君のとなり〜拓実との未来〜

大学生活が始まって、少しずつ毎日の景色に慣れてきた。

教室までの道も。

よく使う階段も。

お昼を食べる場所も。

最初は何も分からなかったけれど、少しずつ自分の居場所ができていく。

「瑠夏、次の授業一緒だよね?」

「うん」

「じゃあ、一緒に行こう」

「うん!」

友達と並んで歩きながら、他愛のない話をする。

高校とは違う。

ここでは、みんな私のことを知らない。

昔からの私を知っているわけじゃない。

それが少し寂しいような気もするけれど――

新しい私を知ってもらえるのも、なんだか嬉しかった。

「瑠夏って、けっこう負けず嫌いだよね」

「え?」

「この前の小テスト。間違えたところ、ずっと気にしてたじゃん」

「だって悔しいもん」

「やっぱり」

二人で笑う。

そんな何気ない時間が、少しずつ好きになっていた。

授業が終わり、帰る準備をしていると、

「瑠夏、今日このあと予定ある?」

「うん。ちょっとレッスン」

「そっか」

「じゃあ、また明日ね」

「うん。また明日」

それだけ。

私は鞄を持って、大学を出た。

レッスンがあることを、わざわざ詳しく話すこともしなかった。

私自身、まだそれをどう説明したらいいのか分からない。

ただ――

新しいことを教えてもらっている。

そんな感覚だった。

***

スタジオに着くと、先生が用意してくれたヒールを履いた。

鏡の前に立つ。

九センチくらい。

「……高い」

思わず呟く。

「慣れれば大丈夫ですよ」

「はい」

背筋を伸ばす。

新体操のときみたいに、身体の軸を意識する。

これならできる。

そう思って歩き出した。

一歩。

二歩。

三歩。

「瑠夏さん、ちょっと止まってみましょうか」

「はい」

「今、つま先から入っています」

「……つま先」

「かかとから入るイメージで歩いてみてください」

「かかと……」

私はもう一度、鏡を見る。

つま先は駄目。

かかと。

でも、この高さでかかとから?

じゃあ、どこから着けばいいんだろう。

足の裏全部?

それとも――

「……」

考えれば考えるほど、分からなくなってくる。

「瑠夏さん?」

「はい!」

「そんなに難しく考えなくても大丈夫ですよ」

「……はい」

頭では分かってる。

でも、身体のことになると、どうしても考えてしまう。

新体操では、つま先から入る。

ジャンプの着地も。

ステップも。

身体の使い方も。

ずっとそうやってきた。

だから、今まで自然にできていたことを、別のやり方に変えるのが難しい。

もう一度。

今度は、かかとを意識して。

一歩。

二歩。

三歩。

「そう。今の感じ」

「……!」

「今の方がいいですよ」

「本当ですか?」

「はい」

鏡を見る。

さっきより、少しだけ違う。

「もう一回やってもいいですか?」

「もちろん」

私は歩き出した。

一歩。

二歩。

三歩。

「いいですね」

「……今の?」

「今のです」

嬉しい。

胸の奥が、ぱっと明るくなる。

「もう一回!」

「ふふ。どうぞ」

また歩く。

今度は少しだけ歩幅を変えて。

「いいですよ」

「じゃあ、もう一回!」

「はいはい」

先生が笑う。

私はまた歩いた。

できなかったことが、できるようになる。

その瞬間が好き。

だから、もう一度やりたくなる。

気づけば、何度も繰り返していた。

「瑠夏さん、身体の使い方が上手ですね」

「そうですか?」

「新体操をやっていたからでしょうね。覚えるのも早いです」

「……ほんと?」

「はい」

また嬉しくなる。

「じゃあ、もう一回――」

「まだやります?」

「やります!」

自分でも笑ってしまう。

「負けたくないので」

「誰にですか?」

「……昨日の私?」

先生が吹き出した。

私も笑った。

でも、本気だった。

昨日の私より、今日の私の方が少しだけ上手になっていたい。

そんな気持ちで、また鏡の前に立った。

***

レッスンが終わる頃には、足がじんじんしていた。

ヒールを脱いで、ほっと息をつく。

「……痛い」

足首をゆっくり回す。

痛い。

けど――

ちょっと嬉しい。

今日は、ちゃんと一歩進めた気がする。

スニーカーに履き替えて、外へ出る。

夕方の空が、淡いオレンジ色に染まっていた。

駅へ向かって歩いていると、信号が赤になった。

私は横断歩道の前で立ち止まる。

さっき教えてもらったことを思い出した。

かかと。

重心。

歩幅。

背筋。

信号が青になる。

私は一歩、踏み出した。

かかとから。

……こうかな。

もう一歩。

今度は少しだけ歩幅を意識する。

背筋も伸ばして。

でも、履いているのはスニーカー。

さっきとは全然違う。

「……難しい」

小さく呟く。

それでも、もう一歩。

横断歩道を渡りながら、私は真剣に歩き方を考えていた。

向こう側のショーウィンドウに、自分の姿が映る。

私は思わず足を止めた。

姿勢を少し直す。

肩の力を抜く。

そして、もう一度。

一歩。

二歩。

三歩。

――あ。

なんだか、ちょっとだけ。

モデルっぽい。

そう思った瞬間、恥ずかしくなって、私は小さく笑った。

誰も見ていないのに。

何をやってるんだろう、私。

でも。

できなかったことが、少しできるようになった。

それが、嬉しい。

夕暮れの街を、スニーカーで歩いていく。

明日は、今日より少しだけ上手になっていたらいい。

そんなことを思いながら。

私は、新しい一歩を踏み出した。