魔法より、君に恋をする。

 朝、目を覚ました時、最初に感じたのは手の温度だった。

 リリアはまだ半分眠ったまま、指を少し動かした。何かを握っている。正確には、握られている。

「……ん」

 目を開ける。

 ベッドの横。

 椅子に座ったまま眠っているルシアンがいた。

「……え」

 一気に目が覚めた。

 昨夜のことを思い出す。魔力の暴走。管理権限。抱きしめてもらったこと。何度かキスしたこと。そのあと、眠るまでここにいると言われて。

「本当にいた……」

 帰ったと思っていた。

 リリアは繋がれた手を見る。

 眠っている間も、ずっと握っていたのだろうか。

 少しだけ指へ力を入れてみる。

 ルシアンは起きない。

「先輩」

 小さく呼ぶ。

 反応なし。

「ルシアン先輩」

 まだ起きない。

 珍しい。

 いつもなら気配だけで起きそうなのに。

 よほど疲れていたのだろう。

 リリアは横になったまま、彼の顔を見る。

 眼鏡は外して、ベッド脇の机に置かれている。

 眠っている顔。

 初めて見た。

「……綺麗」

 起きている時より幼く見える。

 眉間にも皺がない。

 リリアは少し身体を起こした。

 もう少し近くから見る。

「まつ毛長い」

「……」

「肌綺麗」

「……」

「顔いいな」

「……聞こえているよ」

「え」

 紫の目が開いた。

 リリアが固まる。

「いつから?」

「綺麗、あたりから」

「最初じゃん!」

「途中で起きた」

「言ってよ!」

「随分楽しそうだったから」

「最悪」

 布団を引き上げる。

 顔を隠した。

「おはよう、リリア」

「おはようございます……」

「顔を見せて」

「嫌」

「どうして?」

「恥ずかしい」

「僕は嬉しかったけど」

「何が?」

「顔がいいと言われたこと」

「聞かなかったことにして」

「無理だね」

「忘れて」

「それも無理」

「管理権限で記憶消せない?」

「そんな使い方を提案しないでくれるかな」

 布団の向こうからルシアンが笑う声がする。

 リリアは少しだけ顔を出した。

「……いつまでいるの?」

「随分な言い方だね」

「違う。朝になったから」

「ああ」

 ルシアンが窓を見る。

「僕も少し驚いている」

「寝ちゃった?」

「そのようだ」

「椅子で?」

「そうらしい」

「身体痛くない?」

「少し」

「ベッドで寝ればよかったのに」

 言ってから。

 二人とも止まった。

「……」

「……」

 リリアが先に意味へ気づく。

「違う!」

「何も言っていないよ」

「今変な意味になった」

「僕は何も」

「顔!」

「どんな顔?」

「笑ってる」

「君が可愛いことを言うから」

「一緒に寝ようって意味じゃない!」

「分かっている」

「先輩が椅子で寝て身体痛いなら、私が起きたあとベッド使えばよかったって」

「分かっているよ」

「本当に?」

「ああ」

「……じゃあいい」

 また布団へ少し潜る。

 ルシアンはまだ笑っている。

「もう」

「ごめん」

「絶対面白がってる」

「少しだけ」

「嫌い」

「それは困るな」

「嘘」

「よかった」

 あまりにも早い。

「何で分かるの」

「手」

「手?」

「嫌いと言いながら、離していない」

 リリアは自分の右手を見る。

 まだ繋いでいる。

「あ」

「僕も離していないけどね」

「……じゃあ同罪」

「そうしよう」

 指が少し動く。

 絡み直される。

 朝から胸がくすぐったい。

「同期率は?」

 リリアが聞く。

「起きてすぐ確認する?」

「大事でしょ」

「四十八・七」

「上がってない?」

「ああ」

「一晩手繋いでたのに?」

「上がっていない」

「じゃあ手は安全」

「現時点ではね」

「やった」

「そんなに嬉しい?」

「嬉しいよ」

 リリアは繋いだ手を少し持ち上げる。

「好きだから触りたい」

 ルシアンが黙った。

「……何?」

「朝から強いね」

「普通のこと言っただけ」

「僕にはかなり効く」

「じゃあ先輩は?」

「何が?」

「好きだから触りたい?」

 今度はルシアンが困る番だった。

