朝、目を覚ました時、最初に感じたのは手の温度だった。
リリアはまだ半分眠ったまま、指を少し動かした。何かを握っている。正確には、握られている。
「……ん」
目を開ける。
ベッドの横。
椅子に座ったまま眠っているルシアンがいた。
「……え」
一気に目が覚めた。
昨夜のことを思い出す。魔力の暴走。管理権限。抱きしめてもらったこと。何度かキスしたこと。そのあと、眠るまでここにいると言われて。
「本当にいた……」
帰ったと思っていた。
リリアは繋がれた手を見る。
眠っている間も、ずっと握っていたのだろうか。
少しだけ指へ力を入れてみる。
ルシアンは起きない。
「先輩」
小さく呼ぶ。
反応なし。
「ルシアン先輩」
まだ起きない。
珍しい。
いつもなら気配だけで起きそうなのに。
よほど疲れていたのだろう。
リリアは横になったまま、彼の顔を見る。
眼鏡は外して、ベッド脇の机に置かれている。
眠っている顔。
初めて見た。
「……綺麗」
起きている時より幼く見える。
眉間にも皺がない。
リリアは少し身体を起こした。
もう少し近くから見る。
「まつ毛長い」
「……」
「肌綺麗」
「……」
「顔いいな」
「……聞こえているよ」
「え」
紫の目が開いた。
リリアが固まる。
「いつから?」
「綺麗、あたりから」
「最初じゃん!」
「途中で起きた」
「言ってよ!」
「随分楽しそうだったから」
「最悪」
布団を引き上げる。
顔を隠した。
「おはよう、リリア」
「おはようございます……」
「顔を見せて」
「嫌」
「どうして?」
「恥ずかしい」
「僕は嬉しかったけど」
「何が?」
「顔がいいと言われたこと」
「聞かなかったことにして」
「無理だね」
「忘れて」
「それも無理」
「管理権限で記憶消せない?」
「そんな使い方を提案しないでくれるかな」
布団の向こうからルシアンが笑う声がする。
リリアは少しだけ顔を出した。
「……いつまでいるの?」
「随分な言い方だね」
「違う。朝になったから」
「ああ」
ルシアンが窓を見る。
「僕も少し驚いている」
「寝ちゃった?」
「そのようだ」
「椅子で?」
「そうらしい」
「身体痛くない?」
「少し」
「ベッドで寝ればよかったのに」
言ってから。
二人とも止まった。
「……」
「……」
リリアが先に意味へ気づく。
「違う!」
「何も言っていないよ」
「今変な意味になった」
「僕は何も」
「顔!」
「どんな顔?」
「笑ってる」
「君が可愛いことを言うから」
「一緒に寝ようって意味じゃない!」
「分かっている」
「先輩が椅子で寝て身体痛いなら、私が起きたあとベッド使えばよかったって」
「分かっているよ」
「本当に?」
「ああ」
「……じゃあいい」
また布団へ少し潜る。
ルシアンはまだ笑っている。
「もう」
「ごめん」
「絶対面白がってる」
「少しだけ」
「嫌い」
「それは困るな」
「嘘」
「よかった」
あまりにも早い。
「何で分かるの」
「手」
「手?」
「嫌いと言いながら、離していない」
リリアは自分の右手を見る。
まだ繋いでいる。
「あ」
「僕も離していないけどね」
「……じゃあ同罪」
「そうしよう」
指が少し動く。
絡み直される。
朝から胸がくすぐったい。
「同期率は?」
リリアが聞く。
「起きてすぐ確認する?」
「大事でしょ」
「四十八・七」
「上がってない?」
「ああ」
「一晩手繋いでたのに?」
「上がっていない」
「じゃあ手は安全」
「現時点ではね」
「やった」
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいよ」
リリアは繋いだ手を少し持ち上げる。
「好きだから触りたい」
ルシアンが黙った。
「……何?」
「朝から強いね」
「普通のこと言っただけ」
「僕にはかなり効く」
「じゃあ先輩は?」
「何が?」
「好きだから触りたい?」
今度はルシアンが困る番だった。
「……触りたいよ」
