離れていく小指を、リリアは目で追った。ほんの少し前まで触れていた温度が消えて、机の下に数センチの隙間ができる。たったそれだけなのに、急に遠くなった気がした。
ルシアンは開かれた古い記録を見たまま動かない。そこに残っているのは、何千年も前の自分の筆跡だった。
『彼女は言った。あなたとの繋がりがなくなるくらいなら、自由なんていらない』
『私は、その言葉を嬉しいと思ってしまった』
リリアはもう一度その文章を見て、それから隣を見る。
「先輩」
「……うん」
「何で離したの」
「何が?」
「手」
ルシアンは少し遅れて、自分の左手を見た。
「無意識だった」
「嘘」
「……半分はね」
「じゃあ残り半分は?」
「少し、考えたくなった」
リリアは黙って待った。今までなら、ルシアンはここで自分一人の中に潜ってしまったかもしれない。だから急かさない。ただ、隣からいなくならない。
やがてルシアンが静かに息を吐いた。
「最初の彼女も、僕を好きだった」
「うん」
「僕も彼女を愛していた」
「うん」
「だから僕は、彼女を自由にしたかった。僕との繋がりが彼女を縛っていると思っていたから」
「それで権限を捨てようとした」
「ああ。でも彼女は拒んだ」
ルシアンの指が古い文字をなぞる。
「あの時の僕は、その言葉を嬉しいと思った。彼女が自由より僕を選んだことを」
「それって駄目なの?」
「……今なら、駄目だったと思う」
「何で?」
「彼女の選択を尊重したかったんじゃない。僕は、選ばれたことに安心してしまったからだよ。彼女が僕から離れない理由が、愛情なのか、魂の構造なのか、管理関係なのかも分からないのに」
リリアは少し考えた。
「先輩。それ、今の私にも思ってる?」
「……何を?」
「私が先輩を好きなのも、本当に私が好きなのか分からないって」
ルシアンはすぐには答えなかった。その沈黙が答えだった。
「ちょっと思ってるんだ」
「……少し」
「何で?」
「同期率が上がっている。古い機構は僕たちを結びつけようとしている。そして最初の彼女も、僕との繋がりを失いたくないと言った」
「うん」
「もし君まで同じことを言ったら、僕はきっと――」
「嬉しい?」
ルシアンは苦しそうに笑った。
「……ああ。だから怖いんだよ。僕はまた同じ間違いをするかもしれない」
リリアはしばらく彼を見ていた。それから、机の下に置かれたルシアンの左手へ自分の小指を伸ばした。触れる直前で止める。
「繋いでいい?」
ルシアンがこちらを見る。
「……今?」
「今」
「どうして?」
「離されたの嫌だったから」
「リリア」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない」
「じゃあいい?」
少しの沈黙のあと、ルシアンの小指が動いた。向こうから触れてくる。リリアはそれを絡めた。
「先輩。私、自由がいいよ」
ルシアンが瞬きをする。
「管理されるの嫌だし、命令されるのも嫌。先輩が勝手に私の人生決めるのも嫌だし、行く場所決められるのも嫌。魔法止められるのも、昨日みたいに私がお願いした時以外は嫌」
「……うん」
「だから管理権限は捨てたい」
「ああ」
「でも、先輩との繋がりはなくしたくない」
小指が僅かに強張った。
「リリア」
「これ、同じ言葉?」
ルシアンは答えない。
「最初のリリアと同じこと言ってる?」
「……似ている」
「じゃあちゃんと聞いて」
リリアは彼の方へ身体を向けた。
「私がなくしたくないのは、管理権限じゃない。魂の接続でもない。同期率なんてゼロでいい。先輩が私に命令できなくなってもいい。私が先輩の特別な魂じゃなくてもいい。運命じゃなくてもいい」
「リリア」
「でも明日も会いたい」
ルシアンの目が揺れた。
「明後日も、その次も。卒業しても会いたい。手も繋ぎたいし、頭も撫でてほしいし、キスもしたい。喧嘩したら仲直りしたいし、先輩がご飯食べなかったら怒りたい」
「……最後は少し余計じゃないかな」
「大事」
「そう」
「だから、自由になったら先輩から離れるんじゃないよ。自由になって、それでも先輩のところに行きたいの」
ルシアンは何も言わなかった。
リリアは少し不安になる。
「先輩?」
「……少し待って」
「何で?」
「今、かなり困っている」
「何に?」
「嬉しすぎて」
その答えに胸が跳ねた。
「……そんなに?」
「ああ」
