魔法より、君に恋をする。


 手帳の文字は、思っていたよりずっと細かかった。

 世界の異常について記録しているページもあれば、学院で起きた出来事を書いているページもある。その合間に、まるで誰にも見つからないように紛れ込ませるような形で、リリアのことが書かれていた。

『三百二十一日目。今日、彼女に質問された。魔法史について。答えたら礼を言われた。それだけ。』

 リリアはページを見つめたあと、隣を見る。

「……これ日記?」

「記録」

「日記じゃん」

「記録だよ」

「『礼を言われた。それだけ』って世界の管理に必要?」

「……必要ではない」

「じゃあ日記」

「好きに呼んで」

 早くも諦めたらしい。

 リリアは笑いながら次のページをめくった。

『三百二十四日目。廊下で彼女が転びそうになっていた。助けようとしたが、ノアが先に支えた。別にいい。』

「待って」

「何?」

「これ」

「……」

「嫉妬?」

「違う」

「絶対嫉妬じゃん」

「違うよ」

「『別にいい』って書いてる」

「だから?」

「別によくなかった人が書くやつ」

「……次へ行こう」

「耳赤いよ」

「次」

「かわい」

「リリア」

「はいはい」

 面白い。

 今のルシアンは、好きだと言えばちゃんと言う。

 触れたい時には、まだ少し遠慮しながらも手を伸ばしてくる。

 でも。

 この手帳の中のルシアンは。

 ひたすら我慢していた。

 自分から因果を切った。

 自分を好きにならないようにした。

 だから。

 近づかない。

 期待しない。

 邪魔しない。

 そう決めていた。

『三百三十八日目。彼女が食堂で苺を残していた。嫌いなのかと思ったが、最後に食べた。好きなものは最後に食べるらしい。』

「……怖」

「何が?」

「めっちゃ見てる」

「管理者だったから」

「絶対関係ない」

「……」

「これストーカー一歩手前じゃない?」

「遠くから見ていただけだよ」

「それを世間では」

「やめて」

 ルシアンが本気で恥ずかしそうに眼鏡を直す。

 リリアは笑いながらページをめくった。

『三百四十二日目。今日、彼女が髪を結んでいた。似合っていた。』

「先輩」

「何?」

「私の髪型好き?」

「好きだよ」

「今は?」

「今も似合ってる」

「どっちが好き?」

「選ばないと駄目?」

「うん」

 ルシアンはリリアを見る。

 髪。

 顔。

 また髪。

「……下ろしている方」

「へえ」

「でも結んでいるのも好き」

「逃げた」

「本当にどちらも好きなんだよ」

「じゃあ明日結んでこよ」

「どうして?」

「先輩が喜ぶから」

 ルシアンが一瞬黙った。

「……そういうの」

「何?」

「さらっと言うの、ずるいと思う」

「何で?」

「僕が困る」

「いいじゃん、恋人なんだから」

「昨日まで僕に余裕があると言っていたのは誰だったかな」

「昨日の私」

「今日の君は?」

「先輩を困らせる私」

「成長しなくていいところだけ成長するね」

 リリアは笑って次のページをめくった。

 そして。

 少しずつ。

 手帳の文章が変わっていく。

『三百七十日目。今日は五分話した。』

『三百七十一日目。彼女から挨拶された。』

『三百七十三日目。また話した。昨日より長かった。』

『三百七十五日目。名前を呼ばれることに慣れない。』

『三百八十日目。彼女が僕の隣に座った。理由は席が空いていたから。それだけ。分かっている。』

 リリアの笑顔が。

 少しずつ消えていった。

 笑えないわけではない。

 ただ。

 胸が。

 痛い。

「先輩」

「何?」

「この頃」

「うん」

「私のこと、もう好きだった?」

「……多分」

「多分?」

「好きだと認めたくなかった」

「何で?」

「君を自由にするために僕との因果を切ったのに、また僕が好きになったら意味がないと思っていたから」

「先輩が好きになるのは別じゃん」

「今ならそう思うよ」

「その時は?」

「僕が近づけば、また同じことになると思っていた」

 リリアは手帳へ視線を戻す。

「だから避けてた?」

「できるだけ」

「全然できてなくない?」

「……そうだね」

 次のページ。

『三百九十二日目。彼女に眼鏡が似合うと言われた。』

 リリアの指が止まる。

「あ」

「覚えてる?」

「……ちょっと」

 ぼんやり。

 廊下。

 書類。

 黒い髪。

 紫色の目。

『先輩って眼鏡似合いますよね』

『急に何?』

『思っただけです』

 それだけ。

 ほんの数秒。

 でも。

 手帳には。

 続きがあった。

『眼鏡が似合うと言われた。』

『どうでもいい言葉のはずなのに、一日中思い出した。』

『困った。』

『嬉しい。』

「……」

 リリアは。

 隣を見た。

 ルシアンは。

 目を逸らしていた。

「先輩」

「何?」

「こっち見て」

「嫌だ」

「何で」

「恥ずかしい」

「かわいい」

「二度と言わないで」

「かわいい」

「リリア」

「めっちゃ嬉しかったんじゃん」

「……嬉しかったよ」

「一日中?」

「書いてあるならそうなんだろうね」

「他人事みたいに言ってる」

「何千年分の中でもかなり恥ずかしい記録を本人に音読されている僕の気持ちを考えて」

「音読してないよ」

「同じようなものだよ」

 リリアは笑う。

 でも。

 その次。

『四百一日目。』

 文章が長くなった。

『今日、彼女と一緒に帰った。偶然だった。学院を出たところで会って、行く方向が同じだったから並んで歩いた。途中で彼女が菓子店の前で止まった。食べたいのかと思ったが、何も買わなかった。金が足りなかったらしい。買おうかと言ったら断られた。次は自分で買うと言っていた。次があるらしい。僕との間に。期待してはいけない。』

