翌朝、リリアはいつもより少し早く学院に着いた。
別に理由はない。
昨日、屋上で告白したからでもないし、ルシアンともう一度恋人になったからでもないし、「明日も会おう」と約束したからでもない。
たまたま目が覚めた。
たまたま支度が早く終わった。
たまたま足取りが軽かった。
そういうことにして、校門の近くで十分ほど立っていた。
「……遅い」
待ち合わせはしていない。
それなのに時計を見るのは、これで四回目だった。
「何やってんだろ、私」
呟いた直後。
「おはよう」
後ろから声がした。
振り返る。
「……!」
ルシアンがいた。
見慣れた制服。黒い髪。眼鏡。その奥の紫色の瞳。
昨日と何も変わらない。
ちゃんといる。
「おはよう、先輩」
「おはよう」
「遅い」
「待ち合わせしてた?」
「してない」
「では遅くないと思うけど」
「恋人なんだから察して」
「初日から難易度が高いな」
「昨日からだけど」
「そうだった」
ルシアンが笑う。
その顔を見て。
リリアも笑った。
「待ってた?」
「十分くらい」
「連絡してくれれば」
「待ち合わせしてないから」
「矛盾してない?」
「してない」
「そう」
ルシアンが隣に並ぶ。
「じゃあ明日から待ち合わせする?」
「……する」
「何時?」
「八時十分」
「分かった」
「遅刻禁止」
「努力する」
「そこは絶対って言って」
「世界の再構築より厳しいな」
「比較がおかしい」
二人で校舎へ向かう。
途中。
リリアはルシアンの手を見る。
昨日までは、手を繋ぐだけで一つ一つ確認していた。
いい?
本当に?
嫌じゃない?
でも。
今日からは。
恋人。
それでも。
何となく恥ずかしい。
手を伸ばそうとして。
やめる。
もう一度。
やめる。
「リリア」
「何?」
「さっきから僕の手に何かある?」
「ない」
「なら」
ルシアンが手を差し出した。
「どうぞ」
「……何その出し方」
「必要そうだったから」
「言い方!」
でも。
握る。
指を絡める。
「満足?」
「まあまあ」
「素直じゃないな」
「朝から満面の笑みで『手繋げて幸せです』とか言う女嫌でしょ」
「別に嫌ではないけど」
「私は嫌」
「なら、まあまあでいいよ」
ルシアンの親指が。
繋いだ手の甲を。
一度だけ撫でた。
「……」
「どうしたの?」
「何でもない」
こういうの。
ずるい。
大げさな言葉より。
こういう何でもない触れ方の方が。
ずっと。
心臓に悪い。
*
昼休み。
「……何でいるの?」
リリアは目の前に座るノアへ言った。
「昼飯食うため」
「他で食べれば?」
「何で俺が追い出されんの?」
「今日くらい空気読んで」
「昨日付き合い始めたから二人きりにしてほしいって?」
「声でかい!」
ノアが笑う。
隣でルシアンが平然と紅茶を飲んでいる。
「先輩も何か言って」
「ノア」
「何」
「今日は別の場所で食べてくれる?」
「お前まで!?」
「リリアが二人きりがいいらしい」
「先輩!」
「違うの?」
「違わないけど言わないで!」
「難しいな」
ノアが呆れた顔をする。
「昨日まで世界どうこう言ってた奴らがこれかよ」
「覚えてるの?」
「何となくな。細かいことは全然だけど」
ノアはパンを一口食べる。
「まあ」
二人を見る。
「今の方がお前ら普通でいいんじゃね」
リリアは少し黙った。
「……うん」
「だから俺を追い出すな」
「それは別」
「何でだよ」
結局。
ノアは最後までいた。
普通の昼休みだった。
くだらない話をして。
ルシアンとノアが言い合って。
リリアが笑って。
