翌朝、リリアは目を覚ます前に違和感を覚えた。
身体が重いわけでも、頭が痛いわけでもない。ただ、意識が浮上するより少し早く、自分ではない感情が胸の奥に触れた。
眠い。
もう少し寝たい。
それから、ほんの少しだけ――会いたい。
「……」
目を開ける。
見慣れた自室の天井だった。
リリアはしばらく瞬きをしてから、ゆっくり上半身を起こした。
「今の、私?」
眠いのは自分も同じだ。もう少し寝たいのもそう。
けれど最後の感情だけは違った。
会いたい。
誰に。
考えるまでもない。
「……セシル?」
口にした途端、胸の奥がふわりと温かくなった。
「え」
まるで返事をされたようだった。
リリアは枕元に置いていた紙を掴む。
昨日、接続率は六十パーセントまで上がった。そして最後に表示された文字。
『自律接続――開始』
手を繋いでいなくても数字は上がった。五十を超えた時点で、それまでとは明らかに仕組みが変わっている。
「まさか、離れてても……?」
確かめる方法は簡単だった。
リリアは目を閉じる。
セシルを思い浮かべる。
青い髪。笑った顔。昨日最後に手を握った時の温度。
会いたい。
意識して、強く思う。
数秒。
何も起こらない。
「……さすがに都合よすぎるか」
そう呟いた瞬間。
胸の奥に驚きが走った。
次いで。
嬉しい。
そして。
恥ずかしい。
「……絶対セシルじゃん」
リリアは思わず笑った。
どうやら向こうにも届いたらしい。
便利なのか、とんでもなく困るのか。
まだ判断できない。
ただ一つ。
「……ちょっと可愛い」
言った直後、また向こうから恥ずかしさが流れ込んできた。
「これも届くの!?」
リリアは布団を被った。
「最悪! 何も考えられないじゃん!」
その頃、学院へ向かう支度をしていたセシルもまた、自室で顔を真っ赤にしていたことをリリアはまだ知らなかった。
正門の手前まで来ると、今日はリリアが先だった。
いつもの場所で待っていると、少しして青い髪が見える。
セシルもすぐにリリアを見つけた。
目が合った瞬間。
嬉しい。
胸の奥に流れ込んでくる。
「……」
「……」
二人とも足を止めた。
少し離れている。
それなのに分かる。
セシルが早足で近づいてくる。
「おはよう」
「おはよ」
「……朝の」
「言わないで」
「でも」
「絶対言わないで」
「リリアからやったんでしょ」
「実験!」
「『会いたい』が?」
「実験です!」
「『ちょっと可愛い』も?」
「セシル!」
リリアが慌てて口を塞ごうとすると、セシルが笑いながら避けた。
「何で聞こえてるの!?」
「聞こえたわけじゃないよ」
「じゃあ何で分かったの?」
「何となく意味が入ってきた感じ」
「最悪……」
「私は嬉しかったけど」
「そういうこと言うとまた何か伝わる!」
「もう伝わってるんじゃない?」
「やめて!」
リリアは顔を覆った。
セシルが笑う。
その楽しそうな感情まで伝わってくる。
「……これ、本当に困るね」
「私はちょっと楽しい」
「今に見てなさい」
「何するの?」
リリアは顔を上げ、じっとセシルを見る。
それから意識して一つの感情を強くした。
好き。
大好き。
昨日まで口にするだけで恥ずかしかった気持ちを、わざと真正面からセシルへ向ける。
「……っ」
セシルが固まった。
「どう?」
「リリア」
「何?」
「ずるい」
「届いた?」
「ものすごく」
「仕返し」
「朝からこれは駄目」
セシルの顔が真っ赤だった。
勝った。
そう思った次の瞬間。
今度は向こうから強烈な感情が返ってきた。
好き。
嬉しい。
抱きしめたい。
「――っ!」
リリアが一歩下がる。
「セシル!」
「仕返し」
「最後余計!」
「何が?」
「分かってるでしょ!」
「分かんない」
「嘘!」
二人とも顔を真っ赤にしたまま、しばらくその場から動けなかった。
「……禁止にしない?」
リリアが言う。
「何を?」
「わざと強い感情送るの」
「リリアが始めたのに」
「だから反省してる」
