魔法より、君に恋をする。

 白い世界に、二人だけが立っていた。

 まだ学院もない。街も、森も、海もない。空さえ白く、地平線の境目すら見えなかった。

 そこにいるのは、エリシアとルシアン。

 そして、二人の間に浮かぶ巨大な魔法陣。

『だって、この世界を作ったのは私だから』

 その言葉が、リリアの頭から離れなかった。

「……どういうこと?」

 誰に聞いているわけでもない。それでも記憶は答えるように動き始めた。

 魔法陣の中心に、エリシアが手を伸ばす。

『もう少しで安定する』

『もう三日寝ていないだろう』

『寝たよ』

『いつ?』

『昨日』

『何時間?』

『……二時間』

『それは仮眠と言うんだよ』

『細かいなあ』

『君が大雑把すぎる』

 聞き覚えのあるやり取りだった。

 リリアは思わず笑いそうになって、それから胸が痛くなる。

 こんな昔から。

 二人はこんなふうだった。

『休んで』

 ルシアンがエリシアの手首を掴む。

『あと少し』

『その「あと少し」を昨日から聞いている』

『じゃあ本当にあと少し』

『信用できない』

『ひどい』

『いいから』

 魔法陣から手を離させる。

 エリシアは不満そうに頬を膨らませた。

『ルシアンって時々お母さんみたい』

『二度と言わないで』

『じゃあお父さん』

『悪化した』

『恋人』

 ルシアンが止まった。

『……急に何?』

『一番正しいかなって』

『そうだけど』

『照れた?』

『照れてない』

『顔赤い』

『君のせいだ』

 リリアは目を丸くした。

「……先輩、昔の方が分かりやすい」

 今のルシアンなら眼鏡を直して誤魔化すところだ。

 でも。

 この頃は眼鏡すらない。

 逃げ道がない。

 エリシアが笑って、ルシアンの手を握る。

『あと少しだけ付き合って』

『何に?』

『世界作り』

『随分大きな頼み事だね』

『嫌?』

『君がいるなら』

『またそれ』

『嫌なの?』

『逆』

 また。

 リリアは胸を押さえたくなった。

「……それも」

 自分たちが何度も使った言葉。

 偶然なのか。

 魂に残っていたのか。

 もう分からない。

 記憶が進む。

 少しずつ、世界が形を持ち始めた。

 最初に空。

 次に大地。

 水。

 植物。

 生き物。

 そして人。

 エリシアは神ではなかった。

 魔法使いだった。

 ただし。

 途方もなく強い。

 世界そのものを構築できるほどの。

 けれど一人で作ったわけではない。

 何十人。

 何百人。

 多くの魔法使いが関わっている。

 その中心にいたのがエリシアだった。

 そして。

 彼女のすぐ隣にいたのがルシアン。

『世界の核が不安定だ』

 誰かが言う。

『このままでは百年も持たない』

 別の誰かが答える。

『中心魔力を固定する必要がある』

『誰が?』

 沈黙。

 誰も言わない。

 でも。

 全員が同じ人を見た。

 エリシア。

『……私だね』

『駄目だ』

 ルシアンだけが即座に言った。

『まだ何も言ってないよ』

『言わなくても分かる』

『でも私が一番適性ある』

『だから何だ』

『世界が安定する』

『君がどうなる』

 誰も答えなかった。

 エリシアも。

『答えて』

 ルシアンの声が低くなる。

『中心核と接続した術者はどうなる』

『……世界と繋がる』

『それだけ?』

『ルシアン』

『それだけじゃないだろう』

 長い沈黙。

 そして。

『世界が壊れれば』

 エリシアが静かに言った。

『私も死ぬ』

『却下だ』

『でも』

『却下』

『ルシアン』

『他の方法を探す』

『時間がない』

『探す』

『このままだと、ここにいる全員が』

『それでも』

 ルシアンがエリシアの肩を掴んだ。

『君一人を犠牲にする方法を、正解みたいに言うな』

 リリアは息を呑んだ。

 今と同じ。

 何千年も前から。

 ルシアンは。

 この人は。

 ずっと。

 エリシアを失うことだけを恐れていた。

 でも。

 エリシアも変わらない。

『じゃあ一緒に探して』

『もちろん』

『最後まで?』

『最後まで』

『見つからなかったら?』

 ルシアンが答えない。

『その時は』

 エリシアが彼の手を取った。

『私に決めさせて』

『……嫌だ』

『私の命だよ』

『分かってる』

『私の選択』

