幕末恋愛物語 ~春~
十九の頃、萩から出て江戸へ遊学した。男たるもの強くなければならぬという父上の言い付けを果たす為である。幸いな事に縁はあった。江戸の練兵館という道場の剣客が古今東西を巡る武者修行の一環で萩に来ていたのだ。藩校の明倫館で彼の試合を見たが、その強さは萩の剣士ではとても敵わん程であった。その時に直感で察したのだ。私は彼の元で剣術を学ばなくてはならないと。
江戸へ来る道は穏やかではなかったが、必死の思いで練兵館道場の門をくぐるに漕ぎ着けた。そしてこの練兵館道場で、私の中にあった剣の才が目覚めることになる。入塾から一年で塾頭になり、あの頃は絶対に敵わぬと思っていた例の斎藤慎太郎とも、かなりやり合えるようになったのである。
「いやぁ〜、強い強い」
「いえ、まだ斎藤殿には敵いません」
試合で流れた汗を拭き、面を外して一息つく。道場にはまだ、竹刀と竹刀がぶつかる音がこだまし続けていた。
私はこの音が好きだ。
「桂さん、またいつもの連中が人を寄越せと嘆いとる。お願いできるかね?」
「ああ、はい。いつものですね?」
「うむ、いつものじゃ」
この道場でいつもの連中と言われているのは、練兵館と同じく剣術の道場である試衛館の連中の事である。なんでも最近代替わりしたらしく、師範代の近藤勇先生は私と一つ違いの年下だ。それもあってか、試衛館は門人も両手で足るほどしか居らず、巷で流行りの道場破りなんかが来た日にゃ、こうして練兵館から塾頭を借りに走ってくるという次第である。
人に関心が強い方では無いが、こうも歳が近いといろいろと気に掛けてしまうものだ。彼が待つであろう部屋の前に立ち、呼吸を整える。
「勝っちゃんの道場にもこんだけ門人がいりゃあな。そしたらあの仏頂面の桂の手なんて借りずに済むのによ」
「やめろ、トシ。聞こえるぞ」
部屋の中から聞こえてきた声に襖を開く手が止まる。この声は、あの薬屋だろうか。どうにも失礼な物言いだ。
「私が嫌なら他の者に変わりましょうか」
襖を開いて開口一番にそう言えば、近藤君と薬屋がビクりと肩を震わせた。
「い、いえ、とんでもございません!桂先生に来ていただけるなんて、なんて心強いんでしょう!……トシ、謝れ!」
「はあ?俺は初めから他の道場の力なんて借りる必要はないって言ってんだろうが!」
「そうですか。それなら、私は要りませんね。失礼します」
失礼な奴だ。今まではただの金魚の糞程度にしか見えていなかった薬屋が、糞以下に転落した瞬間である。こうなるといけない。同じ空気を吸うこと自体、不愉快だ。
「お待ちください、桂先生!トシの非礼を代わりに詫びます。大変申し訳ございませんでした! どうにかうちの道場までご足労願えませんでしょうか?」
「おい! 勝っちゃんが謝る必要はねえよ!」
畳に額を擦り付けて謝るその姿勢から、先ほどまで確かに存在していた同情心というものが再び花開いた。この若先生に免じて、今日だけは顔を出してやろう。そう決めたのである。
・
「一本!この対決は、試衛館道場の勝利!」
審判の声とともに、試衛館の連中が肩を組み合って叫び出す。江戸に来てから、もう幾度となく目にした光景である。よその道場の手を借りておいて、よくもまあそんなに喜べるものだ。最も、先の薬屋────土方だけは、珍しく近藤の糞になるのを止めて、気に入らないとでもいうように胡座を描いていた。
試衛館の門人たちの姿を眺めながらすうと息を吐くと、目の前に水の入った椀が差し出された。ああ、またいつもの世話焼き女中が気を利かせてくれたのだろうと顔を上げると、初めて見る女子の顔がすぐそばにあった。
「お水です。たくさん冷えているのが好きって、おミツさんから聞きました」
「あ、ああ。どうも」
