。朝、ちゃんと『間下さん』って呼ばれてたよね? 一ノ瀬くん、あんまり話したことない女子の名前まで覚えてるタイプじゃないでしょ」
「たまたまだと思います」
苦しい言い訳だとわかっていたけれど、他に言いようがなかった。
美月が横から助け舟のようなものを出してくれる。
「穂乃果、一ノ瀬と何かあったの?」
「何もない」
嘘ではなかった。私だって聞きたい。中学から今まで、彼と個人的に言葉を交わしたことなど一度もなかったはずなのに。
昼休みが終わる頃には、教室内の空気は完全に「間下穂乃果と一ノ瀬颯真に何かある」という前提で固まりつつあった。事実無根の噂ほど厄介なものはない。否定すればするほど、かえって疑いを深める結果になる。これは中学時代の経験からよく知っている。
☆
放課後、私は逃げるように図書室へ向かった。せめてここでは一人になれるはずだった。
ところが、本棚の間を歩いていると、また同じ声が聞こえてきた。
「あ、間下さん、また来てる」
振り返ると、颯真が本を数冊抱えて立っていた。どうやら図書委員か何かの用事で来ていたらしい。
「……偶然ですね」
「偶然かな。俺、わりとよくここ来るよ」
「知りませんでした」
「今度から覚えといて」
覚える理由がない、と言いたかったが、それを口にする気力もなかった。
颯真は近くの椅子を引いて、私の向かいに腰を下ろした。誰にも断っていないのに、当然のように隣の空間に入り込んでくる。この距離感の詰め方こそが、彼の一番厄介なところだと思う。
「昨日のこと、誰にも言ってないんだ」
颯真がぽつりと言った。確認するような口調だった。
「言う理由がないので」
「そうだよね。前も言ってたね、それ」
「本当のことなので」
颯真は少しの間、私の顔をじっと見ていた。その視線には、単なる興味以上の何かが含まれているように感じられて、居心地が悪かった。
「普通、ああいうの見たら、もっと俺のこと気にすると思ったんだけどな」
「気にする理由がないので」
「それも一緒だ」
颯真は小さく笑った。今度の笑いには、面白がるというより、少し驚いたような響きがあった。
「他の子は、ああいう場面見たら大抵、俺のこと構ってくれって寄ってくるから」
「そういう趣味はないので」
「知ってる。だから面白い」
面白がられる理由がわからない。私はただ、関わりたくないだけなのに。
颯真の視線が、私の手元に置かれていた本に移った。今日はキノコ図鑑ではなく、生物全般を扱った雑誌だったけれど、表紙には大きくキノコの写真が使われていた。
「キノコ好きなの?」
「まあ」
「なんで?」
「毒があるものとないものの見分け方が、地味に面白いので」
颯真は興味深そうに雑誌の表紙を覗き込んだ。それから、ふと思いついたように尋ねてきた。
「俺、何っぽい?」
「は?」
「キノコに例えるなら、俺、何っぽい?」
唐突な質問だった。けれど心の中では、答えなど最初から決まっていた。
(毒キノコ)
もちろん、それを口にするつもりはなかった。
「わかりません」
「ちゃんと考えてよ」
「専門外なので」
「キノコ専門なのに?」
「人間は専門外です」
颯真はそれを聞いて、声を立てて笑った。今度の笑い方は、教室で女子たちに向けるものとは違って、もっと自然な、飾り気のないものに見えた。
「間下さんって、面白いね」
「褒めてないですよね」
「褒めてるよ。今日はちゃんと」
「昨日と同じ台詞です」
「昨日ね。細かいなあ」
颯真はそう言いながら、椅子の背もたれに体を預けた。窓の外はすでに夕方の色を帯びていて、オレンジ色の光が図書室の床に長い影を落としている。埃っぽい空気の中に、彼の笑い声だけが妙に軽く響いていた。
しばらく沈黙が続いた後、颯真が席を立った。
「そろそろ図書委員の仕事しないと。じゃあね」
「はい」
素っ気なく返事をしたつもりだったけれど、颯真は気にする様子もなく、抱えていた本を持って本棚の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。今日一日、ずっと気を張っていた分の疲れが、一気に押し寄せてくる。
