魔法より、君に恋をする。

 翌朝、リリアはいつもより少し早く学院に着いた。

 別に理由はない。

 昨日、屋上で告白したからでもないし、ルシアンともう一度恋人になったからでもないし、「明日も会おう」と約束したからでもない。

 たまたま目が覚めた。

 たまたま支度が早く終わった。

 たまたま足取りが軽かった。

 そういうことにして、校門の近くで十分ほど立っていた。

「……遅い」

 待ち合わせはしていない。

 それなのに時計を見るのは、これで四回目だった。

「何やってんだろ、私」

 呟いた直後。

「おはよう」

 後ろから声がした。

 振り返る。

「……!」

 ルシアンがいた。

 見慣れた制服。黒い髪。眼鏡。その奥の紫色の瞳。

 昨日と何も変わらない。

 ちゃんといる。

「おはよう、先輩」

「おはよう」

「遅い」

「待ち合わせしてた?」

「してない」

「では遅くないと思うけど」

「恋人なんだから察して」

「初日から難易度が高いな」

「昨日からだけど」

「そうだった」

 ルシアンが笑う。

 その顔を見て。

 リリアも笑った。

「待ってた?」

「十分くらい」

「連絡してくれれば」

「待ち合わせしてないから」

「矛盾してない?」

「してない」

「そう」

 ルシアンが隣に並ぶ。

「じゃあ明日から待ち合わせする?」

「……する」

「何時?」

「八時十分」

「分かった」

「遅刻禁止」

「努力する」

「そこは絶対って言って」

「世界の再構築より厳しいな」

「比較がおかしい」

 二人で校舎へ向かう。

 途中。

 リリアはルシアンの手を見る。

 昨日までは、手を繋ぐだけで一つ一つ確認していた。

 いい?

 本当に?

 嫌じゃない?

