翌朝。
リリアは目を覚まして、しばらくそのまま動かなかった。
静かだった。
胸の奥に意識を向けても、何もない。
眠い。
起きたくない。
会いたい。
そんなセシルの感情が、もう勝手に流れ込んでくることはない。
「……本当に終わったんだ」
昨日。
世界は自律循環へ移行した。
管理者機構は消滅し、接続計画も終了した。
世界が変わったというのに、窓の外は昨日までと何も変わらない。
朝日が差している。
廊下から誰かの話し声が聞こえる。
今日も授業がある。
そして。
今日は、セシルが何時に起きたのか分からない。
「……寝坊してそう」
そう思っても、確かめる方法はない。
リリアは少し笑ってベッドから降りた。
支度を終え、女子寮を出る。
いつもの場所へ向かう。
まだ姿はない。
「やっぱり」
少し待つ。
一分。
二分。
三分。
「遅い」
接続があれば、とっくに起こせた。
いや。
そもそも、セシルがまだ寝ているかどうかすら分からない。
「……部屋まで行けばよかったかな」
呟いた直後。
「誰の部屋?」
後ろから声がした。
「っ!」
振り返る。
青い髪。
セシルが立っていた。
「びっくりした!」
「おはよう」
「いつからいたの?」
「今」
「本当に?」
「本当」
「……何で笑ってるの」
「リリアが私の部屋まで来ようとしてたから」
「行こうとしてない」
「今言ってた」
「寝坊してたらって話!」
「心配してくれた?」
「遅刻されたら困るから」
「私が?」
「私が待つことになるでしょ」
「じゃあ待っててくれるんだ」
「……」
「リリア?」
「行くよ」
「誤魔化した」
「うるさい」
歩き出す。
数歩進んで。
リリアは足を止めた。
「セシル」
「何?」
「手」
「え?」
「……繋がないの?」
セシルが目を丸くする。
「昨日までは接続率上がるから控えてたでしょ」
「うん」
「もう関係ないし」
少しだけ恥ずかしくなって、リリアは視線を逸らした。
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃない!」
すぐに手を取られた。
「早い」
「だってリリアから言った」
「そんな嬉しい?」
「嬉しい」
「……そっか」
指を絡める。
何も流れ込んでこない。
ただ、手が温かい。
それだけだった。
「リリア」
「何?」
「今、何考えてる?」
「教えない」
「えー」
「知りたい?」
「知りたい」
「じゃあ当てて」
「難しいな……」
セシルが少し考える。
「私と手繋げて嬉しい?」
「……半分正解」
「半分?」
「もう半分は」
リリアは繋いだ手を見る。
「これだけでよかったんだなって」
「これだけ?」
「うん」
術式も。
接続率も。
感情同期も。
そんなものがなくても。
手を繋いで。
隣を歩いて。
好きな人がそこにいる。
「十分だった」
セシルが黙った。
「何?」
「今、キスしたい」
「朝から?」
「駄目?」
「学院の前」
「じゃあ帰ってから」
「予約するものなの?」
「忘れないように」
「忘れないでしょ」
「リリアが忘れるかも」
「忘れないよ」
「じゃあ約束」
「……分かった」
セシルが嬉しそうに笑った。
もう、その嬉しさは流れ込んでこない。
でも。
顔を見れば分かる。
午前の授業。
リリアはいつも通り教師の説明を聞きながら、課題を先へ進めていた。
隣から視線を感じる。
一度。
二度。
三度。
「……何」
小声で聞く。
「何が?」
「見てる」
「分かるんだ」
「これだけ見られたら分かるよ」
「接続ないのに?」
「目はあるから」
「すごい」
「馬鹿にしてる?」
「してない」
セシルは少し笑って前を向く。
数秒後。
また見る。
「セシル」
「はい」
「授業」
「聞いてる」
「じゃあ前見て」
「リリアもノート以外のこと書いてるじゃん」
「これは授業の先」
「もう分かったの?」
「うん」
「やっぱりすごい」
「……」
「何?」
「褒められるのは嫌じゃない」
「知ってる」
「何で?」
「長い付き合いだから」
リリアは少し笑った。
そうだった。
接続が始まるより前から。
二人は入学式で出会って。
友達になって。
セシルはリリアを好きになった。
リリアはその気持ちを知らないまま、ずっと隣にいた。
接続がなくても。
二人は最初から、相手のことを少しずつ知っていた。
昼休み。
二人はいつもの場所で食事をしていた。
「はい」
セシルが小さな包みを差し出す。
「何?」
