世界が再構築されてから、三日が経った。
少なくとも、ルシアンはそう言った。
リリアにとっては、あの中庭で目を覚ました日が新しい世界の一日目だった。学院も、街も、友人たちも以前と変わらず存在しているらしい。ノアもセシルもレオンもアレンもカイルも、誰一人欠けていなかった。
ただし、彼らの記憶からも循環や管理者に関するものはほとんど消えていた。
ノアだけは「なんか俺、ものすごく面倒なことに巻き込まれてた気がする」と言っていたが、詳しくは思い出せないらしい。
そしてリリアは。
ルシアンに関する記憶だけが、不自然なほど穴だらけになっていた。
「これ、付き合ってたって本当?」
昼休みの生徒会室。
向かいに座るルシアンへ尋ねると、彼は飲んでいたコーヒーを静かに置いた。
「本当だよ」
「どれくらい?」
「期間?」
「うん」
「それほど長くはない」
「じゃあ最近?」
「ああ」
「私から?」
ルシアンが一瞬黙った。
「何が?」
「告白」
「……そこから?」
「大事じゃん」
「大事だけど」
「どっち?」
ルシアンは眼鏡を直す。
「色々あったから、明確にどちらからとは言いにくい」
「何それ」
「本当に色々あったんだよ」
「キスは?」
ルシアンが咳き込んだ。
「大丈夫?」
「君は本当に容赦がないね」
「付き合ってたならしたでしょ?」
「……したよ」
「どっちから?」
「両方」
「私からも?」
「ああ」
「何回?」
「そこまで答える必要ある?」
「気になる」
「数えてない」
「絶対嘘」
「どうして?」
「先輩、細かそうだから」
「偏見だよ」
「当たってる?」
「……否定はしない」
リリアは机に肘をついて、じっとルシアンを見る。
三日前。
中庭で初めて――正確には、もう一度――会った時から気になっていた。
この人は、自分に対して妙に優しい。
優しいだけならまだいい。
距離の取り方がおかしい。
近づきたいのに、近づかない。
触れたいのに、触れない。
何かを言いかけては、やめる。
リリアが思い出せないことを一つ質問するたび、丁寧に答えてくれる。でも、自分から過去を語ろうとはしない。
「先輩」
「何?」
「私に気遣ってる?」
「……多少は」
「めちゃくちゃ気遣ってない?」
「そう見える?」
「見える」
ルシアンは少し困ったように笑った。
「君に、思い出すことを強制したくないから」
「何で?」
「約束したんだ」
「誰と?」
「君と」
「覚えてない」
「ああ」
「どんな約束?」
ルシアンは少し考えてから答えた。
「君が僕を忘れたとしても、その後どうするかは君自身が決める」
「それだけ?」
「大体は」
「だから、付き合ってたことも黙ってたの?」
「君から聞かれるまではね」
「何で?」
「恋人だったと知ったら、君は僕を好きにならなければいけないと思うかもしれない」
「思わないけど」
「ならよかった」
「でも先輩は?」
「何が?」
「私のこと今も好き?」
ルシアンが止まった。
この三日。
聞こうと思えば聞けた。
でも何となく聞かなかった。
答えを知るのが少し怖かったからかもしれない。
「……好きだよ」
思ったよりずっと静かな答えだった。
「今も?」
「ああ」
「私、先輩のこと覚えてないよ」
「それと僕の気持ちは別だから」
「辛くない?」
ルシアンは少し笑った。
「それなりに」
胸がちくりとした。
「ごめん」
「謝らなくていい」
「でも」
「リリア」
声が柔らかい。
「僕が君に好きでいてほしいと思うことと、君が僕を好きでいなければならないことは違う」
「……うん」
「僕はまだ好きだよ。でも君は自由だ」
リリアは黙った。
なぜか。
その言葉を。
以前にも聞いたような気がした。
自由。
私が決める。
私のもの。
「先輩」
「何?」
「手、貸して」
「手?」
「うん」
ルシアンが右手を差し出す。
リリアはその手を握った。
「……」
「……」
「何か思い出した?」
「待って」
目を閉じる。
温度。
指の長さ。
触れ方。
知っている。
頭ではなく。
身体が。
「こうじゃない」
「え?」
リリアは握り方を変えた。
指と指を絡める。
その瞬間。
ルシアンの手が僅かに震えた。
「……これ」
「リリア」
「私たち、こうやって繋いでた?」
「……ああ」
「やっぱり」
目を開ける。
ルシアンがこちらを見ていた。
「何で分かったんだろ」
「分からない」
「先輩、嬉しそう」
「そう見える?」
「うん」