 でも。

 今日からは。

 恋人。

 それでも。

 何となく恥ずかしい。

 手を伸ばそうとして。

 やめる。

 もう一度。

 やめる。

「リリア」

「何?」

「さっきから僕の手に何かある?」

「ない」

「なら」

 ルシアンが手を差し出した。

「どうぞ」

「……何その出し方」

「必要そうだったから」

「言い方!」

 でも。

 握る。

 指を絡める。

「満足?」

「まあまあ」

「素直じゃないな」

「朝から満面の笑みで『手繋げて幸せです』とか言う女嫌でしょ」

「別に嫌ではないけど」

「私は嫌」

「なら、まあまあでいいよ」

 ルシアンの親指が。

 繋いだ手の甲を。

 一度だけ撫でた。

「……」

「どうしたの?」

「何でもない」

 こういうの。

 ずるい。

 大げさな言葉より。

 こういう何でもない触れ方の方が。

 ずっと。

 心臓に悪い。

     *

 昼休み。

「……何でいるの?」

 リリアは目の前に座るノアへ言った。

「昼飯食うため」

「他で食べれば?」

「何で俺が追い出されんの?」

「今日くらい空気読んで」

「昨日付き合い始めたから二人きりにしてほしいって?」

「声でかい!」

 ノアが笑う。

 隣でルシアンが平然と紅茶を飲んでいる。

「先輩も何か言って」

「ノア」

「何」

「今日は別の場所で食べてくれる?」

「お前まで!?」

「リリアが二人きりがいいらしい」

「先輩!」

「違うの?」

「違わないけど言わないで!」

「難しいな」

 ノアが呆れた顔をする。

「昨日まで世界どうこう言ってた奴らがこれかよ」

「覚えてるの?」

「何となくな。細かいことは全然だけど」

 ノアはパンを一口食べる。

「まあ」

 二人を見る。

「今の方がお前ら普通でいいんじゃね」

 リリアは少し黙った。

「……うん」

「だから俺を追い出すな」

「それは別」

「何でだよ」

 結局。

 ノアは最後までいた。

 普通の昼休みだった。

 くだらない話をして。

 ルシアンとノアが言い合って。

 リリアが笑って。

 チャイムが鳴ったら教室へ戻る。

 それだけ。

 なのに。

 廊下を歩きながら。

 リリアは思った。

 幸せって。

 案外。

 こういうものなのかもしれない。

     *

 放課後。

 生徒会室で仕事をしていると。

 リリアはふと顔を上げた。

「先輩」

「何?」

「今日って何日?」

 ルシアンが日付を答える。

「そっか」

「どうしたの?」

「いや」

 少し考える。

「世界が終わる予定だった日って、いつ?」

 ルシアンの手が止まる。

「……三日前」

「もう過ぎてる?」

「ああ」

「そっか」

 リリアは窓を見る。

 夕焼け。

 校庭。

 部活をしている生徒。

 何も起きていない。

「過ぎたんだ」

「うん」

「普通に」

「ああ」

 ルシアンも窓を見る。

「僕も昨日気づいた」

「言ってよ」

「わざわざ言う必要もないかと思って」

「あるよ」

「そう?」

「だって」

 リリアは笑った。

「初めてじゃん」

「何が?」

「世界が終わる日を越えたの」

 ルシアンが。

 黙った。

「十三回で初?」

「……ああ」

「すご」

「そうだね」

「先輩」

「何?」

「今どんな気持ち?」

 少し。

 長い沈黙。

「分からない」

「また?」

「本当に」

 ルシアンが椅子にもたれる。

「昨日まで、明日が来ることを頭では理解していた」

「うん」

「でも」

 窓の外を見る。

「今日が来た」

「うん」

「何も起きずに」

「うん」

「君がいて」

「いるね」

「ノアがうるさくて」

「それはいつも」

「仕事が残っていて」

「それもいつも」

「明日の予定もある」

「待ち合わせね」

「ああ」

 少し笑う。

「それが」

 紫色の瞳が。

 ほんの少し潤んだ。

「信じられないくらい嬉しい」

 リリアは。

 何も言わなかった。

 立ち上がる。

 ルシアンのところまで行く。

「先輩」

「何?」

「ちょっとこっち」

「何を」

 椅子に座ったままのルシアンの頭を。

 抱きしめた。

「……リリア?」

「よしよし」

「何をしてるの」

「頑張ったから」

「僕は子供じゃないよ」

「知ってる」

 髪を撫でる。

「でも、何千年も頑張ったんでしょ」

「……」

「じゃあこれくらいされてもいいじゃん」

「……そうかな」

「そうです」

 ルシアンは。

 最初は何もしなかった。

 でも。

 少しして。

 腕が。

 リリアの腰へ回った。

 顔を腹部へ埋める。

「……先輩?」

「少しだけ」

「うん」

「このままでいて」

 声が。

 いつもより低い。

 リリアは。

 もう何も言わなかった。

 ただ。

 髪を撫で続けた。

 数分。

 それとももっと。

 分からない。

「リリア」

「ん?」

「ありがとう」

「何が?」

「生きていてくれて」

 手が止まる。

「……うん」

「僕を選んでくれて」

「うん」

「もう一度好きになってくれて」

「……うん」

 リリアは少し笑う。

「先輩」

「何?」

「顔上げて」

 ルシアンが顔を上げる。

 目が合う。

「私も」

「うん」

「生きててくれてありがとう」

 紫色の瞳が。

 揺れる。

「先輩が死んでたら」

「うん」

「私、もう一回好きになれなかったから」

 ルシアンが少し笑った。

「そうだね」

「だから」

 頬へ手を添える。

「二人とも偉い」

「随分まとめたね」

「いいじゃん」

「うん」

 そのまま。

 何となく。

 距離が近くなる。

 ルシアンが。

 リリアを見る。

「キスしていい?」

「……」

「嫌?」

「いや」

「じゃあ」

「ちょっと待って」

「何?」

 リリアは扉を見る。

「鍵」

「閉まってるよ」

「いつ閉めたの?」

「さっきノアが出ていった時」

「……計画的?」

「違う」

「怪しい」

「本当に違う」

「まあいいけど」

 もう一度。

 顔を見る。

「いいよ」

 ルシアンの手が頬へ触れる。

