魔法より、君に恋をする。

目が覚めた瞬間、リリアはしばらく天井を見つめていた。

 朝の光がカーテンの隙間から細く差し込み、白銀の髪を淡く照らしている。まだ眠気の残る頭で今日の予定を辿り、そこでふと思い出した。

「……課題」

 明日提出の魔法理論。

 昨日の夜、やろうと思っていた。少なくとも、夕食を食べる前までは覚えていた。

 それなのに本を開いた記憶がない。

 代わりに覚えているのは、ベッドに寝転がりながら少しだけ休もうと思ったところまでだった。

「まあ、今日やればいっか」

 リリアはあっさり結論を出し、布団から起き上がった。

 焦る必要はない。量はそれなりにあるが、集中すれば一時間もかからないだろう。問題そのものは授業を聞いた時点でほとんど理解している。

 身支度を済ませ、鞄を持って部屋を出る。

 いつもと変わらない朝だった。

 学院へ向かう道も、すでに見慣れた景色だった。

 そして正門が見えてきたところで、もっと見慣れた姿を見つける。

「セシル!」

 呼びかけると、青い髪が揺れた。

 振り返ったセシルはリリアを見つけるなり、少しだけ眉を寄せる。

「おはよう。走らなくても待つよ」

「おはよ。別に走ってない」

「走ってたよ」

「早歩き」

「最後の十歩くらい完全に走ってたけど」

「細かいなあ」

 リリアが隣まで追いつくと、セシルは何の確認もせず歩き出した。

 リリアも当然のように隣へ並ぶ。

 入学式の日に初めて出会った時は、こんなふうに毎朝一緒に学院へ入るようになるとは思っていなかった。

 あの日は、ただ偶然隣にいただけだった。

 少し話した。

 次の日も話した。

 昼食を一緒に食べるようになり、放課後も一緒にいることが増え、気づいた時には「親友」と呼ぶことに違和感がなくなっていた。

「眠そう」

「ちょっとね」

「何時に寝たの?」

「覚えてない」

「どういうこと?」

「寝ようと思って寝たんじゃなくて、気づいたら朝だったから」

「また?」

「また」

 セシルが呆れたようにため息をつく。

「ちゃんとベッドでは寝た?」

「そこは大丈夫」

「ならまだいいけど」

「セシル、私のお母さんみたい」

「誰がそうさせてると思ってるの」

「私?」

「分かってるじゃん」

 リリアは笑った。

 こういう会話も、すっかり日常になった。

「そういえばリリア、魔法理論の課題終わった?」

「……」

「その顔、まさか」

「今日やる予定です」

「昨日やるって言ってなかった?」

「昨日の私はそう思ってた」

「昨日のリリアと今日のリリアは別人なの?」

「気持ち的には」

「便利だなあ」

「でも一時間あれば終わるよ」

「結構な量あったよ?」

「私だよ?」

 セシルが黙った。

 数秒考えてから、悔しそうに息を吐く。

「……終わるんだろうな」

「でしょ?」

「そこだけは本当に腹立つ」

「才能です」

「忘れ物の多さも?」

「個性です」

「都合いいね」

 二人で話しながら校舎へ入る。

 その日の授業も、いつも通りだった。

 魔法理論の教師が黒板いっぱいに複雑な術式を書き、その応用について説明している間、リリアは途中から頬杖をついて窓の外を眺めていた。

 雲が一つ流れていく。

 鳥が二羽。

 今日は風が強いらしい。

「リリア・アル――」

「第三術式の干渉係数を〇・七まで落として、補助式を反転させれば成立します」

 教室が静かになった。

 名前を呼びかけた教師も黙る。

 リリアはようやく黒板へ目を向けた。

「……違いました?」

「いや。正解だ」

「よかった」

「せめてこちらを見てから答えなさい」

「はーい」

 隣の席から小さな笑い声が聞こえた。

 横を見ると、セシルが口元を押さえている。

「何?」

「いや、相変わらずだなと思って」

「ちゃんと聞いてたよ」

「ずっと外見てたでしょ」

「耳は先生の方に向いてた」

「便利だね、リリアの耳」

「高性能だから」

「自分で言う?」

 小声でそんなやり取りをしていると、今度は二人まとめて教師に睨まれた。

 昼休みになると、リリアは当然のようにセシルの隣へ座った。

「一口ちょうだい」

「嫌」

「まだ何も言ってないけど」

「その目で分かる」

「卵焼き」

「やっぱり」

