幕末恋愛物語〜冬〜
「驚きました。まさか、桂君が江戸から女子を連れてくるだなんて」
「正直に申し上げて、私自身も驚いております」
萩城下から少し離れた、松本村という所に松陰先生の実家はあった。獄から出されたと言えど、蟄居の身。この家から出る事は許されていないのだとか。
「まあ、生きていればそういう事もありますよ。私は、桂君の人間らしい一面が見られて嬉しいです」
相変わらずこの先生の喋りは緩やかで、暖かい。昔からそうだ。私と歳はそういくつも変わらないのに、この先生は何処か人間離れした余裕を持っていた。
「私を人間らしく無いとお思いでしたか…」
「言葉の綾です。君は昔から、そういう傷付きやすい所がある」
「悪いですか」
「いいえ。それが貴方を、貴方たらしめている」
「相変わらず先生の言葉は、難しい」
「毎度、私の悪い癖です」
ふふ、と笑った先生の顔を見るのをやめて、隣の部屋で慌ただしく動く梅に目線を向ける。
「松下村塾ですか」
「ええ。元は叔父の玉木文之進が開いた私塾でしたが、訳あって私が引き継ぐことになりました」
「貴方は素晴らしい先生だが、藩はあまり良い顔をしないでしょうな」
「まあ、そうでしょうね」
その手の話題には興味が無いのか、先生は部屋の隅に積み上げてある本の埃を手で払った。
「何を教えているのですか。兵学、儒学、論語……先生なら、やはり兵学でしょうか?」
この男ならば、何を教えてもそこらの教師には引けを取るまい。何せ、齢十一歳で藩主に御前講義をした男だ。本来、こんな小さな村の隅に蟄居していて良いような人間じゃない。
「特に決めていません。私の塾は、学びたい事を学ぶ場ですから」
「よく、分かりませんが」
「もうすぐ、私の言った事の意味が分かるはずです」
先生がそう言った直後だ。襖が勢いよく開け放たれたのだ。見れば数人の若い男達が、その獣のような瞳で松陰先生を見詰めている。しかし先生は決して驚くこと無く、静かに口を開いた。
「答えは出ましたか」
それは堰が切られた瞬間だった。
「先生、わしはやはり軍事力をまず高めるべきじゃと思う。夷国を排除するには、まずは国を守れるだけの兵力を身につけるべきじゃ! 夷国が攻めて来てから学んだ所で遅い!!」
「異国を追い払うにしても、まず異国を知らにゃ話にならんじゃろう。その兵に何を持たせる。刀か? 大砲ひとつ満足に知らん者が、何をもって夷国と戦う」
「二人とも先を急ぎすぎじゃ。幕府も諸藩も考えが違うまま兵だけ揃えて、誰がそれを動かす。まず国中の考えをまとめにゃならんじゃろう」
怒涛の勢いで繰り出される攻防に、少しの呆れと畏怖が芽生える。先生はここで、この狭い部屋で、一体何を教えているというのだ。
「お、桂さんか?」
門下生の一人が私の顔を見るなり口を開いた。その秀麗な顔立ち、確かに覚えがある。
「わしです、高杉晋作にございます! 藩校で一度、お話をした事が」
「ああ、君か! 何故、君がここに居る」
全て思い出した。確かに数年前、まだ元服も済まさぬ子供時代の彼と話した事があった。いやしかし、彼は確か大組士の息子だ。そんな者が、罪人の塾に通うなど許されるものだろうか。
すると、高杉は私の考えを見透かしたかのように不敵に笑って、昔とちっとも変わらぬはっきりとした声で答えた。
「藩校には、飽きてしまいました!」
「はあ?」
「毎日毎日、太古の昔の兵法を聞かされては暗唱する日々。その退屈さに疲れてしもうたのです」
数年前に会った時も随分と口の達者な少年だったが、どうやらそれだけは変わらなかったらしい。見れば、高杉の周りにいた数人の塾生がクスクスと笑っている。
「親父殿は、承知されておるのか」
「ここには近付くなと言われてしまいましたわ」
ガハハと豪胆に笑う高杉の姿に呆れながら、松陰先生の顔を見る。先生は少しだけ目を伏せて、口の端だけを少し上げて静かに笑った。先生とて、大組士との諍いは避けたいはず。なのにどうして、彼を迎え入れるのだろう。
「良いのですか?」
何がとは言わず、先生に問う。
彼は静かに頷き、今度は本当にクスクスと笑った。
・
「あの松陰先生という御方は、偉い方なのですか?」