「私は楽しかった」
「私は心臓もたない」
「じゃあ禁止」
「うん」
「でも普通に思っちゃった分は?」
「それは仕方ない」
「リリアのこと可愛いって思うのは?」
「できれば抑えて」
「無理」
「努力して!」
そんな話をしながら学院へ入った。
授業が始まる頃には、接続は少し落ち着いていた。
常に相手の感情が流れ込んでくるわけではないらしい。強く動いた時だけ、意味の輪郭が伝わってくる。
それでも、以前とは明らかに違う。
午前の授業中。
教師が難しい問題を黒板に書いた。
「では、この術式の欠陥を説明できる者は?」
リリアは黒板を見る。
答えはすぐ分かった。
第三式と第五式の魔力経路が干渉している。通常なら安定して見えるが、出力が一定値を超えれば――。
その瞬間。
隣の席のセシルが手を挙げた。
「第三式と第五式の経路干渉です。出力を上げた場合、補助式が先に崩れると思います」
リリアが固まった。
教師は頷く。
「正解だ。よく分かったな」
「……ありがとうございます」
セシルも少し戸惑っている。
座った瞬間、二人は顔を見合わせた。
「今の」
リリアが小声で言う。
「私も思った」
「元から分かってた?」
「……途中までしか」
「どこまで?」
「経路が怪しいな、くらい」
「じゃあ残りは?」
「急に分かった」
リリアは眉を寄せた。
感情だけではない。
思考。
まだ文章そのものが伝わったわけではない。
けれどリリアが答えへ辿り着いた瞬間、その構造の一部がセシルへ流れた可能性がある。
「あとで確認しよう」
「うん」
授業へ戻る。
しかし、リリアの頭は別の意味で忙しくなっていた。
六十パーセント。
感情だけでなく思考の一部まで共有され始めている。
なら、七十。
八十。
九十。
その先では何が起こる。
そして百になったら。
放課後、二人は図書室の奥にある個室を借りた。
「実験するよ」
リリアが紙を二枚用意する。
「何するの?」
「私が頭の中で図形を一つ思い浮かべる。セシルは何が浮かんだか描く」
「なるほど」
「ただし当てようとしないで。何も分からなかったら白紙」
「分かった」
二人は背中合わせに座った。
「始めるよ」
「うん」
リリアは目を閉じる。
三角形。
ただし普通の三角形では簡単すぎる。
その中に円。
右上に小さな点。
強く思い浮かべる。
「……」
数秒。
「いいよ」
振り返る。
セシルの紙を見る。
「……え」
三角形。
その中に円。
右上に、小さな点。
完全ではない。
円が少しずれている。
でも偶然とは考えにくかった。
「見えた?」
「見えたっていうか……何となく、こうかなって」
「もう一回」
今度は数字。
七。
ただの七ではない。
青い七。
「いいよ」
セシルの紙。
『7』
その横に小さく。
『青?』
「……」
「当たった?」
「当たった」
「色まで?」
「うん」
二人は黙った。
「次、逆」
セシルが目を閉じる。
リリアは白紙を見つめた。
しばらく何もない。
そして。
甘い。
「……?」
映像ではない。
味の印象。
続いて丸い形。
赤。
リリアは紙にリンゴを描いた。
「どう?」
セシルが振り返る。
「……リンゴ考えてた」
「やっぱり」
「何で分かったの?」
「味までちょっと来た」
「私、味まで考えてないよ」
「え?」
「リンゴを思い浮かべただけ」
リリアは眉を寄せた。
「じゃあ私が勝手に補完した?」
「可能性ある?」
「ある。情報そのものじゃなくて、断片を受け取って自分の脳が意味を作ってるのかも」
「だから完全に同じじゃない?」
「たぶん」
リリアは結果を書き留める。
「六十パーセントで、強い感情。単純なイメージ。思考の一部」
「十分すごくない?」
「すごい。というか危ない」
「危ない?」
「もしもっと上がったら、自分の考えとセシルの考えの区別がつかなくなる可能性がある」
セシルの表情が少し曇った。
「……それは嫌だな」
「私も」
「リリアの考えてること知れるのは嬉しいけど」
「私は嫌」