「どれくらい?」
「君を抱きしめたいくらい」
「じゃあして」
「即答だね」
「したいんでしょ?」
「したい」
「私も」
「……では」
ルシアンが一度、監視術式を見る。
《同期率――四十八・七パーセント》
変化なし。
「いい?」
「うん」
椅子を少し引いて、ルシアンが腕を広げる。リリアは迷わずそこへ入った。背中へ腕が回る。昨日より穏やかで、朝より少し強い。
「……先輩」
「何?」
「今の私、最初のリリアに似てる?」
腕の力がほんの少し緩んだ。
「顔は違う」
「魂も違う」
「ああ」
「性格は?」
「似ているところもある」
「どこ?」
「頑固」
「失礼」
「無茶をする」
「先輩も」
「僕の痛いところを簡単に見つける」
「それは知らない」
「それから、僕を好きだと言う」
「……そこも同じなんだ」
「ああ」
リリアはルシアンの胸元に額をつけた。
「嫌?」
「まさか」
「思い出す?」
「時々」
「じゃあ今も?」
「少し」
胸がちくりとした。自分から聞いたくせに。
「そっか」
声に出たものは思ったより小さかった。ルシアンがすぐ気づく。
「リリア。顔を見せて」
「今は嫌」
「どうして?」
「何でもない」
「……嫉妬した?」
「してない」
「しているね」
「してない」
「抱きしめたまま言われても説得力がないな」
「じゃあ離れる」
「それは嫌だ」
「どっちなの」
ルシアンが笑う。リリアは少しむっとした。
「笑わないで」
「ごめん。でも嬉しい」
「先輩、私が嫉妬するといつも嬉しそう」
「好きな人に特別でいたいと思われるのは嬉しいよ」
「……最初のリリアより?」
言った瞬間、自分でも子どもっぽいと思った。
ルシアンも少し驚いた顔をする。
「今のなし」
「待って」
「なし」
「リリア」
「忘れて」
「それは無理だね」
「管理権限で」
「記憶は消せないし、仮にできても使わないよ」
「じゃあ聞かなかったことにして」
「できない」
「何で」
「答えたいから」
リリアは顔を上げた。眼鏡越しに紫の瞳と目が合う。
「比べないよ」
「……答えになってない」
「なるよ。彼女は彼女で、君は君だ」
「でも先輩は最初のリリアのこと愛してたんでしょ」
「愛していた」
「今も?」
「大切な記憶だよ」
「じゃあ――」
「でも今、恋をしている相手は君だ」
リリアの言葉が止まった。
「……もう一回」
「今、僕が恋をしているのはリリア・アスター。君だよ」
「エリシアでも?」
「もちろん」
「昔のリリアじゃなくて?」
「ああ」
「似てるところがあっても?」
「ああ」
「同じこと言っても?」
「それでも君だ」
ルシアンの指が頬へ触れる。
「君が彼女と同じ言葉を言ったから好きなんじゃない。君が僕に何度も怒って、僕の勝手な自己犠牲を止めて、分からないことを一緒に考えようと言って、毎日のように今日も好きかと確認してくるから好きなんだよ」
「最後いらなくない?」
「かなり好きなところだけど」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ今日も好き?」
「好きだよ」
「……よし」
「ほら」
「何?」
「それも好き」
「変なの」
「君に言われたくないな」
リリアは笑った。さっきまで胸にあった小さな棘が、少しずつ溶けていく。
「先輩。私も最初のリリアに嫉妬していい?」
「止める権利はないよ」
「嫌じゃない?」
「少し複雑だけどね。彼女も僕にとって大切な人だったから。でも、君が僕を独占したいと思ってくれること自体は嬉しい」
「独占したいのかな」
「違う?」
「……今の先輩は私のがいい」
「それを独占欲と言うんじゃないかな」
「じゃあそうかも」
「可愛いね」
「急に言わないで」
「本当だから仕方ない」
「じゃあ先輩は?」
「何が?」
「私のこと独占したい?」
ルシアンが黙った。
「……その沈黙何」
「答えを選んでいる」
「正直に」
「かなり」
「え」
「かなりあるよ」
「そうなの?」
「意外?」
「余裕あるから」
「君がノアと手を繋ぐ実験を提案した時、僕が何と言ったか忘れた?」
「嫌って言ってた」
「かなり嫌だった」
「セシルは?」
「相手による」
「レオンは?」
「嫌だね」
「アレンは?」
「嫌だ」
「カイルは?」
「嫌」
「誰ならいいの」
「握手なら誰でも」
「手繋ぐのは?」
ルシアンがほんの少し視線を逸らした。
