図書室の窓から、素直じゃない恋が降ってきた

みんなの理想を演じるために、彼がどれだけの傷を隠してきたか。
それを知っているからこそ、今、一人の女子生徒を前にして必死に頭を下げる彼の姿が、たまらなく痛々しかった。

「……横山くん、なんでそんな女のために頭下げてるの?」

琉楓ちゃんの声には、怒りよりも、裏切られたような深い絶望が混じっていた。

「私たちは、完璧な横山くんが好きなの。いつも優しくて、カッコよくて、誰も傷つけない理想の王子様。それが横山くんでしょ!? なんでこんなパッとしない4組の女の前で、そんなに必死になってるわけ? ……それ、全然横山くんらしくないよ!」

琉楓ちゃんの鋭い言葉が、屋上の冷たい空気を切り裂く。
その言葉は、かつて颯太くんを傷つけ、彼に「完璧な仮面」を貼り付けさせた過去の亡霊そのものだった。
颯太くんの背中が、一瞬、ビクリと大きく震える。
押しつぶされそうな沈黙の中、私は、彼の制服の裾をぎゅっと握りしめていた自分の両手に、ぐっと力を込めた。

(……もう、颯太くんに全部を背負わせたりしない)

私は彼の背中の後ろから、一歩、横へと踏み出した。

「輝……っ!? 下がってろって!」

焦ったような颯太くんの声が響く。けれど私は引かなかった。彼の冷え切った手をもう一度、琉楓ちゃんからも見えるようにしっかりと握りしめる。そして、真っ直ぐに彼女の瞳を見据えた。

「琉楓さん」

自分の声が、思ったよりも震えていないことに驚く。

「あなたが言う通り、私は学校での颯太くんの努力を、全部は知らないかもしれない。……でもね、これだけは分かるよ。完璧な人間なんて、どこにもいないの。誰だって、しんどい時はあるし、上手く笑えない時だってある。それを全部隠して、みんなの『理想』でいなきゃいけないなんて、そんなの、あまりにも残酷だよ」

「あんたに何が分かるのよ!」

琉楓ちゃんが感情を爆発させるように叫んだ。スマホを握る手が、白くなるほど強張っている。

「私たちは横山くんを応援してるの! 横山くんが完璧でいてくれるから、クラスだってまとまってるし、みんな毎日が楽しいの! それをあんたが……あんたが横山くんの調子を狂わせて、変な場所に連れ込んで、中身をめちゃくちゃにしてるんじゃない!」

「狂ってなんかねぇよ!!」

地を這うような、けれど、今度は恐怖に震えていない、明確な意志を持った颯太くんの声が響いた。
颯太くんは私を背後に戻そうとするのをやめ、私の手を握り返したまま、琉楓ちゃんに向かって真っ直ぐに立ち上がった。その瞳には、昼間の王子様の笑みでもなく、怯えでもない、一人の少年としての強い光が宿っていた。

「琉楓。お前らが俺に求めてるものが、ただの『都合のいい王子様』なら、俺はもうその期待には応えられねぇ」

「横山くん……?」

「学校での俺は、確かにお前たちの言う『理想』を演じてた。誰も傷つけたくなかったし、自分が嫌われたくなかったからな。でも、それは俺の弱さだ。本当の俺は、可愛げもねぇし、あまのじゃくで、ぶっきらぼうで、ちっとも完璧なんかじゃない」

颯太くんは、繋いだ私との手を、琉楓ちゃんに見せるように少しだけ掲げた。

「輝は、俺をここに連れ込んだんじゃない。ボロボロになって、仮面が剥がれそうになってた俺を、この場所で、その格好悪い中身のままで受け止めてくれたんだ。俺が俺のままで息ができるのは、世界中で、輝の前だけなんだよ」

「そんなの……そんなの、ただの現実逃避じゃない……!」

琉楓ちゃんの瞳から、ぽろぽろと涙がこぼれ落ちた。

「学校の皆がこれを知ったら、どうなるか分かってるの? 横山くんのイメージはガタガタになるんだよ!? 私がこれをみんなに言いふらしたら……っ」

脅すように突きつけられたスマートフォン。
けれど、颯太くんはもう怯まなかった。彼はフッと、本当に柔らかく、だけど不敵に笑ってみせた。

「言いたきゃ、言えばいいさ。……確かに、学校の連中に嫌われるのは、今でもちょっと怖いけどな。でも」

颯太くんは私の方を向き、悪戯が成功した子どものような顔で微笑んだ。

「世界中の全員に嫌われたって、輝が俺を『大好きだ』って言ってくれたから。……俺には、もうそれだけで十分なんだよ」

「っ……!」

琉楓ちゃんは息を呑み、言葉を失った。
目の前にいる少年は、もう彼女たちの知っている、操り人形の王子様ではなかった。一人の女の子を愛し、自分の足で立とうとしている、泥臭くて、最高にカッコいい一人の男の子だった。
ガタガタと震える手で、琉楓ちゃんはゆっくりとスマホを下げた。

「……バカみたい。二人して、本当にバカみたい」

悔しそうに、けれど、どこか何かが吹っ切れたような声でそう呟くと、彼女はくるりと背を向けた。

「もう知らない。横山くんが完璧じゃないなら、私、もう興味ないから。……相川さんも、そんな面倒くさい男、せいぜい苦労すればいいじゃん!」

捨て台詞のようにそう吐き捨てると、琉楓ちゃんは激しい足音を立てて、歪む「プリズムの窓辺」の境界線を跨ぎ、図書室の側へと走り去っていった。
彼女の姿が完全に消え、空間の歪みが静かに収まっていく。
引きずり出されそうになった現実の世界は、再び閉ざされ、屋上にはまた、沈みかけた夕日と星空の静寂が戻ってきた。

「……行っちゃったね」

私がぽつりと言うと、隣で大きな緊張の糸が切れたような音がした。

「……あー、クソ。心臓止まるかと思った……」

さっきまでの凛々しさはどこへやら、颯太くんはその場にヘナヘナと座り込んでしまった。顔を真っ赤にして、空いた方の手で乱暴に前髪をかきむしっている。

「颯太くん、大丈夫……?」

「大丈夫なわけねぇだろ……! あんなこと、人生で初めて言ったわ。お前の前だからって、カッコつけすぎた……。あー、思い出すだけで死にそう……」

ぶつぶつと文句を言う彼は、いつもの、私だけのあまのじゃくな颯太くんだった。
でも、その横顔には、もうどこにも寂しげな影はなかった。

「ふふ、カッコよかったよ。凄く」

「うるせぇ! からかうな!」

怒ったように顔を背けるけれど、繋いだ手は、絶対に離さないというように、ぎゅっと強く握られたままだ。
明日からの学校がどうなるかは分からない。琉楓ちゃんが言いふらすかもしれないし、何かが変わってしまうかもしれない。
けれど、私の制服の袖を掴んで泣きそうだった少年は、もういない。
夕焼けと星空が完全に溶け合い、夜が始まる。
私たちは立ち上がり、手をつないだまま、一歩ずつ、現実の明日へと続く扉に向かって歩き出した。