「卵焼き」
リリアは止まった。
「……二個?」
「二個」
「覚えてたんだ」
「約束したから」
以前、食事を半分あげる代わりに約束したもの。
「本当に持ってきたの?」
「うん」
「律儀」
「食べる?」
「食べる」
一つ取る。
「どう?」
「おいしい」
「よかった」
もう一つ。
リリアが取ろうとして。
止めた。
「セシル」
「何?」
「口開けて」
「え?」
「早く」
「……あー」
セシルが素直に口を開ける。
リリアは卵焼きを入れた。
「……」
「何その顔」
「リリアが食べさせてくれた」
「一個返しただけ」
「嬉しい」
「大げさ」
「もう一回」
「ないよ」
「他ので」
「嫌」
「何で!」
「恥ずかしいから!」
セシルが笑う。
リリアも笑った。
こんなことでいい。
こんなことがいい。
世界の未来を決める選択なんて、もうしなくていい。
午後。
リリアは担当教師に呼ばれた。
「研究院から連絡が来た」
「何て?」
「先日の件だ。閲覧した資料については、研究院側でも調査するそうだ」
「そうですか」
「それと」
教師が一枚の書類を差し出す。
「特別研究枠の推薦候補。正式に名前を出しておいた」
リリアは紙を見る。
「……ありがとうございます」
「珍しく素直だな」
「私だってお礼くらい言います」
「行くか?」
リリアは少し考えた。
以前なら。
面白そう。
知りたい。
それだけで即答したかもしれない。
「まだ決めません」
「そうか」
「でも、行きたいとは思ってます」
「なら十分だ」
書類を受け取る。
部屋を出ると。
廊下の壁にセシルが寄りかかって待っていた。
「終わった?」
「うん」
「研究院?」
「推薦候補になった」
「すごい!」
「まだ候補」
「でもすごい」
「……ありがと」
二人で歩き始める。
「行く?」
セシルが聞いた。
「まだ決めてない」
「そっか」
「セシルは?」
「私?」
「卒業した後」
「考えてる」
「何したい?」
「まだ分からない」
「そっか」
「でも、前みたいにリリアについていくだけっていうのはやめる」
リリアがセシルを見る。
「自分で決める?」
「うん」
「いいと思う」
「それで」
「何?」
「別の場所になったらどうする?」
少しだけ不安そうな顔。
もう感情は読めない。
だからリリアは、ちゃんと言葉で答えた。
「会いに行く」
「……」
「何?」
「簡単に言うね」
「だって会いたいなら会いに行けばいいでしょ」
「遠かったら?」
「休みの日」
「もっと遠かったら?」
「長い休み」
「すごく遠かったら?」
「セシル」
「何?」
「私と別れたいの?」
「嫌!」
「じゃあ何とかする」
セシルが黙る。
「今決める必要ないよ」
リリアは続けた。
「卒業までまだ時間あるし。その時になったら二人で話せばいい」
「うん」
「私が研究院行くかも分からないし」
「うん」
「セシルが何したいかもこれからでしょ」
「うん」
「だから」
リリアは少し笑った。
「今は今日の帰りの約束だけ覚えてればいい」
「……キス?」
「声大きい!」
「ごめん!」
リリアは真っ赤になった。
「忘れてなかったんだ」
「リリアも覚えてるじゃん」
「今ので忘れた」
「嘘!」
「忘れた」
「思い出させる」
「どうやって」
「キスして」
「それ実行してるだけでしょ!」
放課後。
二人は一緒に女子寮へ戻った。
同じ寮。
同じ廊下を歩ける。
以前からそうだったのに、恋人になってからは妙に意識してしまう。
「リリアの部屋行っていい?」
セシルが聞いた。
「何で?」
「まだ帰りの約束してない」
「帰ってる途中じゃん」
「人いるし」
「……」
「駄目?」
リリアは少し考えた。
「いいよ」
部屋に入る。
特別なものは何もない。
いつもの自分の部屋。
セシルも初めて入るわけではない。
それなのに。
今日は少し違って感じた。
扉が閉まる。
二人きり。
「……」
「……」
「何で黙るの」
リリアが聞く。
「リリアが黙るから」
「セシルが黙ったんでしょ」
「何か緊張する」
「今さら?」
「恋人になってから二人で部屋いるの、意識すると違う」
「……言わないでよ」
「リリアも?」
「ちょっとだけ」
セシルが笑う。
ベッドの横。
二人で床に座る。
最初は授業の話をした。
今日の課題。
教師の癖。
研究院。
夕食。
明日の授業。
どうでもいい話。
気づけば、かなり時間が経っていた。
「こういうのいいね」
セシルが言った。
「何が?」