塾生達に誘われるままに席を外した先生を待つ間、先生の妹君の手伝いを終えた梅が来て、隣に腰を下ろした。
「偉いかと聞かれると、そうでもない」
「といいますと?」
「あの御方を測るには、身分では足りぬ。しかし彼を語るには、この世界の言葉はどれも稚拙すぎる」
そこまで言って梅の顔を見ると、彼女は少しだけ眉間に皺を寄せてゆっくり首を傾げた。
「この言葉はあまり好きではないが、敢えて言おう」
「吉田松陰という男は、紛うことなき天才なのだ」
らしくもなく言葉を滑らせれば、梅は少し納得したように頷いた。しかしまあ、こうして梅が萩にいるというのも不思議な感覚だ。不思議だが、違和感は感じない。それがまた、不思議なのだが……。
「桂さんも、松陰先生に習われたのですか?」
「ああ。藩校で兵学を習った」
「藩校で……? 先生と桂さんとはあまり歳の差が無いように思いましたが……」
「ああ、あの人は九つの時から藩校に出仕しているからな」
「こ、九つ!?」
梅の新鮮な反応に、改めて先生の異様さが際立つようだ。本当に、海外への密入国など考えなければ。そんなことをしていなければ、先生はきっと藩を背負って立つ男になっていたに違いない。
「おや、お邪魔ですか?」
「い、いえ! とんでもございません」
戸口の方から先生の声がして、梅が慌てて頭を下げた。
「ちょうど今、先生の話をしていたところです」
「私の?」
「先生は偉い方なのかと梅が聞きまして」
「か、桂さん……!」
何故か慌てる梅を尻目に見ながら、先生の方へ身体を向ける。先生は相変わらず微笑みを顔に浮かべたままで、私と梅を交互に見た。
「で、桂君は何とお答えに??」
「すみません、私が変な事を聞いたせいで……」
先生の問いに私が答えるより早く、梅がやはり慌てた様子で頭を下げた。得体の知れない男の素性を知りたがるのは当然だ。別に彼女が謝る必要は無いというのに。
「お梅さん、気になさらないで下さい。貴方が知りたいと思うのは当然の事です」
「ですが、気分を害されたなら……」
「控えよ、梅。先生はその程度で気分を害されるような御方ではない」
「……っ……申し訳ございませんでした」
お梅の纏う空気が揺れるのを確かに感じながらも、まずは先生の問いに答えようと口を開く。しかし、その試みは先生本人によって遮られる事になる。
「桂君。良ければ塾生の方へ行って、江戸の情勢を説いていただけませんか? 彼らにとって、貴方の見聞はきっと役に立つ事でしょうし」
「あ、ええ。承知仕りました」
「その間、お梅さんは残って私の書物整理に付き合ってください」
「ぁ……承知致しました」
・
「幕府なんぞ潰してしまえばええんじゃないか?」
「元も子も無いことを……そんな事だから、お前との議論は疲れるのだ!」
襖の向こうから、先程の青年達が論ずる声が聞こえてくる。いや、先程顔を見せた者達より少し多い。十、いや十五人は居そうだ。
「失礼する」
「お、桂さん!」
「松陰先生に、江戸での見聞を諸君に伝えるよう仰せつかって参った」
それから、江戸で見た黒船の事。夷人の事。江戸の情勢。天領独特の江戸幕府への忠誠心等、多くの事を語った。
「結局、幕府は攘夷がしたいのですか?」
「揉めておる。時期将軍の問題もある事だ。一橋派と南紀派、どちらが時期将軍になるかで日本の風向きも変わろう」
「桂さんはどちらが良いと思われますか?」
「良いか悪いかはさておき。恐らくは南紀派が勝つだろうな」
おお、と塾生達が感嘆の声を漏らす。
「しかし、天領の話を聞いたのはこれが初めてじゃ。江戸の民の徳川家に対する想い……興味深いな」
そう呟いたのは確か……吉田稔麿。その髷の結い方から察するに、足軽の倅と言ったところか。
「稔麿、今はそんなことどうでもいいだろう! お前はもう少し視野を広げよ。いつまでも百姓気分でおっては夷国に食われてしまうぞ!」
凛々しい声で論ずるのは久坂玄瑞だ。
─────成程、中々個性がある。
「……それもそうだ、すまない」
「わしは稔麿の視点、中々面白いと思うがの。わしらのような人間には足りておらん物の見方じゃ」
「高杉さんは稔麿贔屓じゃ」