「一個だけ」

「自分のあるでしょ」

「セシルの方がおいしそう」

「同じ食堂で買ったやつだよ」

「人の食べ物っておいしそうに見えるじゃん」

「意味分からない」

 そう言いながら、セシルは自分の皿から卵焼きを一つ取ってリリアの皿へ置いた。

「やった」

「最初から取る気だったでしょ」

「ありがとう。好き」

「……はいはい」

 リリアは卵焼きを口に入れた。

 だから気づかなかった。

 セシルが一瞬だけ視線を落としたことにも、その耳がほんの少し赤くなっていたことにも。

「そういえばさ」

「何?」

「セシルの好きな人って、まだ好き?」

 セシルが飲みかけていた紅茶を静かに置いた。

「急だね」

「何となく思い出した」

「好きだよ」

「即答」

「聞いたのリリアでしょ」

「そうだけど」

 以前、セシルから好きな人がいると聞いたことがある。

 誰なのかは教えてもらえなかった。

 その時のリリアは面白がって何度か聞き出そうとしたものの、セシルの口は思った以上に堅く、結局諦めた。

 だから今日も、ただの雑談のつもりだった。

「まだ告白してないの?」

「してない」

「何で?」

「言ったでしょ。今の関係が壊れるのが嫌だから」

「ああ、言ってたね」

「覚えてないじゃん」

「大事なところは覚えてるよ」

「本当かな」

「じゃあ今日こそ教えてよ。誰?」

「嫌」

「けち」

「これだけは無理」

「私も知ってる人?」

「……知ってる」

「同じ学年?」

「もう答えない」

「えー」

 リリアは頬杖をついてセシルを見る。

 ふと、一つ気になった。

「男の子?」

 セシルが目を瞬いた。

「何で?」

「いや、そういえば聞いてなかったなって」

「……違うよ」

「じゃあ女の子?」

 ほんの少しだけ間があった。

「うん」

「へえ」

 思わず声が出た。

「何、その反応」

「いや、初めて知ったから」

「言ってなかったしね」

「そっか。女の子なんだ」

「うん」

 それだけの話だった。

 ただ知らなかった情報が一つ増えただけ。

 なのに、なぜかリリアは少しだけ嬉しいような、不思議な感覚を覚えた。

 理由を考えるより先に、口が動く。

「どんな子?」

「言わない」

「それくらいいいじゃん」

「そこから特定しようとするでしょ」

「する」

「ほら」

「でも気になる」

「何で?」

「親友の好きな人だよ? 気になるでしょ」

「……親友、ね」

「何?」

「何でもない」

 セシルは紅茶を一口飲んだ。

「じゃあ、一個だけ」

「やった」

「一緒にいると楽しい人」

「広い」

「一個だけって言ったでしょ」

「もう一個」

「駄目」

「お願い」

「その顔しても駄目」

「じゃあ卵焼き返す」

「もう食べたでしょ」

「明日の分」

「いらない」

「けち」

 セシルは笑った。

 リリアもつられて笑う。

 その時はまだ、何も思わなかった。

 ただ、セシルにもそんなふうに思う相手がいるんだな、と。

 それだけだった。

 放課後になると、朝の宣言通りリリアは図書室へ向かった。

 もちろん、セシルも一緒だった。

「付き合わなくてもいいよ?」

「朝から一緒に行く気満々だったくせに」

「ばれた?」

「分かりやすすぎる」

「セシルがいた方が集中できるから」

「私は集中力を補助する魔道具じゃないんだけど」

「高性能だよ」

「褒められてないよね、それ」

「親友。大好き」

「そういう時だけ言わないで」

「本当に好きだよ?」

 リリアは笑いながら言った。

 セシルが一瞬黙る。

「……そういうこと、簡単に言うよね」

「え?」

「何でもない。早くやって」

「はーい」

 リリアは深く考えず、課題へ向き直った。

 四十分後。

「終わった」

「本当に一時間かからなかった……」

「だから言ったじゃん」

「何で昨日やらなかったの?」

「昨日はやる気がなかったから」

「今日だってなかったでしょ」

「今日はセシルがいた」

「……それ、ずるい」

「何が?」

「何でもない」

 セシルが課題用紙を確認する。

「ここ、数字違う」

「どこ?」

「三問目」

「あ、本当だ」

 リリアは用紙を引き寄せ、すぐに式を書き直した。

「はい、完成」