「即答」
「だって全部だよ?」
「例えば?」
「言わない」
「今、何か考えた?」
「考えてない」
「嘘」
「分かるの!?」
「顔」
「またそれ!」
セシルが笑った。
リリアはため息をつきながらも、少し安心した。
まだ大丈夫。
自分とセシルの境界は、はっきりしている。
実験を終え、資料を片づける。
「今日は数字出なかったね」
「うん」
「六十のままかな」
「たぶん」
リリアが立ち上がった時だった。
机の端に置いたペンが転がる。
「あ」
拾おうとして手を伸ばす。
同時にセシルも手を伸ばした。
指先が重なった。
「……」
「……」
目が合う。
昨日なら、ここで笑っていた。
でも今日は。
触れた瞬間に。
セシルの感情が流れ込んできた。
近い。
好き。
昨日の続き。
「……」
リリアの心臓が跳ねた。
「セシル」
「何?」
「今、何考えた?」
「……言わない」
「分かったけど」
「じゃあ聞かないで」
セシルの顔が赤い。
リリアも自分の顔が熱くなる。
昨日。
資料室で。
あと少しまで近づいた。
キス。
その言葉を意識した瞬間。
今度はリリアの感情が向こうへ流れた。
「……リリア」
「何」
「同じこと考えた?」
「知らない」
「分かった」
「言わないで」
「うん」
どちらも手を引かなかった。
指先が触れたまま。
視線も逸らさない。
「……昨日、五十超えたね」
セシルが小さく言った。
「うん」
「もう今さら、二ポイント気にする必要ないね」
「そういう問題?」
「違う?」
「……分かんない」
セシルが少し近づく。
リリアは逃げなかった。
「嫌だったら言って」
「嫌じゃない」
「本当に?」
「何で二回聞くの」
「緊張してるから」
それが可愛くて。
リリアは少し笑った。
「私も緊張してる」
「分かる」
「接続?」
「顔」
「……もう」
今度はリリアから少しだけ近づいた。
距離がなくなる。
目を閉じるタイミングすら分からない。
直前まで互いを見ていた。
そして。
ほんの一瞬。
唇が触れた。
「……」
離れる。
二人とも動けない。
「……した」
リリアが呟いた。
「うん」
「キスした」
「うん」
「……」
「……」
「セシル」
「何?」
「顔赤い」
「リリアも」
「知ってる」
数秒。
どちらからともなく笑った。
「思ってたより一瞬だった」
「緊張したから」
「もう一回する?」
言ったのはリリアだった。
言ってから自分で驚く。
「……今の忘れて」
「無理」
「やっぱりなし」
「嫌」
「セシル?」
「私も、もう一回したい」
胸が跳ねる。
今度は最初より少しだけ自然だった。
セシルの手が、そっとリリアの頬に触れる。
リリアも目を閉じた。
二度目のキスは、一度目より少し長かった。
離れたあとも、額が触れそうな距離にいる。
「……好き」
セシルが囁く。
「うん」
「そこは?」
「……私も好き」
言葉にしなくても伝わる。
それでも。
言葉で聞く方が嬉しかった。
「接続なくても、これでいいのにね」
リリアが呟く。
「うん」
「何でこんなものがあるんだろ」
「分からない」
セシルの親指が、リリアの頬をそっと撫でる。
その時。
ぱちん。
「……」
「……」
二人は同時に天井を見た。
魔導灯が消えた。
「やっぱり出るの!?」
「出ると思った」
「言ってよ!」
光が浮かぶ。
円と三本の線。
「何パーセント?」
「六十二くらい?」
「二回したから?」
「一回一ポイント制だったら嫌だな」
「何その制度!」
表示が現れる。
『接続率 六十八パーセント』
「……」
「……」
リリアは目を細めた。
「八?」
「上がりすぎじゃない?」
「二回で八?」
「回数じゃないと思う」
リリアはすぐに紙を取る。
「六十から六十八。上昇幅八。直前の行動は接触と――」
「キスって書くの?」
「記録だから」
「恥ずかしい」
「私だって恥ずかしいよ!」
書きながら、リリアはふと手を止めた。
「待って」
「何?」
「感情」
「え?」