「なんじゃ、狂介。羨ましいのか、お前の事も可愛がってやろうか?」
「要らんわ!」
そこからはもう、先程まで天下国家について論じていたとは思えぬ餓鬼の喧嘩が始まった。高杉君と山形狂介が取っ組み合い、周りがそれを冷やかす。年相応と言っては何だが、少々拍子抜けしてしまう有様だ。
「あのぅ、桂さん」
誰かに呼ばれた気がして辺りを見渡すが、声の主は見つからない。
「誰か呼んだか」
「あ、私です! 戸口の方に居ります!」
見れば、戸口に立って塾生の一人がこちらを見ている。着ているものは継ぎ接ぎで、顔には泥が付いている。そうか、ここでは身分を問わず教えているのか。
「君は誰だ」
「私、伊藤利助と申します。ひとつ、知りたい事がございまして……」
「何かね」
「江戸は大層美しい女子が沢山いると聞きました。桂さんが連れて来られた梅という女子も中々の美人でしたが、江戸にはあれ以上が大勢居るのですか?」
「こらぁ!利助、何を聞いとるんじゃ!」
そしてまた、いざこざが始まった。なんだか興を削がれて、意識を自分の中に持ってくる。確かに、萩の女に比べれば、江戸の女は小綺麗で美しい。試衛館の世話焼き女も、美人ではあった。
だが、どれも梅の美しさには敵わない。顔立ちが、とか言う話ではない。所作や言葉遣い、香りや雰囲気に至るまで、梅は洗練されている。
今頃、梅は先生の手伝いか。二人で何を話すのだろう。私と梅が先生の事を話したように、彼らも私の話をするのだろうか。梅は私を何と説明するだろう。この言葉に出来ない関係を、先生は何と思うだろう。
「お梅さんとお前は見合わんよ」
思考を掻き分けて聞こえた声に、ようやく視界に意識を戻す。何人かの塾生が笑いながら、先程の伊藤君を見ている。
「見合わんのは分かっとる! でも一目見て、わしは恋に落ちたんじゃ…… なあ、桂さん! アンタとお梅さんは恋仲じゃないんでしょう? わしにあの女子を譲ってつかあさい!」
私にそれを止める権利は無い。
止める権利は───無いのだ。
「好きにしろ」
口から出た言葉はまるで自分のモノとは思えない程、低く掠れていた。
「驚きました。まさか、桂君が江戸から女子を連れてくるだなんて」
「正直に申し上げて、私自身も驚いております」
萩城下から少し離れた、松本村という所に松陰先生の実家はあった。獄から出されたと言えど、蟄居の身。この家から出る事は許されていないのだとか。
「まあ、生きていればそういう事もありますよ。私は、桂君の人間らしい一面が見られて嬉しいです」
相変わらずこの先生の喋りは緩やかで、暖かい。昔からそうだ。私と歳はそういくつも変わらないのに、この先生は何処か人間離れした余裕を持っていた。
「私を人間らしく無いとお思いでしたか…」
「言葉の綾です。君は昔から、そういう傷付きやすい所がある」
「悪いですか」
「いいえ。それが貴方を、貴方たらしめている」
「相変わらず先生の言葉は、難しい」
「毎度、私の悪い癖です」
ふふ、と笑った先生の顔を見るのをやめて、隣の部屋で慌ただしく動く梅に目線を向ける。
「松下村塾ですか」
「ええ。元は叔父の玉木文之進が開いた私塾でしたが、訳あって私が引き継ぐことになりました」
「貴方は素晴らしい先生だが、藩はあまり良い顔をしないでしょうな」
「まあ、そうでしょうね」
その手の話題には興味が無いのか、先生は部屋の隅に積み上げてある本の埃を手で払った。
「何を教えているのですか。兵学、儒学、論語……先生なら、やはり兵学でしょうか?」
この男ならば、何を教えてもそこらの教師には引けを取るまい。何せ、齢十一歳で藩主に御前講義をした男だ。本来、こんな小さな村の隅に蟄居していて良いような人間じゃない。
「特に決めていません。私の塾は、学びたい事を学ぶ場ですから」
「よく、分かりませんが」
「もうすぐ、私の言った事の意味が分かるはずです」
先生がそう言った直後だ。襖が勢いよく開け放たれたのだ。見れば数人の若い男達が、その獣のような瞳で松陰先生を見詰めている。しかし先生は決して驚くこと無く、静かに口を開いた。
「答えは出ましたか」
それは堰が切られた瞬間だった。