「速いなあ」

「天才なので」

「自分で言う?」

「事実だもん」

 リリアは満足してペンを置いた。

 そこで初めて、向かいに座っているセシルをまともに見る。

 夕方の光が窓から差し込み、青い髪を照らしていた。

 昼間よりも少し柔らかな色に見える。

「……」

「何?」

「セシルの髪、綺麗だね」

「急にどうしたの?」

「今、そう思った」

「毎日見てるでしょ」

「毎日見てるから気づかなかったのかも」

 リリアは何となく手を伸ばした。

 青い髪を一房すくう。

「光に当たるとちょっと色変わるんだ」

「リリア」

「ん?」

「近い」

「え?」

 言われて初めて、自分が机へ身を乗り出していることに気づいた。

 顔を上げる。

 思ったよりずっと近いところにセシルの顔があった。

 目が合う。

「……」

 リリアの指には、まだセシルの髪が触れている。

 ただそれだけ。

 いつもなら何とも思わないはずだった。

 けれど、昼休みの会話がふいに頭をよぎった。

 セシルが好きなのは、女の子。

 その瞬間、意味もなく心臓が大きく鳴った。

「……リリア?」

「あ、ごめん」

 慌てて手を離す。

「痛かった?」

「そうじゃないけど」

「じゃあ何?」

「何でもない」

「変なの」

「リリアにだけは言われたくない」

 セシルが本を鞄へしまう。

 その耳が、少しだけ赤かった。

「セシル、耳赤くない?」

「夕陽でしょ」

「そっか」

「そう」

 返事が妙に早かった。

 リリアは笑いそうになった。

 けれど次の瞬間、ふと思う。

 もし今、セシルの好きな人がここにいたら。

 セシルは、その子にもこんな顔をするのだろうか。

「……」

 胸の奥が、少しだけざわついた。

「リリア?」

「何?」

「帰らないの?」

「帰る」

 二人で図書室を出た。

 帰り道も、いつも通り隣を歩いた。

「お腹空いた」

「課題しかしてないのに?」

「頭使ったから」

「普段から使えば?」

「使ってます」

「必要な時しか使わないでしょ」

「効率的なの」

「便利な言葉だね」

「何か食べて帰ろ」

「また甘いもの?」

「昨日は昨日。今日は今日」

「毎日それ言うつもり?」

 セシルが笑う。

 その横顔を見た瞬間、リリアは昼の話を思い出した。

「ねえ」

「何?」

「好きな人のこと、本当に教えてくれないの?」

「まだ言ってるの?」

「気になる」

「駄目」

「私も知ってる女の子なんでしょ?」

「……うん」

「仲いい?」

 セシルは少しだけ黙った。

「かなり」

「そんなに?」

「うん」

「どこが好きなの?」

「今日は質問多いね」

「だって気になってきた」

「何で?」

「分かんない」

 本当に分からなかった。

 ただ、昼よりもずっと気になる。

 セシルが誰を見ているのか。

 誰にそんな顔をするのか。

 誰と今の関係を壊したくないと思っているのか。

「……最初は、変な子だと思った」

 セシルがぽつりと言った。

「ひどい」

「何でリリアが怒るの」

「あ、そっか」

「でも、話してみたら面白かった。一緒にいると飽きないし、頭はすごくいいのに変なところで抜けてるし」

「へえ」

「自分のことは適当なくせに、人のことになると放っておけない」

「……」

「笑ってると、私まで嬉しくなる」

 リリアは黙った。

 知らない誰かの話。

 そのはずなのに。

「気づいたら、好きになってた」

 胸の奥が、ちくりと痛んだ。

「……そっか」

「何?」

「いや」

 リリアは前を向いた。

「その子、いいなと思って」

「どうして?」

「そんなふうに好きになってもらえて」

 セシルがこちらを見る気配がした。

 けれど、リリアは振り向かなかった。

「……リリアも、そう思う?」

「思うよ」

「そっか」

 それきり会話が途切れた。

 いつもなら気にならない沈黙が、今日は妙に落ち着かなかった。

 やがて、二人の前を同じ学院の女子生徒が歩いているのが見えた。

「あ、セシル!」

 その子が振り返り、笑顔で手を振る。

「今日ありがとう。ノート助かった!」

「ううん。間に合ってよかったね」

「明日返すね!」

「急がなくていいよ」

 ほんの短いやり取りだった。

