魔法より、君に恋をする。

 学院中の時計が、同時に止まった。

 秒針だけではない。窓の外を飛んでいた鳥が空中で静止し、中庭を歩いていた生徒の髪も、風に揺れた形のまま動かなくなった。木々も雲も、カーテンさえも止まっている。

 音が消えた。

 あまりにも完全な静寂に、リリアは自分の呼吸だけがやけに大きく聞こえる気がした。

「……始まった?」

「ああ」

 隣から返ってきたルシアンの声に、少しだけ安心する。繋いだ手も温かい。少なくとも、今はまだ二人ともここにいる。

 監視術式に文字が浮かんだ。

《世界再構築――第一段階》

《時間軸固定》

《全個体活動停止》

《再構築完了まで、対象外個体の意識を遮断します》

 リリアは窓の外を見る。校庭にいた生徒たちは全員止まっていた。

「ノアたちも?」

「おそらく」

「大丈夫かな」

「意識を止められているだけなら、今のところは」

「今のところって言わないでよ」

「嘘をついて安心させる方がいい?」

「……それは嫌」

「だろう?」

 ルシアンの声は落ち着いている。でも、繋いだ手にいつもより少しだけ力が入っていた。

 リリアはその手を握り返す。

「先輩」

「何?」

「怖い?」

 一瞬だけ沈黙してから、ルシアンは素直に頷いた。

「怖いよ」

「私も」

「うん」

「でも、ちょっと安心した」

「何が?」

「先輩がちゃんと怖いって言ってくれたから」

 ルシアンが少し笑う。

「約束したからね」

「偉い」

「褒められるようなことかな」

「先輩にしては大進歩」

「随分低く見積もられているな」

 そんな話をしている間にも、世界は変わり始めていた。

 窓の外の景色が、ゆっくりと薄くなる。

「……え?」

 最初に消えたのは遠くの山だった。輪郭が透け、色を失い、白い光の中へ溶けていく。次に街。学院を囲む森。そして中庭。

 消えていく。

 世界が。

「先輩」

「大丈夫」

「これ大丈夫なやつ?」

「予定通りなら」

「予定通りに見えない!」

「世界を一度分解しているんだ。見た目はかなり怖いと思う」

「先に言って!」

「僕も実際に見るのは初めてだよ」

「そりゃそうだけど!」

 廊下が消える。

 壁が消える。

 天井が消える。

 最後に床まで白い光へ溶けた。

 足場がなくなったのに、二人は落ちなかった。

 気づけば、真っ白な空間に立っていた。

 リリアは周囲を見る。

「……ここ」

 第零循環で見た場所に似ている。

 世界が作られる前。

 エリシアとルシアンが立っていた、あの白い場所。

「先輩」

「ああ」

「ここ知ってる?」

 ルシアンは静かに周囲を見回した。

「知っているよ」

「やっぱり」

「懐かしいとは思わないけどね」

「何で?」

「ここから全部始まったから」

 少しだけ苦い声だった。

 リリアは繋いだ手を揺らす。

「じゃあ今度は、ここで終わらせよう」

 ルシアンがこちらを見る。

「十三回」

「……ああ」

「終わらせて、十四回目じゃなくて」

「うん」

「続きを作ろ」

 しばらくリリアを見てから、ルシアンは柔らかく笑った。

「そうしよう」

 空間に文字が浮かぶ。

《第二段階》

《旧管理構造の削除を開始》

 直後。

 ルシアンの身体から紫色の光が溢れた。

「先輩!?」

「大丈夫」

 反射的に腕を掴む。

 紫色の線が、ルシアンの胸から引き抜かれるように外へ伸びていく。

《旧第一管理者LUCIAN》

《管理記録を削除》

 ルシアンの身体が僅かに揺れた。

「痛い?」

「少し」

「少しってどれくらい?」

「耐えられる」

「それ一番信用できない答え」

「本当に大丈夫だよ」

「顔白いよ」

「元からだ」

「そういう問題じゃない!」

 リリアはルシアンの腕を両手で掴んだ。

「座れる?」

「床がないよ」

「あ、そっか」

