翌朝、リリアが目を覚ました時、机の上の紙はいつもと変わらない姿で置かれていた。
昨夜そこに文字が浮かんだことなど、リリアは知らない。まして、その最後に自分の名前が表示されていたことも。
眠い目を擦りながら起き上がり、昨日までの出来事を頭の中で整理する。接続率は四十八パーセント。五十を超える接続は推奨されない。そして昨日、キスをしかけただけで五ポイントも上昇した。
「……しかけただけで五って何なの」
思い出した途端、顔が熱くなった。
あと少しだった。セシルの顔が近くにあって、互いに離れなくて、このままならたぶん――。
「朝から考えるのやめよ」
リリアは両手で頬を叩いた。
五十まであと二ポイントしかない。原因が完全に分からない以上、今日は慎重にするべきだ。手を繋ぐ程度なら昨日は大きく変化しなかった。抱きしめるのも、できれば控える。キスなんてもってのほか。
そう決めて学院へ向かったのに、正門前でセシルを見つけた瞬間、その決意は早くも少し揺らいだ。
「おはよう、リリア」
「おはよ」
青い髪が朝日に照らされている。昨日より少し眠そうだった。
「寝不足?」
「ちょっと」
「また考えてた?」
「うん。五十になったらどうなるのかなって」
「私も考えた。でも答え出なかった」
「そっか」
二人は並んで歩き始めた。
いつもなら、どちらからともなく手を繋ぐところだった。けれど今日は、二人とも手を出さない。
歩く。
少しだけ手が近づく。
離れる。
また近づく。
「……」
「……」
「気になるね」
先に言ったのはセシルだった。
「何が?」
「手」
「私は別に」
「今三回くらいこっち見たよ」
「見てない」
「見てた」
「セシルだって手動かしてたじゃん」
「リリアが繋ぎたそうだったから」
「人のせいにしないで」
二人で顔を見合わせた。
数秒後、同時に笑ってしまう。
「今日は禁止にする?」
セシルが聞いた。
「……手くらいなら大丈夫じゃない?」
「四十八だよ?」
「昨日、普通に繋いでても上がらなかったし」
「じゃあ繋ぐ?」
「セシルが繋ぎたいなら」
「リリアは?」
「……繋ぎたい」
結局、手を繋いだ。
「私たち意思弱くない?」
「まだ手だけだよ」
「その言い方やめて」
「何で?」
「その先があるみたいだから」
「あるでしょ。恋人なんだから」
「朝からそういうこと言うの禁止!」
セシルが笑う。
リリアは顔を逸らした。
でも手は離さなかった。
午前の授業中、異変は何も起こらなかった。
セシルの感情が流れ込んでくることもない。謎の術式が現れることもない。リリアは少しだけ安心しながら、教師の説明を聞いていた。
昼休みになると、二人は食堂へ向かった。昨日までなら向かいに座ることが多かったが、恋人になってから何となく隣に座ることが増えている。
「近くない?」
セシルが聞く。
「今さら?」
「いや、嬉しいけど」
「じゃあ言わないで」
リリアはセシルの皿を見る。
「それ一口ちょうだい」
「また?」
「一口」
「自分のあるでしょ」
「味違うじゃん」
「昨日も似たこと言ってたよ」
「一口」
「はいはい」
セシルがフォークで一口分を取る。
リリアは当然、自分の皿へ置かれるものだと思った。
けれど。
「はい」
フォークがそのまま口元へ来た。
「……」
「どうしたの?」
「何してるの?」
「一口欲しいんでしょ?」
「皿に置いてよ」
「面倒だから」
「絶対嘘」
「早く。落ちるよ」
リリアはフォークを見る。
次にセシルを見る。
セシルは平然とした顔をしているが、耳が赤い。
「……わざとでしょ」
「何が?」
「知らない」
周囲を確認する。
誰もこちらを気にしていない。
リリアは少しだけ顔を近づけ、ぱくりと食べた。
「……おいしい」
「でしょ?」
「でももうやらない」
「何で?」
「恥ずかしいから」
「可愛かったのに」
「セシル」
「はい」
リリアは自分の食事へ戻った。