チャイムが鳴ったら教室へ戻る。
それだけ。
なのに。
廊下を歩きながら。
リリアは思った。
幸せって。
案外。
こういうものなのかもしれない。
*
放課後。
生徒会室で仕事をしていると。
リリアはふと顔を上げた。
「先輩」
「何?」
「今日って何日?」
ルシアンが日付を答える。
「そっか」
「どうしたの?」
「いや」
少し考える。
「世界が終わる予定だった日って、いつ?」
ルシアンの手が止まる。
「……三日前」
「もう過ぎてる?」
「ああ」
「そっか」
リリアは窓を見る。
夕焼け。
校庭。
部活をしている生徒。
何も起きていない。
「過ぎたんだ」
「うん」
「普通に」
「ああ」
ルシアンも窓を見る。
「僕も昨日気づいた」
「言ってよ」
「わざわざ言う必要もないかと思って」
「あるよ」
「そう?」
「だって」
リリアは笑った。
「初めてじゃん」
「何が?」
「世界が終わる日を越えたの」
ルシアンが。
黙った。
「十三回で初?」
「……ああ」
「すご」
「そうだね」
「先輩」
「何?」
「今どんな気持ち?」
少し。
長い沈黙。
「分からない」
「また?」
「本当に」
ルシアンが椅子にもたれる。
「昨日まで、明日が来ることを頭では理解していた」
「うん」
「でも」
窓の外を見る。
「今日が来た」
「うん」
「何も起きずに」
「うん」
「君がいて」
「いるね」
「ノアがうるさくて」
「それはいつも」
「仕事が残っていて」
「それもいつも」
「明日の予定もある」
「待ち合わせね」
「ああ」
少し笑う。
「それが」
紫色の瞳が。
ほんの少し潤んだ。
「信じられないくらい嬉しい」
リリアは。
何も言わなかった。
立ち上がる。
ルシアンのところまで行く。
「先輩」
「何?」
「ちょっとこっち」
「何を」
椅子に座ったままのルシアンの頭を。
抱きしめた。
「……リリア?」
「よしよし」
「何をしてるの」
「頑張ったから」
「僕は子供じゃないよ」
「知ってる」
髪を撫でる。
「でも、何千年も頑張ったんでしょ」
「……」
「じゃあこれくらいされてもいいじゃん」
「……そうかな」
「そうです」
ルシアンは。
最初は何もしなかった。
でも。
少しして。
腕が。
リリアの腰へ回った。
顔を腹部へ埋める。
「……先輩?」
「少しだけ」
「うん」
「このままでいて」
声が。
いつもより低い。
リリアは。
もう何も言わなかった。
ただ。
髪を撫で続けた。
数分。
それとももっと。
分からない。
「リリア」
「ん?」
「ありがとう」
「何が?」
「生きていてくれて」
手が止まる。
「……うん」
「僕を選んでくれて」
「うん」
「もう一度好きになってくれて」
「……うん」
リリアは少し笑う。
「先輩」
「何?」
「顔上げて」
ルシアンが顔を上げる。
目が合う。
「私も」
「うん」
「生きててくれてありがとう」
紫色の瞳が。
揺れる。
「先輩が死んでたら」
「うん」
「私、もう一回好きになれなかったから」
ルシアンが少し笑った。
「そうだね」
「だから」
頬へ手を添える。
「二人とも偉い」
「随分まとめたね」
「いいじゃん」
「うん」
そのまま。
何となく。
距離が近くなる。
ルシアンが。
リリアを見る。
「キスしていい?」
「……」
「嫌?」
「いや」
「じゃあ」
「ちょっと待って」
「何?」
リリアは扉を見る。
「鍵」
「閉まってるよ」
「いつ閉めたの?」
「さっきノアが出ていった時」
「……計画的?」
「違う」
「怪しい」
「本当に違う」