女子からお椀を受け取って、それを喉に流し込む。成程、確かによく冷えている。別に冷えた水が好きだなんて話した覚えは無いが、(元より、私は話をしないが)こういう好意は悪い気がしなかった。
「桂さん、お強いんですね。私、剣術の事はあまり詳しく無いけれど、桂さんが強いんだってことはすぐに分かりました」
「は、はあ」
女子は何故か私の隣に腰掛けて、ペラペラと喋り始めた。先ほど土方に言われた通り、幼き頃より表情に乏しい私にこのように喋りかけてくる女子は珍しくて、つい狼狽えてしまう。
「とにかく、おかげで助かりました」
「はい?」
「今日の道場破り、勝ったら私を嫁に寄越せと言ってきていたんです。あんな意地の悪い人のお嫁になるなんて嫌だったから、桂さんが勝ってくださって本当に嬉しかったんです」
成程、そういう事情があるとは知らなかった。近藤がわざわざ頭を畳に擦り付けて嘆願した訳も見えてくる。きっと、私でなくてはならなかったのだ。確実に勝たねばならない試合だったのだろう。
「お梅、こっちに来いよ。この間話した新作の薬を見せてやる」
声がした方を見れば、先ほどまで膨れっ面で座り込んでいた土方が横の女子を呼びかけている。女子を見る時は優しく、時折合う視線の鋭さには糞に見合わぬ芯の強い性分が透けて見えた。
「トシさん、少し待ってて!桂さん、今日は本当にありがとうございました。また、近い内にお礼をさせてくださいね」
「結構です、金は貰うちょりますから」
「あら、桂さんって……」
「お梅、早くしねえと分けてやんねえぞ」
「もう!少しは待ってくれたっていいのに…」
女子はそう文句を垂れながら、私の方へ会釈をしてそのまま土方の方へと去って行った。彼女が自分のもとに来るのを待つ土方の表情と来たら、あの女子を行かせなければよかったと思う程の緩み具合である。その気色悪い顔から目を離したのも束の間、門人と騒ぎあった近藤がこちらへ小走りに駆けてきて頭を下げた。
「桂さん、今日は本当にありがとうございました!今日だけは本当に負けられなかったもんですから、本当に助かりました!いや、実はね……」
「話はあの子から聞きました。役に立てたなら何よりです」
「お梅から……?」
「ええ」
その返事に少し戸惑った様子の近藤に無意識に眉を寄せると、近藤はそんなこちらの様子にすぐに気付いて頰を掻いた。
「いや、なんでもありません。こちら今日の御礼です。また、よろしくお願いします」
「そのまたが来ないようにするのが、あなたの役目でしょう」
「は、はい。まあ、そうですね」
当然のことを口にしたまでだが、近藤は図星を突かれた顔をして、私の手に銭袋を握らせると、頭を掻きながら門人たちの方へと戻っていった。出迎えは要らないと随分前に言ってから、試合が終わってからはいつもこうだった。少しの間休憩して、満足したら勝手に道場を出る。その方が気楽でいいのだ。
道場を出ると、桜の花が宙を舞っていた。背後から慌てるような足音がして、何か忘れ物でもしたかなと歩みを止める。振り返ると、今日初めて会った女子が息を切らしてこちらに走って来ていた。
「どうかされましたか?」
「伝えたい事が、あって…」
走って来たせいで息も絶え絶えな彼女が落ち着くように背を摩り、道場の前に置いてある長椅子に腰掛けるよう誘導する。伝えたいこととは一体なんだろうか。
「あの……あ!」
その声とともに彼女の顔がこちらに近づいてくる。あまりに脈絡のない動きに咄嗟に反応できずにいると、彼女がすっと腰を浮かせ、私の頭上へ手を伸ばした。
「頭に花びらが」
「ん……ああ…桜の…」
「ふふ、これは梅ですよ」
そう言って手のひらに花びらを乗せて笑う彼女を美しいと思ってしまったのは、きっとこの非日常が起こしたまじないだろう。
それが私とお梅の初めての出会いだった。
