魔法より、君に恋をする。

 最初に戻ってきたのは、痛みではなかった。

 匂いだった。

 雨の匂い。

 濡れた土と、古い石畳。どこかで花が咲いている。知らないはずなのに、リリアはその場所を知っていた。

「……ここ」

 声にした瞬間、自分の身体がないことに気づいた。

 手を上げようとしても、何も見えない。足元もない。ただ意識だけが、知らない景色の中に浮かんでいる。

 いや。

 知らない景色ではない。

 知っている。

 思い出せなかっただけだ。

『リリア』

 後ろから声がした。

 振り返るという感覚だけが起こる。

 そこにいた。

 ルシアン。

 けれど今の彼ではない。

 眼鏡をしていない。髪も少し長い。服装も学院のものとは全く違う。

 そして何より。

 笑っていた。

 今のルシアンも笑う。

 けれど、その笑顔とは違う。

 もっと無防備で、もっと幼くて。

 何も失う前の人の顔だった。

『遅い』

 自分の声が聞こえる。

 リリアのものではない。

 でも。

 自分の声だった。

『ごめん』

『三十分』

『そんなに?』

『二十八分』

『それなら三十分ではないね』

『ほぼ三十分』

『二分も減らしてくれたのに?』

『……じゃあ二十八分怒る』

『長いな』

 ルシアンが笑う。

 その隣へ、誰かが歩いていく。

 白い髪。

 顔は見えない。

 でも分かる。

 最初のリリア。

 いや。

 エリシア。

「……これが」

 第一循環。

 説明されなくても理解した。

 世界が教えているわけではない。

 自分の中にあった記憶だから。

 場面が変わる。

 小さな家。

 二人で食事をしている。

 ルシアンが料理を焦がしている。

『食べられる?』

『食べられるよ』

『黒いけど』

『少しだけ』

『炭だよ』

『……作り直そうか』

『うん』

 また変わる。

 喧嘩をしている。

『勝手に決めないで!』

『君を守るためだ!』

『だからって私に何も言わなくていい理由にならない!』

 リリアは思わず目を閉じたくなった。

 今と同じ。

 何千年経っても。

「先輩、変わってないじゃん……」

 少し笑った。

 でも次の瞬間。

 笑えなくなった。

 赤い空。

 崩れる街。

 血。

『ルシアン』

 エリシアが倒れている。

 ルシアンが抱いている。

『待って。今、戻すから』

『無理だよ』

『無理じゃない』

『分かるよ。自分の身体だもん』

『喋らないで』

『ルシアン』

『お願いだから』

 震えている。

 今のルシアンからは想像できないほど。

『死なないで』

 リリアの胸が痛んだ。

 知っている。

 この先を。

 見たことはない。

 でも知っている。

『……ごめんね』

 エリシアの手が、ルシアンの頬へ触れる。

『先に行くね』

『嫌だ』

『また会えたら』

『嫌だ』

『今度は』

『そんな話をしないで』

『もっと普通に恋しようね』

 手が落ちる。

 ルシアンの声が。

 世界が崩れる音より大きく聞こえた。

「……一回目」

 暗転。

 次に目を開ける。

 学院。

 今と似ている。

 でも少し違う。

『初めまして』

 少女が言う。

 髪は茶色。

 顔も違う。

『ミアです』

 ルシアンが固まっている。

 少女は不思議そうに首を傾げた。

『……どうしました?』

『いや』

 ルシアンが笑う。

『何でもない』

 第二循環。

 リリアには分かった。

「私じゃない」

 でも。

 私だ。

 魂の中心だけが同じ。

 少女はルシアンを知らない。

 当然だ。

 初対面なのだから。

 けれどルシアンだけは。

 全部覚えている。

 そこからの記憶は早かった。

 ミアは別の人を好きになった。

 ルシアンは何も言わなかった。

 友人として彼女を守った。

 世界が崩れる日。

 ミアは恋人の腕の中で死んだ。

 少し離れた場所に。

 ルシアンがいた。

 泣かなかった。

 ただ。

『……今度こそ』

 そう呟いた。

 第三循環。

 少女の名はフィオナ。

 ルシアンを嫌っていた。

『あなた苦手』

『そう』

『何考えてるか分からない』

『よく言われるよ』

『笑って誤魔化すところも嫌い』

『これは手厳しい』

 リリアは少し笑いそうになった。