『分かっている』

『じゃあ』

『分かっているから嫌なんだ』

 ルシアンが俯く。

『君が選ぶなら、僕には止める権利がない』

『うん』

『でも嫌だと言う権利くらいあるだろう』

 エリシアが少し笑った。

『あるよ』

『なら嫌だ』

『うん』

『絶対に嫌だ』

『うん』

 それでも。

 期限の日。

 代わりの方法は見つからなかった。

 世界は崩れ始めた。

 空に亀裂が入り、大地が揺れる。

 そして。

 エリシアは自分で選んだ。

 世界の中心になることを。

『本当にやるの?』

『うん』

『後悔しない?』

『するかも』

『なら』

『でもやる』

 さっき見た場面。

 今度は意味が分かる。

『だって、この世界を作ったのは私だから』

 エリシアが笑う。

『だから私が、最後まで責任を持つ』

『なら僕も』

『ルシアンは関係ないよ』

『君がいるなら関係ある』

『またそういうこと言う』

『嫌?』

『……逆』

 ルシアンが手を握る。

『僕も接続する』

『駄目』

『なぜ』

『必要ない』

『君が世界と繋がるなら、僕は君と繋がる』

『意味分かってる?』

『分かっている』

『私が死んだら?』

『僕も』

『それは駄目』

『どうして』

『嫌だから』

『僕も同じだ』

『……面倒くさい』

『君に言われたくない』

 少しだけ。

 二人が笑う。

 そして。

 エリシアが真剣な顔になった。

『じゃあ一つだけ』

『何?』

『管理者になって』

「……」

 リリアの意識が震えた。

 管理者。

 ここで。

 始まった。

『私が世界と繋がったあと、魔力が暴走した時に止める人が必要になる』

『……僕に君を止めろと?』

『うん』

『嫌だ』

『ルシアンにしか頼めない』

『それでも』

『私がお願いしてる』

 ルシアンは長い間黙っていた。

『命令することになる』

『必要な時だけ』

『君の魔力を奪える』

『暴走した時だけ』

『君を管理する権限を持つ』

『使わなければいい』

『……そんな力を僕に渡すな』

『ルシアンだから渡すの』

 エリシアが笑った。

『信じてるから』

 リリアの胸が痛んだ。

 始まりは。

 支配ではなかった。

 信頼だった。

 エリシア自身が。

 ルシアンに頼んだ。

『嫌なら断っていいよ』

『……断れると思う?』

『思わない』

『ずるいな』

『知ってる』

 ルシアンが目を閉じる。

 そして。

『分かった』

 エリシアの額へ自分の額を重ねた。

『君が望む間だけ』

『うん』

『必要がなくなったら返す』

『うん』

『絶対に』

『約束』

 管理契約が結ばれた。

 紫色の光。

 白い光。

 二つが重なる。

 世界が安定する。

 空の亀裂が閉じる。

 大地の揺れが止まる。

 成功した。

 世界は生まれた。

 そして。

 百年。

 二百年。

 五百年。

 二人は生きた。

 世界と接続したことで、エリシアは老いなくなった。

 管理者となったルシアンも。

 二人だけが。

 長い時間を生き続けた。

 最初は幸せだった。

 旅をした。

 街を作った。

 喧嘩をした。

 仲直りした。

 何百年経っても手を繋いだ。

 でも。

 少しずつ。

 世界の核に異常が生まれた。

 黒い月。

 世界がエリシアの魔力を吸い上げすぎていた。

『切ろう』

 ルシアンが言った。

『無理だよ』

『方法を探す』

『世界が壊れる』

『また作ればいい』

『簡単に言わないで』

『君より大事じゃない』

『私には大事なの』

 そして。

 初めての崩壊。

 それが。

 第一循環へ繋がった。

 エリシアは死んだ。

 でも世界は。

 彼女を手放さなかった。

 中心核として登録された魂を。

 再生成した。

 別の身体。

 別の名前。

 別の人生。

 それが第二循環。

「……じゃあ」

 リリアは理解した。

「輪廻じゃない」

 生まれ変わりですらない。

 世界が。

 必要だから。

 同じ魂を再構築していた。

 そして。

 ルシアンだけが。

 管理者として世界の外側に近い位置にいたから。

 記憶を失わなかった。

「最悪……」

 リリアの声が震える。

「そんなの」

 ルシアンは。

 毎回。

 自分を知らない少女に会った。

 同じ魂。

 でも別の人。

