翌朝、リリアは目を覚ますなり枕元の紙を手に取った。
『接続率 四十パーセント』
『第一同期 完了』
『第二同期条件を確認』
『記憶領域――』
最後の一文だけ、途中で途切れている。
昨日、セシルが突然頭を押さえたことで、それ以上確認する余裕がなくなった。
知らない白い部屋が見えた。
誰かがいた。
それ以上は分からない。
そして何より奇妙だったのは、セシル自身がその光景について何一つ説明できなかったことだ。
記憶なら、本人が知らないのはおかしい。
少なくとも、普通なら。
「……記憶領域」
リリアは呟いた。
もし昨日セシルが見たものが、本当にセシル自身の記憶ではないとしたら。
誰の記憶なのか。
そもそも、あの術式が指す「記憶領域」とは何なのか。
考え始めれば、疑問はいくらでも出てくる。
ただ一つだけ決めていた。
「今日は無茶しない」
セシルがあんな顔をするなら、答えを急ぐ必要はない。
昨日までの自分なら、好奇心が勝っていたかもしれない。
けれど今は違う。
恋人になったから、というだけでもない。
怖いという感情が自分にまで流れ込んできたことで、初めて分かった。
セシルは本当に何も知らない。
知らない何かに、自分の名前が使われている。
自分の身体が勝手にリリアの危険を察知する。
そして今度は、自分のものかどうかすら分からない光景を見せられた。
怖くないはずがない。
リリアは紙を畳んで鞄へ入れた。
「一緒に調べるって言ったもんね」
答えを見つける時も一緒。
怖い時も一緒。
それでいい。
学院へ向かうと、いつもの場所にセシルがいた。
けれど今日は、リリアを見つけてもすぐには笑わなかった。
「おはよう」
「おはよ」
リリアは隣へ並ぶ。
「寝れた?」
「少し」
「少し?」
「……嘘。あんまり」
「やっぱり」
「リリアは?」
「私は寝た」
「強いなあ」
「寝ないと頭回らないから」
「そういうところ好き」
「朝からやめて」
「昨日、好きって言ってくれたのに」
「言ったけど!」
思わず声が大きくなる。
セシルが少し笑った。
その顔を見て、リリアは安心する。
「……手」
「え?」
リリアは自分の手を差し出した。
「繋ぐ?」
セシルが目を瞬く。
「いいの?」
「昨日までそっちから繋ぎたそうにしてたくせに」
「今日は何となく……」
「怖い?」
セシルは少しだけ迷ってから頷いた。
「接続率、上がったら嫌だなって」
「そっか」
リリアは差し出した手を引っ込めようとした。
けれど、その前にセシルが掴んだ。
「……どっち?」
「やっぱり繋ぐ」
「上がるかもしれないよ?」
「でも、繋がない方が嫌だった」
「……そっか」
指を絡める。
昨日までなら、これだけで恥ずかしくて仕方がなかった。
今日も恥ずかしい。
でも、それ以上に安心した。
「何か感じる?」
リリアが聞く。
「今は何も」
「私も」
「四十パーセントでも、ずっと感情が分かるわけじゃないんだね」
「強い感情だけなのかも」
「例えば?」
「昨日のセシルみたいに怖いとか」
「リリアが私のこと大好きとか?」
「それは違う」
「今、嘘ついた?」
「……分かるの?」
「分からない。顔」
「ずるい!」
セシルが笑った。
リリアも笑う。
そのまま二人で学院へ向かった。
昼休み。
二人は昨日借りた資料を机いっぱいに広げていた。
今日は図書室ではなく、人気の少ない中庭だった。
同じ場所で同じ現象を起こすのが少し怖かったからだ。
「記憶領域って言葉、全然出てこないね」
セシルが本を閉じる。
「一般的な魔法用語じゃないのかも」
「じゃあ、あの術式独自の言葉?」
「可能性は高い」
「昨日見えたものも?」
「それが一番分からない」
リリアはノートを開く。
「確認するけど、昨日の白い部屋。本当に見覚えない?」
「ない」
「似た場所も?」
「ない」
「夢で見たとか」
「それもないと思う」
「誰かの顔は?」
「分からなかった。人がいるって思っただけ」
「声は?」
「聞こえなかった」
「匂いとか、温度とか」
「何も」
セシルは少し考えた。
「本当に、一瞬だけ絵を見せられたみたいな感じ」
「自分がそこにいた感じは?」
「なかった」
