魔法より、君に恋をする。

翌朝。

 リリアは目を覚まして、しばらくそのまま動かなかった。

 静かだった。

 胸の奥に意識を向けても、何もない。

 眠い。

 起きたくない。

 会いたい。

 そんなセシルの感情が、もう勝手に流れ込んでくることはない。

「……本当に終わったんだ」

 昨日。

 世界は自律循環へ移行した。

 管理者機構は消滅し、接続計画も終了した。

 世界が変わったというのに、窓の外は昨日までと何も変わらない。

 朝日が差している。

 廊下から誰かの話し声が聞こえる。

 今日も授業がある。

 そして。

 今日は、セシルが何時に起きたのか分からない。

「……寝坊してそう」

 そう思っても、確かめる方法はない。

 リリアは少し笑ってベッドから降りた。

 支度を終え、女子寮を出る。

 いつもの場所へ向かう。

 まだ姿はない。

「やっぱり」

 少し待つ。

 一分。

 二分。

 三分。

「遅い」

 接続があれば、とっくに起こせた。

 いや。

 そもそも、セシルがまだ寝ているかどうかすら分からない。

「……部屋まで行けばよかったかな」

 呟いた直後。

「誰の部屋?」

 後ろから声がした。

「っ!」

 振り返る。

 青い髪。

 セシルが立っていた。

「びっくりした!」

「おはよう」

「いつからいたの?」

「今」

「本当に?」

「本当」

「……何で笑ってるの」

「リリアが私の部屋まで来ようとしてたから」

「行こうとしてない」

「今言ってた」

「寝坊してたらって話!」

「心配してくれた?」

「遅刻されたら困るから」

「私が?」

「私が待つことになるでしょ」

「じゃあ待っててくれるんだ」

「……」

「リリア?」

「行くよ」

「誤魔化した」

「うるさい」

 歩き出す。

 数歩進んで。

 リリアは足を止めた。

「セシル」

「何?」

「手」

「え?」

「……繋がないの?」

 セシルが目を丸くする。

「昨日までは接続率上がるから控えてたでしょ」

「うん」

「もう関係ないし」

 少しだけ恥ずかしくなって、リリアは視線を逸らした。

「嫌ならいいけど」

「嫌じゃない!」

 すぐに手を取られた。

「早い」

「だってリリアから言った」

「そんな嬉しい?」

「嬉しい」

「……そっか」

 指を絡める。

 何も流れ込んでこない。

 ただ、手が温かい。

 それだけだった。

「リリア」

「何?」

「今、何考えてる?」

「教えない」

「えー」

「知りたい?」

「知りたい」

「じゃあ当てて」

「難しいな……」

 セシルが少し考える。

「私と手繋げて嬉しい?」

「……半分正解」

「半分?」

「もう半分は」

 リリアは繋いだ手を見る。

「これだけでよかったんだなって」

「これだけ?」

「うん」

 術式も。

 接続率も。

 感情同期も。

 そんなものがなくても。

 手を繋いで。

 隣を歩いて。

 好きな人がそこにいる。

「十分だった」

 セシルが黙った。

「何?」

「今、キスしたい」

「朝から?」

「駄目?」

「学院の前」

「じゃあ帰ってから」

「予約するものなの?」

「忘れないように」

「忘れないでしょ」

「リリアが忘れるかも」

「忘れないよ」

「じゃあ約束」

「……分かった」

 セシルが嬉しそうに笑った。

 もう、その嬉しさは流れ込んでこない。

 でも。

 顔を見れば分かる。

 午前の授業。

 リリアはいつも通り教師の説明を聞きながら、課題を先へ進めていた。

 隣から視線を感じる。

 一度。

 二度。

 三度。

「……何」

 小声で聞く。

「何が?」

「見てる」

「分かるんだ」

「これだけ見られたら分かるよ」

「接続ないのに?」

「目はあるから」

「すごい」

「馬鹿にしてる?」

「してない」

 セシルは少し笑って前を向く。

 数秒後。

 また見る。

「セシル」

「はい」

「授業」

「聞いてる」

「じゃあ前見て」

「リリアもノート以外のこと書いてるじゃん」

「これは授業の先」

「もう分かったの?」

「うん」

「やっぱりすごい」

「……」

「何?」

「褒められるのは嫌じゃない」

「知ってる」

「何で?」

「長い付き合いだから」

 リリアは少し笑った。

 そうだった。

 接続が始まるより前から。

 二人は入学式で出会って。

 友達になって。

 セシルはリリアを好きになった。

 リリアはその気持ちを知らないまま、ずっと隣にいた。

 接続がなくても。

 二人は最初から、相手のことを少しずつ知っていた。

 昼休み。

 二人はいつもの場所で食事をしていた。

「はい」

 セシルが小さな包みを差し出す。

「何?」

「卵焼き」

 リリアは止まった。

