甲子園より君が気になる

準決勝の前夜

運動会から数日が過ぎた。吾郎にとって、あの日の出来事は、ほんの短い時間だった。けれど、真美と初めてまともに話したことが、頭から離れなかった。
「今度の準決勝の選手じゃないの」
真美の言葉が、何度も頭の中で繰り返される。吾郎は野球部の三番手投手。県大会も、いよいよ準決勝まで来た。そして、その相手が決まった。白鳥真美の通う高校だった。その日の練習が終わり、吾郎は一人でグラウンドに残っていた。誰もいないマウンド。夕暮れの空を見上げる。
「……よりによって、真美ちゃんの学校かよ」
嬉しいような、困ったような、複雑な気持ちだった。
明日は準決勝。勝てば決勝。負ければ終わり。それなのに、吾郎の頭に浮かぶのは野球のことではなかった。応援席に真美がいる。そう考えただけで、胸がざわつく。
「集中しろ、俺……」
ボールを握る。
明日は絶対に打たれたくない。いや、打たれるわけにはいかない。相手チームの四番よりも、エースピッチャーよりも、吾郎が気になっているのは――。スタンドにいるかもしれない、たった一人の女の子だった。
その夜。寮の部屋で、吾郎は生徒手帳を開いた。裏側には、二年前から大切にしてきた萩田帆風の写真がある。吾郎は写真をじっと見つめた。
「帆風……」
そして、少し迷ってから、生徒手帳を閉じた。まだ写真を入れ替えるつもりはない。けれど、今の吾郎の心の中には、もう一人の女の子がいる。白鳥真美。同じ団地の一階に住む、偏差値六十一の高校に通う女の子。自分とは、少し違う世界にいると思っていた。それなのに――。
「明日、会えるかな……」
その瞬間だった。部屋の外から、妹・里香の声が聞こえた。
「お兄ちゃん!」
「なんだよ」
「明日、真美お姉ちゃんの学校と試合なんでしょ?」
吾郎は黙った。
「……そうだけど」
里香はニヤニヤしながら言った。
「負けたら、真美お姉ちゃんに会えなくなるね」
「関係ないだろ!」
思わず声が大きくなる。すると、里香は笑った。
「やっぱり気にしてるんだ」
吾郎は布団に倒れ込んだ。明日は準決勝。野球部にとっては、甲子園へ続く大事な一戦。でも吾郎にとっては、それだけではなかった。マウンドから見える応援席。そこに真美がいる。そう思うだけで、胸が高鳴る。甲子園より――君が気になる。吾郎は目を閉じた。しかし、その夜はなかなか眠れなかった。その夜、吾郎は眠れなかった。明日は県大会の準決勝。勝てば決勝だ。野球部にとっては、甲子園につながる大事な一戦だった。なのに――。吾郎の頭の中に浮かんでくるのは、マウンドでも、相手打線でもなかった。
真美だった。
「……明日、来るよな」
吾郎はベッドの上で、天井を見つめた。準決勝の相手は、真美が通う高校。つまり、応援席には真美がいる。そう考えるだけで、胸が落ち着かなくなる。
「馬鹿か、俺は……」
明日は野球をするんだ。真美を見に行くんじゃない。
そう自分に言い聞かせる。しかし、目を閉じると、あの日の真美の笑顔が浮かんだ。
『うん。ありがとう』
たったそれだけの言葉だった。それなのに、吾郎にとっては忘れられない。そのときだった。枕元に置いていた生徒手帳が目に入った。吾郎は手を伸ばした。開く。裏側には、二年前から大切にしている萩田帆風の写真。しばらく写真を見つめたあと、吾郎は小さく息を吐いた。
「……もし、真美ちゃんの写真だったら」
自分で言って、恥ずかしくなる。生徒手帳を閉じた。
だが、すぐにまた開く。写真を見る。そして――。
「明日、俺が投げるんだよな」
三番手投手。先発するかどうかは、まだ分からない。
それでも、もし自分がマウンドに立ったら。そのとき、応援席に真美がいたら。
「……俺、ちゃんと投げられるかな」
その瞬間。部屋の外から声がした。
「お兄ちゃん!」
「なんだよ、里香」
「明日、真美お姉ちゃんの学校と試合なんでしょ?」
「……そうだけど」
「じゃあ、お姉ちゃん見に行けるね」
吾郎は黙った。
「野球を見に行くんだよ!」
「分かってるよ!」
里香が笑う。
「でも、お兄ちゃんは真美お姉ちゃんばっかり見てそう」
「うるさい!」
部屋が静かになる。吾郎は再び天井を見上げた。そして、ふと思った。もし明日、マウンドに立って――。真美の前で、一球目を投げるとしたら。その一球だけは、絶対に失敗したくない。ところが、その直後。
吾郎のスマートフォンが震えた。画面を見る。知らない番号ではない。そこに表示された名前を見た瞬間――。吾郎の心臓が、大きく跳ねた。
「白鳥真美」
吾郎は、しばらく画面を見つめた。電話ではない。
メッセージだった。そして、その一行目を読んだ瞬間――。吾郎はベッドから飛び起きた。明日の試合を前に、真美から届いたメッセージ。そこには、吾郎が予想もしなかった言葉が書かれていた。「明日、応援に行くね。吾郎くんに、直接伝えたいことがあるの」