リリアのペンが止まった。
「……それ、大事かも」
「何が?」
「もし自分の記憶なら、自分の視点で見える可能性が高い。でもセシルは『絵を見たみたい』って言った」
「じゃあ私の記憶じゃない?」
「まだ断定できない。でも、少なくとも『思い出した』とは違うと思う」
セシルが明らかに安心した。
リリアはそれを見逃さなかった。
「自分に知らない過去があるかもって思ってた?」
「……少し」
「ないとは言い切れないよ」
「うん」
「でも、今の段階でそう決めつける必要もない」
「……うん」
「セシルが知らないなら、今は知らない。それでいい」
セシルはしばらくリリアを見ていた。
「何?」
「抱きしめてもいい?」
「何で急に!?」
「嬉しかったから」
「ここ外!」
「人いないよ」
「そういう問題じゃ――」
言い終わる前に、セシルの腕が背中へ回った。
「ちょ、セシル」
「少しだけ」
「……」
離れようと思えば離れられる。
でも。
離れたくなかった。
リリアは諦めて、セシルの背中へ腕を回した。
「五秒」
「短い」
「じゃあ十秒」
「一分」
「長い」
「三十秒」
「交渉するところ?」
「リリアが始めたんでしょ」
「もう」
口では文句を言いながら、リリアは笑っていた。
セシルの肩に頬が触れる。
温かい。
安心する。
昨日、恋人になったばかりなのに。
ずっとこうしていたような、不思議な心地がした。
「……リリア」
「何?」
「今、何か感じる?」
「セシルの気持ち?」
「うん」
リリアは少し集中してみた。
昨日のように、勝手に感情が流れ込んでくる感じはない。
「分かんない」
「私も」
「よかった」
「ちょっと残念じゃない?」
「何で?」
「リリアが今何考えてるか知りたかった」
「絶対嫌」
「何で?」
「全部分かったら恥ずかしくて死ぬ」
「何考えてるの?」
「言わない」
「気になる」
「離れるよ?」
「それは嫌」
腕の力が少し強くなる。
「セシル」
「あと十秒」
「自分で数えてね」
「うん」
そう答えたくせに、十秒経っても離れなかった。
リリアも指摘しなかった。
放課後。
二人は資料室へ向かった。
図書室より古い記録が保管されている場所だった。
「先生に許可取れてよかったね」
「『古代接続術式について調べたい』って言ったら喜んでた」
「リリアが自主的に研究するの珍しいからじゃない?」
「失礼な」
「課題忘れる人が何言ってるの」
「それとこれは別」
資料室は静かだった。
古い紙と木の匂いがする。
リリアは年代ごとに分類された記録を眺めながら、接続術式に関連しそうなものを探していく。
「セシル、そっちの棚お願い」
「分かった」
二人で別れる。
しばらくして。
「リリア」
「何?」
「これ、関係ある?」
セシルが一冊の薄い記録帳を持ってきた。
表紙には何も書かれていない。
「どこにあった?」
「接続魔法の分類」
開く。
大半は古い術式の研究記録だった。
リリアは高速でページをめくる。
「速すぎて読めてるの?」
「読めてる」
「本当に?」
「後で質問していいよ」
「しないけど」
半分ほど進んだところで。
リリアの指が止まった。
「……あった」
「何?」
小さな記述。
『高接続状態における感覚共有』
「昨日のやつ?」
「たぶん」
続きを読む。
『接続率三十を超えた段階より、強い情動および一部感覚の伝達が発生する可能性あり』
「三十」
セシルが呟く。
「昨日、三十五くらいでセシルの怖いって気持ちが分かった」
「合ってるね」
「じゃあ四十って、まだ低い方?」
「分からない」
ページをめくる。
次の記述。
『五十を超える接続は推奨されない』
二人とも黙った。
「……理由は?」
セシルが聞く。
「書いてない」
「次のページは?」
「破れてる」
「そんなことある?」
「あるみたい」
綺麗に切り取られていた。
偶然破れたようには見えない。
「誰かが取った?」
「可能性はある」
リリアは慎重に記録帳を閉じた。
「五十を超える前に止めたい」
「止め方分かる?」
「分からない」
「あと十しかないね」
「うん」
昨日。
十九から四十まで、数分だった。
同じことが起きれば、五十なんてすぐに超える。