「……二個?」

「二個」

「覚えてたんだ」

「約束したから」

 以前、食事を半分あげる代わりに約束したもの。

「本当に持ってきたの?」

「うん」

「律儀」

「食べる?」

「食べる」

 一つ取る。

「どう?」

「おいしい」

「よかった」

 もう一つ。

 リリアが取ろうとして。

 止めた。

「セシル」

「何?」

「口開けて」

「え?」

「早く」

「……あー」

 セシルが素直に口を開ける。

 リリアは卵焼きを入れた。

「……」

「何その顔」

「リリアが食べさせてくれた」

「一個返しただけ」

「嬉しい」

「大げさ」

「もう一回」

「ないよ」

「他ので」

「嫌」

「何で!」

「恥ずかしいから!」

 セシルが笑う。

 リリアも笑った。

 こんなことでいい。

 こんなことがいい。

 世界の未来を決める選択なんて、もうしなくていい。

 午後。

 リリアは担当教師に呼ばれた。

「研究院から連絡が来た」

「何て?」

「先日の件だ。閲覧した資料については、研究院側でも調査するそうだ」

「そうですか」

「それと」

 教師が一枚の書類を差し出す。

「特別研究枠の推薦候補。正式に名前を出しておいた」

 リリアは紙を見る。

「……ありがとうございます」

「珍しく素直だな」

「私だってお礼くらい言います」

「行くか?」

 リリアは少し考えた。

 以前なら。

 面白そう。

 知りたい。

 それだけで即答したかもしれない。

「まだ決めません」

「そうか」

「でも、行きたいとは思ってます」

「なら十分だ」

 書類を受け取る。

 部屋を出ると。

 廊下の壁にセシルが寄りかかって待っていた。

「終わった?」

「うん」

「研究院?」

「推薦候補になった」

「すごい!」

「まだ候補」

「でもすごい」

「……ありがと」

 二人で歩き始める。

「行く?」

 セシルが聞いた。

「まだ決めてない」

「そっか」

「セシルは?」

「私?」

「卒業した後」

「考えてる」

「何したい?」

「まだ分からない」

「そっか」

「でも、前みたいにリリアについていくだけっていうのはやめる」

 リリアがセシルを見る。

「自分で決める?」

「うん」

「いいと思う」

「それで」

「何?」

「別の場所になったらどうする?」

 少しだけ不安そうな顔。

 もう感情は読めない。

 だからリリアは、ちゃんと言葉で答えた。

「会いに行く」

「……」

「何?」

「簡単に言うね」

「だって会いたいなら会いに行けばいいでしょ」

「遠かったら?」

「休みの日」

「もっと遠かったら?」

「長い休み」

「すごく遠かったら?」

「セシル」

「何?」

「私と別れたいの?」

「嫌!」

「じゃあ何とかする」

 セシルが黙る。

「今決める必要ないよ」

 リリアは続けた。

「卒業までまだ時間あるし。その時になったら二人で話せばいい」

「うん」

「私が研究院行くかも分からないし」

「うん」

「セシルが何したいかもこれからでしょ」

「うん」

「だから」

 リリアは少し笑った。

「今は今日の帰りの約束だけ覚えてればいい」

「……キス?」

「声大きい!」

「ごめん!」

 リリアは真っ赤になった。

「忘れてなかったんだ」

「リリアも覚えてるじゃん」

「今ので忘れた」

「嘘!」

「忘れた」

「思い出させる」

「どうやって」

「キスして」

「それ実行してるだけでしょ!」

 放課後。

 二人は一緒に女子寮へ戻った。

 同じ寮。

 同じ廊下を歩ける。

 以前からそうだったのに、恋人になってからは妙に意識してしまう。

「リリアの部屋行っていい?」

 セシルが聞いた。

「何で?」

「まだ帰りの約束してない」

「帰ってる途中じゃん」

「人いるし」

「……」

「駄目?」

 リリアは少し考えた。

「いいよ」

 部屋に入る。

 特別なものは何もない。

 いつもの自分の部屋。

 セシルも初めて入るわけではない。

 それなのに。

 今日は少し違って感じた。

 扉が閉まる。

 二人きり。

「……」

「……」

「何で黙るの」

 リリアが聞く。

「リリアが黙るから」

「セシルが黙ったんでしょ」

「何か緊張する」

「今さら?」

「恋人になってから二人で部屋いるの、意識すると違う」

「……言わないでよ」

「リリアも?」

「ちょっとだけ」

 セシルが笑う。

 ベッドの横。

 二人で床に座る。

 最初は授業の話をした。

 今日の課題。

 教師の癖。

 研究院。

 夕食。

 明日の授業。

 どうでもいい話。

 気づけば、かなり時間が経っていた。

「こういうのいいね」

 セシルが言った。

「何が?」

「何も起きないの」