 こんな時なのに、ルシアンが吹き出した。

「何で笑うの!」

「いや、君らしいなと思って」

「心配してるのに」

「ありがとう」

 紫色の光が一本ずつ消えていく。

 管理者として持っていた権限。

 世界の状態を読む力。

 対象個体へ干渉する力。

 循環を越えて記憶を保持する力。

 全てが。

 ルシアンから離れていく。

《管理記録――削除完了》

 最後の紫色の光が消えた。

 ルシアンが大きく息を吐く。

「……終わった」

「本当に?」

「ああ」

「何か変わった?」

 ルシアンは自分の手を見る。

「世界の状態が分からない」

「うん」

「次に何が起きるかも分からない」

「うん」

「君以外の全員が無事なのかも、確認できない」

 リリアは少し黙った。

「怖い?」

「ああ」

「でも?」

 ルシアンは笑った。

「少しだけ、楽だ」

 その言葉にリリアも笑った。

「よかった」

 今まで。

 何千年も。

 この人は世界を見続けていた。

 異常があれば気づく。

 誰かが知らなくても、自分だけは知っている。

 逃げられない。

 眠っても。

 恋をしても。

 誰かを失っても。

 管理者だった。

「お疲れさま」

 自然に言葉が出た。

 ルシアンが目を瞬く。

「何が?」

「管理者」

「……」

「長かったでしょ」

「そうだね」

「もう終わり」

「ああ」

「これからは?」

「何だろう」

「生徒会長」

「それは残るの?」

「知らない」

「できれば残ってほしいな」

「どうして?」

「生徒会長の先輩、結構好き」

「では再選を目指そうかな」

「選挙なの?」

「知らないよ」

 二人で笑った。

 その時。

《第三段階》

《循環記録の削除を開始》

 リリアの笑顔が消えた。

「……来た」

 十二個の光が現れる。

 それぞれの中に、人影があった。

 第一循環のエリシア。

 第二循環のミア。

 フィオナ。

 そして。

 名前も顔も違う、かつての自分たち。

 最後に。

 第十二循環のリリア。

 十二人が並んでいる。

 リリアは息を呑んだ。

「みんな……」

 ルシアンが隣で固まっていた。

 彼にとっては。

 全員。

 知っている人だった。

 十二人の光が、一つずつ浮かび上がる。

《循環記録を解放します》

 最初に。

 エリシアが消え始めた。

「待って」

 リリアが思わず言った。

 処理が止まる。

《確認》

《旧記録を保存しますか?》

「保存できるの?」

《保存した場合、循環機構の完全消去は実行できません》

 リリアは黙った。

 残せば。

 また繰り返す可能性がある。

 でも。

 消すということは。

 彼女たちが生きた記録そのものを手放すということだった。

「先輩」

 ルシアンを見る。

 彼は十二人を見ていた。

 特に。

 最初のエリシアを。

「……消していいの?」

 聞いた。

 ルシアンはすぐには答えなかった。

 長い沈黙。

 それから。

「いいよ」

「本当に?」

「ああ」

「先輩がずっと覚えてた人たちだよ」

「だからだよ」

 ルシアンはエリシアを見る。

「もう、僕が覚えていなくてもいい」

 声は穏やかだった。

「彼女たちは確かに生きた。僕が忘れたからといって、なかったことにはならない」

「……うん」

「それに」

 今度はリリアを見る。

「今の君に、十二人分の人生を背負わせたくない」

「私、忘れるの?」

「おそらく細かい記憶は」

「先輩も?」

「そうだと思う」

 少し寂しい。

 でも。

 リリアは理解した。

 記憶を持ち続けることが、愛することではない。

 忘れないことだけが、大切にすることでもない。

「……そっか」

 リリアは十二人を見る。

「じゃあ」

 最初のエリシアへ向かって笑った。

「ありがとう」