 女の子はもう一度手を振り、別の道へ曲がっていく。

 リリアはその背中を見送った。

「……仲いいんだ」

「誰と?」

「今の子」

「同じ班になったことあるから話すだけだよ」

「ふーん」

「何?」

「別に」

 自分でも分からない。

 何もおかしくない会話だった。

 それなのに、少し面白くなかった。

「リリア」

「何?」

「もしかして――」

 その瞬間だった。

 セシルの表情が変わった。

「リリア!」

「え?」

 腕を強く引かれる。

 身体がセシルの方へ傾いた直後、背後で大きな音がした。

 リリアが振り返る。

 建物の壁面に取りつけられていた石造りの装飾が、石畳の上で砕けていた。

「……え」

 ほんの一歩前。

 さっきまでリリアがいた場所だった。

「大丈夫?」

「う、うん」

 セシルの腕がリリアの背中を支えている。

 リリアは砕けた石材を見た。

 それから、セシルを見る。

「セシル」

「何?」

「何で分かったの?」

「……え?」

「今、落ちてくる前に私を引いたよね」

 セシルが黙った。

「音、してなかったよね?」

「……うん」

「上、見てた?」

「見てない」

「じゃあ何で?」

 セシルは答えなかった。

 その顔から、少しずつ血の気が引いていく。

「セシル?」

「……分からない」

「何か感じた?」

「分からない」

「魔力とか?」

「違う」

「じゃあ――」

「本当に分からないの」

 セシルは、自分の手を見た。

「急に……リリアが危ないって思った」

「私が?」

「うん」

「何で?」

「だから、それが分からない」

 困惑している。

 嘘ではない。

 リリアにはそれが分かった。

 セシル自身が、一番驚いている。

 リリアは砕けた石材へ目を戻した。

 頭の中でいくつもの可能性が浮かび始める。

 音。

 振動。

 風。

 魔力。

 無意識に何かを察知した可能性。

 考えれば考えるほど、確かめたいことが増えていく。

 けれど、隣にいるセシルの顔を見て、その思考をいったん止めた。

「……怖かった?」

 セシルが少し驚いたようにリリアを見る。

「私が?」

「うん」

「リリアの方が危なかったのに」

「私は無事だったから」

「……怖かった」

 小さな声だった。

「自分でも、何したのか分からなくて」

 リリアは少しだけ迷ってから、セシルの手を取った。

「じゃあ、一緒に考えよ」

「え?」

「何で分かったのか。何が起きたのか」

「リリア」

「一人で考えるより二人の方がいいでしょ?」

「……こういう時だけ頼もしいね」

「こういう時だけ?」

「普段は課題忘れてるから」

「今それ言う?」

 思わず笑った。

 セシルも少しだけ笑う。

 その顔を見て、リリアは安心した。

 けれど。

「……あ」

 そこで初めて気づく。

 自分はまだ、セシルの手を握っていた。

 離そうと思った。

 なのに、ほんの少しだけ迷った。

 今日、何度も感じた妙な胸のざわつき。

 セシルの好きな人が女の子だと知った時。

 その人の話を聞いた時。

 別の女の子と話しているセシルを見た時。

 そして今、手を握っているだけで、また心臓が速くなる。

 もしかして。

 そこまで考えて、リリアは慌てて手を離した。

「帰ろ!」

「急だね」

「お腹空いた!」

「それ、今日何回目?」

「いいから!」

 先に歩き出す。

 顔が熱い。

 後ろからセシルが追いついてくる。

「リリア」

「何?」

「ありがとう」

「……何が?」

「一緒に考えるって言ってくれたこと」

「親友なんだから当たり前でしょ」

 口にした瞬間、また胸が少しだけ痛んだ。

 親友。

 今朝までは、それで全部説明できたはずなのに。

 リリアは隣を歩くセシルをそっと見る。

 青い髪。

 いつもの横顔。

 入学式の日に偶然出会って、気づけば一番近くにいた女の子。

 何も変わっていない。

 変わり始めたのは、きっと自分の方だった。

 そしてリリアはまだ知らない。

 今日セシルが感じたあの一瞬の違和感が、偶然ではなかったことを。

 ただその日は、セシルの好きな人が誰なのかということの方が、ずっと気になって仕方がなかった。