十九の頃、萩から出て江戸へ遊学した。男たるもの強くなければならぬという父上の言い付けを果たす為である。幸いな事に縁はあった。江戸の練兵館という道場の剣客が古今東西を巡る武者修行の一環で萩に来ていたのだ。藩校の明倫館で彼の試合を見たが、その強さは萩の剣士ではとても敵わん程であった。その時に直感で察したのだ。私は彼の元で剣術を学ばなくてはならないと。
江戸へ来る道は穏やかではなかったが、必死の思いで練兵館道場の門をくぐるに漕ぎ着けた。そしてこの練兵館道場で、私の中にあった剣の才が目覚めることになる。入塾から一年で塾頭になり、あの頃は絶対に敵わぬと思っていた例の斎藤慎太郎とも、かなりやり合えるようになったのである。
「いやぁ〜、強い強い」
「いえ、まだ斎藤殿には敵いません」
試合で流れた汗を拭き、面を外して一息つく。道場にはまだ、竹刀と竹刀がぶつかる音がこだまし続けていた。
私はこの音が好きだ。
「桂さん、またいつもの連中が人を寄越せと嘆いとる。お願いできるかね?」
「ああ、はい。いつものですね?」
「うむ、いつものじゃ」
この道場でいつもの連中と言われているのは、練兵館と同じく剣術の道場である試衛館の連中の事である。なんでも最近代替わりしたらしく、師範代の近藤勇先生は私と一つ違いの年下だ。それもあってか、試衛館は門人も両手で足るほどしか居らず、巷で流行りの道場破りなんかが来た日にゃ、こうして練兵館から塾頭を借りに走ってくるという次第である。
人に関心が強い方では無いが、こうも歳が近いといろいろと気に掛けてしまうものだ。彼が待つであろう部屋の前に立ち、呼吸を整える。
「勝っちゃんの道場にもこんだけ門人がいりゃあな。そしたらあの仏頂面の桂の手なんて借りずに済むのによ」
「やめろ、トシ。聞こえるぞ」
部屋の中から聞こえてきた声に襖を開く手が止まる。この声は、あの薬屋だろうか。どうにも失礼な物言いだ。
「私が嫌なら他の者に変わりましょうか」
襖を開いて開口一番にそう言えば、近藤君と薬屋がビクりと肩を震わせた。
「い、いえ、とんでもございません!桂先生に来ていただけるなんて、なんて心強いんでしょう!……トシ、謝れ!」
「はあ?俺は初めから他の道場の力なんて借りる必要はないって言ってんだろうが!」
「そうですか。それなら、私は要りませんね。失礼します」
失礼な奴だ。今まではただの金魚の糞程度にしか見えていなかった薬屋が、糞以下に転落した瞬間である。こうなるといけない。同じ空気を吸うこと自体、不愉快だ。
「お待ちください、桂先生!トシの非礼を代わりに詫びます。大変申し訳ございませんでした! どうにかうちの道場までご足労願えませんでしょうか?」
「おい! 勝っちゃんが謝る必要はねえよ!」
畳に額を擦り付けて謝るその姿勢から、先ほどまで確かに存在していた同情心というものが再び花開いた。この若先生に免じて、今日だけは顔を出してやろう。そう決めたのである。
・
「一本!この対決は、試衛館道場の勝利!」
審判の声とともに、試衛館の連中が肩を組み合って叫び出す。江戸に来てから、もう幾度となく目にした光景である。よその道場の手を借りておいて、よくもまあそんなに喜べるものだ。最も、先の薬屋────土方だけは、珍しく近藤の糞になるのを止めて、気に入らないとでもいうように胡座を描いていた。
試衛館の門人たちの姿を眺めながらすうと息を吐くと、目の前に水の入った椀が差し出された。ああ、またいつもの世話焼き女中が気を利かせてくれたのだろうと顔を上げると、初めて見る女子の顔がすぐそばにあった。
「お水です。たくさん冷えているのが好きって、おミツさんから聞きました」
「あ、ああ。どうも」