「まあいいけど」
もう一度。
顔を見る。
「いいよ」
ルシアンの手が頬へ触れる。
唇が重なる。
昨日より。
自然だった。
短く触れて。
一度離れる。
でも。
リリアが離れなかった。
そのまま。
もう一度。
今度は。
どちらからともなく。
唇を重ねる。
少し長く。
ルシアンの手が。
頬から耳の後ろへ移る。
髪を撫でる。
リリアは。
ルシアンの肩に手を置いた。
近い。
温かい。
心臓が速い。
でも。
怖くない。
唇が離れる。
「……」
「……」
近いまま。
目が合う。
「先輩」
「何?」
「今の」
「うん」
「何点だと思う?」
ルシアンが笑った。
「また採点?」
「うん」
「八十?」
「低い」
「九十」
「もうちょい」
「九十五」
「……まあ」
「百ではない?」
「百にしたら伸び代ないじゃん」
「キスに伸び代を求めるの?」
「大事」
「では精進します」
「よろしく」
ルシアンが笑う。
そのまま。
額が触れる。
「リリア」
「ん?」
「明日」
「うん」
「八時十分」
「忘れないでね」
「忘れない」
「私が遅れたら?」
「待つ」
「何分?」
「来るまで」
「重い」
「……」
「冗談だって」
「君は本当に」
「何?」
「いや」
ルシアンが。
少しだけ笑う。
「好きだなと思って」
不意打ち。
リリアの顔が熱くなる。
「……そういうの」
「何?」
「急に言うのずるい」
「恋人だからいいかと思って」
「良くない」
「駄目?」
「……たまになら」
「分かった」
「毎日はやめて」
「善処する」
「絶対言うじゃん」
「どうかな」
また。
笑った。
*
翌朝。
八時七分。
リリアは校門へ着いた。
ルシアンは。
もういた。
「早」
「君こそ」
「私、三分前」
「僕は五分前」
「二分負けた」
「勝負だったの?」
「今決めた」
「では僕の勝ちだね」
「明日は勝つ」
「楽しみにしてる」
リリアが隣へ行く。
ルシアンが。
当然のように手を差し出す。
リリアも。
当然のように握る。
「行こ」
「ああ」
歩き出す。
校舎へ。
普通の一日へ。
何も起きない。
世界は壊れない。
誰も死なない。
時計は。
ちゃんと進んでいる。
そして。
その日の昼。
リリアは生徒会室の棚を整理していて、一冊の古い手帳を見つけた。
「先輩」
「何?」
「これ誰の?」
黒い表紙。
かなり古い。
ルシアンが見る。
そして。
表情が止まった。
「……僕のだ」
「昔の?」
「ああ」
「見ていい?」
「待って」
ルシアンが立ち上がる。
でも。
リリアの方が早かった。
最初のページを開く。
そこには。
日付と。
短い文章が書かれていた。
『第十三循環、二百十七日目。』
『今日、彼女が笑った。』
『僕に向けたものではない。』
『それでいい。』
リリアの指が止まる。
「……先輩」
ルシアンが。
何も言わない。
次のページ。
『二百四十九日目。』
『廊下ですれ違った。』
『目は合わなかった。』
『それでいい。』
次。
『三百十二日目。』
『初めて話した。』
『名前を呼ばれた。』
『困った。』
『嬉しかった。』
リリアは。
ゆっくり顔を上げた。
「これ」
ルシアンが。
少しだけ。
困った顔をした。
「……できれば」
「うん」
「読まないでほしい」
「何で?」
「恥ずかしいから」
リリアは。
もう一度。
手帳を見る。
まだ。
何十ページもある。
世界が終わる前。
ルシアンが。
誰にも見せなかった。
十三回目の記録。
「……読みたい」
「リリア」
「駄目?」
「……」
長い沈黙。
ルシアンが。