「どこ?」
「リリア」
「何?」
「朝から僕を困らせるのはやめようか」
「手とか、頭とか、頬とか聞いただけ」
「本当に?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「何て答えるかなって」
「答えない」
「ケチ」
「昨日も聞いた気がするな、それ」
ルシアンが立ち上がる。
繋いでいた手が離れた。
「あ」
思わず声が出る。
ルシアンが止まった。
「……何?」
「離れた」
「立つためにね」
「分かってる」
「もう一度?」
手を差し出される。
リリアは笑って取った。
「うん」
「これでは何もできないな」
「じゃあ何で出したの?」
「君が寂しそうな顔をしたから」
「してない」
「していたよ」
「してない」
「では僕が繋ぎたかったことにしておこう」
「それなら許す」
「許された」
ルシアンが笑う。
「朝食を取ろう。昨夜何も食べていないだろう?」
「先輩もでしょ?」
「僕は」
「コーヒーは朝食じゃないよ」
「まだ何も言っていない」
「どうせコーヒーって言う」
「……よく分かってきたね」
「恋人なので」
「便利だな、その言葉」
「先輩も使っていいよ」
「では恋人なので、君に朝食を食べさせたい」
「いいよ」
「素直だ」
「お腹すいた」
「そちらか」
「先輩とも食べたい」
「……それなら満点」
「採点された」
支度をして、二人で部屋を出た。
寮の廊下はまだ人が少ない。
外へ出る。
朝の空気が冷たい。
昨日の夜、ここで死ぬかもしれないと思ったのが嘘みたいだった。
「リリア」
「何?」
「寒い?」
「ちょっと」
ルシアンが上着を脱ごうとする。
「いらない」
「でも」
「先輩が寒くなる」
「僕は平気だよ」
「私も歩けば平気」
「そう?」
「うん」
少し歩く。
リリアはルシアンの左側へ寄った。
肩が触れる。
「……これは?」
「寒いから」
「上着はいらないのに?」
「人間の方があったかい」
「なるほど」
「嫌?」
「まさか」
ルシアンの肩が少しだけこちらへ寄る。
それだけ。
手は繋がない。
でも十分近い。
「先輩」
「何?」
「昨日、怖かった?」
「ああ」
「どの時が一番?」
「君が痛いと言った時」
「そっか」
「君は?」
「魔力が戻ってきた時」
「うん」
「あと、先輩が管理権限使うか聞いてきた時」
「……怖かった?」
「ちょっと」
「ごめん」
「でも聞いてくれて嬉しかった」
ルシアンがこちらを見る。
「変かな?」
「いや」
「使ってほしくはなかった。でも、死にたくなかったから」
「うん」
「自分で決められたのがよかった」
「……そう」
「だから昨日のは嫌な思い出じゃないよ」
「リリア」
「何?」
「君は時々、僕が欲しい言葉を簡単にくれるね」
「欲しかった?」
「かなり」
「じゃあもう一個あげる」
「何?」
「昨日来てくれて嬉しかった」
ルシアンが止まった。
リリアも数歩先で止まる。
「先輩?」
「……朝から多いな」
「何が?」
「僕が君を好きになる理由」
心臓が跳ねた。
「それはずるい」
「何が?」
「今の」
「本当のことだけど」
「もう好きでしょ」
「ああ」
ルシアンが歩き出す。
リリアの隣へ戻る。
「それでも増えるらしい」
「好きが?」
「多分」
「どこまで?」
「知らない」
「私も増えるかな」
「増えてほしいな」
「じゃあ頑張って」
「何を?」
「もっと好きにさせる」
ルシアンが笑った。
「それは責任重大だ」
「私も頑張る」
「君はもう十分だよ」
「何が?」
「僕を好きにさせること」
「……それ」
「うん?」
「もう一回」
「嫌だ」
「何で!」
「今の反応が可愛かったから、一回で十分」
「ずるい」
「恋人なので」
「あ、使った」
「便利だね」
「でしょ?」
食堂はまだ空いていた。
朝食を二つ受け取る。
リリアはパンとスープと卵。
ルシアンはコーヒーと。
「少な」
「パンもある」
「一個」
「十分だよ」