「なら嬉しいんだろうね」
「何それ」
手を離そうとする。
でも。
離す直前。
少し惜しいと思った。
結局、そのままにした。
「……もうちょっと」
「うん」
「別に好きとかじゃないよ」
「分かってる」
「何か落ち着くから」
「ああ」
「嬉しい?」
「かなり」
「正直」
「嘘をつかない約束もしたから」
「私たち約束多くない?」
「色々あったからね」
しばらく。
二人で手を繋いだまま座っていた。
妙な感じだった。
恋人だったらしい人。
自分を今も好きな人。
でも自分は。
彼を知らない。
いや。
知らないはずなのに。
時々、知っている。
眼鏡を直す仕草。
コーヒーに砂糖を入れないこと。
考え事をしている時、右手の人差し指で机を二回叩くこと。
さっきも。
「先輩」
「何?」
「今考え事してた?」
「どうして?」
「机、二回叩いた」
ルシアンが自分の指を見る。
「……よく覚えているね」
「これも?」
「ああ」
「私、先輩のことめっちゃ見てた?」
「かなり」
「へえ」
「僕も君をかなり見ていたよ」
「それは何となく分かる」
「なぜ?」
「今も見てるから」
ルシアンが目を逸らした。
「あ、照れた」
「照れてない」
「眼鏡」
「これは癖」
「便利だね、その眼鏡」
「君にだけは言われたくないな」
「何で?」
「……前も同じようなことを言われた」
「私、全然変わってないじゃん」
リリアは笑った。
ルシアンも笑った。
その時。
胸の奥に。
また一つ。
何かが浮かんだ。
『今日も好き?』
リリアの笑顔が止まる。
「……先輩」
「どうした?」
「私、毎日何か聞いてた?」
ルシアンの表情が変わった。
「何を?」
「分かんない」
胸元を押さえる。
「今日も……何とかって」
ルシアンは答えない。
「何?」
「無理に思い出さなくていい」
「気になる」
「リリア」
「教えて」
少し迷ってから。
「『今日も好き?』」
胸が。
跳ねた。
「……私が?」
「ああ」
「毎日?」
「かなり頻繁に」
「うざくない?」
「全然」
「先輩は何て答えてた?」
「好きだよって」
「毎回?」
「毎回」
「……へえ」
急に恥ずかしくなった。
「私、結構甘かった?」
「君は自分で思っているより甘いよ」
「先輩も?」
「僕?」
「バカップルだった?」
ルシアンが少し考える。
「そこまでではないと思う」
「よかった」
「君がそういうの嫌がっていたから」
「やっぱり私だ」
「でも二人きりだとそれなりに」
「そこは聞かなかったことにする」
「聞いたのは君だよ」
リリアは笑って。
ふと。
言ってみたくなった。
「先輩」
「何?」
「今日も好き?」
ルシアンが。
完全に止まった。
「あ」
リリア自身も。
言った瞬間。
何かが胸の奥を駆け抜けた。
何度も。
何度も。
同じことを聞いた。
朝。
廊下。
生徒会室。
夜。
笑いながら。
不安な時も。
好きだと確認したくて。
「……私」
頭が痛む。
「リリア?」
「待って」
目を閉じる。
断片。
『今日も好き?』
『好きだよ』
『昨日より?』
『増えた』
夕焼け。
『今日も?』
『今日も』
手。
『明日も?』
『多分』
『多分なの!?』
『冗談だよ』
笑い声。
「……先輩」
「リリア」
「思い出した」
ルシアンが息を止める。
「全部ではない」
「うん」
「でも」
涙が出た。
悲しいわけではない。
懐かしい。
その感情だけが。
記憶より先に戻ってくる。
「私、めっちゃ聞いてた」
ルシアンが笑う。
「ああ」
「毎回先輩答えてた」
「ああ」
「面倒じゃなかった?」
「一度も」
「……そっか」
リリアは繋いだ手を見る。
そして。
もう一度。
「今日も好き?」
今度は。
ちゃんと。
自分の意思で聞いた。
ルシアンは。
少しだけ目を潤ませながら笑った。
「今日も好きだよ」
胸が。
温かくなる。
「昨日より?」
「増えた」
「何で?」
「君ともう一度話せたから」
「一昨日より?」
「増えた」
「三日前より?」
「増えたよ」
「じゃあ毎日増えるじゃん」
「困ったね」
「どこまで?」
「測れない」
また。
何かが戻る。
『同期率』
『もう存在しないよ』
『ゼロ?』
『違う。測れない』
リリアの目から涙が落ちた。
「……測れない」
「え?」
「先輩、それ前も言った」
ルシアンの顔が変わる。
「覚えている?」
「ちょっとだけ」
リリアは涙を拭う。
「何で泣いてるんだろ」
「無理しないで」
「無理してない」