「……触りたいよ」

「どこ?」

「リリア」

「何?」

「朝から僕を困らせるのはやめようか」

「手とか、頭とか、頬とか聞いただけ」

「本当に?」

「半分くらい」

「残り半分は?」

「何て答えるかなって」

「答えない」

「ケチ」

「昨日も聞いた気がするな、それ」

 ルシアンが立ち上がる。

 繋いでいた手が離れた。

「あ」

 思わず声が出る。

 ルシアンが止まった。

「……何?」

「離れた」

「立つためにね」

「分かってる」

「もう一度?」

 手を差し出される。

 リリアは笑って取った。

「うん」

「これでは何もできないな」

「じゃあ何で出したの?」

「君が寂しそうな顔をしたから」

「してない」

「していたよ」

「してない」

「では僕が繋ぎたかったことにしておこう」

「それなら許す」

「許された」

 ルシアンが笑う。

「朝食を取ろう。昨夜何も食べていないだろう?」

「先輩もでしょ?」

「僕は」

「コーヒーは朝食じゃないよ」

「まだ何も言っていない」

「どうせコーヒーって言う」

「……よく分かってきたね」

「恋人なので」

「便利だな、その言葉」

「先輩も使っていいよ」

「では恋人なので、君に朝食を食べさせたい」

「いいよ」

「素直だ」

「お腹すいた」

「そちらか」

「先輩とも食べたい」

「……それなら満点」

「採点された」

 支度をして、二人で部屋を出た。

 寮の廊下はまだ人が少ない。

 外へ出る。

 朝の空気が冷たい。

 昨日の夜、ここで死ぬかもしれないと思ったのが嘘みたいだった。

「リリア」

「何?」

「寒い?」

「ちょっと」

 ルシアンが上着を脱ごうとする。

「いらない」

「でも」

「先輩が寒くなる」

「僕は平気だよ」

「私も歩けば平気」

「そう?」

「うん」

 少し歩く。

 リリアはルシアンの左側へ寄った。

 肩が触れる。

「……これは?」

「寒いから」

「上着はいらないのに?」

「人間の方があったかい」

「なるほど」

「嫌?」

「まさか」

 ルシアンの肩が少しだけこちらへ寄る。

 それだけ。

 手は繋がない。

 でも十分近い。

「先輩」

「何?」

「昨日、怖かった?」

「ああ」

「どの時が一番?」

「君が痛いと言った時」

「そっか」

「君は?」

「魔力が戻ってきた時」

「うん」

「あと、先輩が管理権限使うか聞いてきた時」

「……怖かった?」

「ちょっと」

「ごめん」

「でも聞いてくれて嬉しかった」

 ルシアンがこちらを見る。

「変かな?」

「いや」

「使ってほしくはなかった。でも、死にたくなかったから」

「うん」

「自分で決められたのがよかった」

「……そう」

「だから昨日のは嫌な思い出じゃないよ」

「リリア」

「何?」

「君は時々、僕が欲しい言葉を簡単にくれるね」

「欲しかった?」

「かなり」

「じゃあもう一個あげる」

「何?」

「昨日来てくれて嬉しかった」

 ルシアンが止まった。

 リリアも数歩先で止まる。

「先輩?」

「……朝から多いな」

「何が?」

「僕が君を好きになる理由」

 心臓が跳ねた。

「それはずるい」

「何が?」

「今の」

「本当のことだけど」

「もう好きでしょ」

「ああ」

 ルシアンが歩き出す。

 リリアの隣へ戻る。

「それでも増えるらしい」

「好きが?」

「多分」

「どこまで?」

「知らない」

「私も増えるかな」

「増えてほしいな」

「じゃあ頑張って」

「何を?」

「もっと好きにさせる」

 ルシアンが笑った。

「それは責任重大だ」

「私も頑張る」

「君はもう十分だよ」

「何が?」

「僕を好きにさせること」

「……それ」

「うん?」

「もう一回」

「嫌だ」

「何で!」

「今の反応が可愛かったから、一回で十分」

「ずるい」

「恋人なので」

「あ、使った」

「便利だね」

「でしょ?」

 食堂はまだ空いていた。

 朝食を二つ受け取る。

 リリアはパンとスープと卵。

 ルシアンはコーヒーと。

「少な」