 自分でも不思議だった。

「世界作ってくれて」

 第二循環。

「生きてくれて」

 第三。

 第四。

 第五。

「みんな」

 最後に。

 第十二循環のリリア。

 自分によく似た少女。

「先輩のこと、好きになってくれてありがとう」

 ルシアンが隣で少し息を呑んだ。

「でも」

 リリアは笑う。

「ここからは私が好きでいるから」

 ルシアンがこちらを見る。

「だから大丈夫」

 返事はない。

 でも。

 繋いだ手が強く握られた。

「解放する」

《承認》

 十二人が。

 一人ずつ。

 光になっていく。

 最後にエリシアが残った。

 白い髪。

 穏やかな笑顔。

 記憶の再現にすぎないはずなのに。

 その唇が。

 動いたように見えた。

『幸せにね』

 リリアは目を見開いた。

 隣でルシアンも。

 そして。

 エリシアは消えた。

《循環記録――削除完了》

《循環機構――消滅》

 リリアは目元を拭う。

「……泣いてない」

「僕、何も言ってないよ」

「先に言っとこうと思って」

「そう」

「先輩は?」

「泣いてない」

「目赤いよ」

「君もね」

「じゃあ引き分け」

「また?」

「何でも勝負にすると楽しい」

「そういうものかな」

 笑った。

 今度こそ。

 過去が終わった。

 しかし。

 次の表示を見た瞬間。

 二人の笑顔が消えた。

《最終段階》

《世界再構築を実行》

《生存判定開始》

 リリアはルシアンの手を握り直す。

「来た」

「ああ」

《個体情報を順次再配置》

 無数の名前が流れていく。

 知らない人。

 知っている人。

 学院の生徒。

 教師。

 街の人々。

《CECIL――適合》

《LEON――適合》

《ALLEN――適合》

《KYLE――適合》

 リリアの肩から力が抜けた。

「みんな大丈夫」

「ああ」

《NOAH――》

 一瞬止まる。

「え」

《適合》

「びっくりさせないでよ!」

 思わず声が出た。

 ルシアンも息を吐く。

「心臓に悪いね」

「ノア絶対あとで文句言う」

「本人のせいではないよ」

「分かってるけど!」

 名前が続く。

 次々に。

 適合。

 適合。

 適合。

 そして。

《LILIA ASTER――》

 止まった。

「……」

 リリアは画面を見る。

《旧世界核との接続痕を検出》

 ルシアンの表情が変わった。

「何?」

「待って」

《再構築適合判定――保留》

「保留って何?」

「リリア」

「先輩?」

 ルシアンが術式へ手を伸ばす。

 何も起こらない。

「……権限がない」

 もう管理者ではない。

「どうするの?」

「分からない」

「分からないって」

「待って。考える」

《旧世界核接続率――十二・四パーセント》

《独立個体としての再配置に障害》

「私だけ?」

「……そうみたいだ」

 ルシアンが術式を調べる。

 でも。

 触れられない。

 操作できない。

 ただの人になったから。

《処理方法を選択》

《A:旧世界核情報を保持したまま再配置》

《生存率――四十一・二パーセント》

「低っ」

 リリアが思わず言う。

 ルシアンは笑わない。

《B:旧世界核情報を完全削除》

《生存率――九九・九パーセント》

「じゃあB」

 リリアが即答した。

「待って」

「何で?」

「情報の内容を確認する」

 詳細が開く。

《削除対象》

《旧世界核への接続記録》

《循環記録》

《原初個体ELICIA由来情報》

《管理者LUCIANとの旧因果記録》

「大丈夫じゃん」

「待って」

 ルシアンが最後の項目を見る。

《再構築以前に形成された関連記憶を含む》

「……関連記憶?」

 リリアも読む。

 詳細を開く。

 そして。

 言葉を失った。