「キスそのものじゃない」
リリアはセシルを見る。
「一回目より二回目の方が、ずっと安心した」
「……私も」
「嬉しかった?」
「うん」
「私も」
感情の一致。
昼間、四十九へ上がった時も。
二人が同じ瞬間に同じ幸福感を持った。
「接続率が上がる条件、これかもしれない」
「同じ気持ちになること?」
「完全に同じじゃなくても、強く同調すること」
「だから『接続』なんだ」
「たぶん」
光が変わる。
『第二階層 安定』
続いて。
『外部記録 追加開放』
「また来る」
二人は自然に手を握った。
視界が白く染まる。
今度の映像は短かった。
暗い部屋。
机。
誰かの手だけが見える。
その手が、一枚の紙へ文字を書いている。
『対象LILIA』
その下。
『接続候補は複数存在』
次の行。
『ただし、CECILにおいてのみ――』
文字が滲む。
映像が乱れる。
「もう少し……!」
リリアは必死に読む。
『感情同期値――』
そこから先が欠けている。
次の瞬間。
映像が消えた。
「……戻った」
資料室。
セシルが隣にいる。
「見えた?」
「うん」
「私だけじゃなかった」
「接続候補?」
「うん」
リリアはすぐに紙へ書き留める。
「複数いた。でもセシルだけ、何かが違った」
「感情同期値?」
「そこから読めなかった」
「……何なんだろ」
「分からない。でも」
リリアはペンを止めた。
「少なくとも、セシルに過去の記憶があるとか、そういう話じゃない」
「うん」
「誰かが外から私とセシルを調べて、候補として記録した」
「いつ?」
「それが分からない」
「何のために?」
「それも」
謎は増える。
けれど方向は見え始めた。
セシルの中に秘密が眠っているのではない。
秘密を持っているのは、この術式を作った側だ。
「……管理」
リリアが呟く。
「昨日の?」
「うん。記録作成者のところに出た文字」
「管理って、人?」
「名前の一部か、役職か、それとも組織か」
「調べられる?」
「学院の資料だけじゃ難しいかも」
「じゃあどうする?」
リリアは少し考えた。
「外に当たる」
「外?」
「学院が持ってる資料より古い記録。王立文書庫とか、魔法研究院とか」
「入れるの?」
「普通なら難しい」
「普通なら?」
リリアはにやりと笑った。
「私、成績いいから」
「こういう時だけ天才を便利に使うよね」
「使えるものは使います」
「課題は忘れるのに」
「それは関係ない!」
セシルが笑った。
リリアも笑う。
その笑顔を見て。
さっきのキスを思い出して。
また少し胸が温かくなった。
「……セシル」
「何?」
「今日、もう一回はなしね」
「何が?」
「分かってるでしょ」
「分かんない」
「接続率上がるから!」
「じゃあ上がらなかったらいいの?」
「そういう意味じゃ――」
言葉に詰まる。
セシルが楽しそうに笑った。
「リリア」
「何」
「また明日ね」
その言葉が妙に優しくて。
リリアも笑った。
「うん。また明日」
帰り道。
二人は途中で別れた。
今日は抱きしめない。
キスもしない。
ただ手を振って、それぞれの道を歩く。
それでも。
十歩ほど進んだところで。
胸の奥に声ではない何かが届いた。
好き。
リリアは足を止めなかった。
振り返りもしなかった。
ただ、笑った。
私も。
そう思う。
遠く離れたところから、嬉しいという感情が返ってきた。
接続率六十八パーセント。
もう触れなくても。
顔を見なくても。
二人の間には、確かに何かが通っている。
そしてその夜。
リリアが眠りについたあと。
机の上の印が再び淡く光った。
『接続率 六十八パーセント』
『第三階層解放条件 七十パーセント』
あと二。
その下に、新しい表示が浮かぶ。
『開示予定情報――接続計画』
少し間を置いて、もう一行。
『管理者記録 参照可能』
光は静かに消えた。
リリアは知らない。
セシルも知らない。
けれど次に数字が動いた時。
二人はようやく、この接続が何のために作られたのか、その最初の答えに触れることになる。