「何も起きないの」
リリアは笑った。
「分かる」
「最近ずっと事件だったから」
「接続率上がるたびに何か出てきたし」
「好きって言うだけで数字出るし」
「最悪だったね」
「私はちょっと楽しかった」
「何で?」
「リリアの気持ち分かったから」
「……」
「今は分からないけど」
セシルがリリアを見る。
「今、何考えてる?」
「またそれ?」
「聞かないと分からないから」
「……セシルのこと」
答える。
「え」
「だから聞いたんでしょ」
「何を?」
「それ以上は秘密」
「気になる」
「全部言わなくてもいいんでしょ?」
セシルが止まる。
それから笑った。
「うん」
「私にも秘密くらいある」
「じゃあ私も」
「何?」
「秘密」
「気になる」
「同じじゃん」
二人で笑った。
そのあと。
ふと静かになった。
窓の外はもう暗い。
セシルがリリアを見る。
リリアも見る。
何を考えているのか分からない。
でも。
朝の約束を思い出す。
「……する?」
リリアが聞いた。
「何を?」
「分かってるくせに」
「言ってほしい」
「嫌」
「じゃあ分からない」
「絶対分かってる」
「接続ないから」
「そういう時だけ!」
セシルが笑う。
「キス?」
「……うん」
「したい」
「私も」
セシルが少し近づく。
「いい?」
「うん」
唇が触れた。
短く。
一度離れる。
目が合う。
どちらからともなく、もう一度近づいた。
今度は少し長い。
リリアはセシルの服を軽く掴んだ。
離れた時。
セシルの顔が近い。
「……リリア」
「何?」
「可愛い」
「今言う?」
「思ったから」
「接続ないんだから黙ってればバレないのに」
「言いたかった」
「……そっか」
リリアは少し迷って。
セシルの肩へ頭を預けた。
「じゃあ私も言う」
「何?」
「好き」
セシルが固まる。
「……」
「何?」
「もう一回」
「嫌」
「何で!」
「今日何回言わせるの!」
「だって嬉しい」
「じゃあ覚えて」
「ずっと?」
「ずっと」
「……分かった」
少しだけ間が空く。
「私も好き」
「うん」
「ずっと好きだった」
その言葉に。
リリアは顔を上げた。
「……そういえば」
「何?」
「ちゃんと聞いてなかったかも」
「何を?」
「いつから?」
セシルが目を瞬いた。
「私を好きになったの」
「……入学して、そんなに経ってない頃」
「早くない?」
「早いよ」
「何で?」
「最初は顔」
「顔!?」
「だって綺麗だったから」
「……」
「でもすぐ、それだけじゃなくなった」
「何で?」
「何でもできるのに、興味ないことは本当に雑なところとか」
「褒めてる?」
「褒めてる」
「怪しい」
「自分では何でもできると思ってないところとか」
「思ってないよ」
「知ってる」
「あと?」
「意外と優しい」
「意外といらない」
「人のことよく見てる」
「……」
「私が困ってる時、何も聞かないで助けてくれたことあったでしょ」
「覚えてない」
「そういうところ」
セシルが笑う。
「リリアは覚えてないようなこと、私はいっぱい覚えてる」
胸が少し熱くなった。
「ずっと言わなかったの?」
「言えなかった」
「好きな人いるとは言ってたじゃん」
「リリアにね」
「私だとは言わずに」
「言えるわけないでしょ」
「何で?」
「友達でいられなくなるの怖かったから」
リリアは黙った。
セシルが自分を好きだった。
今なら知っている。
でも。
その頃のセシルは、一人で抱えていた。
「……長かったね」
「長かった」
「ごめん」
「何で謝るの?」
「気づかなかった」
「気づかれないようにしてたから」
「でも」
「いいの」
セシルは笑った。
「今は好きって言ってくれるから」
リリアはしばらくセシルを見ていた。
それから。
「じゃあ、いっぱい言った方がいい?」
「え?」
「今までの分」
「……言ってくれるの?」
「たまに」
「毎日」
「多い」
「じゃあ三日に一回」
「何で交渉になるの」
「週一」
「減ってる!」
二人で笑った。
リリアはその笑顔を見ながら思う。
セシルが自分を好きになったのは、接続術式のせいではない。
リリアがセシルを好きになったのも、過去の記録のせいではない。
入学式で出会った。
同じ時間を過ごした。
話した。
笑った。
時々喧嘩した。
セシルはずっと好きだった。
リリアは後から好きになった。
ただ、それだけ。
「セシル」
「何?」
「私ね」
「うん」
「接続切れてよかった」