観念したように息を吐いた。
「僕がいるところで」
「何で?」
「訂正したい箇所がある」
「改竄禁止」
「改竄ではない」
「じゃあ今日」
「今?」
「うん」
リリアは。
手帳を胸へ抱えた。
「先輩が」
少し笑う。
「私を好きになるまで、読みたい」
ルシアンは。
しばらく黙っていた。
そして。
耳を少し赤くしながら。
「……長いよ」
「何ページ?」
「かなり」
「じゃあ」
隣の椅子を引く。
「ゆっくり読も」
ルシアンが。
その椅子を見る。
それから。
リリアを見る。
「今日だけじゃ終わらないかもしれない」
「いいよ」
「明日も?」
「うん」
「その次も?」
「読む」
「……そう」
ルシアンは。
隣へ座った。
二人の間に。
一冊の古い手帳。
リリアは。
次のページを開く。
『三百十三日目。』
『今日も彼女に会った。』
『昨日より、少しだけ話せた。』
『嬉しかった。』
たった三行。
なのに。
胸が。
きゅっとなる。
リリアは。
隣を見る。
「先輩」
「何?」
「これ全部読んだら」
「うん」
「私、先輩のこと今より好きになるかも」
ルシアンが。
少しだけ笑った。
「それは困ったな」
「何で?」
「僕も」
リリアの手へ。
そっと。
自分の手を重ねる。
「同じ速度で増える予定だから」
リリアは。
一瞬黙って。
それから。
手帳でルシアンの腕を軽く叩いた。
「それはちょっとキザ」
「……忘れて」
「嫌」
「そこは忘れてくれない?」
「今度は忘れないって言ったでしょ」
ルシアンが。
困ったように笑う。
「それ、僕の台詞だったんだけど」
「もらった」
リリアは笑って。
次のページをめくった。
明日が来る。
だから。
急がなくていい。
今日読み切れなくても。
明日。
続きを読めばいい。
明日話せなかったことは。
明後日。
話せばいい。
今日伝えきれなかった好きは。
明日。
また伝えればいい。
そんな当たり前のことを。
二人は。
何千年もかけて。
ようやく手に入れた。
別に理由はない。
昨日、屋上で告白したからでもないし、ルシアンともう一度恋人になったからでもないし、「明日も会おう」と約束したからでもない。
たまたま目が覚めた。
たまたま支度が早く終わった。
たまたま足取りが軽かった。
そういうことにして、校門の近くで十分ほど立っていた。
「……遅い」
待ち合わせはしていない。
それなのに時計を見るのは、これで四回目だった。
「何やってんだろ、私」
呟いた直後。
「おはよう」
後ろから声がした。
振り返る。
「……!」
ルシアンがいた。
見慣れた制服。黒い髪。眼鏡。その奥の紫色の瞳。
昨日と何も変わらない。
ちゃんといる。
「おはよう、先輩」
「おはよう」
「遅い」
「待ち合わせしてた?」
「してない」
「では遅くないと思うけど」
「恋人なんだから察して」
「初日から難易度が高いな」
「昨日からだけど」
「そうだった」
ルシアンが笑う。
その顔を見て。
リリアも笑った。
「待ってた?」
「十分くらい」
「連絡してくれれば」
「待ち合わせしてないから」
「矛盾してない?」
「してない」
「そう」
ルシアンが隣に並ぶ。
「じゃあ明日から待ち合わせする?」
「……する」
「何時?」
「八時十分」
「分かった」
「遅刻禁止」
「努力する」
「そこは絶対って言って」
「世界の再構築より厳しいな」
「比較がおかしい」
二人で校舎へ向かう。
途中。
リリアはルシアンの手を見る。
昨日までは、手を繋ぐだけで一つ一つ確認していた。
いい?
本当に?
嫌じゃない?