身体が重いわけでも、頭が痛いわけでもない。ただ、意識が浮上するより少し早く、自分ではない感情が胸の奥に触れた。
眠い。
もう少し寝たい。
それから、ほんの少しだけ――会いたい。
「……」
目を開ける。
見慣れた自室の天井だった。
リリアはしばらく瞬きをしてから、ゆっくり上半身を起こした。
「今の、私?」
眠いのは自分も同じだ。もう少し寝たいのもそう。
けれど最後の感情だけは違った。
会いたい。
誰に。
考えるまでもない。
「……セシル?」
口にした途端、胸の奥がふわりと温かくなった。
「え」
まるで返事をされたようだった。
リリアは枕元に置いていた紙を掴む。
昨日、接続率は六十パーセントまで上がった。そして最後に表示された文字。
『自律接続――開始』
手を繋いでいなくても数字は上がった。五十を超えた時点で、それまでとは明らかに仕組みが変わっている。
「まさか、離れてても……?」
確かめる方法は簡単だった。
リリアは目を閉じる。
セシルを思い浮かべる。
青い髪。笑った顔。昨日最後に手を握った時の温度。
会いたい。
意識して、強く思う。
数秒。
何も起こらない。
「……さすがに都合よすぎるか」
そう呟いた瞬間。
胸の奥に驚きが走った。
次いで。
嬉しい。
そして。
恥ずかしい。
「……絶対セシルじゃん」
リリアは思わず笑った。
どうやら向こうにも届いたらしい。
便利なのか、とんでもなく困るのか。
まだ判断できない。
ただ一つ。
「……ちょっと可愛い」
言った直後、また向こうから恥ずかしさが流れ込んできた。
「これも届くの!?」
リリアは布団を被った。
「最悪! 何も考えられないじゃん!」
その頃、学院へ向かう支度をしていたセシルもまた、自室で顔を真っ赤にしていたことをリリアはまだ知らなかった。
正門の手前まで来ると、今日はリリアが先だった。
いつもの場所で待っていると、少しして青い髪が見える。
セシルもすぐにリリアを見つけた。
目が合った瞬間。
嬉しい。
胸の奥に流れ込んでくる。
「……」
「……」
二人とも足を止めた。
少し離れている。
それなのに分かる。
セシルが早足で近づいてくる。
「おはよう」
「おはよ」
「……朝の」
「言わないで」
「でも」
「絶対言わないで」
「リリアからやったんでしょ」
「実験!」
「『会いたい』が?」
「実験です!」
「『ちょっと可愛い』も?」
「セシル!」
リリアが慌てて口を塞ごうとすると、セシルが笑いながら避けた。
「何で聞こえてるの!?」
「聞こえたわけじゃないよ」
「じゃあ何で分かったの?」
「何となく意味が入ってきた感じ」
「最悪……」
「私は嬉しかったけど」
「そういうこと言うとまた何か伝わる!」
「もう伝わってるんじゃない?」
「やめて!」
リリアは顔を覆った。
セシルが笑う。
その楽しそうな感情まで伝わってくる。
「……これ、本当に困るね」
「私はちょっと楽しい」
「今に見てなさい」
「何するの?」
リリアは顔を上げ、じっとセシルを見る。
それから意識して一つの感情を強くした。
好き。
大好き。
昨日まで口にするだけで恥ずかしかった気持ちを、わざと真正面からセシルへ向ける。
「……っ」
セシルが固まった。
「どう?」
「リリア」
「何?」
「ずるい」
「届いた?」
「ものすごく」
「仕返し」
「朝からこれは駄目」
セシルの顔が真っ赤だった。
勝った。
そう思った次の瞬間。
今度は向こうから強烈な感情が返ってきた。
好き。
嬉しい。
抱きしめたい。
「――っ!」
リリアが一歩下がる。
「セシル!」
「仕返し」
「最後余計!」
「何が?」
「分かってるでしょ!」
「分かんない」
「嘘!」
二人とも顔を真っ赤にしたまま、しばらくその場から動けなかった。
「……禁止にしない?」
リリアが言う。
「何を?」
「わざと強い感情送るの」
「リリアが始めたのに」
「だから反省してる」
「私は楽しかった」