けれど胸が妙に落ち着かない。
「……これで接続率上がったらセシルのせいだからね」
「そんなことで上がる?」
「昨日の感じだと分からない」
「じゃあ確認してみる?」
「嫌。数字見る方が怖い」
「確かに」
それからしばらく普通に食事を続けた。
その途中だった。
「……リリア」
「何?」
「今、嬉しい?」
リリアの手が止まった。
「何で?」
「何となく分かった」
「……セシルは?」
「私も嬉しい」
言われた瞬間、リリアにもふわりと伝わってきた。
温かい。
楽しい。
この時間が好き。
言葉になる少し前の感情が、自分のものと重なる。
「まだ繋がってる」
「うん」
「四十八だからかな」
「昨日より分かりやすい気がする」
「それ嫌だな」
「何で?」
「隠し事できないじゃん」
「私に何隠すの?」
「いろいろあるでしょ」
「例えば?」
「……セシルの顔見て可愛いなって思った時とか」
言ってから、リリアは固まった。
セシルも固まった。
「……今のなし」
「無理」
「忘れて」
「絶対無理」
「じゃあ返して」
「何を?」
「同じくらい恥ずかしいこと言って」
「リリアのこと、朝見つけた瞬間から今日も可愛いって思ってた」
「……」
「これでいい?」
「強すぎる」
リリアは机に突っ伏した。
「何でそんな普通に言えるの」
「ずっと言えなかったから、今が楽しい」
その言葉に、リリアはゆっくり顔を上げた。
「ずっと?」
「うん」
「そういえば、いつから好きだったかまだ教えてもらってない」
「あ」
「今思い出した」
「忘れててよかったのに」
「教えて」
「嫌」
「何で?」
「恥ずかしいから」
「私には言わせたじゃん」
「いつかって言ったでしょ」
「いつ?」
「いつか」
「今日」
「早い」
「じゃあ明日」
「ほぼ同じ」
そんなやり取りをしながら、リリアはふと笑った。
好きな人が自分だと知らず、勝手に嫉妬していたのがつい数日前だなんて信じられない。
「何笑ってるの?」
「セシルの好きな人、誰だろうって悩んでた時のこと思い出した」
「本当に気づかなかったよね」
「だって言わなかったじゃん」
「かなり分かりやすかったと思う」
「どこが?」
「卵焼きあげたり」
「それで恋愛感情分かったら怖いよ」
「毎日待ってたり」
「親友でもする」
「リリアが他の子と仲良くしてたらちょっと機嫌悪くなったり」
「……それは知らなかった」
「隠してたから」
「じゃあ分かるわけないじゃん!」
リリアが笑う。
セシルも笑った。
その瞬間。
胸の奥に、強い幸福感が流れ込んだ。
自分のものだけではない。
セシルの感情と重なっている。
同時に、ほんの一瞬。
視界の端に光が走った。
「……え?」
「リリア?」
「今、何か」
食堂の壁。
誰もいない場所に、円と三本の線が浮かんでいる。
「出た」
セシルの声が低くなる。
周囲を見る。
誰も反応していない。
「他の人には見えてない?」
「たぶん」
文字が浮かぶ。
『接続率 四十九パーセント』
「……一上がった」
「今ので?」
「たぶん」
「何した?」
「笑ってただけ」
「嬉しかった」
「私も」
二人は顔を見合わせる。
「感情の一致?」
リリアが呟いた。
「同じこと思うと上がる?」
「可能性ある」
「じゃあ今から違うこと考えよう」
「急に難しいな」
「セシル、嫌いな食べ物考えて」
「リリアは?」
「好きな食べ物」
「それでいいの?」
「知らない!」
光は四十九のまま。
それ以上は動かない。
「……あと一」
セシルが呟いた。
「今日は気をつけよう」
「うん」
ところが、午後になっても数字は四十九のままだった。
授業が終わり、二人は資料室へ向かった。
昨日見つけた記録帳をもう一度調べるためだ。
『五十を超える接続は推奨されない』
その先のページは切り取られている。
「別の資料に同じ記録がないかな」
「探してみる」
二人で棚を分担する。