「私も」
「でも」
「うん」
「セシルと繋がったのが嫌だったわけじゃないよ」
「分かってる」
「……今は分からないでしょ」
セシルが少し驚いて。
それから笑った。
「じゃあ、聞く」
「うん」
「どういう意味?」
「セシルと繋がったから、知れたこともあった」
「うん」
「セシルがずっと私を大事にしてくれてたこととか」
「うん」
「私も、自分が思ってたよりセシルのこと大事だったこととか」
「……うん」
「だから」
リリアは少し恥ずかしくなった。
でも。
もう勝手には伝わらない。
言わなければ。
セシルには分からない。
「好きになれてよかった」
セシルの目が大きくなる。
「リリア」
「何?」
「今日どうしたの?」
「何が?」
「いっぱい言ってくれる」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない!」
「じゃあいいでしょ」
「……嬉しい」
「うん」
「すごく」
「うん」
「リリア」
「何?」
「抱きしめていい?」
「聞かなくても――」
そこまで言って。
やめた。
「……ううん」
「?」
「聞いて」
リリアは笑った。
「これからも」
セシルも笑う。
「うん」
「いいよ」
抱きしめられる。
リリアも背中へ腕を回す。
相手の気持ちは分からない。
でも。
腕の強さは分かる。
温かさも。
声も。
笑った顔も。
そして。
言葉も。
「リリア」
「何?」
「好き」
「私も」
それで十分だった。
しばらくして、セシルが帰る時間になった。
扉の前。
「じゃあ明日」
「うん」
「朝」
「寝坊しないで」
「したら?」
「置いてく」
「迎えに来て」
「考えとく」
「絶対来て」
「起きればいいじゃん」
「じゃあ起きる」
「最初からそうして」
セシルが扉を開ける。
でも。
出る直前。
振り返った。
「リリア」
「何?」
「明日も好き?」
リリアは一瞬きょとんとした。
「何それ」
「何となく」
「未来の気持ちなんて分からないよ」
「……そっか」
少しだけ寂しそうな顔。
リリアは笑った。
「だから」
セシルを見る。
「明日も自分で選ぶよ」
「……」
「セシルのこと好きでいるのも」
「うん」
「会いに行くのも」
「うん」
「隣にいるのも」
少しだけ間を置く。
「毎日、私が決める」
セシルの目が潤む。
「泣くの?」
「泣かない」
「泣きそう」
「リリアのせい」
「何で」
「嬉しいから」
セシルが笑う。
「じゃあ私も」
「何を?」
「明日もリリアを選ぶ」
「うん」
「明後日も」
「先の予約は禁止」
「何で!」
「その日に決めるんでしょ?」
「……じゃあ明日また言う」
「うん」
「好きって」
「聞く」
「リリアも言って」
「気が向いたら」
「そこは言ってよ!」
リリアは笑った。
「おやすみ、セシル」
「おやすみ、リリア」
扉が閉まる。
部屋が静かになる。
胸の奥も静かだ。
もうセシルの感情は聞こえない。
それでも。
リリアは笑っていた。
明日になれば。
また会える。
何を考えているのか分からないセシルに。
その時は聞けばいい。
自分の気持ちも。
伝えたければ伝えればいい。
全部知らなくていい。
全部同じじゃなくていい。
別々の人間だから。
何度でも相手を知って。
何度でも近づいて。
何度でも選べる。
翌朝。
リリアがいつもの場所へ向かうと。
今日はセシルの方が先に来ていた。
「おはよう、リリア」
「おはよ」
「寝坊しなかった」
「偉い」
「子ども扱いしてる?」
「ちょっと」
「ひどい」
セシルが手を差し出す。
リリアはその手を見る。
そして。
迷わず握った。
「リリア」
「何?」
「今日も好き」
朝から。
またそれ。
そう思って。
でも今日は言わなかった。
「私も」
「……え?」
「一回で聞いて」
「待って、もう一回」
「嫌」
「リリア!」
笑いながら歩き出す。
白銀の髪と。
青い髪。
二人の手を繋ぐ術式は、もうどこにもない。
接続率も。
管理者も。
決められた未来も。
何もない。
あるのは。
自分で選べる今日と。
まだ決まっていない明日。
そして。
その隣を歩く、大好きな人。
リリアは繋いだ手を少しだけ強く握った。
「セシル」
「何?」
「明日も一緒に行こっか」
セシルが笑った。
「うん」
二人は並んで歩いていく。
明日も。
その次の日も。
誰かに決められたからではなく。
何かに繋がれているからでもなく。
自分の意思で。
何度でも。