「……僕がいい」
リリアは思わず笑った。
「ちゃんと独占欲ある」
「聞いたのは君だろう」
「嬉しい」
「そう言うと思った」
「でも私が誰と何するか、先輩が決めるのは嫌だよ」
「ああ。僕もそのつもりはない。嫌なら嫌と言う。でも決めるのは君だ」
「うん。それ好き」
「僕も、そういう恋人でいたい」
その言葉が妙に嬉しかった。
管理者でも、対象でもない。
互いに嫌だと言えて、それでも隣にいる。
それでいい。
それがいい。
「先輩」
「何?」
「さっきの嫉妬、まだちょっと残ってる」
「どうしたら消える?」
聞き方が優しくて、リリアは少し考えるふりをした。
「……キス」
「即答だね」
「聞いたの先輩じゃん」
「そうだけど」
「嫌?」
「まさか」
ルシアンの目が少し細くなる。
「それで本当に消える?」
「多分」
「では確認しようか」
「実験?」
「半分」
「残りは?」
「したい」
昨日から似たようなやり取りばかりしている気がするのに、毎回ちゃんと胸が跳ねる。
「眼鏡」
「外す?」
「うん」
「今日は君から?」
「え」
「昨日、自分からできただろう?」
「……できたけど」
「嫌なら僕からする」
「嫌じゃない」
「では待っている」
ルシアンが眼鏡を外して机へ置く。紫の瞳が直接こちらを見た。
待たれると、余計に恥ずかしい。
「目閉じて」
「昨日も言われたね」
「いいから」
「はい」
ルシアンが目を閉じる。
リリアは少し近づいて、一度止まった。
「……先輩」
「何?」
「喋らないで」
「まだ何も」
「集中できない」
「分かった」
もう少し近づく。
唇が触れる。
一瞬。
すぐに離れた。
ルシアンが目を開ける。
「……どう?」
「嫉妬は?」
「まだちょっとある」
「ではもう一度?」
「うん」
「今度は僕からでもいい?」
「うん」
頬へ手が触れる。
二度目は少し長かった。
ゆっくり触れて、離れる。
そのまま額が触れそうな距離にいる。
「どう?」
「……まだあるかも」
「本当かな」
「ある」
「どれくらい?」
「結構」
「さっきはちょっとと言っていた気がするけど」
「増えた」
「キスで嫉妬が増えるの?」
「特殊な体質」
「初めて聞いたよ」
笑われる。
「じゃあもう一回」
「リリア」
「何?」
「キスしたいだけだろう」
「……ばれた」
「最初からね」
「先輩はしたくない?」
「したいよ」
「じゃあ問題ない」
「君のその理屈、最近どんどん強くなるね」
「先輩が甘やかすから」
「僕のせい?」
「半分」
「残りは?」
「好きだから」
ルシアンが小さく息を吐いた。
「……本当に強いな」
今度は彼から近づいた。
三度目。
唇が重なる。
リリアは目を閉じて、自然にルシアンの袖を掴んだ。
昨日はそれだけで彼が離れた。
でも今日は違った。
一度唇が離れても、ルシアンはすぐには遠ざからない。嫌ではないと、もう知っているから。
もう一度、触れる。
さっきよりゆっくり。
頬を包む手は優しいままで、どこにも逃げ道を塞ぐような強さはない。
それが、リリアには嬉しかった。
唇が離れる。
「……リリア」
「うん」
「大丈夫?」
「うん」
「嫌じゃなかった?」
「全然」
「よかった」
目を開ける。
ルシアンの顔がまだ近い。
「先輩」
「何?」
「キス上手くなった?」
「僕が?」
「うん」
「比較対象が僕しかいないのに分かるの?」
「前の先輩と比較」
「なるほど」
「上手くなったと思う」
「それは光栄だね」
「私も?」
「……答えていいのかな」
「いいよ」
「上手になったと思う」
「やった」
「そんなに喜ぶこと?」
「先輩に褒められた」
「キスを?」
「うん」
ルシアンが堪えきれないように笑った。
「君は本当に可愛いね」
「それの方が恥ずかしい」
「なぜ?」
「分かんない」
親指が頬を一度撫でる。
「嫉妬は?」
「忘れてた」
「なら成功だ」
「でも思い出した」
「それは僕のせいだね」
「もう一回?」
「駄目」
「えー」
「これ以上は調査が進まない」
「昨日も言ってた」
「毎日同じ理由で止めている気がする」
「じゃあ調査終わったら?」
「……何をするつもり?」
「キス」
「君はそれしかないの?」
「デートもしたい」
その言葉で、ルシアンの表情が少し変わった。
「そういえば、約束したね」
「服見て、お菓子食べて、雑貨見る」
「ああ」
「世界救ったら行こうね」