「めっちゃ言われてる」

 でも。

 そのフィオナは最後までルシアンを好きにならなかった。

 ルシアンも恋愛感情を向けなかった。

 ただ彼女が死んだ時。

 墓の前に一人で立っていた。

『……ごめん』

 それだけだった。

 第四循環。

 第五循環。

 第六循環。

 名前が変わる。

 顔が変わる。

 性格が変わる。

 家族が変わる。

 ルシアンを好きになる人生もあった。

 嫌う人生もあった。

 ほとんど関わらない人生もあった。

 他の誰かと恋をする人生も。

 誰も好きにならない人生も。

 それでも。

 必ず最後には世界が壊れた。

 そして。

 必ず彼女は死んだ。

 ルシアンだけを残して。

「……待って」

 第七循環。

 リリアは違和感に気づいた。

 ルシアンが。

 ほとんど笑わなくなっている。

 少女が話しかけても、必要以上に近づかない。

 助ける。

 守る。

 でも距離を取る。

『どうしていつも助けてくれるんですか?』

『仕事だから』

『でもあなた、私の先生でも騎士でもないですよね』

『そうだね』

『じゃあ何で?』

 ルシアンは答えない。

 少女が笑う。

『変な人』

 その笑顔を見て。

 ほんの一瞬。

 ルシアンの顔が歪んだ。

 リリアは分かった。

「……怖くなったんだ」

 好きになるのが。

 近づくのが。

 また失うのが。

 第八循環。

 ルシアンは最初から少女を避けた。

 第九循環。

 名前だけ確認して、一度も話しかけなかった。

 第十循環。

 遠くから守った。

 それでも死んだ。

 第十一循環。

 ルシアンは世界そのものを変えようとした。

 失敗した。

 第十二循環。

 そして。

 景色が変わった瞬間。

 リリアは息を呑んだ。

「……南商?」

 今の学院とほとんど同じだった。

 校舎。

 中庭。

 制服。

 生徒会室。

 現在の世界に最も近い。

 少女が廊下を走っている。

『遅刻する!』

 長い髪。

 制服。

 顔が見える。

 リリアは固まった。

「……私?」

 似ていた。

 今までで一番。

 今のリリアに。

 でも違う。

 ほんの少し。

 目の色。

 髪の長さ。

 表情。

 少女が角を曲がる。

 誰かにぶつかった。

『わっ』

 書類が散らばる。

『ご、ごめんなさい!』

『大丈夫?』

 ルシアン。

 少女が顔を上げる。

 目が合う。

『……綺麗』

 少女が言った。

 ルシアンが止まる。

『え?』

『あっ』

 少女が口を押さえた。

『違います! いや違わないけど! 目が! 紫で! 綺麗だなって!』

 リリアは固まった。

「……私も言った」

 今の世界で。

 初めて彼の目を近くで見た時。

 同じようなことを。

 ルシアンは少女を見ている。

 怖いほど。

『……名前は?』

『え?』

『君の名前』

『リリアです』

 胸が止まりそうになった。

「……リリア?」

 第十二循環。

 彼女も。

 リリア。

 そこからの記憶は、今までより鮮明だった。

 ルシアンは距離を取ろうとした。

 でもリリアが近づいた。

『先輩』

『何?』

『お昼一緒に食べません?』

『どうして僕と?』

『一人で食べてるから』

『一人が好きなんだよ』

『じゃあ隣で勝手に食べます』

『話を聞いていた?』

『はい』

 リリアは思わず笑った。

「……似てる」

 嫌になるくらい。

 でも。

 同じではない。

 第十二循環のリリアは、もっと強引だった。

 ルシアンが逃げるほど追いかけた。

 何度拒まれても。

 何度距離を置かれても。

 隣へ行った。

 そして。

『好きです』

 屋上。

 夕方。

 少女が言う。

『先輩が好き』

 ルシアンは長い間黙っていた。

『……僕は』

『はい』

『君を好きになりたくない』

 少女の顔が固まる。

『……それ、振ってます?』

『そうだね』

『そっか』

 泣きそうな顔。

 でも笑った。

『分かりました』

 背を向ける。

 そこで。

『でも』

 ルシアンが呼び止める。

 少女が振り返る。

『もう遅いんだ』

 初めて。

 ルシアンから近づいた。

『好きになりたくなかった』

 少女の頬へ手を添える。