でも。
今日からは。
恋人。
それでも。
何となく恥ずかしい。
手を伸ばそうとして。
やめる。
もう一度。
やめる。
「リリア」
「何?」
「さっきから僕の手に何かある?」
「ない」
「なら」
ルシアンが手を差し出した。
「どうぞ」
「……何その出し方」
「必要そうだったから」
「言い方!」
でも。
握る。
指を絡める。
「満足?」
「まあまあ」
「素直じゃないな」
「朝から満面の笑みで『手繋げて幸せです』とか言う女嫌でしょ」
「別に嫌ではないけど」
「私は嫌」
「なら、まあまあでいいよ」
ルシアンの親指が。
繋いだ手の甲を。
一度だけ撫でた。
「……」
「どうしたの?」
「何でもない」
こういうの。
ずるい。
大げさな言葉より。
こういう何でもない触れ方の方が。
ずっと。
心臓に悪い。
*
昼休み。
「……何でいるの?」
リリアは目の前に座るノアへ言った。
「昼飯食うため」
「他で食べれば?」
「何で俺が追い出されんの?」
「今日くらい空気読んで」
「昨日付き合い始めたから二人きりにしてほしいって?」
「声でかい!」
ノアが笑う。
隣でルシアンが平然と紅茶を飲んでいる。
「先輩も何か言って」
「ノア」
「何」
「今日は別の場所で食べてくれる?」
「お前まで!?」
「リリアが二人きりがいいらしい」
「先輩!」
「違うの?」
「違わないけど言わないで!」
「難しいな」
ノアが呆れた顔をする。
「昨日まで世界どうこう言ってた奴らがこれかよ」
「覚えてるの?」
「何となくな。細かいことは全然だけど」
ノアはパンを一口食べる。
「まあ」
二人を見る。
「今の方がお前ら普通でいいんじゃね」
リリアは少し黙った。
「……うん」
「だから俺を追い出すな」
「それは別」
「何でだよ」
結局。
ノアは最後までいた。
普通の昼休みだった。
くだらない話をして。
ルシアンとノアが言い合って。
リリアが笑って。
チャイムが鳴ったら教室へ戻る。
それだけ。
なのに。
廊下を歩きながら。
リリアは思った。
幸せって。
案外。
こういうものなのかもしれない。
*
放課後。
生徒会室で仕事をしていると。
リリアはふと顔を上げた。
「先輩」
「何?」
「今日って何日?」
ルシアンが日付を答える。
「そっか」
「どうしたの?」
「いや」
少し考える。
「世界が終わる予定だった日って、いつ?」
ルシアンの手が止まる。
「……三日前」
「もう過ぎてる?」
「ああ」
「そっか」
リリアは窓を見る。
夕焼け。
校庭。
部活をしている生徒。
何も起きていない。
「過ぎたんだ」
「うん」
「普通に」
「ああ」
ルシアンも窓を見る。
「僕も昨日気づいた」
「言ってよ」
「わざわざ言う必要もないかと思って」
「あるよ」
「そう?」
「だって」
リリアは笑った。
「初めてじゃん」
「何が?」
「世界が終わる日を越えたの」
ルシアンが。
黙った。
「十三回で初?」
「……ああ」
「すご」
「そうだね」
「先輩」
「何?」
「今どんな気持ち?」
少し。
長い沈黙。
「分からない」
「また?」
「本当に」
ルシアンが椅子にもたれる。
「昨日まで、明日が来ることを頭では理解していた」
「うん」
「でも」
窓の外を見る。
「今日が来た」
「うん」
「何も起きずに」
「うん」
「君がいて」
「いるね」
「ノアがうるさくて」
「それはいつも」
「仕事が残っていて」
「それもいつも」
「明日の予定もある」
「待ち合わせね」
「ああ」
少し笑う。
「それが」
紫色の瞳が。
ほんの少し潤んだ。
「信じられないくらい嬉しい」
リリアは。
何も言わなかった。
立ち上がる。
ルシアンのところまで行く。