「しばらく、感情が大きく動くようなこと避ける?」
セシルが言う。
「それだけが条件か分からないけど」
「少なくともできることはした方がいいよね」
「そうだね」
「じゃあ喧嘩禁止」
「元からそんなにしないでしょ」
「びっくりさせるのも禁止」
「うん」
「危ないことも禁止」
「それ私に言ってる?」
「リリア以外に誰がいるの」
「私そんなに危ないことしないよ」
「昨日、高いところに魔法で上がろうとした」
「普通の魔法だよ」
「一昨日は自分で落ちて試そうとしてた」
「それは提案しただけ」
「駄目」
「はいはい」
「あと」
「まだあるの?」
「私のこと好きって言いすぎるの禁止」
「……何で?」
「嬉しくなりすぎたら上がるかもしれない」
リリアは黙った。
「それは困る」
「何で?」
「言いたい時あるじゃん」
「……あるの?」
「あるよ」
セシルの顔が赤くなる。
「ほら!」
「何が?」
「今、嬉しかった」
「そっちが聞いたんでしょ」
「リリアが言うから!」
「じゃあセシルも禁止ね」
「何が?」
「可愛いとか好きとか」
「無理」
「即答!?」
「だって恋人になったのに」
「私だって同じだよ!」
二人で言い合って。
同時に止まった。
「……これ、上がってないよね」
セシルが小声で言う。
「やめて怖い」
「確認する?」
「どうやって?」
その瞬間。
資料室の奥で、ぱちん、と音がした。
「……」
「……」
二人は顔を見合わせた。
「言ったそばから」
「私たち何もしてないよね?」
「ちょっと嬉しくなった」
「私も」
「それ?」
「分からない」
魔導灯が消えていく。
一つ。
二つ。
三つ。
「リリア」
「大丈夫」
二人は手を繋いだ。
光が現れる。
円と三本の線。
昨日と同じ。
対象確認。
識別名。
セシルの名前。
「数字」
リリアが呟く。
表示が切り替わった。
『接続率 四十三パーセント』
「……三上がってる」
「昨日から?」
「たぶん」
「何もしてないのに」
「手は繋いだ」
「抱きしめた」
「それで三?」
「分からない」
リリアは数字を書き留める。
「少なくとも昨日みたいな急上昇はしてない」
「よかった」
四十三。
変化なし。
「今日はここまでにしよう」
「うん」
そう言った瞬間だった。
光が変わった。
『第二同期条件 不足』
「不足?」
リリアが眉を寄せる。
次。
『記憶領域 接続不可』
セシルが息を呑む。
「昨日の続き」
「うん」
さらに文字が現れる。
『参照元 未確認』
「参照元?」
「誰の記憶を見るのかって意味かも」
「じゃあ昨日のは?」
「分からない」
リリアは必死に文字を追う。
表示が一度消えた。
そして。
『外部記録 検索中』
「外部……?」
セシルが呟く。
リリアの目が細くなる。
「やっぱり」
「何?」
「セシルの記憶じゃない可能性が高い」
「どうして?」
「外部記録って出てる」
「……」
「少なくとも、今この術式が探してるのはセシル自身の記憶じゃない」
セシルの肩から、少しだけ力が抜けた。
「よかった」
その声を聞いて。
リリアは胸が痛くなった。
怖かったのだ。
自分の知らない過去が突然出てくることが。
「セシル」
「何?」
「こっち」
「え?」
リリアは自分から抱きついた。
「ちょ、リリア」
「今はいい」
「接続率」
「ちょっとくらい上がってもいい」
「五十超えたら駄目なんでしょ」
「じゃあ五秒」
「短い」
「十秒」
「さっきと同じ」
「文句言うなら離す」
「言わない」
セシルの腕が背中へ回る。
「……怖かった?」
「うん」
「言ってよ」
「リリアに心配かけたくなかった」
「それ一番嫌」
「ごめん」
「恋人なんだから、半分くらい心配させて」
「半分?」
「全部は重いから」
「そこは現実的なんだ」
「当然です」
セシルが笑う。
胸元でその振動が伝わる。
それだけでリリアも少し安心した。
「……好き」
思わず言った。
「禁止じゃなかった?」
「今はいい」
「じゃあ私も」
セシルが少しだけ顔を寄せる。
「好きだよ、リリア」
胸が跳ねる。
「……それはずるい」
「リリアが先」
「名前までつけると思わなかった」
「そこ?」