「でも」
「先輩」
「何?」
「抱きしめていい?」
ルシアンが動きを止めた。
「……僕が?」
「違う」
リリアは立ち上がった。
「私が」
机を回る。
ルシアンの前へ立つ。
「いい?」
「もちろん」
リリアは腕を伸ばした。
首へ回す。
抱きしめる。
その瞬間。
知っている。
身体が。
全部知っていた。
この高さ。
肩。
背中。
匂い。
抱きしめた時の安心感。
「……知ってる」
声が震える。
「先輩」
「うん」
「知ってるよ」
ルシアンの腕が。
すぐには回ってこなかった。
リリアは少し身体を離す。
「何で抱きしめてくれないの?」
「……いいの?」
「今聞いたじゃん」
「君が僕を抱きしめるのと、僕が君を抱きしめるのは」
「いいよ」
「本当に?」
「いい」
そこでようやく。
腕が背中へ回った。
優しく。
壊れものに触るみたいに。
「もっと普通でいい」
「これが今の僕の普通」
「気遣いすぎ」
「三日では直らないよ」
「じゃあ慣らす」
「何を?」
「私に」
腕へ少し力を込める。
「また」
ルシアンの呼吸が止まる。
「慣れてよ」
背中に回った腕が。
今度は少しだけ強くなる。
「……努力する」
「よし」
しばらく。
そのままでいた。
心臓の音が聞こえる。
どちらのものか分からないくらい近い。
リリアは目を閉じた。
もう一つ。
思い出せそう。
夕方。
川。
ベンチ。
頬に触れた手。
自分から。
近づいて。
「……キス」
口から出た。
ルシアンの身体が固まる。
「何?」
「した」
「うん」
「私から」
「……うん」
「川のところ」
「覚えているの?」
「少し」
身体を離す。
顔を見る。
近い。
急に意識する。
「……ここで?」
「え?」
「今」
自分でも何を聞いているのか分かっている。
顔が熱くなる。
「したいの?」
ルシアンが聞く。
「分かんない」
「ならしない」
即答だった。
「早」
「分からない時はしない」
「先輩はしたい?」
「それを聞く?」
「聞きたい」
ルシアンは少しだけ目を逸らす。
「……したいよ」
「正直」
「嘘をつかない約束」
「でもしない?」
「君が決めるまで」
その答えが。
すごく。
ルシアンらしい気がした。
「じゃあ」
リリアは少しだけ離れた。
「今日はしない」
「ああ」
「残念?」
「かなり」
「ふふ」
「笑わないで」
「先輩、そういうこと言えるんだ」
「君が聞いたからね」
リリアは自分の席へ戻った。
手は。
自然に離れた。
でも。
寂しくなかった。
また繋げばいい。
そう思えた。
*
その日の放課後。
リリアは一人で街を歩いていた。
何となく。
行きたい場所がある気がした。
道は覚えていない。
でも足が勝手に進む。
角を曲がる。
小さな店。
「……ここ」
菓子店。
入る。
甘い匂い。
ショーケース。
苺のタルト。
チョコレートケーキ。
「……」
胸が鳴る。
『一口交換しよ』
『いいよ』
『はい』
『自分で取るよ』
『食べさせようと思ったのに』
「……っ」
記憶が戻る。
断片ではない。
昨日。
いや。
再構築前の昨日。
ルシアンと初めてデートした日。
服屋。
紫のシャツ。
試着したワンピース。
ケーキ。
雑貨店。
川沿い。
ブレスレット。
『君との間には、僕が自分で選んだものを増やしたかった』
涙が落ちた。
「……思い出した」
全部ではない。
でも。
あの日を。
ほとんど。
「馬鹿」
笑いながら涙を拭う。
何で。
こんな大事な日を。
三日も忘れていたのだろう。
リリアは店を飛び出した。
学院へ戻る。
走る。
廊下。
階段。
生徒会室。
扉を開ける。
「先輩!」
ルシアンが驚いて顔を上げる。
「リリア?」
「いた!」
「どうしたの」
「行くよ!」
「どこへ?」
「デート!」
「……え?」
「早く!」
「待って、仕事が」
「明日!」
「でも」
「世界十三回分より大事!?」
「比較対象がおかしいだろう」
「早く!」
ルシアンは困惑したまま立ち上がる。
「何があったの?」
「思い出した」
その一言で。
ルシアンが止まった。
「……何を?」
「昨日」
「昨日?」
「世界が変わる前の」
リリアは左手首を上げた。
「これも」
紫と白の石。
「先輩がくれた」
「……ああ」
「服屋行った」
「ああ」
「ケーキ食べた」
「うん」
「先輩にあーんした」
「そこまで?」
「先輩もした」
「……したね」
「川行った」
ルシアンの目が揺れる。
「先輩が言った」