 リリアは。

 黙って読んだ。

『でも。』

『次があるという言葉が、嬉しかった。』

「……先輩」

「うん」

「これ」

「何?」

「今と同じだね」

 ルシアンが手帳を見る。

「何が?」

「明日」

「……」

「この頃から」

 リリアは少し笑った。

「先輩、私との明日欲しかったんじゃん」

 ルシアンは。

 しばらく何も言わなかった。

「そうかもしれない」

「気づいてなかった?」

「あの頃は、考えないようにしていたから」

「何で?」

「期待したら」

 ルシアンが静かに言う。

「失った時に辛いだろう?」

 リリアは。

 何も言えなかった。

 十三回目。

 ルシアンは最初から。

 リリアを失うつもりだった。

 自分とは関係のないところで。

 幸せになって。

 いつか誰かを好きになって。

 自分ではない人と生きて。

 そのまま。

 世界が終わらなければいい。

 そう願っていた。

「……馬鹿」

「ああ」

「ほんと馬鹿」

「否定しないよ」

「先輩」

「何?」

「手」

 差し出す。

 ルシアンが。

 少し不思議そうに。

 その手を握る。

「今は?」

「何が?」

「期待してる?」

 ルシアンは。

 少しだけ笑った。

「ああ」

「何を?」

「たくさん」

「例えば?」

「明日も君に会う」

「うん」

「週末、一緒に出かける」

「うん」

「来年もデートする」

「うん」

「その先も」

 そこで。

 ルシアンは言葉を止めた。

「何?」

「いや」

「言って」

「まだ早い」

「何が?」

「色々」

「気になる」

「そのうち」

「先輩」

「駄目」

「けち」

「今言ったら君が困る」

「何で?」

「かなり先の話だから」

「結婚とか?」

 ルシアンの手が。

 ぴくっと動いた。

「……」

「え」

「……」

「え?」

「次を読もう」

「待って」

「リリア」

「今の反応何!?」

「何でもない」

「先輩!」

「まだ付き合い直して二日だよ」

「だから?」

「だから今は言わない」

「考えてるの?」

「……」

「先輩?」

「次を読もう」

「絶対考えてるじゃん!」

 ルシアンが眼鏡を直す。

 完全に逃げている。

 リリアは。

 顔が熱くなるのを感じた。

「……重」

「だから言わなかったんだ」

「嫌とは言ってない」

 ルシアンが。

 こちらを見る。

「……」

「何その顔」

「今」

「うん」

「何て?」

「嫌とは言ってない」

 紫色の瞳が。

 明らかに揺れた。

「先輩」

「……うん」

「もしかして今、めっちゃ嬉しい?」

「……」

「顔に出てる」

「次を読もう」

「逃げた」

「読んで」

「はいはい」

 リリアは笑いながら。

 次のページを開いた。

     *

『四百十五日目。彼女が僕を昼食に誘った。ノアもいた。残念だと思った。自分でも驚いた。』

「ノア邪魔されてる」

「本人には言わないで」

「言お」

「やめて」

『四百十六日目。今日も昼食を一緒に食べた。ノアもいた。』

「また」

「……」

『四百十七日目。今日も。ノアも。』

「ふふっ」

「笑わないで」

「先輩、絶対ノア嫌いになってるじゃん」

「嫌いではない」

「文章が短くなってる」

「偶然だよ」

『四百二十日目。今日はノアがいなかった。』

『嬉しかった。』

「だめ、無理」

 リリアは机に突っ伏して笑った。

「最低」

「何が?」

「ノアかわいそう」

「本人は何も知らない」

「先輩めちゃくちゃ人間じゃん」

「元から人間だよ」

「管理者とかやってるからもっと達観してるのかと思ってた」

「何千年生きても嫉妬くらいする」

「へえ」

「何?」

「じゃあ今も?」

「何が?」

「嫉妬する?」

「……するよ」

 意外に。

 あっさり。

 答えた。

「誰に?」

「色々」

「例えば?」

「言わない」

「何で?」

「格好悪いから」

「知りたい」

「嫌だ」

「恋人なのに?」

「恋人だからこそ」

 リリアは。

 少し考えた。