「パンもある」

「一個」

「十分だよ」

「昨日何も食べてないのに?」

「食欲が」

「駄目」

「リリア」

「私の卵半分あげる」

「君が食べなさい」

「じゃあパンもう一個取ってきて」

「……」

「恋人なので心配です」

 ルシアンが目を細める。

「その使い方は卑怯じゃないかな」

「食べて」

「はい」

「よし」

 結局、パンをもう一つ取ってきた。

 向かいに座る。

「昨日さ」

 リリアがパンをちぎりながら言う。

「うん」

「キスしたじゃん」

 ルシアンがコーヒーを置いた。

「食事中にその話をする?」

「駄目?」

「駄目ではないけれど」

「三回?」

「数える話は昨日終わったと思っていたよ」

「でも気になった」

「何が?」

「最後のやつ」

 ルシアンの視線が少し泳ぐ。

「……最後?」

「先輩が途中で離れたやつ」

「ああ」

「あれ何で?」

「君が服を掴んだから」

「嫌だと思った?」

「逆」

「逆?」

 ルシアンが少し黙る。

「嫌ではないと分かっていたら、もう少し続けたかった」

 リリアの手が止まる。

「……え」

「だから離れた」

「何で?」

「君がどういう意味で掴んだのか分からなかったから」

「私は」

 思い出す。

 近くて。

 離れてほしくなくて。

「……もうちょっとしてほしかった」

 今度はルシアンが止まった。

「先輩?」

「リリア」

「はい」

「今それを聞くのは、かなり困る」

「何で?」

「昨日に戻りたくなる」

「戻れば?」

「戻れないよ」

「今日またすればいいじゃん」

「……」

 ルシアンが眼鏡の位置を直した。

「照れてる?」

「朝食を食べよう」

「逃げた」

「食べなさい」

「命令?」

「お願いです」

「よろしい」

「君は本当に楽しそうだね」

「楽しい」

 素直に答える。

「恋人になってから先輩、結構面白い」

「面白い?」

「前は何でも余裕だった」

「そう見せていただけだよ」

「今は?」

「君のせいで余裕がないことが多い」

「嬉しい」

「喜ぶところかな」

「だって私だけじゃないって分かる」

「何が?」

「ドキドキしてるの」

 ルシアンが少し黙る。

「……しているよ」

「今も?」

「ああ」

「何で?」

「昨日のキスの話を朝食中にしてくる恋人が目の前にいるから」

「それだけ?」

「可愛いから」

 リリアが黙る。

 今度は自分がパンを見る。

「……食べよ」

「逃げた?」

「食事中だから」

「なるほど」

 笑われた。

 悔しい。

 でも嬉しい。

 朝食を終え、生徒会室へ向かった。

 授業まではまだ少し時間がある。

 昨夜表示された内容を確認するためだ。

「これ」

 ルシアンが監視術式を開く。

《管理構造修復開始まで――六十六時間》

「減ってる」

「ああ」

「昨日七十二だった?」

「そうだ」

「あと三日弱」

「それまでに、古い機構との接続を切る方法を見つける」

「見つからなかったら?」

「それも考える」

「一緒に?」

「もちろん」

「よし」

 リリアはソファへ座る。

 ルシアンは机へ向かおうとして。

「先輩」

「何?」

「こっち」

「調べ物を」

「五分」

「何をするの?」

「昨日の続き」

「調査?」

「違う」

「では何?」

 リリアは自分の隣を軽く叩いた。

「恋人」

 ルシアンが黙った。

「五分だけ」

「……何をしたい?」

「何もしなくてもいい」

「それなら」

「でもくっつきたい」

 ルシアンの目が少し細くなる。

「朝から随分甘えるね」

「昨日死にかけたから」

 冗談っぽく言ったつもりだった。

 でもルシアンは笑わなかった。

「……それを言われると弱い」

「じゃあ来て」

「はい」

 隣へ座る。

 リリアはすぐ肩を寄せた。

 ルシアンの腕へ自分の腕をくっつける。

「これだけ?」

「今は」

「今は?」

「五分あるから考える」

「嫌な予感がするな」

「手」

「はい」

 差し出される。

 繋ぐ。

「肩」

「もう触れている」

「うん」

「他は?」