 リリアは笑った。

「分かる」

「最近ずっと事件だったから」

「接続率上がるたびに何か出てきたし」

「好きって言うだけで数字出るし」

「最悪だったね」

「私はちょっと楽しかった」

「何で?」

「リリアの気持ち分かったから」

「……」

「今は分からないけど」

 セシルがリリアを見る。

「今、何考えてる?」

「またそれ?」

「聞かないと分からないから」

「……セシルのこと」

 答える。

「え」

「だから聞いたんでしょ」

「何を?」

「それ以上は秘密」

「気になる」

「全部言わなくてもいいんでしょ?」

 セシルが止まる。

 それから笑った。

「うん」

「私にも秘密くらいある」

「じゃあ私も」

「何?」

「秘密」

「気になる」

「同じじゃん」

 二人で笑った。

 そのあと。

 ふと静かになった。

 窓の外はもう暗い。

 セシルがリリアを見る。

 リリアも見る。

 何を考えているのか分からない。

 でも。

 朝の約束を思い出す。

「……する?」

 リリアが聞いた。

「何を?」

「分かってるくせに」

「言ってほしい」

「嫌」

「じゃあ分からない」

「絶対分かってる」

「接続ないから」

「そういう時だけ!」

 セシルが笑う。

「キス?」

「……うん」

「したい」

「私も」

 セシルが少し近づく。

「いい?」

「うん」

 唇が触れた。

 短く。

 一度離れる。

 目が合う。

 どちらからともなく、もう一度近づいた。

 今度は少し長い。

 リリアはセシルの服を軽く掴んだ。

 離れた時。

 セシルの顔が近い。

「……リリア」

「何?」

「可愛い」

「今言う?」

「思ったから」

「接続ないんだから黙ってればバレないのに」

「言いたかった」

「……そっか」

 リリアは少し迷って。

 セシルの肩へ頭を預けた。

「じゃあ私も言う」

「何?」

「好き」

 セシルが固まる。

「……」

「何?」

「もう一回」

「嫌」

「何で!」

「今日何回言わせるの!」

「だって嬉しい」

「じゃあ覚えて」

「ずっと?」

「ずっと」

「……分かった」

 少しだけ間が空く。

「私も好き」

「うん」

「ずっと好きだった」

 その言葉に。

 リリアは顔を上げた。

「……そういえば」

「何?」

「ちゃんと聞いてなかったかも」

「何を?」

「いつから?」

 セシルが目を瞬いた。

「私を好きになったの」

「……入学して、そんなに経ってない頃」

「早くない?」

「早いよ」

「何で?」

「最初は顔」

「顔!?」

「だって綺麗だったから」

「……」

「でもすぐ、それだけじゃなくなった」

「何で?」

「何でもできるのに、興味ないことは本当に雑なところとか」

「褒めてる?」

「褒めてる」

「怪しい」

「自分では何でもできると思ってないところとか」

「思ってないよ」

「知ってる」

「あと?」

「意外と優しい」

「意外といらない」

「人のことよく見てる」

「……」

「私が困ってる時、何も聞かないで助けてくれたことあったでしょ」

「覚えてない」

「そういうところ」

 セシルが笑う。

「リリアは覚えてないようなこと、私はいっぱい覚えてる」

 胸が少し熱くなった。

「ずっと言わなかったの?」

「言えなかった」

「好きな人いるとは言ってたじゃん」

「リリアにね」

「私だとは言わずに」

「言えるわけないでしょ」

「何で?」

「友達でいられなくなるの怖かったから」

 リリアは黙った。

 セシルが自分を好きだった。

 今なら知っている。

 でも。

 その頃のセシルは、一人で抱えていた。

「……長かったね」

「長かった」

「ごめん」

「何で謝るの?」

「気づかなかった」

「気づかれないようにしてたから」

「でも」

「いいの」

 セシルは笑った。

「今は好きって言ってくれるから」

 リリアはしばらくセシルを見ていた。

 それから。

「じゃあ、いっぱい言った方がいい?」

「え?」

「今までの分」

「……言ってくれるの?」

「たまに」

「毎日」

「多い」

「じゃあ三日に一回」

「何で交渉になるの」

「週一」

「減ってる!」

 二人で笑った。

 リリアはその笑顔を見ながら思う。

 セシルが自分を好きになったのは、接続術式のせいではない。

 リリアがセシルを好きになったのも、過去の記録のせいではない。

 入学式で出会った。

 同じ時間を過ごした。

 話した。

 笑った。

 時々喧嘩した。

 セシルはずっと好きだった。

 リリアは後から好きになった。

 ただ、それだけ。

「セシル」

「何?」

「私ね」

「うん」

「接続切れてよかった」

「私も」

「でも」

「うん」