「先輩」
「何?」
「ちょっとこっち」
「何を」
椅子に座ったままのルシアンの頭を。
抱きしめた。
「……リリア?」
「よしよし」
「何をしてるの」
「頑張ったから」
「僕は子供じゃないよ」
「知ってる」
髪を撫でる。
「でも、何千年も頑張ったんでしょ」
「……」
「じゃあこれくらいされてもいいじゃん」
「……そうかな」
「そうです」
ルシアンは。
最初は何もしなかった。
でも。
少しして。
腕が。
リリアの腰へ回った。
顔を腹部へ埋める。
「……先輩?」
「少しだけ」
「うん」
「このままでいて」
声が。
いつもより低い。
リリアは。
もう何も言わなかった。
ただ。
髪を撫で続けた。
数分。
それとももっと。
分からない。
「リリア」
「ん?」
「ありがとう」
「何が?」
「生きていてくれて」
手が止まる。
「……うん」
「僕を選んでくれて」
「うん」
「もう一度好きになってくれて」
「……うん」
リリアは少し笑う。
「先輩」
「何?」
「顔上げて」
ルシアンが顔を上げる。
目が合う。
「私も」
「うん」
「生きててくれてありがとう」
紫色の瞳が。
揺れる。
「先輩が死んでたら」
「うん」
「私、もう一回好きになれなかったから」
ルシアンが少し笑った。
「そうだね」
「だから」
頬へ手を添える。
「二人とも偉い」
「随分まとめたね」
「いいじゃん」
「うん」
そのまま。
何となく。
距離が近くなる。
ルシアンが。
リリアを見る。
「キスしていい?」
「……」
「嫌?」
「いや」
「じゃあ」
「ちょっと待って」
「何?」
リリアは扉を見る。
「鍵」
「閉まってるよ」
「いつ閉めたの?」
「さっきノアが出ていった時」
「……計画的?」
「違う」
「怪しい」
「本当に違う」
「まあいいけど」
もう一度。
顔を見る。
「いいよ」
ルシアンの手が頬へ触れる。
唇が重なる。
昨日より。
自然だった。
短く触れて。
一度離れる。
でも。
リリアが離れなかった。
そのまま。
もう一度。
今度は。
どちらからともなく。
唇を重ねる。
少し長く。
ルシアンの手が。
頬から耳の後ろへ移る。
髪を撫でる。
リリアは。
ルシアンの肩に手を置いた。
近い。
温かい。
心臓が速い。
でも。
怖くない。
唇が離れる。
「……」
「……」
近いまま。
目が合う。
「先輩」
「何?」
「今の」
「うん」
「何点だと思う?」
ルシアンが笑った。
「また採点?」
「うん」
「八十?」
「低い」
「九十」
「もうちょい」
「九十五」
「……まあ」
「百ではない?」
「百にしたら伸び代ないじゃん」
「キスに伸び代を求めるの?」
「大事」
「では精進します」
「よろしく」
ルシアンが笑う。
そのまま。
額が触れる。
「リリア」
「ん?」
「明日」
「うん」
「八時十分」
「忘れないでね」
「忘れない」
「私が遅れたら?」
「待つ」
「何分?」
「来るまで」
「重い」
「……」
「冗談だって」
「君は本当に」
「何?」
「いや」
ルシアンが。
少しだけ笑う。
「好きだなと思って」
不意打ち。
リリアの顔が熱くなる。
「……そういうの」
「何?」
「急に言うのずるい」
「恋人だからいいかと思って」
「良くない」
「駄目?」
「……たまになら」
「分かった」
「毎日はやめて」
「善処する」
「絶対言うじゃん」
「どうかな」
また。
笑った。
*
翌朝。
八時七分。
リリアは校門へ着いた。
ルシアンは。
もういた。
「早」
「君こそ」
「私、三分前」
「僕は五分前」
「二分負けた」
「勝負だったの?」
「今決めた」
「では僕の勝ちだね」
「明日は勝つ」