「……世界を救ったら、か」
ほんの少しだけ声が曇った。
「何?」
「いや」
「また一人で考えた」
「……ばれた?」
「すぐ分かる。何考えたの」
ルシアンは少し迷ってから答えた。
「世界を救えたら、じゃなくて。六十四時間後も、君とこうしていられたらと思った」
「いるよ」
「保証はない」
「うん」
「だから怖い」
「私も」
「……そうだね」
リリアは少し考えて、それから彼の手を取った。
「でもさ。デート、世界救ってからじゃなくてよくない?」
「え?」
「明日行こう」
「明日?」
「うん」
「リリア、今の状況を理解している?」
「してる。あと六十四時間」
「その間に解除方法を探さないといけない」
「探す。でも一日中ずっと本読んでたら頭おかしくなる」
「それは……そうだけど」
「午前中調べる。午後ちょっとだけ街行く。服見る。お菓子食べる。雑貨見る。そして帰ってまた調べる」
「全部行くんだね」
「行く」
ルシアンはしばらくリリアを見ていた。
「嫌?」
「……嫌じゃない」
「行きたい?」
「君と?」
「うん」
「行きたいよ」
「じゃあ決まり」
「本当に?」
「本当に」
ルシアンは少し呆れたように笑った。
「世界の終わりが近いかもしれないのにデートするのか」
「終わるって決まってない」
「そうだね」
「それに、先輩言ったじゃん。世界が危険だからって、私たちまで不幸でいる必要ないって」
「……言ったね」
「じゃあ明日は幸せになる日」
ルシアンが目を細めた。
「随分大胆な予定だ」
「嫌?」
「嫌じゃないよ」
「じゃあ何?」
「楽しみになってしまった」
「いいじゃん」
「調査に集中できなくなりそうだ」
「それは頑張って」
「君が原因なのに?」
「恋人なので」
「便利だな、本当に」
笑い合ってから、二人はようやく机へ向き直った。
古い記録を読み進める。
管理権限。
対象個体。
解除条件。
失敗した過去。
まだ分からないことばかりだった。
それでも今度は、机の下で小指を繋いだままにした。
しばらくして、リリアがページをめくりながら呟く。
「先輩」
「何?」
「明日のデート、手繋いでいい?」
「同期率が上がらなければ」
「上がらないよ。さっきあんなにキスしても四十八・七だったし」
「『あんなに』と言わないでくれるかな」
「結構したじゃん」
「……否定はしない」
「じゃあ手繋ぐ」
「ああ」
「途中で離さないでね」
ルシアンは少しだけ黙った。
それから、小指ではなく手そのものを重ねてきた。
指が絡む。
「こういうこと?」
「……うん」
「なら、離さないようにする」
「絶対?」
「君が離したくなるまでは」
リリアは繋いだ手を見る。
命令でもない。
管理でもない。
どちらかが離したければ、いつでも離せる。
だからこそ、離さないという言葉が嬉しい。
「先輩」
「何?」
「明日楽しみ」
「僕もだよ」
「デート中、世界の話禁止の時間作ろう」
「何分?」
「二時間」
「長い」
「一時間半」
「交渉制なの?」
「一時間」
「……分かった」
「やった」
「その代わり」
「何?」
「その一時間は」
ルシアンが繋いだ手へ少し力を込める。
「僕も、君の恋人でいることだけ考えていい?」
リリアは一瞬、何も言えなかった。
「……それ、ずるい」
「何が?」
「先輩たまに急に強い」
「駄目?」
「駄目じゃない」
「では決まりだね」
「うん」
リリアも指へ力を返した。
「一時間だけじゃなくてもいいよ」
「それでは調査が終わらない」
「真面目」
「君とのデートをちゃんと楽しむためにも、今は真面目にやるよ」
「じゃあ頑張ろ」
「ああ」
そして二人は再び記録へ目を落とした。
けれど十分後。
「リリア」
「何?」
「ページがさっきから一枚も進んでいない」
「……先輩の手が気になる」
「僕もだよ」
「じゃあ一回離す?」
「それは嫌だな」
「私も」
「困ったね」
「うん」
顔を見合わせる。
少しして、同時に笑った。
明日が来る保証なんて、本当はどこにもない。
六十四時間後、二人が自由でいられる保証もない。
それでも。
明日の午後には待ち合わせをして。
服を見て。
甘いものを食べて。
雑貨を見て。
手を繋ぐ。
そんな小さな予定があるだけで、未来は急に「来てほしいもの」になる。
そしてリリアはまだ知らなかった。
翌日のデートで、ルシアンが彼女に渡そうとしているものがあることを。