「セシルと繋がったのが嫌だったわけじゃないよ」

「分かってる」

「……今は分からないでしょ」

 セシルが少し驚いて。

 それから笑った。

「じゃあ、聞く」

「うん」

「どういう意味?」

「セシルと繋がったから、知れたこともあった」

「うん」

「セシルがずっと私を大事にしてくれてたこととか」

「うん」

「私も、自分が思ってたよりセシルのこと大事だったこととか」

「……うん」

「だから」

 リリアは少し恥ずかしくなった。

 でも。

 もう勝手には伝わらない。

 言わなければ。

 セシルには分からない。

「好きになれてよかった」

 セシルの目が大きくなる。

「リリア」

「何?」

「今日どうしたの?」

「何が?」

「いっぱい言ってくれる」

「嫌ならやめる」

「嫌じゃない!」

「じゃあいいでしょ」

「……嬉しい」

「うん」

「すごく」

「うん」

「リリア」

「何?」

「抱きしめていい?」

「聞かなくても――」

 そこまで言って。

 やめた。

「……ううん」

「?」

「聞いて」

 リリアは笑った。

「これからも」

 セシルも笑う。

「うん」

「いいよ」

 抱きしめられる。

 リリアも背中へ腕を回す。

 相手の気持ちは分からない。

 でも。

 腕の強さは分かる。

 温かさも。

 声も。

 笑った顔も。

 そして。

 言葉も。

「リリア」

「何?」

「好き」

「私も」

 それで十分だった。

 しばらくして、セシルが帰る時間になった。

 扉の前。

「じゃあ明日」

「うん」

「朝」

「寝坊しないで」

「したら?」

「置いてく」

「迎えに来て」

「考えとく」

「絶対来て」

「起きればいいじゃん」

「じゃあ起きる」

「最初からそうして」

 セシルが扉を開ける。

 でも。

 出る直前。

 振り返った。

「リリア」

「何?」

「明日も好き?」

 リリアは一瞬きょとんとした。

「何それ」

「何となく」

「未来の気持ちなんて分からないよ」

「……そっか」

 少しだけ寂しそうな顔。

 リリアは笑った。

「だから」

 セシルを見る。

「明日も自分で選ぶよ」

「……」

「セシルのこと好きでいるのも」

「うん」

「会いに行くのも」

「うん」

「隣にいるのも」

 少しだけ間を置く。

「毎日、私が決める」

 セシルの目が潤む。

「泣くの?」

「泣かない」

「泣きそう」

「リリアのせい」

「何で」

「嬉しいから」

 セシルが笑う。

「じゃあ私も」

「何を?」

「明日もリリアを選ぶ」

「うん」

「明後日も」

「先の予約は禁止」

「何で!」

「その日に決めるんでしょ?」

「……じゃあ明日また言う」

「うん」

「好きって」

「聞く」

「リリアも言って」

「気が向いたら」

「そこは言ってよ!」

 リリアは笑った。

「おやすみ、セシル」

「おやすみ、リリア」

 扉が閉まる。

 部屋が静かになる。

 胸の奥も静かだ。

 もうセシルの感情は聞こえない。

 それでも。

 リリアは笑っていた。

 明日になれば。

 また会える。

 何を考えているのか分からないセシルに。

 その時は聞けばいい。

 自分の気持ちも。

 伝えたければ伝えればいい。

 全部知らなくていい。

 全部同じじゃなくていい。

 別々の人間だから。

 何度でも相手を知って。

 何度でも近づいて。

 何度でも選べる。

 翌朝。

 リリアがいつもの場所へ向かうと。

 今日はセシルの方が先に来ていた。

「おはよう、リリア」

「おはよ」

「寝坊しなかった」

「偉い」

「子ども扱いしてる?」

「ちょっと」

「ひどい」

 セシルが手を差し出す。

 リリアはその手を見る。

 そして。

 迷わず握った。

「リリア」

「何?」

「今日も好き」

 朝から。

 またそれ。

 そう思って。

 でも今日は言わなかった。

「私も」

「……え?」

「一回で聞いて」

「待って、もう一回」

「嫌」

「リリア!」

 笑いながら歩き出す。

 白銀の髪と。

 青い髪。

 二人の手を繋ぐ術式は、もうどこにもない。

 接続率も。

 管理者も。

 決められた未来も。

 何もない。

 あるのは。

 自分で選べる今日と。

 まだ決まっていない明日。

 そして。

 その隣を歩く、大好きな人。

 リリアは繋いだ手を少しだけ強く握った。

「セシル」

「何?」

「明日も一緒に行こっか」

 セシルが笑った。

「うん」

 二人は並んで歩いていく。

 明日も。

 その次の日も。

 誰かに決められたからではなく。

 何かに繋がれているからでもなく。

 自分の意思で。

 何度でも。

 互いを選びながら。

セシルルート 完