互いを選びながら。
セシルルート 完
リリアは目を覚まして、しばらくそのまま動かなかった。
静かだった。
胸の奥に意識を向けても、何もない。
眠い。
起きたくない。
会いたい。
そんなセシルの感情が、もう勝手に流れ込んでくることはない。
「……本当に終わったんだ」
昨日。
世界は自律循環へ移行した。
管理者機構は消滅し、接続計画も終了した。
世界が変わったというのに、窓の外は昨日までと何も変わらない。
朝日が差している。
廊下から誰かの話し声が聞こえる。
今日も授業がある。
そして。
今日は、セシルが何時に起きたのか分からない。
「……寝坊してそう」
そう思っても、確かめる方法はない。
リリアは少し笑ってベッドから降りた。
支度を終え、女子寮を出る。
いつもの場所へ向かう。
まだ姿はない。
「やっぱり」
少し待つ。
一分。
二分。
三分。
「遅い」
接続があれば、とっくに起こせた。
いや。
そもそも、セシルがまだ寝ているかどうかすら分からない。
「……部屋まで行けばよかったかな」
呟いた直後。
「誰の部屋?」
後ろから声がした。
「っ!」
振り返る。
青い髪。
セシルが立っていた。
「びっくりした!」
「おはよう」
「いつからいたの?」
「今」
「本当に?」
「本当」
「……何で笑ってるの」
「リリアが私の部屋まで来ようとしてたから」
「行こうとしてない」
「今言ってた」
「寝坊してたらって話!」
「心配してくれた?」
「遅刻されたら困るから」
「私が?」
「私が待つことになるでしょ」
「じゃあ待っててくれるんだ」
「……」
「リリア?」
「行くよ」
「誤魔化した」
「うるさい」
歩き出す。
数歩進んで。
リリアは足を止めた。
「セシル」
「何?」
「手」
「え?」
「……繋がないの?」
セシルが目を丸くする。
「昨日までは接続率上がるから控えてたでしょ」
「うん」
「もう関係ないし」
少しだけ恥ずかしくなって、リリアは視線を逸らした。
「嫌ならいいけど」
「嫌じゃない!」
すぐに手を取られた。
「早い」
「だってリリアから言った」
「そんな嬉しい?」
「嬉しい」
「……そっか」
指を絡める。
何も流れ込んでこない。
ただ、手が温かい。
それだけだった。
「リリア」
「何?」
「今、何考えてる?」
「教えない」
「えー」
「知りたい?」
「知りたい」
「じゃあ当てて」
「難しいな……」
セシルが少し考える。
「私と手繋げて嬉しい?」
「……半分正解」
「半分?」
「もう半分は」
リリアは繋いだ手を見る。
「これだけでよかったんだなって」
「これだけ?」
「うん」
術式も。
接続率も。
感情同期も。
そんなものがなくても。
手を繋いで。
隣を歩いて。
好きな人がそこにいる。
「十分だった」
セシルが黙った。
「何?」
「今、キスしたい」
「朝から?」
「駄目?」
「学院の前」
「じゃあ帰ってから」
「予約するものなの?」
「忘れないように」
「忘れないでしょ」
「リリアが忘れるかも」
「忘れないよ」
「じゃあ約束」
「……分かった」
セシルが嬉しそうに笑った。
もう、その嬉しさは流れ込んでこない。
でも。
顔を見れば分かる。
午前の授業。
リリアはいつも通り教師の説明を聞きながら、課題を先へ進めていた。
隣から視線を感じる。
一度。
二度。
三度。
「……何」
小声で聞く。
「何が?」
「見てる」
「分かるんだ」
「これだけ見られたら分かるよ」
「接続ないのに?」
「目はあるから」
「すごい」
「馬鹿にしてる?」
「してない」
セシルは少し笑って前を向く。
数秒後。
また見る。
「セシル」
「はい」
「授業」
「聞いてる」
「じゃあ前見て」
「リリアもノート以外のこと書いてるじゃん」
「これは授業の先」
「もう分かったの?」
「うん」
「やっぱりすごい」
「……」
「何?」
「褒められるのは嫌じゃない」
「知ってる」
「何で?」
「長い付き合いだから」
リリアは少し笑った。
そうだった。
接続が始まるより前から。
二人は入学式で出会って。
友達になって。
セシルはリリアを好きになった。
リリアはその気持ちを知らないまま、ずっと隣にいた。
接続がなくても。
二人は最初から、相手のことを少しずつ知っていた。
昼休み。
二人はいつもの場所で食事をしていた。
「はい」
セシルが小さな包みを差し出す。
「何?」
「卵焼き」
リリアは止まった。
「……二個?」