「そこ大事」
顔を上げる。
近い。
昨日、図書室で髪に触れた時よりも近い。
恋人になってから、こんな距離で見つめ合うのは初めてだった。
「……」
「……」
どちらも動かない。
リリアはセシルの目を見る。
セシルもリリアを見ている。
唇までの距離なんて、ほんの少し。
昨日の会話が頭をよぎった。
『いつかはキスしたい』
いつか。
いつかって。
どれくらい先なんだろう。
「……リリア」
「何?」
「今、すごい心臓速い」
「私も」
「分かる?」
「接続じゃなくても分かる」
「何で?」
「近いから」
セシルが小さく笑った。
その笑顔を見たら、余計に離れたくなくなった。
どちらからともなく。
ほんの少しだけ距離が縮まる。
あと少し。
そこで。
ぱっと強い光が二人の横で弾けた。
「うわっ!」
二人は同時に離れた。
「何!?」
「知らない!」
光を見る。
『接続率 四十八パーセント』
「……」
「……」
リリアは無言になった。
セシルも無言だった。
四十三から。
四十八。
「……五上がった」
セシルが呟く。
「まだ何もしてないのに!」
「何も、ではないと思う」
「してない!」
「しようとはしてた」
「言わないで!」
リリアは顔を覆った。
「最悪!」
「本当に反応するんだ……」
「何この術式!?」
「恋愛に厳しいね」
「笑い事じゃない!」
「でも」
セシルが笑いを堪えている。
「キスしたら本当に五十超えそう」
「しない!」
「しないの?」
「今は!」
「今は?」
「……セシル!」
追及されて、リリアは真っ赤になった。
セシルが笑う。
その笑顔を見ていたら、怒る気もなくなった。
でも。
四十八。
あと二。
笑ってばかりもいられない。
「本当に気をつけよう」
「うん」
「五十を超えたら何が起こるか分からない」
「……うん」
二人は光を見た。
四十八パーセント。
それ以上は上がらない。
「帰ろう」
「うん」
手を繋ぐ。
「これくらいなら大丈夫かな」
「たぶん」
「上がったら離す?」
「……一ポイントくらいなら」
「リリア」
「冗談」
「本当?」
「半分くらい」
「もう」
二人で資料室を出た。
帰り道。
今日は手を繋いでいるだけだった。
抱きしめない。
驚かせない。
キスなんて絶対しない。
接続率を上げない。
二人で決めた。
それなのに。
別れ道まで来たところで。
「じゃあ、また明日」
セシルが言った。
「うん」
手を離す。
数歩。
セシルが離れていく。
その瞬間。
胸の奥に、寂しいという感情が流れ込んだ。
「……セシル」
振り返る。
セシルも同時に振り返っていた。
「今」
「分かった?」
「うん」
「私も」
「……何が?」
セシルが少し恥ずかしそうに笑った。
「リリアも寂しいって」
「……」
隠せない。
四十八パーセント。
もう、この程度の感情まで伝わる。
「明日会えるじゃん」
「うん」
「なのにね」
「うん」
リリアは少し迷ってから、セシルのところまで戻った。
「一回だけ」
「何?」
ぎゅっと抱きつく。
「これで終わり」
「……うん」
セシルも抱きしめ返す。
「おやすみ」
「まだ夕方だけど」
「いいの」
「おやすみ、リリア」
離れる。
今度こそ帰る。
リリアは振り返らなかった。
振り返ったら、また戻りたくなるから。
その夜。
机の上に置いていた紙が、淡く光った。
リリアは眠っていた。
だから気づかなかった。
紙に書き写していた円と三本の線。
ただの模写だったはずの印。
その中心に。
一文字ずつ。
新しい文字が浮かんでいく。
『接続率 四十八パーセント』
そして。
『外部記録 検出』
文字が変わる。
『参照権限 不足』
『必要接続率 五十パーセント』
最後に。
もう一行。
『記録識別――LILIA』
静かな部屋の中。
光は数秒で消えた。
リリアは眠ったままだった。
セシルも知らない。
当然だった。
それはセシルの記憶ではない。
セシルが忘れているわけでもない。
彼女の中には、思い出すべき過去そのものが存在しない。
けれど。
世界のどこかには残っている。
セシルが知らない。
リリアだけが持っていたはずの記録が。
そして、それを開くために必要な数字まで。