けれど、颯真が完全に立ち去る直前、彼はふと足を止めて振り返った。
「ねえ。穂乃果って呼んでもいい?」
不意打ちだった。
「よくない」
即答した。当然の返事だと思った。
「じゃあ、穂乃果ね」
「人の話聞いてた?」
颯真はそれには答えず、ただ楽しそうに笑って、今度こそ本棚の向こうへ姿を消した。
残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
――人の話を、まったく聞いていない。
腹立たしいはずなのに、なぜか怒りよりも先に、別の感情が胸の奥をちりちりと焼いていることに気づいて、私は慌ててその感情に蓋をした。
☆
帰り道、美月に今日あったことを軽くかいつまんで話すと、彼女は目を輝かせた。
「それもう完全に狙われてるじゃん」
「狙われてない。ただの気まぐれだと思う」
「一ノ瀬くんが気まぐれで名前呼びするような人だと思う?」
「思う」
「思わない方がいいと思うけどなあ」
美月の言葉を、私は笑って受け流した。けれど、その夜、布団の中で天井を見つめながら、私は今日一日の出来事を何度も反芻していた。
穂乃果ね、と勝手に決めつけた声。
面白い、と笑った顔。
――関わらない。
そう決めたはずの距離が、初日にしてすでに、ほんの少しだけ縮まってしまった気がしていた。
朝の教室に足を踏み入れた瞬間、私はその声に固まった。
昨日のことなど、なかったことになっているはずだった。少なくとも私の中では、そういうことにするつもりだった。あの図書室での一件は、不運な事故として記憶の奥にしまい込み、二度と掘り返さない。それが一番平和な選択のはずだった。
なのに、颯真は当然のように私の席の近くまで歩いてきて、こちらを見下ろしながら笑っている。
「……おはようございます」
なるべく事務的に返した。感情の起伏を悟られないように、教科書をカバンから取り出す作業に集中する。
「今日も生物図鑑?」
「違います」
「キノコの本?」
「違います」
「じゃあ何」
「数学です」
嘘だった。数学の教科書はまだカバンの中にある。手に持っていたのは古典の問題集だった。けれど、これ以上会話を続ける気力が湧いてこない。
颯真はしばらく私の手元を眺めていたけれど、やがて「ふうん」とだけ言って、興味なさそうに視線を外した。かと思えば、すぐにまた別の話題を振ってくる。
「昨日、あれから眠れた?」
声のトーンが少し落ちて、周りに聞こえないようにという配慮が感じられた。それが余計に、教室の中の空気を張り詰めさせる。
「普通に眠れました」
「そう。ならよかった」
それだけ言うと、颯真は自分の席に戻っていった。
けれど、教室の空気は既に変わっていた。
「ねえ、一ノ瀬くんと知り合いなの?」
休み時間になるなり、クラスメイトの女子二人が私の席に寄ってきた。好奇心を隠しきれない目をしている。
「知り合いというか、同じクラスなので」
「そういうことじゃなくて。朝、ちゃんと『間下さん』って呼ばれてたよね? 一ノ瀬くん、あんまり話したことない女子の名前まで覚えてるタイプじゃないでしょ」
「たまたまだと思います」
苦しい言い訳だとわかっていたけれど、他に言いようがなかった。
美月が横から助け舟のようなものを出してくれる。
「穂乃果、一ノ瀬と何かあったの?」
「何もない」
嘘ではなかった。私だって聞きたい。中学から今まで、彼と個人的に言葉を交わしたことなど一度もなかったはずなのに。
昼休みが終わる頃には、教室内の空気は完全に「間下穂乃果と一ノ瀬颯真に何かある」という前提で固まりつつあった。事実無根の噂ほど厄介なものはない。否定すればするほど、かえって疑いを深める結果になる。これは中学時代の経験からよく知っている。
☆
放課後、私は逃げるように図書室へ向かった。せめてここでは一人になれるはずだった。
ところが、本棚の間を歩いていると、また同じ声が聞こえてきた。
「あ、間下さん、また来てる」
振り返ると、颯真が本を数冊抱えて立っていた。どうやら図書委員か何かの用事で来ていたらしい。
「……偶然ですね」
「偶然かな。俺、わりとよくここ来るよ」
「知りませんでした」