「二個」
「覚えてたんだ」
「約束したから」
以前、食事を半分あげる代わりに約束したもの。
「本当に持ってきたの?」
「うん」
「律儀」
「食べる?」
「食べる」
一つ取る。
「どう?」
「おいしい」
「よかった」
もう一つ。
リリアが取ろうとして。
止めた。
「セシル」
「何?」
「口開けて」
「え?」
「早く」
「……あー」
セシルが素直に口を開ける。
リリアは卵焼きを入れた。
「……」
「何その顔」
「リリアが食べさせてくれた」
「一個返しただけ」
「嬉しい」
「大げさ」
「もう一回」
「ないよ」
「他ので」
「嫌」
「何で!」
「恥ずかしいから!」
セシルが笑う。
リリアも笑った。
こんなことでいい。
こんなことがいい。
世界の未来を決める選択なんて、もうしなくていい。
午後。
リリアは担当教師に呼ばれた。
「研究院から連絡が来た」
「何て?」
「先日の件だ。閲覧した資料については、研究院側でも調査するそうだ」
「そうですか」
「それと」
教師が一枚の書類を差し出す。
「特別研究枠の推薦候補。正式に名前を出しておいた」
リリアは紙を見る。
「……ありがとうございます」
「珍しく素直だな」
「私だってお礼くらい言います」
「行くか?」
リリアは少し考えた。
以前なら。
面白そう。
知りたい。
それだけで即答したかもしれない。
「まだ決めません」
「そうか」
「でも、行きたいとは思ってます」
「なら十分だ」
書類を受け取る。
部屋を出ると。
廊下の壁にセシルが寄りかかって待っていた。
「終わった?」
「うん」
「研究院?」
「推薦候補になった」
「すごい!」
「まだ候補」
「でもすごい」
「……ありがと」
二人で歩き始める。
「行く?」
セシルが聞いた。
「まだ決めてない」
「そっか」
「セシルは?」
「私?」
「卒業した後」
「考えてる」
「何したい?」
「まだ分からない」
「そっか」
「でも、前みたいにリリアについていくだけっていうのはやめる」
リリアがセシルを見る。
「自分で決める?」
「うん」
「いいと思う」
「それで」
「何?」
「別の場所になったらどうする?」
少しだけ不安そうな顔。
もう感情は読めない。
だからリリアは、ちゃんと言葉で答えた。
「会いに行く」
「……」
「何?」
「簡単に言うね」
「だって会いたいなら会いに行けばいいでしょ」
「遠かったら?」
「休みの日」
「もっと遠かったら?」
「長い休み」
「すごく遠かったら?」
「セシル」
「何?」
「私と別れたいの?」
「嫌!」
「じゃあ何とかする」
セシルが黙る。
「今決める必要ないよ」
リリアは続けた。
「卒業までまだ時間あるし。その時になったら二人で話せばいい」
「うん」
「私が研究院行くかも分からないし」
「うん」
「セシルが何したいかもこれからでしょ」
「うん」
「だから」
リリアは少し笑った。
「今は今日の帰りの約束だけ覚えてればいい」
「……キス?」
「声大きい!」
「ごめん!」
リリアは真っ赤になった。
「忘れてなかったんだ」
「リリアも覚えてるじゃん」
「今ので忘れた」
「嘘!」
「忘れた」
「思い出させる」
「どうやって」
「キスして」
「それ実行してるだけでしょ!」
放課後。
二人は一緒に女子寮へ戻った。
同じ寮。
同じ廊下を歩ける。
以前からそうだったのに、恋人になってからは妙に意識してしまう。
「リリアの部屋行っていい?」
セシルが聞いた。
「何で?」
「まだ帰りの約束してない」
「帰ってる途中じゃん」
「人いるし」
「……」
「駄目?」
リリアは少し考えた。
「いいよ」
部屋に入る。
特別なものは何もない。
いつもの自分の部屋。
セシルも初めて入るわけではない。
それなのに。
今日は少し違って感じた。
扉が閉まる。
二人きり。
「……」
「……」
「何で黙るの」
リリアが聞く。
「リリアが黙るから」
「セシルが黙ったんでしょ」
「何か緊張する」
「今さら?」
「恋人になってから二人で部屋いるの、意識すると違う」
「……言わないでよ」
「リリアも?」
「ちょっとだけ」
セシルが笑う。
ベッドの横。
二人で床に座る。
最初は授業の話をした。
今日の課題。
教師の癖。
研究院。
夕食。
明日の授業。
どうでもいい話。
気づけば、かなり時間が経っていた。
「こういうのいいね」
セシルが言った。
「何が?」
「何も起きないの」
リリアは笑った。