あと二パーセント。
『接続率 四十パーセント』
『第一同期 完了』
『第二同期条件を確認』
『記憶領域――』
最後の一文だけ、途中で途切れている。
昨日、セシルが突然頭を押さえたことで、それ以上確認する余裕がなくなった。
知らない白い部屋が見えた。
誰かがいた。
それ以上は分からない。
そして何より奇妙だったのは、セシル自身がその光景について何一つ説明できなかったことだ。
記憶なら、本人が知らないのはおかしい。
少なくとも、普通なら。
「……記憶領域」
リリアは呟いた。
もし昨日セシルが見たものが、本当にセシル自身の記憶ではないとしたら。
誰の記憶なのか。
そもそも、あの術式が指す「記憶領域」とは何なのか。
考え始めれば、疑問はいくらでも出てくる。
ただ一つだけ決めていた。
「今日は無茶しない」
セシルがあんな顔をするなら、答えを急ぐ必要はない。
昨日までの自分なら、好奇心が勝っていたかもしれない。
けれど今は違う。
恋人になったから、というだけでもない。
怖いという感情が自分にまで流れ込んできたことで、初めて分かった。
セシルは本当に何も知らない。
知らない何かに、自分の名前が使われている。
自分の身体が勝手にリリアの危険を察知する。
そして今度は、自分のものかどうかすら分からない光景を見せられた。
怖くないはずがない。
リリアは紙を畳んで鞄へ入れた。
「一緒に調べるって言ったもんね」
答えを見つける時も一緒。
怖い時も一緒。
それでいい。
学院へ向かうと、いつもの場所にセシルがいた。
けれど今日は、リリアを見つけてもすぐには笑わなかった。
「おはよう」
「おはよ」
リリアは隣へ並ぶ。
「寝れた?」
「少し」
「少し?」
「……嘘。あんまり」
「やっぱり」
「リリアは?」
「私は寝た」
「強いなあ」
「寝ないと頭回らないから」
「そういうところ好き」
「朝からやめて」
「昨日、好きって言ってくれたのに」
「言ったけど!」
思わず声が大きくなる。
セシルが少し笑った。
その顔を見て、リリアは安心する。
「……手」
「え?」
リリアは自分の手を差し出した。
「繋ぐ?」
セシルが目を瞬く。
「いいの?」
「昨日までそっちから繋ぎたそうにしてたくせに」
「今日は何となく……」
「怖い?」
セシルは少しだけ迷ってから頷いた。
「接続率、上がったら嫌だなって」
「そっか」
リリアは差し出した手を引っ込めようとした。
けれど、その前にセシルが掴んだ。
「……どっち?」
「やっぱり繋ぐ」
「上がるかもしれないよ?」
「でも、繋がない方が嫌だった」
「……そっか」
指を絡める。
昨日までなら、これだけで恥ずかしくて仕方がなかった。
今日も恥ずかしい。
でも、それ以上に安心した。
「何か感じる?」
リリアが聞く。
「今は何も」
「私も」
「四十パーセントでも、ずっと感情が分かるわけじゃないんだね」
「強い感情だけなのかも」
「例えば?」
「昨日のセシルみたいに怖いとか」
「リリアが私のこと大好きとか?」
「それは違う」
「今、嘘ついた?」
「……分かるの?」
「分からない。顔」
「ずるい!」
セシルが笑った。
リリアも笑う。
そのまま二人で学院へ向かった。
昼休み。
二人は昨日借りた資料を机いっぱいに広げていた。
今日は図書室ではなく、人気の少ない中庭だった。
同じ場所で同じ現象を起こすのが少し怖かったからだ。
「記憶領域って言葉、全然出てこないね」
セシルが本を閉じる。
「一般的な魔法用語じゃないのかも」
「じゃあ、あの術式独自の言葉?」
「可能性は高い」
「昨日見えたものも?」
「それが一番分からない」
リリアはノートを開く。
「確認するけど、昨日の白い部屋。本当に見覚えない?」
「ない」
「似た場所も?」
「ない」
「夢で見たとか」
「それもないと思う」
「誰かの顔は?」
「分からなかった。人がいるって思っただけ」
「声は?」
「聞こえなかった」
「匂いとか、温度とか」
「何も」
セシルは少し考えた。
「本当に、一瞬だけ絵を見せられたみたいな感じ」
「自分がそこにいた感じは?」
「なかった」
リリアのペンが止まった。
