幕末恋愛物語

幕末恋愛物語 ~秋~

「秋刀魚の塩焼きです」

あれからも、梅は変わらずうちへやって来ては世話を焼く。もう彼女は、“あの時のお礼だ”とは言わなくなっていたし、私も敢えて何故来るのだと聞く気にはなれなかった。聞いてしまえばどうなるかぐらい、予想がつく。

「いただきます」

手を合わせて、箸に手を付ける。骨に沿って箸を横一文字に入れ、背中側の身をほぐして食べる。しっかりと火が通っていて、塩加減も丁度いい。梅は米を炊くのも上手だ。私が好きな少し柔らかめの炊き具合で、おかずとよく合う。

「桂さんは、お魚を食べるのもお上手ですよねぇ」
「そうだろうか?」
「ええ。うちの道場の方達は、頭から秋刀魚にかぶりついてしまうんですもの」
「それと比べられては困る」

少し背を伸ばして言えば、梅は口元に手を当ててクスクスと笑う。いつの日か、梅は私の笑った顔が好きだと言ったが、私こそ言いたい。私は梅の、花が咲くような笑顔が好きだ。

「試衛館の連中がどうしてあんなに声が大きいのか、分かった気がするよ」
「まあ、桂さんったら」

梅は武家の娘でもないのに、私の話をよく理解してくれる。それも、梅と話していて心地いい理由の一つだ。一度だけ、上の付き合いで遊郭に出向いた事があるが、頭の悪い娘と話すのはどうにも骨が折れるものだ。梅にはそれが無い。

「君は、どうして試衛館の連中と仲が良いんだ?」

秋刀魚を一切れ口に放り込み、米を食らう。彼女も同じようにそうすると、少し口元を抑えながら話し始めた。

「桂さんと初めて出会った時、私が男に求婚をせがまれていたのを覚えていますか?」

うむと頷く。

「あの男がああして私を脅すのは、あれが初めてでは無いのです。以前もそうやって、私を武力で脅して連れ去ろうとした事がありました」
「ほう」
「そうして困っているところを、近藤さんに救っていただいたんです。当時はまだ、宮川勝太と名乗っておられましたが」
「近藤君は、武士の出では無いのか」
「勝っちゃんは、多摩の百姓の出です。武士顔負けの面構えでしょう?」

“勝っちゃん”

彼女は近藤君をそう呼んだ。余程親しい間柄なのだろう。対して私は、“桂さん”。その差があまりに一目瞭然で、胸の中にぼんやりとした煙が立ち込めていく。別に、桂っちゃんと呼ばれたい訳では無いが、なんだろう。

「確かにそうだ」

私が同調すると、彼女は心底嬉しそうに笑った。


・


さて、先刻国許から手紙が来た。差出人は吉田松陰。私が師と仰ぐ者であり、私の友でもある御人だ。彼は黒船来航の一件で国許の野山獄へ入っていたが、最近になって獄を出され実父の元で蟄居を命じられているのだとか。

手紙には、久々に会って話がしたい旨が書かれていた。私はそれに応じ、長州へ一時帰るつもりだ。江戸を発って国に着くまで、多く見積ってひと月ほど。それから一ヶ月あまり向こうで過ごして、またこちらに帰還する。

長い旅になる。出立までの間に、済ませられる事は済ましておかねばなるまい。

「今日は、きのこを炊き込みご飯にしてみました」
「そうか」

梅の飯の良い所は、ひとえに柔い米を炊くのではなく、その食事にあった炊き加減を調節出来るところのように思う。この炊き込みご飯の米なんかは普段より硬い。しかし、それが却って水分の多い炊き込みご飯にはよく合っているのだ。

「いかがですか?」
「うん、美味い」
「良かったぁ」

彼女が胸を撫で下ろすのをぼんやり見ながら、頭の中では長州行きをどう彼女に説明するかばかりを考えていた。

単純に考えて、普通に言えばいいのだ。私と彼女は恋仲ですらなく、ただの飯炊き女と一介の武士に過ぎないのだから。しかし、私はそれを認めない。あまつさえこの頭は、彼女をどうすれば萩へ連れて行けるかを考えあぐねている。馬鹿な話だ。

「ふふ」

堰を切るように笑い出した梅にギョッとして、彼女を見る。私が何も言わずにいると、梅はまたクスクスと笑って私を見た。

「桂さん、今度は何を考えていらっしゃるんですか?」
「……分かるのか」
「ええ。ここに皺が」

梅が手を伸ばし、私の眉間にトンと触れる。その一瞬の触れ合いが意外にも大きなきっかけとなった。

私は離れていく梅の手首を掴み、彼女を引き寄せた。反対の手は膳を崩さぬよう自然とそれを退けて、倒れてくる彼女を胸で受け止める。

「か、桂さん…?」
「梅。私は一時、萩に帰ることになった」
「え?…そ、それもそうですが、この姿勢は…」
「少しの間だ、許せ」

鼻腔には彼女の香りが否応なく流れ着いて、私の重い理性の関門を開こうと蠢いている。少し強ばっていた彼女の身体が少し緩んで、その彼女がゆっくりと体重を預けてくれるのが分かった。

「三月ほどで帰るつもりだ」
「三月……随分と長いですね」
「共に参らぬか」
「え?」

左肩を私の胸に預けていた彼女が、くるりと身体ごとこちらを向き、私の両肩に手を置いた。距離が近い。生来、人を自分の内に入れぬ人間だ。自分で蒔いた種ながら、こうも近いと狼狽えてしまう。

「……よろしいのですか?」
「お前さえ良ければ」

私がそこまで言うと、彼女は私の両肩に置いた手を緩め、そのまま倒れるように私の肩口に顔を埋めた。所謂、抱擁の形である。

「役所に提出せねばならん書類も多いだろう。その点については、私が手配しよう」
「いえ、桂さんの手を煩わせる訳にも参りません。自分で出来ることは、自分で致します」

耳のすぐそばで聞こえる梅の声に、必死で理性を保とうと現実的な問題に集中する。彼女を連れていくとあれば、藩の方にも一声かけておくべきだろう。

「萩は遠い。道のりは難も多かろう、それでも行くのか?」
「はい、参ります。桂さんの事を、もっと知りたいのです」
「お前の両親は許すか」
「きっと」

少々心もとない返事だ。本来であれば、煮え切らない返事をする者は連れて行かぬが吉だというのが私の考えだ。しかし、私は頭のどこかで分かっていた。彼女がこう言うのであれば、心配には及ばぬのだろう。

「では、ひと月後。ここを発つ」

お互いの身体を離し、顔を見つめ合う。
私たちは、どちらからともなく口付けを交わした。