「何を?」
「来年もこういう日があるといいって」
沈黙。
「だから」
リリアは笑った。
「来年まで待つの長いから、今日もう一回」
ルシアンはしばらく何も言わなかった。
そして。
「……ずるいな」
「何が?」
「そんなこと言われたら、仕事なんてできない」
「じゃあ行こ」
「どこへ?」
「同じところ」
「全部?」
「全部」
「もう夕方だよ」
「じゃあ行けるところだけ」
「分かった」
ルシアンが上着を取る。
リリアは扉の前で待つ。
隣へ来た。
「行こうか」
「うん」
歩き出す。
廊下を並んで。
少しして。
リリアは手を差し出した。
「先輩」
「何?」
「デートなので」
ルシアンがその手を見る。
「いいの?」
「いい」
手が重なる。
指が絡む。
今度は。
リリアから。
しっかり握った。
*
結局、菓子店しか間に合わなかった。
同じ席。
同じ苺のタルト。
同じチョコレートケーキ。
「一口交換しよ」
リリアが言う。
ルシアンが笑う。
「前も聞いたね」
「うん」
「自分で取る?」
「先輩」
「何?」
「はい」
フォークで苺のタルトを差し出す。
「……また?」
「思い出した記念」
「何でも記念日にするね」
「嫌?」
「逆」
リリアが笑う。
「それも覚えてる」
「そう?」
「うん」
ルシアンがタルトを食べる。
「美味しい?」
「美味しい」
「じゃあ次」
「僕?」
「うん」
「自分で食べるんじゃなかった?」
「今日はいい」
ルシアンがチョコレートケーキを切る。
差し出す。
リリアが食べる。
「……美味しい」
「よかった」
目が合う。
何となく。
二人とも笑った。
店を出る頃には。
空が夕焼けに染まっていた。
川沿いへ行く。
同じベンチ。
座る。
「ここ」
リリアが言う。
「ああ」
「覚えてる」
「うん」
「先輩がブレスレットくれた」
「ああ」
「私がキスした」
ルシアンが眼鏡を直す。
「……それも」
「うん」
「全部?」
「そこはかなり鮮明」
「なぜそこだけ」
「大事だから?」
「僕に聞かれても」
リリアは笑う。
夕日を見る。
そして。
「先輩」
「何?」
「さっき」
「うん」
「キスしたいって言ったよね」
ルシアンの動きが止まる。
「……言ったね」
「今も?」
「君は」
「嘘つかない約束」
「……したいよ」
リリアは少しだけ緊張した。
「じゃあ」
ルシアンを見る。
「いいよ」
でも。
ルシアンは動かなかった。
「先輩?」
「本当に?」
「うん」
「思い出したから、しなければいけないと思ってない?」
「思ってない」
「恋人だったから?」
「違う」
「なら」
リリアは少しだけ考えた。
どう言えば。
この人は安心するのだろう。
そして。
気づく。
簡単だった。
「今」
ルシアンを見る。
「したいから」
紫の目が揺れる。
「今の私が」
少しだけ近づく。
「先輩とキスしたい」
今度こそ。
ルシアンが笑った。
「……分かった」
頬へ手が触れる。
懐かしい。
でも。
新しい。
ゆっくり近づく。
唇が触れた。
短く。
優しく。
離れる。
リリアは目を開ける。
ルシアンが近くにいる。
「……終わり?」
「え?」
「短い」
言ってから。
自分で恥ずかしくなった。
「いや、違う」
「違う?」
「今のなし」
「もう聞いた」
「忘れて」
「残念だけど」
ルシアンが少し笑う。
「今度は忘れたくない」
胸が跳ねた。
「……じゃあ」
リリアは目を逸らす。
「もう一回」
「いい?」
「うん」
二度目。
今度は少し長い。
触れて。
離れかけて。
もう一度触れる。
リリアの手が自然にルシアンの服を掴んだ。
頬にあった手が、髪へ触れる。
それ以上は何もしない。
ただ。
確かめるようなキス。
離れた時。
リリアはしばらく何も言えなかった。
「……思い出した?」
ルシアンが聞く。
「何を?」
「何か」
「ううん」
「そう」
「でも」
リリアは少し笑う。
「一個増えた」
「何が?」
「新しい記憶」
ルシアンが黙る。
「今日の」
その瞬間。
彼の表情が。
すごく優しくなった。
「……そうだね」
「過去の記憶戻すのもいいけど」
「うん」
「新しいの作ればいいじゃん」
「ああ」
「明日も」
「うん」
「明後日も」
「ああ」
「来年も」
「もちろん」
「じゃあ」
リリアは手を差し出す。
「帰ろ」
ルシアンが握る。
立ち上がる。
川沿いを。
二人で歩く。
世界はもう。
二人を繋いでくれない。
だから。
自分たちで。