「……それ、大事かも」
「何が?」
「もし自分の記憶なら、自分の視点で見える可能性が高い。でもセシルは『絵を見たみたい』って言った」
「じゃあ私の記憶じゃない?」
「まだ断定できない。でも、少なくとも『思い出した』とは違うと思う」
セシルが明らかに安心した。
リリアはそれを見逃さなかった。
「自分に知らない過去があるかもって思ってた?」
「……少し」
「ないとは言い切れないよ」
「うん」
「でも、今の段階でそう決めつける必要もない」
「……うん」
「セシルが知らないなら、今は知らない。それでいい」
セシルはしばらくリリアを見ていた。
「何?」
「抱きしめてもいい?」
「何で急に!?」
「嬉しかったから」
「ここ外!」
「人いないよ」
「そういう問題じゃ――」
言い終わる前に、セシルの腕が背中へ回った。
「ちょ、セシル」
「少しだけ」
「……」
離れようと思えば離れられる。
でも。
離れたくなかった。
リリアは諦めて、セシルの背中へ腕を回した。
「五秒」
「短い」
「じゃあ十秒」
「一分」
「長い」
「三十秒」
「交渉するところ?」
「リリアが始めたんでしょ」
「もう」
口では文句を言いながら、リリアは笑っていた。
セシルの肩に頬が触れる。
温かい。
安心する。
昨日、恋人になったばかりなのに。
ずっとこうしていたような、不思議な心地がした。
「……リリア」
「何?」
「今、何か感じる?」
「セシルの気持ち?」
「うん」
リリアは少し集中してみた。
昨日のように、勝手に感情が流れ込んでくる感じはない。
「分かんない」
「私も」
「よかった」
「ちょっと残念じゃない?」
「何で?」
「リリアが今何考えてるか知りたかった」
「絶対嫌」
「何で?」
「全部分かったら恥ずかしくて死ぬ」
「何考えてるの?」
「言わない」
「気になる」
「離れるよ?」
「それは嫌」
腕の力が少し強くなる。
「セシル」
「あと十秒」
「自分で数えてね」
「うん」
そう答えたくせに、十秒経っても離れなかった。
リリアも指摘しなかった。
放課後。
二人は資料室へ向かった。
図書室より古い記録が保管されている場所だった。
「先生に許可取れてよかったね」
「『古代接続術式について調べたい』って言ったら喜んでた」
「リリアが自主的に研究するの珍しいからじゃない?」
「失礼な」
「課題忘れる人が何言ってるの」
「それとこれは別」
資料室は静かだった。
古い紙と木の匂いがする。
リリアは年代ごとに分類された記録を眺めながら、接続術式に関連しそうなものを探していく。
「セシル、そっちの棚お願い」
「分かった」
二人で別れる。
しばらくして。
「リリア」
「何?」
「これ、関係ある?」
セシルが一冊の薄い記録帳を持ってきた。
表紙には何も書かれていない。
「どこにあった?」
「接続魔法の分類」
開く。
大半は古い術式の研究記録だった。
リリアは高速でページをめくる。
「速すぎて読めてるの?」
「読めてる」
「本当に?」
「後で質問していいよ」
「しないけど」
半分ほど進んだところで。
リリアの指が止まった。
「……あった」
「何?」
小さな記述。
『高接続状態における感覚共有』
「昨日のやつ?」
「たぶん」
続きを読む。
『接続率三十を超えた段階より、強い情動および一部感覚の伝達が発生する可能性あり』
「三十」
セシルが呟く。
「昨日、三十五くらいでセシルの怖いって気持ちが分かった」
「合ってるね」
「じゃあ四十って、まだ低い方?」
「分からない」
ページをめくる。
次の記述。
『五十を超える接続は推奨されない』
二人とも黙った。
「……理由は?」
セシルが聞く。
「書いてない」
「次のページは?」
「破れてる」
「そんなことある?」
「あるみたい」
綺麗に切り取られていた。
偶然破れたようには見えない。
「誰かが取った?」
「可能性はある」
リリアは慎重に記録帳を閉じた。
「五十を超える前に止めたい」
「止め方分かる?」
「分からない」
「あと十しかないね」
「うん」
昨日。
十九から四十まで、数分だった。
同じことが起きれば、五十なんてすぐに超える。
