魔法より、君に恋をする。

リリアはカイルに連れられ、人気のない第三演習室へ来ていた。

 セシルとノアには先に寮へ戻るよう伝えてある。

 ノアは最後までついて来たがったが、カイルが「危険はない」と保証したことで、渋々引き下がった。

「座れ」

 長椅子を示される。

「先輩が怪我してるのに、なんで私が座るんですか?」

「……じゃあ俺が座る」

「はい」

 妙に素直に従うカイルがおかしくて、リリアは少し笑った。

「何だ」

「先輩、思ったより言うこと聞きますね」

「お前が聞かなすぎるんだ」

「普通です」

「普通の一年生は三年にここまで食い下がらない」

「じゃあ先輩も普通の三年生になってください」

「どういう意味だ」

「一年生を見かけるたびに心配そうな顔しない」

 カイルが黙った。

 リリアは彼の隣へ腰を下ろす。

「手」

「……」

「約束しました」

 ようやく右手が差し出される。

 包帯を外す。

「これ、大したことありますよ」

 掌から手首にかけて、黒い線のような痕が走っていた。

 切り傷ではない。

 まるで何かが皮膚の下へ入り込もうとしたような痕だった。

「痛いですか?」

「少し」

「触ります」

 リリアは掌を重ねた。

 治癒魔法を流す。

 淡い光が二人の手を包む。

 その瞬間だった。

 黒い痕が強く脈打った。

「……っ!」

 頭の奥に、何かが流れ込んだ。

 赤い月。

 燃える街。

 誰かの泣き声。

 自分へ向けられた刃。

 そして――黒い髪。

「リリア!」

 身体を強く引かれる。

 気づいた時には、カイルの腕の中にいた。

 息が苦しい。

 心臓が速い。

「……今」

「見るな」

「何を……」

「忘れろ」

「無理です」

 リリアはカイルの制服を掴んだ。

「今の、何?」

「……」

「赤い月が見えた」

 カイルの身体が硬くなる。

「街が燃えてた。それから――」

「やめろ」

 初めて聞くほど強い声だった。

 リリアは言葉を止める。

 カイルの腕が震えていた。

「クロフォード先輩?」

「……それ以上、思い出すな」

「思い出す?」

 カイルが息を呑む。

「今、思い出すって言いました?」

「……」

「知らないものを見るなら、普通は『考えるな』とか『気にするな』って言いません?」

 カイルは答えない。

 リリアは彼の腕の中から顔を上げる。

 近い距離で、黒い瞳と目が合った。

「私が見たもの、先輩は知ってるんですか?」

「……知っている」

 初めてだった。

 誤魔化さなかった。

 リリアは息を止める。

「何なんですか?」

「今は言えない」

「またそれ?」

「すまない」

「どうして?」

「お前を守るためだ」

 その言葉に、リリアの眉が寄る。

「それ嫌いです」

「……」

「私を守るためって言えば、私に何も教えなくていいことにはならないです」

「分かっている」

「分かってないです」

「……そうだな」

 反論されなかった。

 カイルは少しだけ腕の力を緩めた。

「前なら、お前をここから遠ざけて終わっていた」

「今もしたい?」

「したい」

「正直」

「だが、それではお前が納得しないことも分かった」

 リリアは黙って彼を見る。

「だから、一つだけ話す」

 カイルの声は低かった。

「今日、北棟で見つかったのは黒い石だ」

 リリアの脳裏に、第五章で見た古い術式が浮かぶ。

「魔法具?」

「分からない。ただ、石には術式が刻まれていた」

「どんな?」

 カイルが一瞬躊躇する。

「十二に分かれた線」

 リリアの表情が変わった。

「……あの本と同じ」

「ああ」

「ルシアン先輩も知ってる?」

「知っている」

「じゃあやっぱり、あの術式と関係あるんですね」

「おそらく」

「赤い月も?」

 カイルは答えなかった。

 それだけで十分だった。

「先輩」

「何だ」

「私、調べます」

「駄目だ」

「なんで?」

「危険だからだ」

「じゃあ一緒に調べてください」

 カイルが言葉を失う。

「一人で調べるなって言うなら、先輩が一緒にいればいい」

「……お前は」

「何?」

「昔から、本当に――」

 途中で止まった。

 リリアは目を細める。

「続き」

「言わない」

「今の完全に怪しい」

「分かっている」

「開き直った」

 カイルは困ったように目を伏せた。

 その表情を見ているうちに、リリアは先ほどから気になっていたことを思い出す。

「そういえば」

「何だ」

「いつまで抱きしめてるんですか?」

 カイルが固まった。

 赤い月の幻を見た直後、倒れそうになったリリアを抱き寄せ、そのままだった。

「……すまない」

 勢いよく離れる。

「別に嫌じゃないですけど」

 今度はカイルの動きが完全に止まった。

「……アステル」

「はい?」

「そういうことを簡単に言うな」

「最近よく言われる」

「誰に」

「レオンハルト先輩とアレン先輩」

 カイルの眉間に皺が寄った。

「……何をした」

「なんで怒ってるんですか?」

「怒っていない」

「怒ってます」

「怒っていない」

「怖い顔してる」

「元からだ」

「自覚あったんですね」

 カイルは深く息を吐いた。

 リリアは少し笑った。

「でも」

 彼の右手をもう一度取る。

「治療、まだ終わってません」

「もういい」

「駄目」

「……分かった」

 今度は素直に手を預けた。

 リリアは慎重に治癒魔法を流す。

 黒い痕は完全には消えなかったが、少しずつ薄くなっていった。

「痛かったら言ってください」

「ああ」

「我慢しないで」

「分かった」

「本当に?」

「……努力する」

「そこは約束じゃないんだ」

「できない約束はしない」

 リリアは少しだけ目を見開いた。

「先輩、約束って大事にするんですね」

 カイルは答えなかった。

 ただ、リリアの手を見つめていた。

「大事だ」

 やがて返ってきた声は、思ったよりずっと静かだった。