手を繋いだ。
少なくとも、ルシアンはそう言った。
リリアにとっては、あの中庭で目を覚ました日が新しい世界の一日目だった。学院も、街も、友人たちも以前と変わらず存在しているらしい。ノアもセシルもレオンもアレンもカイルも、誰一人欠けていなかった。
ただし、彼らの記憶からも循環や管理者に関するものはほとんど消えていた。
ノアだけは「なんか俺、ものすごく面倒なことに巻き込まれてた気がする」と言っていたが、詳しくは思い出せないらしい。
そしてリリアは。
ルシアンに関する記憶だけが、不自然なほど穴だらけになっていた。
「これ、付き合ってたって本当?」
昼休みの生徒会室。
向かいに座るルシアンへ尋ねると、彼は飲んでいたコーヒーを静かに置いた。
「本当だよ」
「どれくらい?」
「期間?」
「うん」
「それほど長くはない」
「じゃあ最近?」
「ああ」
「私から?」
ルシアンが一瞬黙った。
「何が?」
「告白」
「……そこから?」
「大事じゃん」
「大事だけど」
「どっち?」
ルシアンは眼鏡を直す。
「色々あったから、明確にどちらからとは言いにくい」
「何それ」
「本当に色々あったんだよ」
「キスは?」
ルシアンが咳き込んだ。
「大丈夫?」
「君は本当に容赦がないね」
「付き合ってたならしたでしょ?」
「……したよ」
「どっちから?」
「両方」
「私からも?」
「ああ」
「何回?」
「そこまで答える必要ある?」
「気になる」
「数えてない」
「絶対嘘」
「どうして?」
「先輩、細かそうだから」
「偏見だよ」
「当たってる?」
「……否定はしない」
リリアは机に肘をついて、じっとルシアンを見る。
三日前。
中庭で初めて――正確には、もう一度――会った時から気になっていた。
この人は、自分に対して妙に優しい。
優しいだけならまだいい。
距離の取り方がおかしい。
近づきたいのに、近づかない。
触れたいのに、触れない。
何かを言いかけては、やめる。
リリアが思い出せないことを一つ質問するたび、丁寧に答えてくれる。でも、自分から過去を語ろうとはしない。
「先輩」
「何?」
「私に気遣ってる?」
「……多少は」
「めちゃくちゃ気遣ってない?」
「そう見える?」
「見える」
ルシアンは少し困ったように笑った。
「君に、思い出すことを強制したくないから」
「何で?」
「約束したんだ」
「誰と?」
「君と」
「覚えてない」
「ああ」
「どんな約束?」
ルシアンは少し考えてから答えた。
「君が僕を忘れたとしても、その後どうするかは君自身が決める」
「それだけ?」
「大体は」
「だから、付き合ってたことも黙ってたの?」
「君から聞かれるまではね」
「何で?」
「恋人だったと知ったら、君は僕を好きにならなければいけないと思うかもしれない」
「思わないけど」
「ならよかった」
「でも先輩は?」
「何が?」
「私のこと今も好き?」
ルシアンが止まった。
この三日。
聞こうと思えば聞けた。
でも何となく聞かなかった。
答えを知るのが少し怖かったからかもしれない。
「……好きだよ」
思ったよりずっと静かな答えだった。
「今も?」
「ああ」
「私、先輩のこと覚えてないよ」
「それと僕の気持ちは別だから」
「辛くない?」
ルシアンは少し笑った。
「それなりに」
胸がちくりとした。
「ごめん」
「謝らなくていい」
「でも」
「リリア」
声が柔らかい。
「僕が君に好きでいてほしいと思うことと、君が僕を好きでいなければならないことは違う」
「……うん」
「僕はまだ好きだよ。でも君は自由だ」
リリアは黙った。
なぜか。
その言葉を。
以前にも聞いたような気がした。
自由。
私が決める。
私のもの。
「先輩」
「何?」
「手、貸して」
「手?」
「うん」
ルシアンが右手を差し出す。
リリアはその手を握った。
「……」
「……」
「何か思い出した?」
「待って」
目を閉じる。
温度。
指の長さ。
触れ方。
知っている。
頭ではなく。
身体が。
「こうじゃない」
「え?」
リリアは握り方を変えた。
指と指を絡める。
その瞬間。
ルシアンの手が僅かに震えた。
「……これ」
「リリア」
「私たち、こうやって繋いでた?」
「……ああ」
「やっぱり」
目を開ける。
ルシアンがこちらを見ていた。
「何で分かったんだろ」
「分からない」
「先輩、嬉しそう」
「そう見える?」
「うん」
「なら嬉しいんだろうね」