「しばらく、感情が大きく動くようなこと避ける?」
セシルが言う。
「それだけが条件か分からないけど」
「少なくともできることはした方がいいよね」
「そうだね」
「じゃあ喧嘩禁止」
「元からそんなにしないでしょ」
「びっくりさせるのも禁止」
「うん」
「危ないことも禁止」
「それ私に言ってる?」
「リリア以外に誰がいるの」
「私そんなに危ないことしないよ」
「昨日、高いところに魔法で上がろうとした」
「普通の魔法だよ」
「一昨日は自分で落ちて試そうとしてた」
「それは提案しただけ」
「駄目」
「はいはい」
「あと」
「まだあるの?」
「私のこと好きって言いすぎるの禁止」
「……何で?」
「嬉しくなりすぎたら上がるかもしれない」
リリアは黙った。
「それは困る」
「何で?」
「言いたい時あるじゃん」
「……あるの?」
「あるよ」
セシルの顔が赤くなる。
「ほら!」
「何が?」
「今、嬉しかった」
「そっちが聞いたんでしょ」
「リリアが言うから!」
「じゃあセシルも禁止ね」
「何が?」
「可愛いとか好きとか」
「無理」
「即答!?」
「だって恋人になったのに」
「私だって同じだよ!」
二人で言い合って。
同時に止まった。
「……これ、上がってないよね」
セシルが小声で言う。
「やめて怖い」
「確認する?」
「どうやって?」
その瞬間。
資料室の奥で、ぱちん、と音がした。
「……」
「……」
二人は顔を見合わせた。
「言ったそばから」
「私たち何もしてないよね?」
「ちょっと嬉しくなった」
「私も」
「それ?」
「分からない」
魔導灯が消えていく。
一つ。
二つ。
三つ。
「リリア」
「大丈夫」
二人は手を繋いだ。
光が現れる。
円と三本の線。
昨日と同じ。
対象確認。
識別名。
セシルの名前。
「数字」
リリアが呟く。
表示が切り替わった。
『接続率 四十三パーセント』
「……三上がってる」
「昨日から?」
「たぶん」
「何もしてないのに」
「手は繋いだ」
「抱きしめた」
「それで三?」
「分からない」
リリアは数字を書き留める。
「少なくとも昨日みたいな急上昇はしてない」
「よかった」
四十三。
変化なし。
「今日はここまでにしよう」
「うん」
そう言った瞬間だった。
光が変わった。
『第二同期条件 不足』
「不足?」
リリアが眉を寄せる。
次。
『記憶領域 接続不可』
セシルが息を呑む。
「昨日の続き」
「うん」
さらに文字が現れる。
『参照元 未確認』
「参照元?」
「誰の記憶を見るのかって意味かも」
「じゃあ昨日のは?」
「分からない」
リリアは必死に文字を追う。
表示が一度消えた。
そして。
『外部記録 検索中』
「外部……?」
セシルが呟く。
リリアの目が細くなる。
「やっぱり」
「何?」
「セシルの記憶じゃない可能性が高い」
「どうして?」
「外部記録って出てる」
「……」
「少なくとも、今この術式が探してるのはセシル自身の記憶じゃない」
セシルの肩から、少しだけ力が抜けた。
「よかった」
その声を聞いて。
リリアは胸が痛くなった。
怖かったのだ。
自分の知らない過去が突然出てくることが。
「セシル」
「何?」
「こっち」
「え?」
リリアは自分から抱きついた。
「ちょ、リリア」
「今はいい」
「接続率」
「ちょっとくらい上がってもいい」
「五十超えたら駄目なんでしょ」
「じゃあ五秒」
「短い」
「十秒」
「さっきと同じ」
「文句言うなら離す」
「言わない」
セシルの腕が背中へ回る。
「……怖かった?」
「うん」
「言ってよ」
「リリアに心配かけたくなかった」
「それ一番嫌」
「ごめん」
「恋人なんだから、半分くらい心配させて」
「半分?」
「全部は重いから」
「そこは現実的なんだ」
「当然です」
セシルが笑う。
胸元でその振動が伝わる。
それだけでリリアも少し安心した。
「……好き」
思わず言った。
「禁止じゃなかった?」
「今はいい」
「じゃあ私も」
セシルが少しだけ顔を寄せる。
「好きだよ、リリア」
胸が跳ねる。
「……それはずるい」
「リリアが先」
「名前までつけると思わなかった」
「そこ?」
「そこ大事」
顔を上げる。