「先生、わしはやはり軍事力をまず高めるべきじゃと思う。夷国を排除するには、まずは国を守れるだけの兵力を身につけるべきじゃ! 夷国が攻めて来てから学んだ所で遅い!!」
「異国を追い払うにしても、まず異国を知らにゃ話にならんじゃろう。その兵に何を持たせる。刀か? 大砲ひとつ満足に知らん者が、何をもって夷国と戦う」
「二人とも先を急ぎすぎじゃ。幕府も諸藩も考えが違うまま兵だけ揃えて、誰がそれを動かす。まず国中の考えをまとめにゃならんじゃろう」
怒涛の勢いで繰り出される攻防に、少しの呆れと畏怖が芽生える。先生はここで、この狭い部屋で、一体何を教えているというのだ。
「お、桂さんか?」
門下生の一人が私の顔を見るなり口を開いた。その秀麗な顔立ち、確かに覚えがある。
「わしです、高杉晋作にございます! 藩校で一度、お話をした事が」
「ああ、君か! 何故、君がここに居る」
全て思い出した。確かに数年前、まだ元服も済まさぬ子供時代の彼と話した事があった。いやしかし、彼は確か大組士の息子だ。そんな者が、罪人の塾に通うなど許されるものだろうか。
すると、高杉は私の考えを見透かしたかのように不敵に笑って、昔とちっとも変わらぬはっきりとした声で答えた。
「藩校には、飽きてしまいました!」
「はあ?」
「毎日毎日、太古の昔の兵法を聞かされては暗唱する日々。その退屈さに疲れてしもうたのです」
数年前に会った時も随分と口の達者な少年だったが、どうやらそれだけは変わらなかったらしい。見れば、高杉の周りにいた数人の塾生がクスクスと笑っている。
「親父殿は、承知されておるのか」
「ここには近付くなと言われてしまいましたわ」
ガハハと豪胆に笑う高杉の姿に呆れながら、松陰先生の顔を見る。先生は少しだけ目を伏せて、口の端だけを少し上げて静かに笑った。先生とて、大組士との諍いは避けたいはず。なのにどうして、彼を迎え入れるのだろう。
「良いのですか?」
何がとは言わず、先生に問う。
彼は静かに頷き、今度は本当にクスクスと笑った。
・
「あの松陰先生という御方は、偉い方なのですか?」
塾生達に誘われるままに席を外した先生を待つ間、先生の妹君の手伝いを終えた梅が来て、隣に腰を下ろした。
「偉いかと聞かれると、そうでもない」
「といいますと?」
「あの御方を測るには、身分では足りぬ。しかし彼を語るには、この世界の言葉はどれも稚拙すぎる」
そこまで言って梅の顔を見ると、彼女は少しだけ眉間に皺を寄せてゆっくり首を傾げた。
「この言葉はあまり好きではないが、敢えて言おう」
「吉田松陰という男は、紛うことなき天才なのだ」
らしくもなく言葉を滑らせれば、梅は少し納得したように頷いた。しかしまあ、こうして梅が萩にいるというのも不思議な感覚だ。不思議だが、違和感は感じない。それがまた、不思議なのだが……。
「桂さんも、松陰先生に習われたのですか?」
「ああ。藩校で兵学を習った」
「藩校で……? 先生と桂さんとはあまり歳の差が無いように思いましたが……」
「ああ、あの人は九つの時から藩校に出仕しているからな」
「こ、九つ!?」
梅の新鮮な反応に、改めて先生の異様さが際立つようだ。本当に、海外への密入国など考えなければ。そんなことをしていなければ、先生はきっと藩を背負って立つ男になっていたに違いない。
「おや、お邪魔ですか?」
「い、いえ! とんでもございません」
戸口の方から先生の声がして、梅が慌てて頭を下げた。
「ちょうど今、先生の話をしていたところです」
「私の?」
「先生は偉い方なのかと梅が聞きまして」
「か、桂さん……!」
何故か慌てる梅を尻目に見ながら、先生の方へ身体を向ける。先生は相変わらず微笑みを顔に浮かべたままで、私と梅を交互に見た。
「で、桂君は何とお答えに??」
「すみません、私が変な事を聞いたせいで……」
先生の問いに私が答えるより早く、梅がやはり慌てた様子で頭を下げた。得体の知れない男の素性を知りたがるのは当然だ。別に彼女が謝る必要は無いというのに。
「お梅さん、気になさらないで下さい。貴方が知りたいと思うのは当然の事です」
「ですが、気分を害されたなら……」
「控えよ、梅。先生はその程度で気分を害されるような御方ではない」