「昨日何も食べてないのに?」
「食欲が」
「駄目」
「リリア」
「私の卵半分あげる」
「君が食べなさい」
「じゃあパンもう一個取ってきて」
「……」
「恋人なので心配です」
ルシアンが目を細める。
「その使い方は卑怯じゃないかな」
「食べて」
「はい」
「よし」
結局、パンをもう一つ取ってきた。
向かいに座る。
「昨日さ」
リリアがパンをちぎりながら言う。
「うん」
「キスしたじゃん」
ルシアンがコーヒーを置いた。
「食事中にその話をする?」
「駄目?」
「駄目ではないけれど」
「三回?」
「数える話は昨日終わったと思っていたよ」
「でも気になった」
「何が?」
「最後のやつ」
ルシアンの視線が少し泳ぐ。
「……最後?」
「先輩が途中で離れたやつ」
「ああ」
「あれ何で?」
「君が服を掴んだから」
「嫌だと思った?」
「逆」
「逆?」
ルシアンが少し黙る。
「嫌ではないと分かっていたら、もう少し続けたかった」
リリアの手が止まる。
「……え」
「だから離れた」
「何で?」
「君がどういう意味で掴んだのか分からなかったから」
「私は」
思い出す。
近くて。
離れてほしくなくて。
「……もうちょっとしてほしかった」
今度はルシアンが止まった。
「先輩?」
「リリア」
「はい」
「今それを聞くのは、かなり困る」
「何で?」
「昨日に戻りたくなる」
「戻れば?」
「戻れないよ」
「今日またすればいいじゃん」
「……」
ルシアンが眼鏡の位置を直した。
「照れてる?」
「朝食を食べよう」
「逃げた」
「食べなさい」
「命令?」
「お願いです」
「よろしい」
「君は本当に楽しそうだね」
「楽しい」
素直に答える。
「恋人になってから先輩、結構面白い」
「面白い?」
「前は何でも余裕だった」
「そう見せていただけだよ」
「今は?」
「君のせいで余裕がないことが多い」
「嬉しい」
「喜ぶところかな」
「だって私だけじゃないって分かる」
「何が?」
「ドキドキしてるの」
ルシアンが少し黙る。
「……しているよ」
「今も?」
「ああ」
「何で?」
「昨日のキスの話を朝食中にしてくる恋人が目の前にいるから」
「それだけ?」
「可愛いから」
リリアが黙る。
今度は自分がパンを見る。
「……食べよ」
「逃げた?」
「食事中だから」
「なるほど」
笑われた。
悔しい。
でも嬉しい。
朝食を終え、生徒会室へ向かった。
授業まではまだ少し時間がある。
昨夜表示された内容を確認するためだ。
「これ」
ルシアンが監視術式を開く。
《管理構造修復開始まで――六十六時間》
「減ってる」
「ああ」
「昨日七十二だった?」
「そうだ」
「あと三日弱」
「それまでに、古い機構との接続を切る方法を見つける」
「見つからなかったら?」
「それも考える」
「一緒に?」
「もちろん」
「よし」
リリアはソファへ座る。
ルシアンは机へ向かおうとして。
「先輩」
「何?」
「こっち」
「調べ物を」
「五分」
「何をするの?」
「昨日の続き」
「調査?」
「違う」
「では何?」
リリアは自分の隣を軽く叩いた。
「恋人」
ルシアンが黙った。
「五分だけ」
「……何をしたい?」
「何もしなくてもいい」
「それなら」
「でもくっつきたい」
ルシアンの目が少し細くなる。
「朝から随分甘えるね」
「昨日死にかけたから」
冗談っぽく言ったつもりだった。
でもルシアンは笑わなかった。
「……それを言われると弱い」
「じゃあ来て」
「はい」
隣へ座る。
リリアはすぐ肩を寄せた。
ルシアンの腕へ自分の腕をくっつける。
「これだけ?」
「今は」
「今は?」
「五分あるから考える」
「嫌な予感がするな」
「手」
「はい」
差し出される。
繋ぐ。
「肩」
「もう触れている」
「うん」
「他は?」
聞かれて。
リリアは少し考える。
「頭撫でて」
ルシアンが止まった。
「……珍しい」
「嫌?」
「逆だよ」
手が髪へ触れる。
優しく。
頭の上から、髪を整えるように。