「何それ」
手を離そうとする。
でも。
離す直前。
少し惜しいと思った。
結局、そのままにした。
「……もうちょっと」
「うん」
「別に好きとかじゃないよ」
「分かってる」
「何か落ち着くから」
「ああ」
「嬉しい?」
「かなり」
「正直」
「嘘をつかない約束もしたから」
「私たち約束多くない?」
「色々あったからね」
しばらく。
二人で手を繋いだまま座っていた。
妙な感じだった。
恋人だったらしい人。
自分を今も好きな人。
でも自分は。
彼を知らない。
いや。
知らないはずなのに。
時々、知っている。
眼鏡を直す仕草。
コーヒーに砂糖を入れないこと。
考え事をしている時、右手の人差し指で机を二回叩くこと。
さっきも。
「先輩」
「何?」
「今考え事してた?」
「どうして?」
「机、二回叩いた」
ルシアンが自分の指を見る。
「……よく覚えているね」
「これも?」
「ああ」
「私、先輩のことめっちゃ見てた?」
「かなり」
「へえ」
「僕も君をかなり見ていたよ」
「それは何となく分かる」
「なぜ?」
「今も見てるから」
ルシアンが目を逸らした。
「あ、照れた」
「照れてない」
「眼鏡」
「これは癖」
「便利だね、その眼鏡」
「君にだけは言われたくないな」
「何で?」
「……前も同じようなことを言われた」
「私、全然変わってないじゃん」
リリアは笑った。
ルシアンも笑った。
その時。
胸の奥に。
また一つ。
何かが浮かんだ。
『今日も好き?』
リリアの笑顔が止まる。
「……先輩」
「どうした?」
「私、毎日何か聞いてた?」
ルシアンの表情が変わった。
「何を?」
「分かんない」
胸元を押さえる。
「今日も……何とかって」
ルシアンは答えない。
「何?」
「無理に思い出さなくていい」
「気になる」
「リリア」
「教えて」
少し迷ってから。
「『今日も好き?』」
胸が。
跳ねた。
「……私が?」
「ああ」
「毎日?」
「かなり頻繁に」
「うざくない?」
「全然」
「先輩は何て答えてた?」
「好きだよって」
「毎回?」
「毎回」
「……へえ」
急に恥ずかしくなった。
「私、結構甘かった?」
「君は自分で思っているより甘いよ」
「先輩も?」
「僕?」
「バカップルだった?」
ルシアンが少し考える。
「そこまでではないと思う」
「よかった」
「君がそういうの嫌がっていたから」
「やっぱり私だ」
「でも二人きりだとそれなりに」
「そこは聞かなかったことにする」
「聞いたのは君だよ」
リリアは笑って。
ふと。
言ってみたくなった。
「先輩」
「何?」
「今日も好き?」
ルシアンが。
完全に止まった。
「あ」
リリア自身も。
言った瞬間。
何かが胸の奥を駆け抜けた。
何度も。
何度も。
同じことを聞いた。
朝。
廊下。
生徒会室。
夜。
笑いながら。
不安な時も。
好きだと確認したくて。
「……私」
頭が痛む。
「リリア?」
「待って」
目を閉じる。
断片。
『今日も好き?』
『好きだよ』
『昨日より?』
『増えた』
夕焼け。
『今日も?』
『今日も』
手。
『明日も?』
『多分』
『多分なの!?』
『冗談だよ』
笑い声。
「……先輩」
「リリア」
「思い出した」
ルシアンが息を止める。
「全部ではない」
「うん」
「でも」
涙が出た。
悲しいわけではない。
懐かしい。
その感情だけが。
記憶より先に戻ってくる。
「私、めっちゃ聞いてた」
ルシアンが笑う。
「ああ」
「毎回先輩答えてた」
「ああ」
「面倒じゃなかった?」
「一度も」
「……そっか」
リリアは繋いだ手を見る。
そして。
もう一度。
「今日も好き?」
今度は。
ちゃんと。
自分の意思で聞いた。
ルシアンは。
少しだけ目を潤ませながら笑った。
「今日も好きだよ」
胸が。
温かくなる。
「昨日より?」
「増えた」
「何で?」
「君ともう一度話せたから」
「一昨日より?」
「増えた」
「三日前より?」
「増えたよ」
「じゃあ毎日増えるじゃん」
「困ったね」
「どこまで?」
「測れない」
また。
何かが戻る。
『同期率』
『もう存在しないよ』
『ゼロ?』
『違う。測れない』
リリアの目から涙が落ちた。
「……測れない」
「え?」
「先輩、それ前も言った」
ルシアンの顔が変わる。
「覚えている?」
「ちょっとだけ」
リリアは涙を拭う。
「何で泣いてるんだろ」
「無理しないで」
「無理してない」
「でも」
「先輩」