「今度から覚えといて」
覚える理由がない、と言いたかったが、それを口にする気力もなかった。
颯真は近くの椅子を引いて、私の向かいに腰を下ろした。誰にも断っていないのに、当然のように隣の空間に入り込んでくる。この距離感の詰め方こそが、彼の一番厄介なところだと思う。
「昨日のこと、誰にも言ってないんだ」
颯真がぽつりと言った。確認するような口調だった。
「言う理由がないので」
「そうだよね。前も言ってたね、それ」
「本当のことなので」
颯真は少しの間、私の顔をじっと見ていた。その視線には、単なる興味以上の何かが含まれているように感じられて、居心地が悪かった。
「普通、ああいうの見たら、もっと俺のこと気にすると思ったんだけどな」
「気にする理由がないので」
「それも一緒だ」
颯真は小さく笑った。今度の笑いには、面白がるというより、少し驚いたような響きがあった。
「他の子は、ああいう場面見たら大抵、俺のこと構ってくれって寄ってくるから」
「そういう趣味はないので」
「知ってる。だから面白い」
面白がられる理由がわからない。私はただ、関わりたくないだけなのに。
颯真の視線が、私の手元に置かれていた本に移った。今日はキノコ図鑑ではなく、生物全般を扱った雑誌だったけれど、表紙には大きくキノコの写真が使われていた。
「キノコ好きなの?」
「まあ」
「なんで?」
「毒があるものとないものの見分け方が、地味に面白いので」
颯真は興味深そうに雑誌の表紙を覗き込んだ。それから、ふと思いついたように尋ねてきた。
「俺、何っぽい?」
「は?」
「キノコに例えるなら、俺、何っぽい?」
唐突な質問だった。けれど心の中では、答えなど最初から決まっていた。
(毒キノコ)
もちろん、それを口にするつもりはなかった。
「わかりません」
「ちゃんと考えてよ」
「専門外なので」
「キノコ専門なのに?」
「人間は専門外です」
颯真はそれを聞いて、声を立てて笑った。今度の笑い方は、教室で女子たちに向けるものとは違って、もっと自然な、飾り気のないものに見えた。
「間下さんって、面白いね」
「褒めてないですよね」
「褒めてるよ。今日はちゃんと」
「昨日と同じ台詞です」
「昨日ね。細かいなあ」
颯真はそう言いながら、椅子の背もたれに体を預けた。窓の外はすでに夕方の色を帯びていて、オレンジ色の光が図書室の床に長い影を落としている。埃っぽい空気の中に、彼の笑い声だけが妙に軽く響いていた。
しばらく沈黙が続いた後、颯真が席を立った。
「そろそろ図書委員の仕事しないと。じゃあね」
「はい」
素っ気なく返事をしたつもりだったけれど、颯真は気にする様子もなく、抱えていた本を持って本棚の方へ歩いていった。
その背中を見送りながら、私は小さく息を吐いた。今日一日、ずっと気を張っていた分の疲れが、一気に押し寄せてくる。
けれど、颯真が完全に立ち去る直前、彼はふと足を止めて振り返った。
「ねえ。穂乃果って呼んでもいい?」
不意打ちだった。
「よくない」
即答した。当然の返事だと思った。
「じゃあ、穂乃果ね」
「人の話聞いてた?」
颯真はそれには答えず、ただ楽しそうに笑って、今度こそ本棚の向こうへ姿を消した。
残された私は、しばらくその場に立ち尽くしていた。
――人の話を、まったく聞いていない。
腹立たしいはずなのに、なぜか怒りよりも先に、別の感情が胸の奥をちりちりと焼いていることに気づいて、私は慌ててその感情に蓋をした。
☆
帰り道、美月に今日あったことを軽くかいつまんで話すと、彼女は目を輝かせた。
「それもう完全に狙われてるじゃん」
「狙われてない。ただの気まぐれだと思う」
「一ノ瀬くんが気まぐれで名前呼びするような人だと思う?」
「思う」
「思わない方がいいと思うけどなあ」
美月の言葉を、私は笑って受け流した。けれど、その夜、布団の中で天井を見つめながら、私は今日一日の出来事を何度も反芻していた。
穂乃果ね、と勝手に決めつけた声。
面白い、と笑った顔。
――関わらない。
そう決めたはずの距離が、初日にしてすでに、ほんの少しだけ縮まってしまった気がしていた。