 好きになってくれる時も。

 嫌われる時も。

 他の人を愛する時も。

 全部見た。

 そして。

 最後には必ず死ぬ。

 十二回。

「先輩……」

 会いたい。

 今すぐ。

 抱きしめたい。

 でも記憶はまだ続く。

 第十二循環が終わったあと。

 ルシアンが一人で立っている。

 壊れた世界。

 腕の中には。

 もう誰もいない。

『……もういい』

 初めて聞く声だった。

 感情がない。

『次は』

 空を見る。

『僕を忘れてくれ』

 世界へ命令する。

 管理者権限。

『僕との接触記録を、次の個体から除外』

 リリアの胸が締めつけられる。

「……え」

『僕を好きになる可能性を下げろ』

「待って」

『僕との因果接続を最低値へ』

「先輩」

 何をしているの。

『次の彼女には』

 ルシアンが目を閉じる。

『僕を知らない人生を』

 世界が承認する。

《第十三循環――設定変更》

《管理者LUCIANとの初期因果接続を削除》

《対象個体の自律性を最大化》

《過去記憶継承率――零》

『これでいい』

 ルシアンが笑う。

 壊れた笑顔。

『次こそ』

 声が震える。

『普通に幸せになって』

 そして。

 第十三循環。

 リリア・アスターが生まれた。

「……私」

 今までで最も自由な個体。

 ルシアンとの因果を切られて。

 過去の記憶もなく。

 世界から与えられる役割も最小限にされて。

 生まれた。

 だから。

 最初からルシアンを好きだったわけではない。

 運命で惹かれたわけでもない。

 むしろ。

 ルシアン自身が。

 そうならないようにした。

「じゃあ……」

 リリアの目から涙が落ちる。

「私が先輩を好きになったの」

 偶然だった。

 同じ学院で。

 たまたま会って。

 話して。

 喧嘩して。

 助けてもらって。

 面倒くさいところを知って。

 優しいところも知って。

 少しずつ。

 好きになった。

「本当に」

 世界が選んだのではない。

 過去のエリシアが決めたのでもない。

「私が選んだんだ」

《原初記録――復元完了》

 白い世界が崩れる。

 光に包まれる。

 そして。

「――リリア!」

 声。

 知っている声。

 目を開ける。

 最初に見えたのは紫だった。

「……先輩」

 ルシアン。

 今の。

 自分が好きになった人。

「リリア」

 床に座り込んでいる。

 リリアの身体を抱えて。

 顔色が真っ青だった。

「何時間?」

「三時間」

「そんなに?」

「ああ」

「ずっといた?」

「当たり前だろう」

 声が震えている。

「何度呼んでも反応しないから」

「……そっか」

「大丈夫?」

「うん」

「本当に?」

「うん」

「僕が誰か分かる?」

 リリアは少し笑った。

「ルシアン先輩」

 目に見えて安心する。

「よかった……」

 その顔を見た瞬間。

 リリアは腕を伸ばした。

 ルシアンの首へ回す。

 抱きついた。

「リリア?」

 強く。

「どうしたの」

「先輩」

「うん」

「馬鹿」

「……急だね」

「大馬鹿」

「何を見たの?」

「全部」

 ルシアンの身体が固まった。

「……全部?」

「第零循環も」

 息が止まる。

「先輩が管理者になった理由も」

「リリア」

「十二回目のあと、何したかも」

「……」

「私が先輩を好きにならないようにしたでしょ」

 ルシアンは答えなかった。

「何で」

「……君に幸せになってほしかった」

「先輩なしで?」

「ああ」

「勝手」

「そうだね」

「めちゃくちゃ勝手」

「ああ」

「私に決めさせてって、昔の私にも言われてたじゃん」

「……そうだったね」

「全然成長してない」

「返す言葉がない」

 リリアはさらに強く抱きしめた。

「でも失敗したね」

「何が?」

「私、また先輩好きになった」

 ルシアンが動かなくなる。

「因果切ったのに」

「……ああ」

「記憶なくしたのに」

「ああ」

「先輩のこと何にも知らなかったのに」

 リリアは少し身体を離した。

 紫の瞳を見る。

「好きになったよ」

 ルシアンの目が揺れた。

「だから」

 頬へ手を添える。

「もう疑わないで」

「……何を?」

「私が先輩を好きなの、世界のせいじゃない」

 涙が一つ落ちた。