「何?」
「抱きしめていい?」
ルシアンが動きを止めた。
「……僕が?」
「違う」
リリアは立ち上がった。
「私が」
机を回る。
ルシアンの前へ立つ。
「いい?」
「もちろん」
リリアは腕を伸ばした。
首へ回す。
抱きしめる。
その瞬間。
知っている。
身体が。
全部知っていた。
この高さ。
肩。
背中。
匂い。
抱きしめた時の安心感。
「……知ってる」
声が震える。
「先輩」
「うん」
「知ってるよ」
ルシアンの腕が。
すぐには回ってこなかった。
リリアは少し身体を離す。
「何で抱きしめてくれないの?」
「……いいの?」
「今聞いたじゃん」
「君が僕を抱きしめるのと、僕が君を抱きしめるのは」
「いいよ」
「本当に?」
「いい」
そこでようやく。
腕が背中へ回った。
優しく。
壊れものに触るみたいに。
「もっと普通でいい」
「これが今の僕の普通」
「気遣いすぎ」
「三日では直らないよ」
「じゃあ慣らす」
「何を?」
「私に」
腕へ少し力を込める。
「また」
ルシアンの呼吸が止まる。
「慣れてよ」
背中に回った腕が。
今度は少しだけ強くなる。
「……努力する」
「よし」
しばらく。
そのままでいた。
心臓の音が聞こえる。
どちらのものか分からないくらい近い。
リリアは目を閉じた。
もう一つ。
思い出せそう。
夕方。
川。
ベンチ。
頬に触れた手。
自分から。
近づいて。
「……キス」
口から出た。
ルシアンの身体が固まる。
「何?」
「した」
「うん」
「私から」
「……うん」
「川のところ」
「覚えているの?」
「少し」
身体を離す。
顔を見る。
近い。
急に意識する。
「……ここで?」
「え?」
「今」
自分でも何を聞いているのか分かっている。
顔が熱くなる。
「したいの?」
ルシアンが聞く。
「分かんない」
「ならしない」
即答だった。
「早」
「分からない時はしない」
「先輩はしたい?」
「それを聞く?」
「聞きたい」
ルシアンは少しだけ目を逸らす。
「……したいよ」
「正直」
「嘘をつかない約束」
「でもしない?」
「君が決めるまで」
その答えが。
すごく。
ルシアンらしい気がした。
「じゃあ」
リリアは少しだけ離れた。
「今日はしない」
「ああ」
「残念?」
「かなり」
「ふふ」
「笑わないで」
「先輩、そういうこと言えるんだ」
「君が聞いたからね」
リリアは自分の席へ戻った。
手は。
自然に離れた。
でも。
寂しくなかった。
また繋げばいい。
そう思えた。
*
その日の放課後。
リリアは一人で街を歩いていた。
何となく。
行きたい場所がある気がした。
道は覚えていない。
でも足が勝手に進む。
角を曲がる。
小さな店。
「……ここ」
菓子店。
入る。
甘い匂い。
ショーケース。
苺のタルト。
チョコレートケーキ。
「……」
胸が鳴る。
『一口交換しよ』
『いいよ』
『はい』
『自分で取るよ』
『食べさせようと思ったのに』
「……っ」
記憶が戻る。
断片ではない。
昨日。
いや。
再構築前の昨日。
ルシアンと初めてデートした日。
服屋。
紫のシャツ。
試着したワンピース。
ケーキ。
雑貨店。
川沿い。
ブレスレット。
『君との間には、僕が自分で選んだものを増やしたかった』
涙が落ちた。
「……思い出した」
全部ではない。
でも。
あの日を。
ほとんど。
「馬鹿」
笑いながら涙を拭う。
何で。
こんな大事な日を。
三日も忘れていたのだろう。
リリアは店を飛び出した。
学院へ戻る。
走る。
廊下。
階段。
生徒会室。
扉を開ける。
「先輩!」
ルシアンが驚いて顔を上げる。
「リリア?」
「いた!」
「どうしたの」
「行くよ!」
「どこへ?」
「デート!」
「……え?」
「早く!」
「待って、仕事が」
「明日!」
「でも」
「世界十三回分より大事!?」
「比較対象がおかしいだろう」
「早く!」
ルシアンは困惑したまま立ち上がる。
「何があったの?」
「思い出した」
その一言で。
ルシアンが止まった。
「……何を?」
「昨日」
「昨日?」
「世界が変わる前の」
リリアは左手首を上げた。
「これも」
紫と白の石。
「先輩がくれた」
「……ああ」
「服屋行った」
「ああ」
「ケーキ食べた」
「うん」
「先輩にあーんした」
「そこまで?」
「先輩もした」
「……したね」
「川行った」
ルシアンの目が揺れる。
「先輩が言った」
「何を?」