近い。
昨日、図書室で髪に触れた時よりも近い。
恋人になってから、こんな距離で見つめ合うのは初めてだった。
「……」
「……」
どちらも動かない。
リリアはセシルの目を見る。
セシルもリリアを見ている。
唇までの距離なんて、ほんの少し。
昨日の会話が頭をよぎった。
『いつかはキスしたい』
いつか。
いつかって。
どれくらい先なんだろう。
「……リリア」
「何?」
「今、すごい心臓速い」
「私も」
「分かる?」
「接続じゃなくても分かる」
「何で?」
「近いから」
セシルが小さく笑った。
その笑顔を見たら、余計に離れたくなくなった。
どちらからともなく。
ほんの少しだけ距離が縮まる。
あと少し。
そこで。
ぱっと強い光が二人の横で弾けた。
「うわっ!」
二人は同時に離れた。
「何!?」
「知らない!」
光を見る。
『接続率 四十八パーセント』
「……」
「……」
リリアは無言になった。
セシルも無言だった。
四十三から。
四十八。
「……五上がった」
セシルが呟く。
「まだ何もしてないのに!」
「何も、ではないと思う」
「してない!」
「しようとはしてた」
「言わないで!」
リリアは顔を覆った。
「最悪!」
「本当に反応するんだ……」
「何この術式!?」
「恋愛に厳しいね」
「笑い事じゃない!」
「でも」
セシルが笑いを堪えている。
「キスしたら本当に五十超えそう」
「しない!」
「しないの?」
「今は!」
「今は?」
「……セシル!」
追及されて、リリアは真っ赤になった。
セシルが笑う。
その笑顔を見ていたら、怒る気もなくなった。
でも。
四十八。
あと二。
笑ってばかりもいられない。
「本当に気をつけよう」
「うん」
「五十を超えたら何が起こるか分からない」
「……うん」
二人は光を見た。
四十八パーセント。
それ以上は上がらない。
「帰ろう」
「うん」
手を繋ぐ。
「これくらいなら大丈夫かな」
「たぶん」
「上がったら離す?」
「……一ポイントくらいなら」
「リリア」
「冗談」
「本当?」
「半分くらい」
「もう」
二人で資料室を出た。
帰り道。
今日は手を繋いでいるだけだった。
抱きしめない。
驚かせない。
キスなんて絶対しない。
接続率を上げない。
二人で決めた。
それなのに。
別れ道まで来たところで。
「じゃあ、また明日」
セシルが言った。
「うん」
手を離す。
数歩。
セシルが離れていく。
その瞬間。
胸の奥に、寂しいという感情が流れ込んだ。
「……セシル」
振り返る。
セシルも同時に振り返っていた。
「今」
「分かった?」
「うん」
「私も」
「……何が?」
セシルが少し恥ずかしそうに笑った。
「リリアも寂しいって」
「……」
隠せない。
四十八パーセント。
もう、この程度の感情まで伝わる。
「明日会えるじゃん」
「うん」
「なのにね」
「うん」
リリアは少し迷ってから、セシルのところまで戻った。
「一回だけ」
「何?」
ぎゅっと抱きつく。
「これで終わり」
「……うん」
セシルも抱きしめ返す。
「おやすみ」
「まだ夕方だけど」
「いいの」
「おやすみ、リリア」
離れる。
今度こそ帰る。
リリアは振り返らなかった。
振り返ったら、また戻りたくなるから。
その夜。
机の上に置いていた紙が、淡く光った。
リリアは眠っていた。
だから気づかなかった。
紙に書き写していた円と三本の線。
ただの模写だったはずの印。
その中心に。
一文字ずつ。
新しい文字が浮かんでいく。
『接続率 四十八パーセント』
そして。
『外部記録 検出』
文字が変わる。
『参照権限 不足』
『必要接続率 五十パーセント』
最後に。
もう一行。
『記録識別――LILIA』
静かな部屋の中。
光は数秒で消えた。
リリアは眠ったままだった。
セシルも知らない。
当然だった。
それはセシルの記憶ではない。
セシルが忘れているわけでもない。
彼女の中には、思い出すべき過去そのものが存在しない。
けれど。
世界のどこかには残っている。
セシルが知らない。
リリアだけが持っていたはずの記録が。
そして、それを開くために必要な数字まで。
あと二パーセント。