『でも、好きだ』

 リリアの胸が痛んだ。

 見たくない。

 そう思った。

 過去なのに。

 自分の前世のような存在なのに。

 それでも。

 今好きな人が、自分ではない誰かを好きだと言う姿を見るのは苦しい。

「……これ、嫌だな」

 小さく呟く。

 記憶は止まってくれない。

 二人は恋人になった。

 手を繋いだ。

 デートをした。

 喧嘩をした。

 仲直りした。

 キスをした。

 そして。

 世界が壊れた。

「……やだ」

 分かっている。

 結末を。

 見たくない。

 赤い空。

 黒い月。

 今と同じ。

 リリアが倒れている。

 ルシアンが抱いている。

『先輩』

『喋らないで』

『またそれ』

『お願いだから』

『……泣いてる?』

『泣いてない』

『嘘』

『リリア』

『はい』

『お願い』

 ルシアンの声が震えている。

『死なないで』

 第十二循環のリリアは。

 笑った。

『次は』

『言うな』

『次も会えたら』

『やめて』

『今度こそ』

 血のついた手で、ルシアンの頬へ触れる。

『普通に幸せになろうね』

 リリアの胸が強く痛んだ。

 第一循環と。

 同じ。

 少しだけ言葉が違う。

 でも願いは同じ。

 普通に。

 ただ普通に。

 恋をして。

 生きたかった。

『先輩』

『何』

『次の私が』

 少女の声が弱くなる。

『先輩を好きにならなくても』

 ルシアンの顔が歪む。

『幸せにしてあげて』

『……嫌だ』

『何で』

『君じゃなきゃ嫌だ』

『わがまま』

『そうだよ』

『でも』

 少女が笑う。

『好きになるかもよ』

『……』

『先輩、顔いいし』

『こんな時に何を』

『目も綺麗だし』

『リリア』

『優しいし』

『やめて』

『ちょっと面倒くさいけど』

『……』

『次の私も』

 指が頬から滑り落ちる。

『好きになるかも』

 そこで。

 記憶が切れた。

「……っ」

 リリアは泣いていた。

 身体はないはずなのに。

 涙の感覚だけがある。

「何なの……」

 胸が痛い。

「何で毎回」

 死ぬ。

 好きになっても。

 ならなくても。

 逃げても。

 戦っても。

 結末は同じ。

「先輩……」

 会いたい。

 今のルシアンに。

 十二回の中にいるルシアンではなく。

 昨日一緒にデートした人に。

 ブレスレットをくれた人に。

「ルシアン先輩」

 呼んだ。

 返事はない。

 代わりに。

 世界が白くなる。

 声が聞こえた。

《十二循環分記憶復元――完了》

「……終わった?」

《否》

 リリアが息を止める。

《未復元記録――一件》

「何?」

《第零循環》

「……ゼロ?」

 聞いていない。

 十二回。

 そして今が十三回目。

 それで全部のはずだった。

「ゼロって何」

《原初記録を復元します》

「待って」

 嫌な予感がする。

「待って!」

 景色が変わる。

 学院ではない。

 街でもない。

 何もない。

 真っ白な世界。

 そこに。

 一人の少女が立っている。

 白い髪。

 見覚えのある背中。

 最初のエリシア。

 その前に。

 青年がいる。

 ルシアン。

 第一循環よりも若い。

 そして。

 二人の間に。

 巨大な魔法陣が浮かんでいる。

『本当にやるの?』

 ルシアンが聞いた。

『うん』

 エリシアが答える。

『後悔しない?』

『するかも』

『なら』

『でもやる』

 エリシアが笑った。

『だって、この世界を作ったのは私だから』

 リリアの思考が止まった。

「……え?」

 魔法陣が輝く。

『だから私が、最後まで責任を持つ』

 ルシアンが彼女の手を握る。

『なら僕も』

『ルシアンは関係ないよ』

『君がいるなら関係ある』

『またそういうこと言う』

『嫌?』

『……逆』

 リリアは動けなかった。

 今まで。

 ずっと。

 世界がエリシアを選んだと思っていた。

 中心個体。

 世界を維持するために必要な魂。

 だから十三回も繰り返された。

 でも。

 違う。

 エリシアが。

 世界に選ばれたのではない。

「エリシアが……世界を作った?」

 その瞬間。

 全ての記憶が。

 最後の扉へ向かって動き始めた。