「じゃあ私も言わない」

「何を?」

「誰に嫉妬したか」

 ルシアンが。

 止まった。

「……いるの?」

「いるよ」

「誰?」

「言わない」

「リリア」

「格好悪いから」

「真似しないで」

「恋人だからこそ」

「……」

 ルシアンが。

 明らかに気にしている。

 面白い。

「誰?」

「言わない」

「学院の人?」

「さあ」

「僕とよく話す?」

「どうかな」

「生徒会?」

「先輩」

「何?」

「めっちゃ気にしてるじゃん」

「……」

「ふふ」

「君」

 ルシアンが。

 少しだけ目を細めた。

「楽しんでるね?」

「うん」

「そう」

 次の瞬間。

 繋いでいた手を引かれた。

「わ」

 椅子が。

 少しルシアンの方へ寄る。

 距離が近くなる。

「何?」

「別に」

「近い」

「恋人だから」

「それ便利に使ってない?」

「君が先に使った」

「そうだけど」

 ルシアンは。

 近い距離で。

 リリアを見る。

「で」

「何?」

「誰?」

「まだ聞くの?」

「気になる」

「言わない」

「なら」

 もう少し。

 顔が近づく。

「言いたくなるまで聞く」

「近づいても言わないよ」

「そう?」

「うん」

「では」

 ルシアンの手が。

 リリアの髪へ触れる。

 耳にかける。

「これでも?」

「……」

 心臓が。

 跳ねる。

「ずる」

「何が?」

「急にこういうことする」

「君が教えてくれないから」

「関係ないじゃん」

「あるよ」

「ない」

 顔が。

 近い。

 紫色の目。

 綺麗。

 見慣れているはずなのに。

 近くで見ると。

 まだ。

 緊張する。

「……先輩」

「何?」

「キスする?」

 ルシアンが。

 一瞬黙った。

「していい?」

「今の流れで聞くんだ」

「そこは聞くよ」

「……いいよ」

 頬へ。

 手が触れる。

 ゆっくり。

 近づく。

 その時。

 扉が開いた。

「ルシアン、これ――」

 二人が止まる。

 ノアも止まる。

「……」

「……」

「……」

 三秒。

 ノアが。

 無言で扉を閉めた。

「待って!」

 リリアが立ち上がる。

 扉を開ける。

「ノア!」

「何も見てねえ!」

「違う!」

「何が!?」

「今のは!」

「説明いらねえ!」

「待って!」

「仲良くやれ!」

 逃げていく。

「ノアーー!」

 追おうとして。

 やめる。

 無理。

 恥ずかしい。

 生徒会室へ戻る。

 扉を閉める。

「……」

 ルシアンが。

 口元を押さえている。

「笑ってる?」

「いや」

「笑ってるじゃん!」

「ごめん」

「最悪!」

「鍵を閉め忘れたね」

「そういう問題!?」

「前は閉めていたから」

「計画的だったじゃん!」

「違うと言っただろう」

「絶対嘘!」

 ルシアンが笑う。

 リリアも。

 結局。

 笑ってしまった。

「もう無理」

「何が?」

「今日ノアの顔見れない」

「明日には忘れてるよ」

「忘れないでしょ!」

「では一週間」

「長い!」

 笑いが落ち着いて。

 二人で。

 また椅子へ座る。

 少しだけ。

 距離は近いまま。

「……続き読む?」

 ルシアンが聞く。

「読む」

「キスは?」

「しない」

「そう」

「残念そう」

「少し」

「ノア恨んでる?」

「かなり」

「ふふ」

 手帳を開く。

 次。

『四百三十六日目。』

『今日、彼女に好きな人がいるのか聞かれた。』

 リリアの指が。

 止まった。

「……これ」

「ああ」

 少し。

 思い出す。

 生徒会室。

 まだ。

 恋人ではなかった頃。

『先輩って好きな人いるんですか?』

『どうして?』

『何となく』

『いるよ』

『……へえ』

『何、その顔』

『別に』

 胸が。

 懐かしく痛む。

「私」

「うん」

「この時」

「何?」

「嫌だった」

 ルシアンが。

 こちらを見る。

「先輩に好きな人いるって聞いて」