「楽しみにしてる」
リリアが隣へ行く。
ルシアンが。
当然のように手を差し出す。
リリアも。
当然のように握る。
「行こ」
「ああ」
歩き出す。
校舎へ。
普通の一日へ。
何も起きない。
世界は壊れない。
誰も死なない。
時計は。
ちゃんと進んでいる。
そして。
その日の昼。
リリアは生徒会室の棚を整理していて、一冊の古い手帳を見つけた。
「先輩」
「何?」
「これ誰の?」
黒い表紙。
かなり古い。
ルシアンが見る。
そして。
表情が止まった。
「……僕のだ」
「昔の?」
「ああ」
「見ていい?」
「待って」
ルシアンが立ち上がる。
でも。
リリアの方が早かった。
最初のページを開く。
そこには。
日付と。
短い文章が書かれていた。
『第十三循環、二百十七日目。』
『今日、彼女が笑った。』
『僕に向けたものではない。』
『それでいい。』
リリアの指が止まる。
「……先輩」
ルシアンが。
何も言わない。
次のページ。
『二百四十九日目。』
『廊下ですれ違った。』
『目は合わなかった。』
『それでいい。』
次。
『三百十二日目。』
『初めて話した。』
『名前を呼ばれた。』
『困った。』
『嬉しかった。』
リリアは。
ゆっくり顔を上げた。
「これ」
ルシアンが。
少しだけ。
困った顔をした。
「……できれば」
「うん」
「読まないでほしい」
「何で?」
「恥ずかしいから」
リリアは。
もう一度。
手帳を見る。
まだ。
何十ページもある。
世界が終わる前。
ルシアンが。
誰にも見せなかった。
十三回目の記録。
「……読みたい」
「リリア」
「駄目?」
「……」
長い沈黙。
ルシアンが。
観念したように息を吐いた。
「僕がいるところで」
「何で?」
「訂正したい箇所がある」
「改竄禁止」
「改竄ではない」
「じゃあ今日」
「今?」
「うん」
リリアは。
手帳を胸へ抱えた。
「先輩が」
少し笑う。
「私を好きになるまで、読みたい」
ルシアンは。
しばらく黙っていた。
そして。
耳を少し赤くしながら。
「……長いよ」
「何ページ?」
「かなり」
「じゃあ」
隣の椅子を引く。
「ゆっくり読も」
ルシアンが。
その椅子を見る。
それから。
リリアを見る。
「今日だけじゃ終わらないかもしれない」
「いいよ」
「明日も?」
「うん」
「その次も?」
「読む」
「……そう」
ルシアンは。
隣へ座った。
二人の間に。
一冊の古い手帳。
リリアは。
次のページを開く。
『三百十三日目。』
『今日も彼女に会った。』
『昨日より、少しだけ話せた。』
『嬉しかった。』
たった三行。
なのに。
胸が。
きゅっとなる。
リリアは。
隣を見る。
「先輩」
「何?」
「これ全部読んだら」
「うん」
「私、先輩のこと今より好きになるかも」
ルシアンが。
少しだけ笑った。
「それは困ったな」
「何で?」
「僕も」
リリアの手へ。
そっと。
自分の手を重ねる。
「同じ速度で増える予定だから」
リリアは。
一瞬黙って。
それから。
手帳でルシアンの腕を軽く叩いた。
「それはちょっとキザ」
「……忘れて」
「嫌」
「そこは忘れてくれない?」
「今度は忘れないって言ったでしょ」
ルシアンが。
困ったように笑う。
「それ、僕の台詞だったんだけど」
「もらった」
リリアは笑って。
次のページをめくった。
明日が来る。
だから。
急がなくていい。
今日読み切れなくても。
明日。
続きを読めばいい。
明日話せなかったことは。
明後日。
話せばいい。
今日伝えきれなかった好きは。
明日。
また伝えればいい。
そんな当たり前のことを。
二人は。
何千年もかけて。
ようやく手に入れた。