《LUCIANに関連する記憶の一部が削除される可能性――八十七・六パーセント》

「……え」

 ルシアンが動かない。

「一部ってどこ?」

《特定不能》

「全部ではない?」

《保証不能》

 リリアはルシアンを見る。

 顔色が。

 今までで一番悪かった。

「先輩」

「……Aにしよう」

「は?」

「A」

「生存率四十一パーセントだよ?」

「分かってる」

「分かってないでしょ」

「分かっている!」

 初めて。

 ルシアンが声を荒らげた。

「記憶が消える」

「でも死ぬよりいい」

「よくない」

「よくないけど!」

「僕を忘れるかもしれない」

「生きてればまた会える!」

「また?」

 ルシアンの声が震える。

「また最初から?」

「……」

「僕はもう」

 苦しそうに目を閉じる。

「君に十三回目まで背負わせて、ようやくここまで来たのに」

「先輩」

「やっと君が自分で僕を好きだと言ってくれたのに」

「うん」

「昨日デートして」

「うん」

「君があのブレスレットを喜んでくれて」

「うん」

「君からキスしてくれて」

「覚えてるよ」

「それが消えるかもしれないんだよ」

 リリアも怖い。

 当然だ。

 忘れたくない。

 初めて会った日も。

 喧嘩した日も。

 好きだと気づいた時も。

 昨日も。

 今も。

 全部。

 でも。

「先輩」

 リリアはルシアンの両頬を挟んだ。

「私を見て」

「……」

「見て」

 紫の瞳が開く。

「一回、私のこと全部忘れさせようとした人が何言ってんの」

「それとこれは」

「同じ」

「違う」

「同じです」

「リリア」

「先輩が私に幸せになってほしくて、自分との因果まで切ったんでしょ?」

「……」

「じゃあ今度は私の番」

「何の?」

「先輩と二人で生きる方を選ぶ」

「僕を忘れても?」

「忘れるって決まってない」

「でも」

「もし忘れても」

 言うのが怖かった。

 喉が震える。

 それでも。

「もう一回会お」

 ルシアンの目が揺れる。

「初めましてって言って」

「……嫌だ」

「私も嫌」

「なら」

「でも死ぬ方がもっと嫌」

 リリアは泣きながら笑った。

「だって先輩」

「……何」

「一回、証明済みじゃん」

「何が?」

「私」

 紫の瞳を見る。

「先輩のこと何にも覚えてなくても、好きになったよ」

 ルシアンが息を止める。

「因果もなかった」

「……」

「運命でもなかった」

「……うん」

「それでも好きになった」

「うん」

「だから」

 リリアは少しだけ笑う。

「二回目もいけるかも」

「そんな保証は」

「ないよ」

「リリア」

「でもさ」

 頬から手を離して。

 今度は彼の手を取る。

「もし私が先輩を好きにならなかったら」

 ルシアンの顔が強張る。

「その時はちゃんと振られてね」

「……」

「管理権限使って好きにさせるの禁止」

「もうないよ」

「そうだった」

「笑うところじゃない」

「ごめん」

「全然面白くない」

「先輩」

「嫌だ」

「まだ何も言ってない」

「分かる」

 ルシアンがリリアの手を握る。

「忘れないで」

 その言葉は。

 管理者の命令ではなかった。

 ただの願いだった。

「僕を忘れないで」

 リリアの涙が落ちる。

「……うん」

「約束して」

「それは約束できない」

「リリア」

「私が決められることじゃないから」

 ルシアンが黙る。

「でも」

 左手首を上げる。

 紫と白の石。

「これ持ってく」

「再構築で残る保証は」

「残す」

「どうやって」

「気合い」

「魔法理論を全部無視しないでくれる?」

「大事でしょ、気合い」

「大事だけど」

「これ見たら思い出すかもしれない」

「……うん」

「思い出さなくても」

 ブレスレットを指で触る。

「誰にもらったんだろって思う」