リリアは接続術式関連の記録を次々に確認していった。
一冊。
二冊。
三冊。
どれも同じような基礎理論ばかり。
その時。
「リリア」
「何?」
「これ」
セシルが古い紙束を持ってきた。
「どこにあった?」
「一番下。記録帳の間に挟まってた」
受け取る。
かなり古い。
ところどころ文字が薄れている。
「……接続率五十以上における現象」
二人の表情が変わった。
「読める?」
「うん」
リリアは慎重に文章を追った。
『接続率五十を境界とし、接続対象間における情報参照が可能となる』
「情報参照」
セシルが呟く。
「続きは?」
『参照可能な情報は接続対象が保有する情報に限られない』
「……限られない?」
リリアの指が止まった。
さらに読む。
『術式に保存された外部記録が存在する場合、条件を満たした対象は当該記録への参照権限を取得する』
セシルが眉を寄せた。
「外部記録って、昨日出たやつ?」
「たぶん」
「じゃあ、私の記憶じゃない?」
「うん」
リリアははっきり答えた。
「少なくともこの記述通りなら、五十を超えて見えるものはセシルの過去じゃない。術式の中か、術式が接続しているどこかに保存された情報」
「……よかった」
セシルが小さく息を吐く。
リリアはその横顔を見る。
「そんなに嫌だった?」
「自分が覚えてない何かがあるって考えるの、怖かったから」
「うん」
「知らないものを『あなたの過去です』って言われても、私には何もないし」
「分かってる」
リリアは迷わず答えた。
「セシルにないものを、あることにはしないよ」
セシルが顔を上げた。
「今のセシルが知ってることが、セシルの記憶。それでいい」
「……リリア」
「何?」
「好き」
「今それ言う?」
「言いたくなった」
「接続率!」
「あ」
二人は同時に光が出ていないか確認した。
何もない。
「……危ない」
「ごめん」
「でも」
リリアは少し笑う。
「私も好き」
「リリア!」
「一人だけ言うのずるいじゃん」
「五十になったらどうするの!」
「……」
「……」
二人とも止まった。
ぱちん。
資料室の魔導灯が消えた。
「あ」
「リリア」
「私のせいじゃない」
「二人のせいだよ」
暗がりに、円と三本の線が現れる。
『接続率 五十パーセント』
「……なった」
ついに。
境界を超えた。
リリアは反射的にセシルの手を握った。
「何か変?」
「今は何も」
「頭痛は?」
「ない」
「変なもの見える?」
「見えない」
二人は光を見つめる。
次の文字が現れた。
『第二同期 開始』
『情報参照権限 付与』
『外部記録 開放』
リリアの心臓が速くなる。
「来る」
「何が?」
「分からない。セシル、何かあったらすぐ言って」
「リリアもね」
「うん」
光が強くなった。
そして。
二人の視界が、一瞬だけ白く染まった。
次に見えたのは、学院ではなかった。
知らない部屋。
白い壁。
大きな窓。
机の上に置かれた大量の紙。
けれど二人とも、そこにいるわけではない。
身体の感覚がない。
視点を動かすこともできない。
ただ、保存された映像を見せられている。
「……セシル?」
声を出したつもりだった。
返事はない。
けれど、隣にいることだけは分かる。
映像の中で、誰かが机の前に立っていた。
顔は見えない。
紙へ何かを書いている。
そして机の中央。
見覚えのある印。
円と三本の線。
その横に、文字がある。
『接続対象候補』
いくつもの名前。
ほとんどが黒く塗り潰されている。
ただ一つ。
読める名前があった。
『LILIA』
リリアは息を呑んだ。
映像が切り替わる。
別の紙。
『対象LILIAへの接続適性』
その下。
複数の識別番号。
そして。
最後の一行。
『適合個体――CECIL』
そこで映像は途切れた。
「……っ!」
リリアは目を開けた。
資料室。
目の前にはセシル。
二人とも手を握ったまま立っている。