 聞かれて。

 リリアは少し考える。

「頭撫でて」

 ルシアンが止まった。

「……珍しい」

「嫌?」

「逆だよ」

 手が髪へ触れる。

 優しく。

 頭の上から、髪を整えるように。

「こう?」

「うん」

「子ども扱いみたいじゃない?」

「先輩がやるならいい」

「そう」

 もう一度。

 ゆっくり撫でられる。

「……好きかも」

「何が?」

「これ」

「覚えておこう」

「疲れた時やって」

「ああ」

「怖い時も」

「ああ」

「普通の時も」

「結局いつでも?」

「うん」

 ルシアンが笑う。

「分かった」

 リリアは少し目を閉じる。

 撫でられる。

 手も繋いでいる。

 あたたかい。

「先輩」

「何?」

「今幸せ?」

 手が止まった。

「……急だね」

「聞きたくなった」

 ルシアンは少し考える。

「幸せだよ」

「本当?」

「ああ」

「世界やばいのに?」

「それとこれは別だろう?」

 昨日リリアが言ったことと同じだった。

「そっか」

「君は?」

「幸せ」

「世界がやばいのに?」

「それとこれは別」

「真似したね」

「先輩も昨日の私の真似した」

「ばれた?」

「うん」

 また頭を撫でられる。

「幸せでいいのかな」

 リリアが小さく言う。

「どうして?」

「こんな時に」

「いいよ」

 即答だった。

「世界が危険だからといって、僕たちまで不幸でいる必要はない」

「……うん」

「怖い時は怖がる。嬉しい時は喜ぶ。好きなら好きと言う」

「キスしたい時は?」

「……そこへ持っていく?」

 リリアが笑う。

「したい時は?」

 ルシアンがこちらを見る。

「聞く」

「誰に?」

「君に」

「じゃあ聞いて」

「リリア」

「はい」

 眼鏡越しに紫の目が見える。

「キスしてもいい?」

「いいよ」

 リリアは目を閉じようとして。

「あ、待って」

「何?」

「今日は眼鏡あり?」

「昨日は途中で外したね」

「うん」

「どちらがいい?」

「先輩は?」

「僕?」

「どっちが好き?」

 ルシアンが少し考える。

「なし」

「何で?」

「君の顔がよく見える」

 胸に刺さる。

「……それ私が前言ったやつ」

「気持ちが分かったよ」

 ルシアンが眼鏡を外す。

 机へ置く。

 戻ってくる。

 今度は紫の瞳が直接見える。

「近い」

「君が呼んだんだよ」

「そうだけど」

「嫌?」

「もっと」

 言ってから、自分でも驚いた。

「……近く?」

「うん」

 ルシアンが少しだけ近づく。

 膝が触れる。

「これくらい?」

「うん」

「リリア」

「何?」

「今、かなり可愛いことをしている自覚はある?」

「ない」

「そう」

「先輩は?」

「かなり困っている」

「嫌?」

「逆だと昨日から言っているだろう」

 頬へ手が触れる。

 親指が少し動く。

「いい?」

「うん」

 キス。

 短く触れる。

 離れる。

 リリアはルシアンを見る。

「……短い」

「また言った」

「だって」

「昨日より欲張りになっていない?」

「恋人だから」

「それで全部通すつもり?」

「駄目?」

 ルシアンが困ったように笑う。

「駄目とは言えないな」

「じゃあ」

「もう一度?」

「うん」

「いいよ」

 二度目。

 今度は少し長い。

 触れて。

 一度離れかけて。

 リリアが無意識にルシアンの袖を掴む。

 ルシアンが止まった。

 昨日と同じ。

「……嫌じゃない」

 離れる前に言った。

 紫の瞳が僅かに揺れる。

「続けていい?」

「うん」

 もう一度、唇が重なった。

 さっきよりゆっくり。

 リリアの袖を掴む指に少し力が入る。

 ルシアンの手は頬にある。

 もう片方の手は、繋いだまま。

 どこにも強く触れない。

 ただ。

 昨日より近い。

 唇が離れる。

 二人ともすぐには何も言わなかった。

「……」

「……」

 リリアが先に笑った。

「何?」

「先輩、顔赤い」

「君もだよ」

「見ないで」

「僕には見せて」

 思わずルシアンを見る。