管理者としてではなく。
生徒会長としてでもなく。
ただ一人の恋人として。
彼が初めて、自分で選んだ贈り物を。
ルシアンは開かれた古い記録を見たまま動かない。そこに残っているのは、何千年も前の自分の筆跡だった。
『彼女は言った。あなたとの繋がりがなくなるくらいなら、自由なんていらない』
『私は、その言葉を嬉しいと思ってしまった』
リリアはもう一度その文章を見て、それから隣を見る。
「先輩」
「……うん」
「何で離したの」
「何が?」
「手」
ルシアンは少し遅れて、自分の左手を見た。
「無意識だった」
「嘘」
「……半分はね」
「じゃあ残り半分は?」
「少し、考えたくなった」
リリアは黙って待った。今までなら、ルシアンはここで自分一人の中に潜ってしまったかもしれない。だから急かさない。ただ、隣からいなくならない。
やがてルシアンが静かに息を吐いた。
「最初の彼女も、僕を好きだった」
「うん」
「僕も彼女を愛していた」
「うん」
「だから僕は、彼女を自由にしたかった。僕との繋がりが彼女を縛っていると思っていたから」
「それで権限を捨てようとした」
「ああ。でも彼女は拒んだ」
ルシアンの指が古い文字をなぞる。
「あの時の僕は、その言葉を嬉しいと思った。彼女が自由より僕を選んだことを」
「それって駄目なの?」
「……今なら、駄目だったと思う」
「何で?」
「彼女の選択を尊重したかったんじゃない。僕は、選ばれたことに安心してしまったからだよ。彼女が僕から離れない理由が、愛情なのか、魂の構造なのか、管理関係なのかも分からないのに」
リリアは少し考えた。
「先輩。それ、今の私にも思ってる?」
「……何を?」
「私が先輩を好きなのも、本当に私が好きなのか分からないって」
ルシアンはすぐには答えなかった。その沈黙が答えだった。
「ちょっと思ってるんだ」
「……少し」
「何で?」
「同期率が上がっている。古い機構は僕たちを結びつけようとしている。そして最初の彼女も、僕との繋がりを失いたくないと言った」
「うん」
「もし君まで同じことを言ったら、僕はきっと――」
「嬉しい?」
ルシアンは苦しそうに笑った。
「……ああ。だから怖いんだよ。僕はまた同じ間違いをするかもしれない」
リリアはしばらく彼を見ていた。それから、机の下に置かれたルシアンの左手へ自分の小指を伸ばした。触れる直前で止める。
「繋いでいい?」
ルシアンがこちらを見る。
「……今?」
「今」
「どうして?」
「離されたの嫌だったから」
「リリア」
「嫌ならやめる」
「嫌じゃない」
「じゃあいい?」
少しの沈黙のあと、ルシアンの小指が動いた。向こうから触れてくる。リリアはそれを絡めた。
「先輩。私、自由がいいよ」
ルシアンが瞬きをする。
「管理されるの嫌だし、命令されるのも嫌。先輩が勝手に私の人生決めるのも嫌だし、行く場所決められるのも嫌。魔法止められるのも、昨日みたいに私がお願いした時以外は嫌」
「……うん」
「だから管理権限は捨てたい」
「ああ」
「でも、先輩との繋がりはなくしたくない」
小指が僅かに強張った。
「リリア」
「これ、同じ言葉?」
ルシアンは答えない。
「最初のリリアと同じこと言ってる?」
「……似ている」
「じゃあちゃんと聞いて」
リリアは彼の方へ身体を向けた。
「私がなくしたくないのは、管理権限じゃない。魂の接続でもない。同期率なんてゼロでいい。先輩が私に命令できなくなってもいい。私が先輩の特別な魂じゃなくてもいい。運命じゃなくてもいい」
「リリア」
「でも明日も会いたい」
ルシアンの目が揺れた。
「明後日も、その次も。卒業しても会いたい。手も繋ぎたいし、頭も撫でてほしいし、キスもしたい。喧嘩したら仲直りしたいし、先輩がご飯食べなかったら怒りたい」
「……最後は少し余計じゃないかな」
「大事」
「そう」
「だから、自由になったら先輩から離れるんじゃないよ。自由になって、それでも先輩のところに行きたいの」
ルシアンは何も言わなかった。
リリアは少し不安になる。
「先輩?」
「……少し待って」
「何で?」
「今、かなり困っている」
「何に?」
「嬉しすぎて」
その答えに胸が跳ねた。
「……そんなに?」
「ああ」
「どれくらい?」
「君を抱きしめたいくらい」
「じゃあして」
「即答だね」
「したいんでしょ?」
「したい」
「私も」