「うん」

「誰だろって」

「……うん」

「私じゃないと思ってた」

「どうして?」

「だって先輩」

 リリアは笑う。

「全然分かりやすくなかったから」

「隠していたからね」

「でも」

 手帳を見る。

 その下。

 続きがある。

『いると答えた。』

『彼女の顔が少し曇ったように見えた。』

『期待するな。』

『勘違いするな。』

『彼女が僕を好きになるはずがない。』

『そうなるようにしたのは僕だ。』

 そして。

 最後。

『それでも。』

『もし。』

『ほんの少しでも。』

『僕だったらいいと思ってしまった。』

 リリアは。

 何も言えなかった。

 隣を見る。

 ルシアンも。

 黙っていた。

「……先輩」

「うん」

「この時」

「うん」

「もうめちゃくちゃ好きじゃん」

 ルシアンが。

 少しだけ笑う。

「そうみたいだね」

「認めてなかった?」

「認めたら、止められなくなると思っていた」

「何を?」

「君を好きでいること」

 静かに。

 言う。

「君に近づきたいと思うこと」

 リリアの手に。

 ルシアンの指が触れる。

「触れたいと思うこと」

 指が。

 絡む。

「僕を選んでほしいと思うこと」

 リリアは。

 その手を見る。

「……止まらなかった?」

「全然」

「そっか」

「ああ」

「よかった」

 ルシアンが。

 少し驚く。

「何が?」

「止まらなくて」

 リリアは。

 繋いだ手を握る。

「だって」

 笑う。

「今、私ここにいるし」

 ルシアンが。

 何も言わなくなる。

「先輩?」

「……また」

「何?」

「君は時々」

「うん」

「何でもない顔で、すごいことを言う」

「何がすごいの」

「分からないならいい」

「何それ」

「そのままでいて」

 リリアは。

 首を傾げた。

 でも。

 次のページをめくる。

『四百五十一日目。』

『今日、彼女に――』

「あ」

 そこで。

 文章が途中で終わっていた。

「何これ」

「……」

「先輩?」

 次のページ。

 空白。

 その次も。

 空白。

「ここから書いてない?」

「ああ」

「何で?」

 ルシアンが。

 少し困った顔をした。

「この日」

「うん」

「君に」

 眼鏡を直す。

「好きだと言われた」

 リリアの目が。

 大きくなる。

「……私から?」

「ああ」

「え?」

「君から」

「嘘」

「本当」

「全然覚えてない!」

「かなり唐突だった」

「どうやって!?」

「それは」

 ルシアンが。

 少しだけ。

 笑った。

「明日話す」

「何で!」

「もう遅い」

 窓を見る。

 確かに。

 外は暗くなり始めている。

「気になる!」

「明日があるだろう?」

 その言葉。

 リリアは。

 止まった。

 そして。

 笑った。

「……そうだった」

「うん」

「じゃあ明日」

「ああ」

「絶対教えて」

「約束する」

「忘れたら?」

「忘れない」

「八時十分も?」

「もちろん」

 手帳を閉じる。

 棚へは戻さない。

 机の上。

 明日。

 またここから。

 リリアは立ち上がる。

「帰ろ」

「ああ」

 二人で。

 生徒会室を出る。

 廊下を歩く。

 階段を降りる。

 玄関を出る。

 夜になる前の空。

 ルシアンの手が。

 自然に差し出される。

 リリアが。

 自然に握る。

「先輩」

「何?」

「明日楽しみ」

「告白の話?」

「それも」

「他は?」

 リリアは。

 少し考える。

「普通に」

 繋いだ手を。

 軽く揺らす。

「先輩に会うの」

 ルシアンが。

 一瞬だけ。

 歩く速度を緩めた。

「……どうしたの?」

「何でもない」

「また?」

「ああ」

 でも。

 手が。

 少し強く握られる。

「僕も楽しみだよ」

 それだけ。

 大げさなことは。

 もう必要なかった。

 世界を越える約束より。

 明日の八時十分。

 その方が。

 今の二人には。

 ずっと大切だった。