 唇が重なる。

 昨日より。

 自然だった。

 短く触れて。

 一度離れる。

 でも。

 リリアが離れなかった。

 そのまま。

 もう一度。

 今度は。

 どちらからともなく。

 唇を重ねる。

 少し長く。

 ルシアンの手が。

 頬から耳の後ろへ移る。

 髪を撫でる。

 リリアは。

 ルシアンの肩に手を置いた。

 近い。

 温かい。

 心臓が速い。

 でも。

 怖くない。

 唇が離れる。

「……」

「……」

 近いまま。

 目が合う。

「先輩」

「何?」

「今の」

「うん」

「何点だと思う?」

 ルシアンが笑った。

「また採点?」

「うん」

「八十?」

「低い」

「九十」

「もうちょい」

「九十五」

「……まあ」

「百ではない?」

「百にしたら伸び代ないじゃん」

「キスに伸び代を求めるの?」

「大事」

「では精進します」

「よろしく」

 ルシアンが笑う。

 そのまま。

 額が触れる。

「リリア」

「ん?」

「明日」

「うん」

「八時十分」

「忘れないでね」

「忘れない」

「私が遅れたら?」

「待つ」

「何分?」

「来るまで」

「重い」

「……」

「冗談だって」

「君は本当に」

「何?」

「いや」

 ルシアンが。

 少しだけ笑う。

「好きだなと思って」

 不意打ち。

 リリアの顔が熱くなる。

「……そういうの」

「何?」

「急に言うのずるい」

「恋人だからいいかと思って」

「良くない」

「駄目?」

「……たまになら」

「分かった」

「毎日はやめて」

「善処する」

「絶対言うじゃん」

「どうかな」

 また。

 笑った。

     *

 翌朝。

 八時七分。

 リリアは校門へ着いた。

 ルシアンは。

 もういた。

「早」

「君こそ」

「私、三分前」

「僕は五分前」

「二分負けた」

「勝負だったの?」

「今決めた」

「では僕の勝ちだね」

「明日は勝つ」

「楽しみにしてる」

 リリアが隣へ行く。

 ルシアンが。

 当然のように手を差し出す。

 リリアも。

 当然のように握る。

「行こ」

「ああ」

 歩き出す。

 校舎へ。

 普通の一日へ。

 何も起きない。

 世界は壊れない。

 誰も死なない。

 時計は。

 ちゃんと進んでいる。

 そして。

 その日の昼。

 リリアは生徒会室の棚を整理していて、一冊の古い手帳を見つけた。

「先輩」

「何?」

「これ誰の?」

 黒い表紙。

 かなり古い。

 ルシアンが見る。

 そして。

 表情が止まった。

「……僕のだ」

「昔の?」

「ああ」

「見ていい?」

「待って」

 ルシアンが立ち上がる。

 でも。

 リリアの方が早かった。

 最初のページを開く。

 そこには。

 日付と。

 短い文章が書かれていた。

『第十三循環、二百十七日目。』

『今日、彼女が笑った。』

『僕に向けたものではない。』

『それでいい。』

 リリアの指が止まる。

「……先輩」

 ルシアンが。

 何も言わない。

 次のページ。

『二百四十九日目。』

『廊下ですれ違った。』

『目は合わなかった。』

『それでいい。』

 次。

『三百十二日目。』

『初めて話した。』

『名前を呼ばれた。』

『困った。』

『嬉しかった。』

 リリアは。

 ゆっくり顔を上げた。

「これ」

 ルシアンが。

 少しだけ。

 困った顔をした。

「……できれば」

「うん」

「読まないでほしい」

「何で?」

「恥ずかしいから」

 リリアは。

 もう一度。

 手帳を見る。

 まだ。

 何十ページもある。

 世界が終わる前。

 ルシアンが。

 誰にも見せなかった。

 十三回目の記録。

「……読みたい」

「リリア」

「駄目?」

「……」

 長い沈黙。

 ルシアンが。

 観念したように息を吐いた。

「僕がいるところで」

「何で?」

「訂正したい箇所がある」

「改竄禁止」

「改竄ではない」

「じゃあ今日」

「今?」

「うん」

 リリアは。

 手帳を胸へ抱えた。

「先輩が」

 少し笑う。

「私を好きになるまで、読みたい」

 ルシアンは。

 しばらく黙っていた。

 そして。

 耳を少し赤くしながら。

「……長いよ」

「何ページ?」

「かなり」

「じゃあ」

 隣の椅子を引く。

「ゆっくり読も」

 ルシアンが。

 その椅子を見る。

 それから。

 リリアを見る。

「今日だけじゃ終わらないかもしれない」

「いいよ」

「明日も?」

「うん」

「その次も?」

「読む」

「……そう」

 ルシアンは。

 隣へ座った。

 二人の間に。

 一冊の古い手帳。

 リリアは。

 次のページを開く。

『三百十三日目。』

『今日も彼女に会った。』

『昨日より、少しだけ話せた。』

『嬉しかった。』

 たった三行。

 なのに。

 胸が。

 きゅっとなる。

 リリアは。

 隣を見る。

「先輩」

「何?」

「これ全部読んだら」

「うん」

「私、先輩のこと今より好きになるかも」

 ルシアンが。

 少しだけ笑った。

「それは困ったな」

「何で?」

「僕も」

 リリアの手へ。

 そっと。

 自分の手を重ねる。

「同じ速度で増える予定だから」

 リリアは。

 一瞬黙って。

 それから。

 手帳でルシアンの腕を軽く叩いた。

「それはちょっとキザ」

「……忘れて」

「嫌」

「そこは忘れてくれない?」

「今度は忘れないって言ったでしょ」

 ルシアンが。

 困ったように笑う。

「それ、僕の台詞だったんだけど」

「もらった」

 リリアは笑って。

 次のページをめくった。

 明日が来る。

 だから。

 急がなくていい。

 今日読み切れなくても。

 明日。

 続きを読めばいい。

 明日話せなかったことは。

 明後日。

 話せばいい。

 今日伝えきれなかった好きは。

 明日。

 また伝えればいい。

 そんな当たり前のことを。

 二人は。

 何千年もかけて。

 ようやく手に入れた。