「ああ」

「そしたら探す」

「僕を?」

「うん」

「見つけたら?」

「顔見て考える」

「そこは好きになると言ってくれない?」

「だって先輩が、私に決めろって言ったじゃん」

 ルシアンは。

 泣きそうな顔で。

 少し笑った。

「……そうだった」

「だから」

 リリアは選択肢を見る。

 B。

 生存率九九・九パーセント。

「生きよう」

 ルシアンが長く目を閉じる。

 そして。

 息を吐いた。

「ああ」

「いい?」

「嫌だ」

「どっち」

「嫌だけど」

 ルシアンがリリアの手を握る。

「君が選ぶなら」

 その言葉。

 第零循環では。

 最後まで言えなかったこと。

「今度は」

 ルシアンが笑う。

「君の選択を信じる」

 リリアも笑った。

「うん」

 Bを選ぶ。

《旧世界核情報――完全削除》

《承認》

《再構築を続行》

 白い光がリリアの足元から上がってくる。

「先輩」

「ここにいる」

「手離さないで」

「離さない」

 光が膝まで来る。

「もし忘れたら」

「うん」

「先輩から声かけて」

「分かった」

「怖い顔しないでね」

「善処する」

「眼鏡似合ってるって言うかも」

「それ、初対面で言う?」

「目が綺麗って言うかも」

「……それは」

「何?」

「言ってほしいな」

 光が胸まで来る。

 身体の感覚が薄くなる。

「先輩」

「何?」

「好き」

「ああ」

「今はちゃんと好き」

「僕も」

「すごく?」

「すごく」

「どれくらい?」

「こんな時まで聞く?」

「聞きたい」

 ルシアンが笑った。

 そして。

 最後に。

「十二回失っても、十三回目にまた君を好きになるくらい」

「……重い」

「君が聞いたんだろう」

「でも好き」

「僕もだよ」

 光が首まで来る。

 ルシアンの顔が見えなくなっていく。

「先輩!」

「リリア!」

「来年!」

「ああ!」

「デート!」

「行こう!」

「絶対!」

「約束する!」

 視界が白くなる。

 最後まで。

 手だけは。

 繋がっていた。

 そして。

 何も分からなくなった。

     *

 鳥の声がした。

 柔らかい風。

 遠くで誰かが笑っている。

 リリアは。

 ゆっくり目を開けた。

「……」

 青い空。

 見慣れた天井ではない。

 草の匂い。

 どうやら中庭に寝転がっているらしい。

「何で……」

 起き上がる。

 頭が痛い。

 周囲を見る。

 学院。

 ある。

 壊れていない。

 生徒たちが歩いている。

 普通に。

「……成功?」

 言ってから。

 何が成功したのか。

 分からなくなった。

「……え?」

 何か。

 とても大切なことをしていた気がする。

 でも。

 思い出せない。

 左手首に何かが触れた。

「これ……」

 銀色のブレスレット。

 紫と白。

 二つの石。

 リリアはそれを見つめる。

 胸の奥が。

 理由もなく。

 痛くなった。

「誰にもらったんだろ」

 その時。

「リリア!」

 誰かが走ってくる。

 男の人。

 黒い髪。

 眼鏡。

 見たことが。

 あるような。

 ないような。

 彼はリリアの前まで来ると、息を切らしたまま立ち止まった。

 顔を見て。

 何も言わない。

 紫色の目が。

 今にも泣きそうに揺れていた。

「……あの」

 リリアが首を傾げる。

「大丈夫ですか?」

 男の人の表情が。

 僅かに崩れた。

「……僕が」

「はい?」

「誰か分かる?」

 リリアは困った。

 でも。

 なぜだろう。

 その声を聞いていると。

 胸が。

 変な感じがする。

「……ごめんなさい」

 男の人が目を閉じた。

「そう」

 小さく。

 笑う。

「うん。大丈夫」