女子からお椀を受け取って、それを喉に流し込む。成程、確かによく冷えている。別に冷えた水が好きだなんて話した覚えは無いが、(元より、私は話をしないが)こういう好意は悪い気がしなかった。
「桂さん、お強いんですね。私、剣術の事はあまり詳しく無いけれど、桂さんが強いんだってことはすぐに分かりました」
「は、はあ」
女子は何故か私の隣に腰掛けて、ペラペラと喋り始めた。先ほど土方に言われた通り、幼き頃より表情に乏しい私にこのように喋りかけてくる女子は珍しくて、つい狼狽えてしまう。
「とにかく、おかげで助かりました」
「はい?」
「今日の道場破り、勝ったら私を嫁に寄越せと言ってきていたんです。あんな意地の悪い人のお嫁になるなんて嫌だったから、桂さんが勝ってくださって本当に嬉しかったんです」
成程、そういう事情があるとは知らなかった。近藤がわざわざ頭を畳に擦り付けて嘆願した訳も見えてくる。きっと、私でなくてはならなかったのだ。確実に勝たねばならない試合だったのだろう。
「お梅、こっちに来いよ。この間話した新作の薬を見せてやる」
声がした方を見れば、先ほどまで膨れっ面で座り込んでいた土方が横の女子を呼びかけている。女子を見る時は優しく、時折合う視線の鋭さには糞に見合わぬ芯の強い性分が透けて見えた。
「トシさん、少し待ってて!桂さん、今日は本当にありがとうございました。また、近い内にお礼をさせてくださいね」
「結構です、金は貰うちょりますから」
「あら、桂さんって……」
「お梅、早くしねえと分けてやんねえぞ」
「もう!少しは待ってくれたっていいのに…」
女子はそう文句を垂れながら、私の方へ会釈をしてそのまま土方の方へと去って行った。彼女が自分のもとに来るのを待つ土方の表情と来たら、あの女子を行かせなければよかったと思う程の緩み具合である。その気色悪い顔から目を離したのも束の間、門人と騒ぎあった近藤がこちらへ小走りに駆けてきて頭を下げた。
「桂さん、今日は本当にありがとうございました!今日だけは本当に負けられなかったもんですから、本当に助かりました!いや、実はね……」
「話はあの子から聞きました。役に立てたなら何よりです」
「お梅から……?」
「ええ」
その返事に少し戸惑った様子の近藤に無意識に眉を寄せると、近藤はそんなこちらの様子にすぐに気付いて頰を掻いた。
「いや、なんでもありません。こちら今日の御礼です。また、よろしくお願いします」
「そのまたが来ないようにするのが、あなたの役目でしょう」
「は、はい。まあ、そうですね」
当然のことを口にしたまでだが、近藤は図星を突かれた顔をして、私の手に銭袋を握らせると、頭を掻きながら門人たちの方へと戻っていった。出迎えは要らないと随分前に言ってから、試合が終わってからはいつもこうだった。少しの間休憩して、満足したら勝手に道場を出る。その方が気楽でいいのだ。
道場を出ると、桜の花が宙を舞っていた。背後から慌てるような足音がして、何か忘れ物でもしたかなと歩みを止める。振り返ると、今日初めて会った女子が息を切らしてこちらに走って来ていた。
「どうかされましたか?」
「伝えたい事が、あって…」
走って来たせいで息も絶え絶えな彼女が落ち着くように背を摩り、道場の前に置いてある長椅子に腰掛けるよう誘導する。伝えたいこととは一体なんだろうか。
「あの……あ!」
その声とともに彼女の顔がこちらに近づいてくる。あまりに脈絡のない動きに咄嗟に反応できずにいると、彼女がすっと腰を浮かせ、私の頭上へ手を伸ばした。
「頭に花びらが」
「ん……ああ…桜の…」
「ふふ、これは梅ですよ」
そう言って手のひらに花びらを乗せて笑う彼女を美しいと思ってしまったのは、きっとこの非日常が起こしたまじないだろう。
それが私とお梅の初めての出会いだった。