「来年もこういう日があるといいって」
沈黙。
「だから」
リリアは笑った。
「来年まで待つの長いから、今日もう一回」
ルシアンはしばらく何も言わなかった。
そして。
「……ずるいな」
「何が?」
「そんなこと言われたら、仕事なんてできない」
「じゃあ行こ」
「どこへ?」
「同じところ」
「全部?」
「全部」
「もう夕方だよ」
「じゃあ行けるところだけ」
「分かった」
ルシアンが上着を取る。
リリアは扉の前で待つ。
隣へ来た。
「行こうか」
「うん」
歩き出す。
廊下を並んで。
少しして。
リリアは手を差し出した。
「先輩」
「何?」
「デートなので」
ルシアンがその手を見る。
「いいの?」
「いい」
手が重なる。
指が絡む。
今度は。
リリアから。
しっかり握った。
*
結局、菓子店しか間に合わなかった。
同じ席。
同じ苺のタルト。
同じチョコレートケーキ。
「一口交換しよ」
リリアが言う。
ルシアンが笑う。
「前も聞いたね」
「うん」
「自分で取る?」
「先輩」
「何?」
「はい」
フォークで苺のタルトを差し出す。
「……また?」
「思い出した記念」
「何でも記念日にするね」
「嫌?」
「逆」
リリアが笑う。
「それも覚えてる」
「そう?」
「うん」
ルシアンがタルトを食べる。
「美味しい?」
「美味しい」
「じゃあ次」
「僕?」
「うん」
「自分で食べるんじゃなかった?」
「今日はいい」
ルシアンがチョコレートケーキを切る。
差し出す。
リリアが食べる。
「……美味しい」
「よかった」
目が合う。
何となく。
二人とも笑った。
店を出る頃には。
空が夕焼けに染まっていた。
川沿いへ行く。
同じベンチ。
座る。
「ここ」
リリアが言う。
「ああ」
「覚えてる」
「うん」
「先輩がブレスレットくれた」
「ああ」
「私がキスした」
ルシアンが眼鏡を直す。
「……それも」
「うん」
「全部?」
「そこはかなり鮮明」
「なぜそこだけ」
「大事だから?」
「僕に聞かれても」
リリアは笑う。
夕日を見る。
そして。
「先輩」
「何?」
「さっき」
「うん」
「キスしたいって言ったよね」
ルシアンの動きが止まる。
「……言ったね」
「今も?」
「君は」
「嘘つかない約束」
「……したいよ」
リリアは少しだけ緊張した。
「じゃあ」
ルシアンを見る。
「いいよ」
でも。
ルシアンは動かなかった。
「先輩?」
「本当に?」
「うん」
「思い出したから、しなければいけないと思ってない?」
「思ってない」
「恋人だったから?」
「違う」
「なら」
リリアは少しだけ考えた。
どう言えば。
この人は安心するのだろう。
そして。
気づく。
簡単だった。
「今」
ルシアンを見る。
「したいから」
紫の目が揺れる。
「今の私が」
少しだけ近づく。
「先輩とキスしたい」
今度こそ。
ルシアンが笑った。
「……分かった」
頬へ手が触れる。
懐かしい。
でも。
新しい。
ゆっくり近づく。
唇が触れた。
短く。
優しく。
離れる。
リリアは目を開ける。
ルシアンが近くにいる。
「……終わり?」
「え?」
「短い」
言ってから。
自分で恥ずかしくなった。
「いや、違う」
「違う?」
「今のなし」
「もう聞いた」
「忘れて」
「残念だけど」
ルシアンが少し笑う。
「今度は忘れたくない」
胸が跳ねた。
「……じゃあ」
リリアは目を逸らす。
「もう一回」
「いい?」
「うん」
二度目。
今度は少し長い。
触れて。
離れかけて。
もう一度触れる。
リリアの手が自然にルシアンの服を掴んだ。
頬にあった手が、髪へ触れる。
それ以上は何もしない。
ただ。
確かめるようなキス。
離れた時。
リリアはしばらく何も言えなかった。
「……思い出した?」
ルシアンが聞く。
「何を?」
「何か」
「ううん」
「そう」
「でも」
リリアは少し笑う。
「一個増えた」
「何が?」
「新しい記憶」
ルシアンが黙る。
「今日の」
その瞬間。
彼の表情が。
すごく優しくなった。
「……そうだね」
「過去の記憶戻すのもいいけど」
「うん」
「新しいの作ればいいじゃん」
「ああ」
「明日も」
「うん」
「明後日も」
「ああ」
「来年も」
「もちろん」
「じゃあ」
リリアは手を差し出す。
「帰ろ」
ルシアンが握る。
立ち上がる。
川沿いを。
二人で歩く。
世界はもう。
二人を繋いでくれない。
だから。
自分たちで。
手を繋いだ。