「分かる」
「最近ずっと事件だったから」
「接続率上がるたびに何か出てきたし」
「好きって言うだけで数字出るし」
「最悪だったね」
「私はちょっと楽しかった」
「何で?」
「リリアの気持ち分かったから」
「……」
「今は分からないけど」
セシルがリリアを見る。
「今、何考えてる?」
「またそれ?」
「聞かないと分からないから」
「……セシルのこと」
答える。
「え」
「だから聞いたんでしょ」
「何を?」
「それ以上は秘密」
「気になる」
「全部言わなくてもいいんでしょ?」
セシルが止まる。
それから笑った。
「うん」
「私にも秘密くらいある」
「じゃあ私も」
「何?」
「秘密」
「気になる」
「同じじゃん」
二人で笑った。
そのあと。
ふと静かになった。
窓の外はもう暗い。
セシルがリリアを見る。
リリアも見る。
何を考えているのか分からない。
でも。
朝の約束を思い出す。
「……する?」
リリアが聞いた。
「何を?」
「分かってるくせに」
「言ってほしい」
「嫌」
「じゃあ分からない」
「絶対分かってる」
「接続ないから」
「そういう時だけ!」
セシルが笑う。
「キス?」
「……うん」
「したい」
「私も」
セシルが少し近づく。
「いい?」
「うん」
唇が触れた。
短く。
一度離れる。
目が合う。
どちらからともなく、もう一度近づいた。
今度は少し長い。
リリアはセシルの服を軽く掴んだ。
離れた時。
セシルの顔が近い。
「……リリア」
「何?」
「可愛い」
「今言う?」
「思ったから」
「接続ないんだから黙ってればバレないのに」
「言いたかった」
「……そっか」
リリアは少し迷って。
セシルの肩へ頭を預けた。
「じゃあ私も言う」
「何?」
「好き」
セシルが固まる。
「……」
「何?」
「もう一回」
「嫌」
「何で!」
「今日何回言わせるの!」
「だって嬉しい」
「じゃあ覚えて」
「ずっと?」
「ずっと」
「……分かった」
少しだけ間が空く。
「私も好き」
「うん」
「ずっと好きだった」
その言葉に。
リリアは顔を上げた。
「……そういえば」
「何?」
「ちゃんと聞いてなかったかも」
「何を?」
「いつから?」
セシルが目を瞬いた。
「私を好きになったの」
「……入学して、そんなに経ってない頃」
「早くない?」
「早いよ」
「何で?」
「最初は顔」
「顔!?」
「だって綺麗だったから」
「……」
「でもすぐ、それだけじゃなくなった」
「何で?」
「何でもできるのに、興味ないことは本当に雑なところとか」
「褒めてる?」
「褒めてる」
「怪しい」
「自分では何でもできると思ってないところとか」
「思ってないよ」
「知ってる」
「あと?」
「意外と優しい」
「意外といらない」
「人のことよく見てる」
「……」
「私が困ってる時、何も聞かないで助けてくれたことあったでしょ」
「覚えてない」
「そういうところ」
セシルが笑う。
「リリアは覚えてないようなこと、私はいっぱい覚えてる」
胸が少し熱くなった。
「ずっと言わなかったの?」
「言えなかった」
「好きな人いるとは言ってたじゃん」
「リリアにね」
「私だとは言わずに」
「言えるわけないでしょ」
「何で?」
「友達でいられなくなるの怖かったから」
リリアは黙った。
セシルが自分を好きだった。
今なら知っている。
でも。
その頃のセシルは、一人で抱えていた。
「……長かったね」
「長かった」
「ごめん」
「何で謝るの?」
「気づかなかった」
「気づかれないようにしてたから」
「でも」
「いいの」
セシルは笑った。
「今は好きって言ってくれるから」
リリアはしばらくセシルを見ていた。
それから。
「じゃあ、いっぱい言った方がいい?」
「え?」
「今までの分」
「……言ってくれるの?」
「たまに」
「毎日」
「多い」
「じゃあ三日に一回」
「何で交渉になるの」
「週一」
「減ってる!」
二人で笑った。
リリアはその笑顔を見ながら思う。
セシルが自分を好きになったのは、接続術式のせいではない。
リリアがセシルを好きになったのも、過去の記録のせいではない。
入学式で出会った。
同じ時間を過ごした。
話した。
笑った。
時々喧嘩した。
セシルはずっと好きだった。
リリアは後から好きになった。
ただ、それだけ。
「セシル」
「何?」
「私ね」
「うん」
「接続切れてよかった」
「私も」
「でも」
「うん」