「リリア」
「見た?」
「うん」
「同じもの?」
「白い部屋。紙。リリアの名前」
「セシルの名前も?」
「……うん」
リリアは息を整えた。
これはセシルの記憶ではない。
リリアの記憶でもない。
誰かが保存した記録。
「適合個体って何」
セシルの声が震える。
「まだ分からない」
「私がリリアに繋がるように選ばれたってこと?」
「それもまだ断定できない」
「でも名前が」
「うん」
リリアはセシルの手を握り直した。
「だから調べる」
「……怖くない?」
「怖いよ」
セシルが驚いたように見る。
「リリアでも?」
「当たり前じゃん」
「何でも楽しそうに調べるから」
「知らないことを知るのは好き。でも、自分たちの名前が勝手に記録されてるのは普通に怖い」
「そっか」
「でも」
リリアはセシルを見る。
「一人じゃないから」
セシルの目が少し柔らかくなる。
「……それ、私が言おうと思った」
「早い者勝ち」
「ずるい」
「じゃあ次は譲る」
「次があるの嫌だな」
「確かに」
二人は少しだけ笑った。
その時。
光に新しい文字が浮かんだ。
『接続率 五十二パーセント』
「……え?」
「上がってる!」
「何で!?」
「今、何した?」
「何もしてない!」
「手!」
二人は慌てて離した。
けれど数字は止まらない。
五十三。
「待って」
五十四。
「リリア」
「落ち着いて」
五十五。
リリアは光を睨む。
「さっきまでと違う」
「何が?」
「五十を超えたから」
五十六。
「接続そのものが自動で進んでる」
五十七。
「止められないの?」
「分からない!」
五十八。
その瞬間。
リリアの頭に何かが流れ込んだ。
言葉。
『怖い』
セシルの声ではない。
でも、意味だけが直接入ってくる。
「……何?」
「リリア?」
「今、何か」
五十九。
今度はセシルが息を呑んだ。
「私も」
「何が聞こえた?」
「……『見つけて』」
六十。
数字が止まった。
二人は動けなかった。
『接続率 六十パーセント』
その下に、新しい表示。
『外部記録 第二階層開放』
「第二階層……」
リリアは呟いた。
そして。
次の一文を見た瞬間、表情を変えた。
『記録作成者情報 一部開示』
「誰が作ったか分かる?」
セシルが聞く。
「たぶん」
光が揺れる。
名前が表示される。
しかし大部分が欠損している。
読めたのは、ほんの一部だけだった。
『管理――』
そこで文字が崩れた。
「管理?」
セシルが眉を寄せる。
リリアは答えなかった。
なぜか。
その二文字を見た瞬間。
胸の奥に、ひどく嫌な感覚が走ったからだ。
懐かしいわけではない。
思い出したわけでもない。
知っているという感覚すらない。
ただ。
この記録を作った何者かは、自分たちのことを知っている。
リリアには、それだけが妙にはっきり分かった。
「セシル」
「何?」
「これ、私たちが偶然巻き込まれたんじゃないかもしれない」
「……どういうこと?」
「最初から名前がある」
リリアは光を見る。
「私とセシルの名前が」
セシルも黙った。
やがて、そっとリリアの袖を掴む。
「リリア」
「うん」
「一緒にいて」
今度はリリアから手を握った。
「いるよ」
「絶対?」
「絶対」
セシルが小さく笑う。
その笑顔を見て、リリアも笑った。
接続率は六十パーセント。
昨日までなら、ただ数字が上がることを恐れていた。
でも今は違う。
この先にあるのは、セシルの失われた記憶ではない。
二人とも知らない。
けれど、二人の名前が確かに刻まれている外部記録。
誰が。
いつ。
何のために。
リリアとセシルを「接続対象」として記録したのか。
答えはまだ見えない。
ただ一つだけ確かなことがある。
五十パーセントを超えた瞬間から。
術式は、二人が触れていなくても動き始めていた。
そして六十という数字の横で、小さな文字が一つだけ点滅していた。
『自律接続――開始』