「私は心臓もたない」
「じゃあ禁止」
「うん」
「でも普通に思っちゃった分は?」
「それは仕方ない」
「リリアのこと可愛いって思うのは?」
「できれば抑えて」
「無理」
「努力して!」
そんな話をしながら学院へ入った。
授業が始まる頃には、接続は少し落ち着いていた。
常に相手の感情が流れ込んでくるわけではないらしい。強く動いた時だけ、意味の輪郭が伝わってくる。
それでも、以前とは明らかに違う。
午前の授業中。
教師が難しい問題を黒板に書いた。
「では、この術式の欠陥を説明できる者は?」
リリアは黒板を見る。
答えはすぐ分かった。
第三式と第五式の魔力経路が干渉している。通常なら安定して見えるが、出力が一定値を超えれば――。
その瞬間。
隣の席のセシルが手を挙げた。
「第三式と第五式の経路干渉です。出力を上げた場合、補助式が先に崩れると思います」
リリアが固まった。
教師は頷く。
「正解だ。よく分かったな」
「……ありがとうございます」
セシルも少し戸惑っている。
座った瞬間、二人は顔を見合わせた。
「今の」
リリアが小声で言う。
「私も思った」
「元から分かってた?」
「……途中までしか」
「どこまで?」
「経路が怪しいな、くらい」
「じゃあ残りは?」
「急に分かった」
リリアは眉を寄せた。
感情だけではない。
思考。
まだ文章そのものが伝わったわけではない。
けれどリリアが答えへ辿り着いた瞬間、その構造の一部がセシルへ流れた可能性がある。
「あとで確認しよう」
「うん」
授業へ戻る。
しかし、リリアの頭は別の意味で忙しくなっていた。
六十パーセント。
感情だけでなく思考の一部まで共有され始めている。
なら、七十。
八十。
九十。
その先では何が起こる。
そして百になったら。
放課後、二人は図書室の奥にある個室を借りた。
「実験するよ」
リリアが紙を二枚用意する。
「何するの?」
「私が頭の中で図形を一つ思い浮かべる。セシルは何が浮かんだか描く」
「なるほど」
「ただし当てようとしないで。何も分からなかったら白紙」
「分かった」
二人は背中合わせに座った。
「始めるよ」
「うん」
リリアは目を閉じる。
三角形。
ただし普通の三角形では簡単すぎる。
その中に円。
右上に小さな点。
強く思い浮かべる。
「……」
数秒。
「いいよ」
振り返る。
セシルの紙を見る。
「……え」
三角形。
その中に円。
右上に、小さな点。
完全ではない。
円が少しずれている。
でも偶然とは考えにくかった。
「見えた?」
「見えたっていうか……何となく、こうかなって」
「もう一回」
今度は数字。
七。
ただの七ではない。
青い七。
「いいよ」
セシルの紙。
『7』
その横に小さく。
『青?』
「……」
「当たった?」
「当たった」
「色まで?」
「うん」
二人は黙った。
「次、逆」
セシルが目を閉じる。
リリアは白紙を見つめた。
しばらく何もない。
そして。
甘い。
「……?」
映像ではない。
味の印象。
続いて丸い形。
赤。
リリアは紙にリンゴを描いた。
「どう?」
セシルが振り返る。
「……リンゴ考えてた」
「やっぱり」
「何で分かったの?」
「味までちょっと来た」
「私、味まで考えてないよ」
「え?」
「リンゴを思い浮かべただけ」
リリアは眉を寄せた。
「じゃあ私が勝手に補完した?」
「可能性ある?」
「ある。情報そのものじゃなくて、断片を受け取って自分の脳が意味を作ってるのかも」
「だから完全に同じじゃない?」
「たぶん」
リリアは結果を書き留める。
「六十パーセントで、強い感情。単純なイメージ。思考の一部」
「十分すごくない?」
「すごい。というか危ない」
「危ない?」
「もしもっと上がったら、自分の考えとセシルの考えの区別がつかなくなる可能性がある」
セシルの表情が少し曇った。
「……それは嫌だな」
「私も」
「リリアの考えてること知れるのは嬉しいけど」
「私は嫌」
「即答」
「だって全部だよ?」