「……では」
ルシアンが一度、監視術式を見る。
《同期率――四十八・七パーセント》
変化なし。
「いい?」
「うん」
椅子を少し引いて、ルシアンが腕を広げる。リリアは迷わずそこへ入った。背中へ腕が回る。昨日より穏やかで、朝より少し強い。
「……先輩」
「何?」
「今の私、最初のリリアに似てる?」
腕の力がほんの少し緩んだ。
「顔は違う」
「魂も違う」
「ああ」
「性格は?」
「似ているところもある」
「どこ?」
「頑固」
「失礼」
「無茶をする」
「先輩も」
「僕の痛いところを簡単に見つける」
「それは知らない」
「それから、僕を好きだと言う」
「……そこも同じなんだ」
「ああ」
リリアはルシアンの胸元に額をつけた。
「嫌?」
「まさか」
「思い出す?」
「時々」
「じゃあ今も?」
「少し」
胸がちくりとした。自分から聞いたくせに。
「そっか」
声に出たものは思ったより小さかった。ルシアンがすぐ気づく。
「リリア。顔を見せて」
「今は嫌」
「どうして?」
「何でもない」
「……嫉妬した?」
「してない」
「しているね」
「してない」
「抱きしめたまま言われても説得力がないな」
「じゃあ離れる」
「それは嫌だ」
「どっちなの」
ルシアンが笑う。リリアは少しむっとした。
「笑わないで」
「ごめん。でも嬉しい」
「先輩、私が嫉妬するといつも嬉しそう」
「好きな人に特別でいたいと思われるのは嬉しいよ」
「……最初のリリアより?」
言った瞬間、自分でも子どもっぽいと思った。
ルシアンも少し驚いた顔をする。
「今のなし」
「待って」
「なし」
「リリア」
「忘れて」
「それは無理だね」
「管理権限で」
「記憶は消せないし、仮にできても使わないよ」
「じゃあ聞かなかったことにして」
「できない」
「何で」
「答えたいから」
リリアは顔を上げた。眼鏡越しに紫の瞳と目が合う。
「比べないよ」
「……答えになってない」
「なるよ。彼女は彼女で、君は君だ」
「でも先輩は最初のリリアのこと愛してたんでしょ」
「愛していた」
「今も?」
「大切な記憶だよ」
「じゃあ――」
「でも今、恋をしている相手は君だ」
リリアの言葉が止まった。
「……もう一回」
「今、僕が恋をしているのはリリア・アスター。君だよ」
「エリシアでも?」
「もちろん」
「昔のリリアじゃなくて?」
「ああ」
「似てるところがあっても?」
「ああ」
「同じこと言っても?」
「それでも君だ」
ルシアンの指が頬へ触れる。
「君が彼女と同じ言葉を言ったから好きなんじゃない。君が僕に何度も怒って、僕の勝手な自己犠牲を止めて、分からないことを一緒に考えようと言って、毎日のように今日も好きかと確認してくるから好きなんだよ」
「最後いらなくない?」
「かなり好きなところだけど」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ今日も好き?」
「好きだよ」
「……よし」
「ほら」
「何?」
「それも好き」
「変なの」
「君に言われたくないな」
リリアは笑った。さっきまで胸にあった小さな棘が、少しずつ溶けていく。
「先輩。私も最初のリリアに嫉妬していい?」
「止める権利はないよ」
「嫌じゃない?」
「少し複雑だけどね。彼女も僕にとって大切な人だったから。でも、君が僕を独占したいと思ってくれること自体は嬉しい」
「独占したいのかな」
「違う?」
「……今の先輩は私のがいい」
「それを独占欲と言うんじゃないかな」
「じゃあそうかも」
「可愛いね」
「急に言わないで」
「本当だから仕方ない」
「じゃあ先輩は?」
「何が?」
「私のこと独占したい?」
ルシアンが黙った。
「……その沈黙何」
「答えを選んでいる」
「正直に」
「かなり」
「え」
「かなりあるよ」
「そうなの?」
「意外?」
「余裕あるから」
「君がノアと手を繋ぐ実験を提案した時、僕が何と言ったか忘れた?」
「嫌って言ってた」
「かなり嫌だった」
「セシルは?」
「相手による」
「レオンは?」
「嫌だね」
「アレンは?」
「嫌だ」
「カイルは?」
「嫌」
「誰ならいいの」
「握手なら誰でも」
「手繋ぐのは?」
ルシアンがほんの少し視線を逸らした。
「……僕がいい」
リリアは思わず笑った。
「ちゃんと独占欲ある」
「聞いたのは君だろう」
「嬉しい」
「そう言うと思った」