「……今のずるい」

「何が?」

「僕には見せてって」

「嫌なら見ないよ」

「嫌じゃない」

「なら見る」

「恥ずかしい」

「僕も恥ずかしいよ」

「全然見えない」

「では」

 ルシアンがリリアの手を取る。

 自分の胸元へ持っていった。

「え」

「分かる?」

 掌の下。

 心臓。

 速い。

「……速い」

「ああ」

「私のせい?」

「他に誰がいるの?」

 胸がきゅっとなる。

「嬉しい」

「そう?」

「うん」

「ならよかった」

 リリアは少しだけそのままにした。

 ルシアンの心臓。

 確かに速い。

 自分だけじゃない。

「先輩」

「何?」

「もう一回したい」

 ルシアンが目を閉じた。

「……五分と言ったのは誰だったかな」

「まだ五分くらいじゃない?」

「とっくに過ぎている」

「何分?」

「十五分」

「嘘」

「本当」

「じゃああと一回だけ」

「リリア」

「お願い」

「……」

「駄目?」

 ルシアンは数秒黙った。

「君、その言い方が僕に効くと分かってやっている?」

「ちょっと」

「やっぱり」

「でもしたいのは本当」

「僕もだよ」

「じゃあいいじゃん」

「理屈が強い」

「でしょ」

「では、本当に最後」

「今日の朝は?」

「朝は」

「うん」

「……最後」

「よし」

 リリアが笑う。

 ルシアンも笑った。

 そして近づく。

 でも。

 今度は唇の直前で止まった。

「何?」

「リリアから来て」

「え」

「いつも僕からだから」

「……恥ずかしい」

「嫌なら僕からする」

「嫌じゃない」

「では待っている」

 ずるい。

 目の前。

 あと少し。

 ルシアンは動かない。

 リリアは一度視線を逸らす。

「見ないで」

「それは難しいな」

「目閉じて」

「はい」

 ルシアンが目を閉じる。

 眼鏡がない。

 無防備な顔。

 余計に緊張する。

 リリアは少しだけ近づいた。

 止まる。

 もう少し。

 唇へ触れる。

 一瞬。

 すぐ離れた。

 ルシアンが目を開ける。

「……短い」

「え」

 今度はルシアンが言った。

「それ私の!」

「言ってみたかった」

「じゃあもう一回?」

「最後だったはずだけど」

「先輩が短いって言った」

「……確かに」

「仕方ないなあ」

「随分嬉しそうだね」

「仕方なくです」

「そういうことにしておこう」

 今度はリリアから。

 さっきより少しだけ長く。

 触れる。

 離れようとすると。

 ルシアンの手が頬へ触れた。

 止められたわけではない。

 ただ。

 離れたあとも近くにいた。

「……上手になった?」

 リリアが聞く。

「何の感想を求めているの?」

「キス」

「採点するものではないよ」

「じゃあ好き?」

「かなり」

「よかった」

「君は?」

「好き」

「僕が?」

「キスも」

「……順番が逆じゃなくて安心した」

「先輩も好き」

「ありがとう」

「もっと好きになった?」

「増えたよ」

「やった」

 ルシアンが笑う。

「君、本当に嬉しそうだね」

「だって目標だから」

「何が?」

「先輩をもっと好きにさせる」

 昨日の朝。

 自分で言った。

 ルシアンは一瞬驚いたあと。

 ひどく柔らかく笑った。

「もうかなり好きなんだけどな」

「まだいける」

「どこまで?」

「知らない」

「では僕も頑張らないと」

「何を?」

「君にもっと好きになってもらう」

「私もかなり好きだよ」

「まだいけるんだろう?」

 言い返された。

「……いける」

「よし」

 ルシアンが眼鏡をかけ直す。

「では恋愛勝負は一旦休憩して、世界を救おう」

「急に規模でかい」

「僕たちの恋愛を邪魔されないためにもね」

「それは大事」

「だろう?」

 二人で机へ向かった。

 手は離した。

 でもさっきまでの温度が残っている。

 管理構造。

 黒い月。

 拒否権。

 七十二時間。

 調べ始めて十分ほど経った時。

 リリアが一冊の古い記録を止めた。

「先輩」

「何?」

「これ」

「読める?」