「セシルと繋がったのが嫌だったわけじゃないよ」
「分かってる」
「……今は分からないでしょ」
セシルが少し驚いて。
それから笑った。
「じゃあ、聞く」
「うん」
「どういう意味?」
「セシルと繋がったから、知れたこともあった」
「うん」
「セシルがずっと私を大事にしてくれてたこととか」
「うん」
「私も、自分が思ってたよりセシルのこと大事だったこととか」
「……うん」
「だから」
リリアは少し恥ずかしくなった。
でも。
もう勝手には伝わらない。
言わなければ。
セシルには分からない。
「好きになれてよかった」
セシルの目が大きくなる。
「リリア」
「何?」
「今日どうしたの?」
「何が?」
「いっぱい言ってくれる」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない!」
「じゃあいいでしょ」
「……嬉しい」
「うん」
「すごく」
「うん」
「リリア」
「何?」
「抱きしめていい?」
「聞かなくても――」
そこまで言って。
やめた。
「……ううん」
「?」
「聞いて」
リリアは笑った。
「これからも」
セシルも笑う。
「うん」
「いいよ」
抱きしめられる。
リリアも背中へ腕を回す。
相手の気持ちは分からない。
でも。
腕の強さは分かる。
温かさも。
声も。
笑った顔も。
そして。
言葉も。
「リリア」
「何?」
「好き」
「私も」
それで十分だった。
しばらくして、セシルが帰る時間になった。
扉の前。
「じゃあ明日」
「うん」
「朝」
「寝坊しないで」
「したら?」
「置いてく」
「迎えに来て」
「考えとく」
「絶対来て」
「起きればいいじゃん」
「じゃあ起きる」
「最初からそうして」
セシルが扉を開ける。
でも。
出る直前。
振り返った。
「リリア」
「何?」
「明日も好き?」
リリアは一瞬きょとんとした。
「何それ」
「何となく」
「未来の気持ちなんて分からないよ」
「……そっか」
少しだけ寂しそうな顔。
リリアは笑った。
「だから」
セシルを見る。
「明日も自分で選ぶよ」
「……」
「セシルのこと好きでいるのも」
「うん」
「会いに行くのも」
「うん」
「隣にいるのも」
少しだけ間を置く。
「毎日、私が決める」
セシルの目が潤む。
「泣くの?」
「泣かない」
「泣きそう」
「リリアのせい」
「何で」
「嬉しいから」
セシルが笑う。
「じゃあ私も」
「何を?」
「明日もリリアを選ぶ」
「うん」
「明後日も」
「先の予約は禁止」
「何で!」
「その日に決めるんでしょ?」
「……じゃあ明日また言う」
「うん」
「好きって」
「聞く」
「リリアも言って」
「気が向いたら」
「そこは言ってよ!」
リリアは笑った。
「おやすみ、セシル」
「おやすみ、リリア」
扉が閉まる。
部屋が静かになる。
胸の奥も静かだ。
もうセシルの感情は聞こえない。
それでも。
リリアは笑っていた。
明日になれば。
また会える。
何を考えているのか分からないセシルに。
その時は聞けばいい。
自分の気持ちも。
伝えたければ伝えればいい。
全部知らなくていい。
全部同じじゃなくていい。
別々の人間だから。
何度でも相手を知って。
何度でも近づいて。
何度でも選べる。
翌朝。
リリアがいつもの場所へ向かうと。
今日はセシルの方が先に来ていた。
「おはよう、リリア」
「おはよ」
「寝坊しなかった」
「偉い」
「子ども扱いしてる?」
「ちょっと」
「ひどい」
セシルが手を差し出す。
リリアはその手を見る。
そして。
迷わず握った。
「リリア」
「何?」
「今日も好き」
朝から。
またそれ。
そう思って。
でも今日は言わなかった。
「私も」
「……え?」
「一回で聞いて」
「待って、もう一回」
「嫌」
「リリア!」
笑いながら歩き出す。
白銀の髪と。
青い髪。
二人の手を繋ぐ術式は、もうどこにもない。
接続率も。
管理者も。
決められた未来も。
何もない。
あるのは。
自分で選べる今日と。
まだ決まっていない明日。
そして。
その隣を歩く、大好きな人。
リリアは繋いだ手を少しだけ強く握った。
「セシル」
「何?」
「明日も一緒に行こっか」
セシルが笑った。
「うん」
二人は並んで歩いていく。
明日も。
その次の日も。
誰かに決められたからではなく。
何かに繋がれているからでもなく。
自分の意思で。
何度でも。
互いを選びながら。
セシルルート 完