「例えば?」
「言わない」
「今、何か考えた?」
「考えてない」
「嘘」
「分かるの!?」
「顔」
「またそれ!」
セシルが笑った。
リリアはため息をつきながらも、少し安心した。
まだ大丈夫。
自分とセシルの境界は、はっきりしている。
実験を終え、資料を片づける。
「今日は数字出なかったね」
「うん」
「六十のままかな」
「たぶん」
リリアが立ち上がった時だった。
机の端に置いたペンが転がる。
「あ」
拾おうとして手を伸ばす。
同時にセシルも手を伸ばした。
指先が重なった。
「……」
「……」
目が合う。
昨日なら、ここで笑っていた。
でも今日は。
触れた瞬間に。
セシルの感情が流れ込んできた。
近い。
好き。
昨日の続き。
「……」
リリアの心臓が跳ねた。
「セシル」
「何?」
「今、何考えた?」
「……言わない」
「分かったけど」
「じゃあ聞かないで」
セシルの顔が赤い。
リリアも自分の顔が熱くなる。
昨日。
資料室で。
あと少しまで近づいた。
キス。
その言葉を意識した瞬間。
今度はリリアの感情が向こうへ流れた。
「……リリア」
「何」
「同じこと考えた?」
「知らない」
「分かった」
「言わないで」
「うん」
どちらも手を引かなかった。
指先が触れたまま。
視線も逸らさない。
「……昨日、五十超えたね」
セシルが小さく言った。
「うん」
「もう今さら、二ポイント気にする必要ないね」
「そういう問題?」
「違う?」
「……分かんない」
セシルが少し近づく。
リリアは逃げなかった。
「嫌だったら言って」
「嫌じゃない」
「本当に?」
「何で二回聞くの」
「緊張してるから」
それが可愛くて。
リリアは少し笑った。
「私も緊張してる」
「分かる」
「接続?」
「顔」
「……もう」
今度はリリアから少しだけ近づいた。
距離がなくなる。
目を閉じるタイミングすら分からない。
直前まで互いを見ていた。
そして。
ほんの一瞬。
唇が触れた。
「……」
離れる。
二人とも動けない。
「……した」
リリアが呟いた。
「うん」
「キスした」
「うん」
「……」
「……」
「セシル」
「何?」
「顔赤い」
「リリアも」
「知ってる」
数秒。
どちらからともなく笑った。
「思ってたより一瞬だった」
「緊張したから」
「もう一回する?」
言ったのはリリアだった。
言ってから自分で驚く。
「……今の忘れて」
「無理」
「やっぱりなし」
「嫌」
「セシル?」
「私も、もう一回したい」
胸が跳ねる。
今度は最初より少しだけ自然だった。
セシルの手が、そっとリリアの頬に触れる。
リリアも目を閉じた。
二度目のキスは、一度目より少し長かった。
離れたあとも、額が触れそうな距離にいる。
「……好き」
セシルが囁く。
「うん」
「そこは?」
「……私も好き」
言葉にしなくても伝わる。
それでも。
言葉で聞く方が嬉しかった。
「接続なくても、これでいいのにね」
リリアが呟く。
「うん」
「何でこんなものがあるんだろ」
「分からない」
セシルの親指が、リリアの頬をそっと撫でる。
その時。
ぱちん。
「……」
「……」
二人は同時に天井を見た。
魔導灯が消えた。
「やっぱり出るの!?」
「出ると思った」
「言ってよ!」
光が浮かぶ。
円と三本の線。
「何パーセント?」
「六十二くらい?」
「二回したから?」
「一回一ポイント制だったら嫌だな」
「何その制度!」
表示が現れる。
『接続率 六十八パーセント』
「……」
「……」
リリアは目を細めた。
「八?」
「上がりすぎじゃない?」
「二回で八?」
「回数じゃないと思う」
リリアはすぐに紙を取る。
「六十から六十八。上昇幅八。直前の行動は接触と――」
「キスって書くの?」
「記録だから」
「恥ずかしい」
「私だって恥ずかしいよ!」
書きながら、リリアはふと手を止めた。
「待って」
「何?」
「感情」
「え?」
「キスそのものじゃない」