「……っ……申し訳ございませんでした」
お梅の纏う空気が揺れるのを確かに感じながらも、まずは先生の問いに答えようと口を開く。しかし、その試みは先生本人によって遮られる事になる。
「桂君。良ければ塾生の方へ行って、江戸の情勢を説いていただけませんか? 彼らにとって、貴方の見聞はきっと役に立つ事でしょうし」
「あ、ええ。承知仕りました」
「その間、お梅さんは残って私の書物整理に付き合ってください」
「ぁ……承知致しました」
・
「幕府なんぞ潰してしまえばええんじゃないか?」
「元も子も無いことを……そんな事だから、お前との議論は疲れるのだ!」
襖の向こうから、先程の青年達が論ずる声が聞こえてくる。いや、先程顔を見せた者達より少し多い。十、いや十五人は居そうだ。
「失礼する」
「お、桂さん!」
「松陰先生に、江戸での見聞を諸君に伝えるよう仰せつかって参った」
それから、江戸で見た黒船の事。夷人の事。江戸の情勢。天領独特の江戸幕府への忠誠心等、多くの事を語った。
「結局、幕府は攘夷がしたいのですか?」
「揉めておる。時期将軍の問題もある事だ。一橋派と南紀派、どちらが時期将軍になるかで日本の風向きも変わろう」
「桂さんはどちらが良いと思われますか?」
「良いか悪いかはさておき。恐らくは南紀派が勝つだろうな」
おお、と塾生達が感嘆の声を漏らす。
「しかし、天領の話を聞いたのはこれが初めてじゃ。江戸の民の徳川家に対する想い……興味深いな」
そう呟いたのは確か……吉田稔麿。その髷の結い方から察するに、足軽の倅と言ったところか。
「稔麿、今はそんなことどうでもいいだろう! お前はもう少し視野を広げよ。いつまでも百姓気分でおっては夷国に食われてしまうぞ!」
凛々しい声で論ずるのは久坂玄瑞だ。
─────成程、中々個性がある。
「……それもそうだ、すまない」
「わしは稔麿の視点、中々面白いと思うがの。わしらのような人間には足りておらん物の見方じゃ」
「高杉さんは稔麿贔屓じゃ」
「なんじゃ、狂介。羨ましいのか、お前の事も可愛がってやろうか?」
「要らんわ!」
そこからはもう、先程まで天下国家について論じていたとは思えぬ餓鬼の喧嘩が始まった。高杉君と山形狂介が取っ組み合い、周りがそれを冷やかす。年相応と言っては何だが、少々拍子抜けしてしまう有様だ。
「あのぅ、桂さん」
誰かに呼ばれた気がして辺りを見渡すが、声の主は見つからない。
「誰か呼んだか」
「あ、私です! 戸口の方に居ります!」
見れば、戸口に立って塾生の一人がこちらを見ている。着ているものは継ぎ接ぎで、顔には泥が付いている。そうか、ここでは身分を問わず教えているのか。
「君は誰だ」
「私、伊藤利助と申します。ひとつ、知りたい事がございまして……」
「何かね」
「江戸は大層美しい女子が沢山いると聞きました。桂さんが連れて来られた梅という女子も中々の美人でしたが、江戸にはあれ以上が大勢居るのですか?」
「こらぁ!利助、何を聞いとるんじゃ!」
そしてまた、いざこざが始まった。なんだか興を削がれて、意識を自分の中に持ってくる。確かに、萩の女に比べれば、江戸の女は小綺麗で美しい。試衛館の世話焼き女も、美人ではあった。
だが、どれも梅の美しさには敵わない。顔立ちが、とか言う話ではない。所作や言葉遣い、香りや雰囲気に至るまで、梅は洗練されている。
今頃、梅は先生の手伝いか。二人で何を話すのだろう。私と梅が先生の事を話したように、彼らも私の話をするのだろうか。梅は私を何と説明するだろう。この言葉に出来ない関係を、先生は何と思うだろう。
「お梅さんとお前は見合わんよ」
思考を掻き分けて聞こえた声に、ようやく視界に意識を戻す。何人かの塾生が笑いながら、先程の伊藤君を見ている。
「見合わんのは分かっとる! でも一目見て、わしは恋に落ちたんじゃ…… なあ、桂さん! アンタとお梅さんは恋仲じゃないんでしょう? わしにあの女子を譲ってつかあさい!」
私にそれを止める権利は無い。
止める権利は───無いのだ。
「好きにしろ」
口から出た言葉はまるで自分のモノとは思えない程、低く掠れていた。