「でも私が誰と何するか、先輩が決めるのは嫌だよ」
「ああ。僕もそのつもりはない。嫌なら嫌と言う。でも決めるのは君だ」
「うん。それ好き」
「僕も、そういう恋人でいたい」
その言葉が妙に嬉しかった。
管理者でも、対象でもない。
互いに嫌だと言えて、それでも隣にいる。
それでいい。
それがいい。
「先輩」
「何?」
「さっきの嫉妬、まだちょっと残ってる」
「どうしたら消える?」
聞き方が優しくて、リリアは少し考えるふりをした。
「……キス」
「即答だね」
「聞いたの先輩じゃん」
「そうだけど」
「嫌?」
「まさか」
ルシアンの目が少し細くなる。
「それで本当に消える?」
「多分」
「では確認しようか」
「実験?」
「半分」
「残りは?」
「したい」
昨日から似たようなやり取りばかりしている気がするのに、毎回ちゃんと胸が跳ねる。
「眼鏡」
「外す?」
「うん」
「今日は君から?」
「え」
「昨日、自分からできただろう?」
「……できたけど」
「嫌なら僕からする」
「嫌じゃない」
「では待っている」
ルシアンが眼鏡を外して机へ置く。紫の瞳が直接こちらを見た。
待たれると、余計に恥ずかしい。
「目閉じて」
「昨日も言われたね」
「いいから」
「はい」
ルシアンが目を閉じる。
リリアは少し近づいて、一度止まった。
「……先輩」
「何?」
「喋らないで」
「まだ何も」
「集中できない」
「分かった」
もう少し近づく。
唇が触れる。
一瞬。
すぐに離れた。
ルシアンが目を開ける。
「……どう?」
「嫉妬は?」
「まだちょっとある」
「ではもう一度?」
「うん」
「今度は僕からでもいい?」
「うん」
頬へ手が触れる。
二度目は少し長かった。
ゆっくり触れて、離れる。
そのまま額が触れそうな距離にいる。
「どう?」
「……まだあるかも」
「本当かな」
「ある」
「どれくらい?」
「結構」
「さっきはちょっとと言っていた気がするけど」
「増えた」
「キスで嫉妬が増えるの?」
「特殊な体質」
「初めて聞いたよ」
笑われる。
「じゃあもう一回」
「リリア」
「何?」
「キスしたいだけだろう」
「……ばれた」
「最初からね」
「先輩はしたくない?」
「したいよ」
「じゃあ問題ない」
「君のその理屈、最近どんどん強くなるね」
「先輩が甘やかすから」
「僕のせい?」
「半分」
「残りは?」
「好きだから」
ルシアンが小さく息を吐いた。
「……本当に強いな」
今度は彼から近づいた。
三度目。
唇が重なる。
リリアは目を閉じて、自然にルシアンの袖を掴んだ。
昨日はそれだけで彼が離れた。
でも今日は違った。
一度唇が離れても、ルシアンはすぐには遠ざからない。嫌ではないと、もう知っているから。
もう一度、触れる。
さっきよりゆっくり。
頬を包む手は優しいままで、どこにも逃げ道を塞ぐような強さはない。
それが、リリアには嬉しかった。
唇が離れる。
「……リリア」
「うん」
「大丈夫?」
「うん」
「嫌じゃなかった?」
「全然」
「よかった」
目を開ける。
ルシアンの顔がまだ近い。
「先輩」
「何?」
「キス上手くなった?」
「僕が?」
「うん」
「比較対象が僕しかいないのに分かるの?」
「前の先輩と比較」
「なるほど」
「上手くなったと思う」
「それは光栄だね」
「私も?」
「……答えていいのかな」
「いいよ」
「上手になったと思う」
「やった」
「そんなに喜ぶこと?」
「先輩に褒められた」
「キスを?」
「うん」
ルシアンが堪えきれないように笑った。
「君は本当に可愛いね」
「それの方が恥ずかしい」
「なぜ?」
「分かんない」
親指が頬を一度撫でる。
「嫉妬は?」
「忘れてた」
「なら成功だ」
「でも思い出した」
「それは僕のせいだね」
「もう一回?」
「駄目」
「えー」
「これ以上は調査が進まない」
「昨日も言ってた」
「毎日同じ理由で止めている気がする」
「じゃあ調査終わったら?」
「……何をするつもり?」
「キス」
「君はそれしかないの?」
「デートもしたい」
その言葉で、ルシアンの表情が少し変わった。
「そういえば、約束したね」
「服見て、お菓子食べて、雑貨見る」
「ああ」
「世界救ったら行こうね」
「……世界を救ったら、か」
ほんの少しだけ声が曇った。
「何?」
「いや」
「また一人で考えた」
「……ばれた?」