リリアはセシルを見る。
「一回目より二回目の方が、ずっと安心した」
「……私も」
「嬉しかった?」
「うん」
「私も」
感情の一致。
昼間、四十九へ上がった時も。
二人が同じ瞬間に同じ幸福感を持った。
「接続率が上がる条件、これかもしれない」
「同じ気持ちになること?」
「完全に同じじゃなくても、強く同調すること」
「だから『接続』なんだ」
「たぶん」
光が変わる。
『第二階層 安定』
続いて。
『外部記録 追加開放』
「また来る」
二人は自然に手を握った。
視界が白く染まる。
今度の映像は短かった。
暗い部屋。
机。
誰かの手だけが見える。
その手が、一枚の紙へ文字を書いている。
『対象LILIA』
その下。
『接続候補は複数存在』
次の行。
『ただし、CECILにおいてのみ――』
文字が滲む。
映像が乱れる。
「もう少し……!」
リリアは必死に読む。
『感情同期値――』
そこから先が欠けている。
次の瞬間。
映像が消えた。
「……戻った」
資料室。
セシルが隣にいる。
「見えた?」
「うん」
「私だけじゃなかった」
「接続候補?」
「うん」
リリアはすぐに紙へ書き留める。
「複数いた。でもセシルだけ、何かが違った」
「感情同期値?」
「そこから読めなかった」
「……何なんだろ」
「分からない。でも」
リリアはペンを止めた。
「少なくとも、セシルに過去の記憶があるとか、そういう話じゃない」
「うん」
「誰かが外から私とセシルを調べて、候補として記録した」
「いつ?」
「それが分からない」
「何のために?」
「それも」
謎は増える。
けれど方向は見え始めた。
セシルの中に秘密が眠っているのではない。
秘密を持っているのは、この術式を作った側だ。
「……管理」
リリアが呟く。
「昨日の?」
「うん。記録作成者のところに出た文字」
「管理って、人?」
「名前の一部か、役職か、それとも組織か」
「調べられる?」
「学院の資料だけじゃ難しいかも」
「じゃあどうする?」
リリアは少し考えた。
「外に当たる」
「外?」
「学院が持ってる資料より古い記録。王立文書庫とか、魔法研究院とか」
「入れるの?」
「普通なら難しい」
「普通なら?」
リリアはにやりと笑った。
「私、成績いいから」
「こういう時だけ天才を便利に使うよね」
「使えるものは使います」
「課題は忘れるのに」
「それは関係ない!」
セシルが笑った。
リリアも笑う。
その笑顔を見て。
さっきのキスを思い出して。
また少し胸が温かくなった。
「……セシル」
「何?」
「今日、もう一回はなしね」
「何が?」
「分かってるでしょ」
「分かんない」
「接続率上がるから!」
「じゃあ上がらなかったらいいの?」
「そういう意味じゃ――」
言葉に詰まる。
セシルが楽しそうに笑った。
「リリア」
「何」
「また明日ね」
その言葉が妙に優しくて。
リリアも笑った。
「うん。また明日」
帰り道。
二人は途中で別れた。
今日は抱きしめない。
キスもしない。
ただ手を振って、それぞれの道を歩く。
それでも。
十歩ほど進んだところで。
胸の奥に声ではない何かが届いた。
好き。
リリアは足を止めなかった。
振り返りもしなかった。
ただ、笑った。
私も。
そう思う。
遠く離れたところから、嬉しいという感情が返ってきた。
接続率六十八パーセント。
もう触れなくても。
顔を見なくても。
二人の間には、確かに何かが通っている。
そしてその夜。
リリアが眠りについたあと。
机の上の印が再び淡く光った。
『接続率 六十八パーセント』
『第三階層解放条件 七十パーセント』
あと二。
その下に、新しい表示が浮かぶ。
『開示予定情報――接続計画』
少し間を置いて、もう一行。
『管理者記録 参照可能』
光は静かに消えた。
リリアは知らない。
セシルも知らない。
けれど次に数字が動いた時。
二人はようやく、この接続が何のために作られたのか、その最初の答えに触れることになる。