 全然大丈夫そうではない。

「すみません。私たち、知り合いですか?」

 少しだけ。

 長い沈黙。

 それから。

 彼は笑った。

 寂しそうで。

 でも。

 どこか優しい笑顔。

「初めまして」

 右手を差し出す。

「ルシアン・ノクスです」

 その名前を聞いた瞬間。

 心臓が。

 強く。

 一度だけ。

 鳴った。

「……ルシアン」

 無意識に名前を繰り返す。

 彼の目が見開かれる。

「さん?」

「……先輩でいいよ」

「先輩?」

「ああ」

「同じ学院なんですね」

「うん」

「じゃあ」

 リリアは差し出された手を見る。

 少し迷って。

 握った。

 温かい。

 その瞬間。

 胸の奥に。

 ほんの一瞬だけ。

 何かが浮かんだ。

 ケーキ。

 夕焼け。

 繋いだ手。

 紫色。

 キス。

『来年も』

「……っ」

 リリアは手を離した。

「どうしたの?」

「今」

「何?」

「何か……」

 思い出せない。

「変な感じした」

 ルシアンは何も言わない。

 ただ。

 期待しないようにしているのが。

 なぜか分かった。

 リリアは彼を見る。

 黒い髪。

 眼鏡。

 そして。

 紫色の目。

「……綺麗」

「え?」

「あ」

 口から出ていた。

「いや、その」

 恥ずかしくなって目を逸らす。

「目」

「……」

「紫で。綺麗だなって」

 ルシアンが。

 完全に固まった。

「何ですか?」

「いや」

「変なこと言いました?」

「違う」

 眼鏡を直す。

「少しだけ」

 声が震えていた。

「懐かしくて」

「初対面なのに?」

「そうだね」

「変な先輩」

「よく言われるよ」

 リリアはもう一度ブレスレットを見る。

「先輩」

「何?」

「これ、知ってます?」

 ルシアンの目が。

 ブレスレットへ落ちる。

「……知っているよ」

「誰にもらったんだろ」

 ルシアンは。

 すぐには答えなかった。

 そして。

「僕」

 リリアが顔を上げる。

「先輩が?」

「ああ」

「何で?」

 聞いた。

 ルシアンは少し考えて。

 それから。

「君に似合うと思ったから」

 それだけ言った。

 好きだったからとも。

 恋人だったからとも。

 思い出してとも。

 言わなかった。

 リリアはブレスレットを見る。

「……可愛い」

「気に入ってたよ」

「私が?」

「ああ」

「じゃあ」

 手首を少し上げる。

「今も気に入ったから、このままつけときます」

 ルシアンの目が細くなる。

「うん」

「先輩」

「何?」

「私たち」

 少し迷う。

「仲良かった?」

 ルシアンは笑った。

「かなり」

「へえ」

「でも」

「でも?」

「それも、今の君が決めていい」

 意味が分からない。

 でも。

 その言い方が。

 なぜか。

 好きだと思った。

「じゃあ」

 リリアは少し笑った。

「もう一回、仲良くなります?」

 ルシアンが息を止めた。

「……いいの?」

「だって先輩、悪い人じゃなさそうだし」

「それだけ?」

「あと」

 紫色の目を見る。

「顔も結構好き」

「……」

「何ですか」

「いや」

「顔赤くない?」

「赤くない」

「眼鏡直した」

「癖なんだ」

「怪しい」

 ルシアンが笑った。

 今度は。

 少しだけ。

 本当に嬉しそうに。

「では」

 もう一度。

 手を差し出す。

「よろしく、リリア」

 リリアはその手を見る。

 今度は。

 迷わなかった。

「よろしくお願いします、ルシアン先輩」

 手を握る。

 世界は何も反応しない。

 光らない。

 文字も出ない。

 同期率もない。

 運命も。

 管理も。

 循環も。

 何もない。

 ただ。

 二人が。

 もう一度。

 出会った。