 どちらのものか分からない。

「最初のリリアのせいでもない」

「……うん」

「同期率でもない」

「うん」

「先輩が全部切ってくれたから」

 リリアは笑った。

「証明できちゃったね」

 ルシアンの唇が僅かに震える。

「……そうだね」

「嬉しい?」

「そんな言葉じゃ足りない」

「じゃあ何?」

「分からない」

 珍しい答え。

「分からないくらい?」

「ああ」

「じゃあ」

 リリアは少し近づいた。

「キスする?」

 ルシアンが泣きながら笑った。

「どういう結論?」

「したいから」

「……君らしいね」

「嫌?」

「逆」

 その言葉に。

 二人とも少し止まった。

 そして。

 同時に笑った。

「それ、最初から言ってた」

「そうみたいだね」

「魂に刻まれてる?」

「やめてくれ」

「何で?」

「せっかく君が自分で僕を好きになったと証明されたのに」

「じゃあ偶然」

「そうしておこう」

「先輩」

「何?」

「キス」

「ああ」

 今度は。

 どちらからともなく近づいた。

 唇が触れる。

 何も起こらない。

 世界は光らない。

 同期率もない。

 管理権限もない。

 ただ。

 好きな人に触れている。

 それだけ。

 唇が離れる。

 でもリリアは離れなかった。

 額をルシアンの額へつける。

「先輩」

「うん」

「十二回、辛かった?」

 長い沈黙。

「……辛かったよ」

 初めて。

 ルシアンが認めた。

「すごく?」

「ああ」

「一人で?」

「ああ」

「馬鹿」

「知っている」

「もう一人でやらないで」

「うん」

「世界救うのも」

「うん」

「怖いのも」

「うん」

「私が死ぬかもって思った時も」

 ルシアンの目が伏せられる。

「……それは、かなり難しい」

「何で?」

「怖すぎるから」

「じゃあ言って」

「何を?」

「怖いって」

 リリアは彼の手を取った。

「私も言うから」

「……分かった」

「約束」

「ああ」

 指を絡める。

「約束する」

 その時。

 監視術式が起動した。

《全記録解放――完了》

《最終選択権――対象個体LILIA ASTERへ移行》

 エリシアではない。

 初めて。

 今の名前が表示された。

「……私の名前」

「ああ」

 ルシアンが笑う。

「君が選ぶんだ」

 画面が変わる。

《世界再構築を開始しますか?》

《再構築後――管理者制度消滅》

《循環機構消滅》

《対象個体制度消滅》

《全個体の自己帰属を保証》

 そして。

 最後の警告。

《再構築時、現世界は一度完全停止します》

《生存保証率――九十七・八パーセント》

 リリアの顔から笑みが消えた。

「……残り二・二パーセントは?」

 ルシアンが答えない。

「先輩」

「再構築に耐えられない個体が存在する可能性」

「誰?」

「分からない」

「私?」

「可能性はある」

「先輩は?」

「ある」

 リリアは画面を見る。

 九十七・八。

 高い。

 でも。

 百ではない。

「選ばなかったら?」

「四十一時間後に世界が崩壊する」

「初期化は?」

「また循環が始まる」

「十四回目」

「ああ」

 リリアは黙った。

 選択肢は。

 もう実質一つしかない。

 それでも。

 怖い。

 ルシアンが隣に立つ。

「リリア」

「何?」

「怖い」

 リリアが彼を見る。

 約束したばかり。

 ちゃんと言った。

「私も」

「ああ」

「めちゃくちゃ怖い」

「僕もだよ」

「でも」

 繋いだ手を見る。

 昨日もらったブレスレット。

 紫と白。

「来年デートするんだよね」

「ああ」

「どこ行くか一年考えるんでしょ」

「その予定だよ」

「じゃあ」

 リリアは息を吸った。

「生きよ」

 ルシアンが手を握る。

「ああ」

「二人とも」

「ああ」

「みんなも」

「できる限り」

「十四回目には行かない」

「うん」

「これで最後」

 リリアは選択肢へ手を伸ばした。

 指が。

《YES》

 その文字へ触れる。

《最終確認》

《第十三循環を終了します》

《本当に、よろしいですか?》

 リリアは。

 迷わなかった。

「うん」

 選択した。

《承認》

《世界再構築――開始》

 その瞬間。

 学院中の時計が。

 全て。

 止まった。