「すぐ分かる。何考えたの」
ルシアンは少し迷ってから答えた。
「世界を救えたら、じゃなくて。六十四時間後も、君とこうしていられたらと思った」
「いるよ」
「保証はない」
「うん」
「だから怖い」
「私も」
「……そうだね」
リリアは少し考えて、それから彼の手を取った。
「でもさ。デート、世界救ってからじゃなくてよくない?」
「え?」
「明日行こう」
「明日?」
「うん」
「リリア、今の状況を理解している?」
「してる。あと六十四時間」
「その間に解除方法を探さないといけない」
「探す。でも一日中ずっと本読んでたら頭おかしくなる」
「それは……そうだけど」
「午前中調べる。午後ちょっとだけ街行く。服見る。お菓子食べる。雑貨見る。そして帰ってまた調べる」
「全部行くんだね」
「行く」
ルシアンはしばらくリリアを見ていた。
「嫌?」
「……嫌じゃない」
「行きたい?」
「君と?」
「うん」
「行きたいよ」
「じゃあ決まり」
「本当に?」
「本当に」
ルシアンは少し呆れたように笑った。
「世界の終わりが近いかもしれないのにデートするのか」
「終わるって決まってない」
「そうだね」
「それに、先輩言ったじゃん。世界が危険だからって、私たちまで不幸でいる必要ないって」
「……言ったね」
「じゃあ明日は幸せになる日」
ルシアンが目を細めた。
「随分大胆な予定だ」
「嫌?」
「嫌じゃないよ」
「じゃあ何?」
「楽しみになってしまった」
「いいじゃん」
「調査に集中できなくなりそうだ」
「それは頑張って」
「君が原因なのに?」
「恋人なので」
「便利だな、本当に」
笑い合ってから、二人はようやく机へ向き直った。
古い記録を読み進める。
管理権限。
対象個体。
解除条件。
失敗した過去。
まだ分からないことばかりだった。
それでも今度は、机の下で小指を繋いだままにした。
しばらくして、リリアがページをめくりながら呟く。
「先輩」
「何?」
「明日のデート、手繋いでいい?」
「同期率が上がらなければ」
「上がらないよ。さっきあんなにキスしても四十八・七だったし」
「『あんなに』と言わないでくれるかな」
「結構したじゃん」
「……否定はしない」
「じゃあ手繋ぐ」
「ああ」
「途中で離さないでね」
ルシアンは少しだけ黙った。
それから、小指ではなく手そのものを重ねてきた。
指が絡む。
「こういうこと?」
「……うん」
「なら、離さないようにする」
「絶対?」
「君が離したくなるまでは」
リリアは繋いだ手を見る。
命令でもない。
管理でもない。
どちらかが離したければ、いつでも離せる。
だからこそ、離さないという言葉が嬉しい。
「先輩」
「何?」
「明日楽しみ」
「僕もだよ」
「デート中、世界の話禁止の時間作ろう」
「何分?」
「二時間」
「長い」
「一時間半」
「交渉制なの?」
「一時間」
「……分かった」
「やった」
「その代わり」
「何?」
「その一時間は」
ルシアンが繋いだ手へ少し力を込める。
「僕も、君の恋人でいることだけ考えていい?」
リリアは一瞬、何も言えなかった。
「……それ、ずるい」
「何が?」
「先輩たまに急に強い」
「駄目?」
「駄目じゃない」
「では決まりだね」
「うん」
リリアも指へ力を返した。
「一時間だけじゃなくてもいいよ」
「それでは調査が終わらない」
「真面目」
「君とのデートをちゃんと楽しむためにも、今は真面目にやるよ」
「じゃあ頑張ろ」
「ああ」
そして二人は再び記録へ目を落とした。
けれど十分後。
「リリア」
「何?」
「ページがさっきから一枚も進んでいない」
「……先輩の手が気になる」
「僕もだよ」
「じゃあ一回離す?」
「それは嫌だな」
「私も」
「困ったね」
「うん」
顔を見合わせる。
少しして、同時に笑った。
明日が来る保証なんて、本当はどこにもない。
六十四時間後、二人が自由でいられる保証もない。
それでも。
明日の午後には待ち合わせをして。
服を見て。
甘いものを食べて。
雑貨を見て。
手を繋ぐ。
そんな小さな予定があるだけで、未来は急に「来てほしいもの」になる。
そしてリリアはまだ知らなかった。
翌日のデートで、ルシアンが彼女に渡そうとしているものがあることを。
管理者としてではなく。
生徒会長としてでもなく。
ただ一人の恋人として。
彼が初めて、自分で選んだ贈り物を。