「文字は読めない。でも絵」

 ページ中央。

 二つの魂を示す円。

 一つは管理者。

 一つは中心個体。

 その間に一本の線。

「今の私たち?」

「古い管理構造だね」

「こっち」

 次の図。

 同じ二つの魂。

 でも。

 線がない。

 代わりに、それぞれから別々の方向へ術式が伸びている。

「……これは」

 ルシアンが古代文字を読む。

「管理関係解除後の独立構造」

「解除できるの?」

「記録上は」

「どうやって?」

 ルシアンが続きを読む。

 表情が変わった。

「何?」

「条件がある」

「何?」

「管理者と対象個体、双方による権限放棄」

「できるじゃん」

「ただし」

 次の行。

「完全同期前に限る」

「完全同期って百パーセント?」

「ああ」

「今四十八・七」

「まだ間に合う」

「じゃあやろう」

「待って」

「何?」

「権限放棄には、管理者側だけではなく対象側にも何かが必要らしい」

「私?」

「ああ」

「何するの?」

「ここが欠けている」

 ページの一部が破れていた。

「……最悪」

「別の記録を探そう」

「あるかな」

「探す」

「一緒に」

「ああ」

 その時。

 監視術式が動いた。

《管理構造修復開始まで――六十四時間》

 さらに。

《同期率――四十八・七パーセント》

 変化なし。

 リリアは少し笑う。

「先輩」

「何?」

「さっきあんなにキスしたのに上がってない」

「……今それを確認する?」

「重要な実験結果」

「実験だったの?」

「半分」

「残りは?」

「したかった」

「知っているよ」

「先輩は?」

 ルシアンが記録から顔を上げる。

「全部したかった」

「……全部?」

「ああ」

「実験じゃなかった?」

「最初から一度も」

 リリアが固まる。

「それは」

「うん?」

「かなりキュンとした」

「そう」

「ずるい」

「恋人なので」

 また使った。

「……それ便利すぎ」

「君が教えてくれたんだよ」

 ルシアンは笑って、再び本へ視線を落とした。

 リリアも隣の記録を開く。

 数分後。

 机の下で。

 何かが小指へ触れた。

 見る。

 ルシアンの小指。

 最初の日と同じ。

 リリアも絡める。

「調査中でしょ」

「小指だけならいいかと思って」

「集中できない」

「嫌?」

「逆」

「なら同じだ」

 顔は互いに本へ向けたまま。

 小指だけ。

 繋がっている。

 世界が二人を管理者と対象として繋ごうとしている。

 そんな線はいらない。

 命令も。

 管理も。

 強制された同期も。

 いらない。

 ただ、触れたい時に触れる。

 離れたい時には離れられる。

 好きだから近づく。

 嫌なら拒める。

 その当たり前を守りたい。

 リリアはページをめくりながら、小指へ少しだけ力を入れた。

 ルシアンも同じだけ返した。

 その瞬間。

 机の上の古い記録。

 誰も触れていない一冊が。

 ひとりでに開いた。

「……先輩」

「ああ」

 ページが高速でめくられる。

 ある場所で止まった。

 そこには。

 最初のリリアの名。

 そして。

 ルシアン・ノクス。

 二人の名が並んでいた。

 その下。

 古い文字で記された一文。

 ルシアンが読む。

「『管理関係解除の失敗記録』」

 リリアの小指が止まった。

「……失敗?」

「ああ」

「誰の?」

 ルシアンは答えなかった。

 答える必要もなかった。

 その下に。

 彼自身の筆跡が残っていた。

『彼女を自由にするため、管理権限の放棄を試みる』

『失敗』

『理由――対象個体が拒否』

「……最初のリリアが?」

 ルシアンの顔から、表情が消えた。

 さらに下。

『彼女は言った』

 古い記憶。

 何千年も忘れていた言葉。

『あなたとの繋がりがなくなるくらいなら、自由なんていらない』

 リリアは黙った。

 ルシアンも動かなかった。

 そして。

 最後の一行。

『私は、その言葉を嬉しいと思ってしまった』

 ルシアンの小指が。

 リリアから、ゆっくり離れた。