「こう?」
「うん」
「子ども扱いみたいじゃない?」
「先輩がやるならいい」
「そう」
もう一度。
ゆっくり撫でられる。
「……好きかも」
「何が?」
「これ」
「覚えておこう」
「疲れた時やって」
「ああ」
「怖い時も」
「ああ」
「普通の時も」
「結局いつでも?」
「うん」
ルシアンが笑う。
「分かった」
リリアは少し目を閉じる。
撫でられる。
手も繋いでいる。
あたたかい。
「先輩」
「何?」
「今幸せ?」
手が止まった。
「……急だね」
「聞きたくなった」
ルシアンは少し考える。
「幸せだよ」
「本当?」
「ああ」
「世界やばいのに?」
「それとこれは別だろう?」
昨日リリアが言ったことと同じだった。
「そっか」
「君は?」
「幸せ」
「世界がやばいのに?」
「それとこれは別」
「真似したね」
「先輩も昨日の私の真似した」
「ばれた?」
「うん」
また頭を撫でられる。
「幸せでいいのかな」
リリアが小さく言う。
「どうして?」
「こんな時に」
「いいよ」
即答だった。
「世界が危険だからといって、僕たちまで不幸でいる必要はない」
「……うん」
「怖い時は怖がる。嬉しい時は喜ぶ。好きなら好きと言う」
「キスしたい時は?」
「……そこへ持っていく?」
リリアが笑う。
「したい時は?」
ルシアンがこちらを見る。
「聞く」
「誰に?」
「君に」
「じゃあ聞いて」
「リリア」
「はい」
眼鏡越しに紫の目が見える。
「キスしてもいい?」
「いいよ」
リリアは目を閉じようとして。
「あ、待って」
「何?」
「今日は眼鏡あり?」
「昨日は途中で外したね」
「うん」
「どちらがいい?」
「先輩は?」
「僕?」
「どっちが好き?」
ルシアンが少し考える。
「なし」
「何で?」
「君の顔がよく見える」
胸に刺さる。
「……それ私が前言ったやつ」
「気持ちが分かったよ」
ルシアンが眼鏡を外す。
机へ置く。
戻ってくる。
今度は紫の瞳が直接見える。
「近い」
「君が呼んだんだよ」
「そうだけど」
「嫌?」
「もっと」
言ってから、自分でも驚いた。
「……近く?」
「うん」
ルシアンが少しだけ近づく。
膝が触れる。
「これくらい?」
「うん」
「リリア」
「何?」
「今、かなり可愛いことをしている自覚はある?」
「ない」
「そう」
「先輩は?」
「かなり困っている」
「嫌?」
「逆だと昨日から言っているだろう」
頬へ手が触れる。
親指が少し動く。
「いい?」
「うん」
キス。
短く触れる。
離れる。
リリアはルシアンを見る。
「……短い」
「また言った」
「だって」
「昨日より欲張りになっていない?」
「恋人だから」
「それで全部通すつもり?」
「駄目?」
ルシアンが困ったように笑う。
「駄目とは言えないな」
「じゃあ」
「もう一度?」
「うん」
「いいよ」
二度目。
今度は少し長い。
触れて。
一度離れかけて。
リリアが無意識にルシアンの袖を掴む。
ルシアンが止まった。
昨日と同じ。
「……嫌じゃない」
離れる前に言った。
紫の瞳が僅かに揺れる。
「続けていい?」
「うん」
もう一度、唇が重なった。
さっきよりゆっくり。
リリアの袖を掴む指に少し力が入る。
ルシアンの手は頬にある。
もう片方の手は、繋いだまま。
どこにも強く触れない。
ただ。
昨日より近い。
唇が離れる。
二人ともすぐには何も言わなかった。
「……」
「……」
リリアが先に笑った。
「何?」
「先輩、顔赤い」
「君もだよ」
「見ないで」
「僕には見せて」
思わずルシアンを見る。
「……今のずるい」
「何が?」
「僕には見せてって」
「嫌なら見ないよ」
「嫌じゃない」
「なら見る」
「恥ずかしい」
「僕も恥ずかしいよ」
「全然見えない」
「では」
ルシアンがリリアの手を取る。
自分の胸元へ持っていった。
「え」
「分かる?」
掌の下。
心臓。
速い。
「……速い」
「ああ」
「私のせい?」
「他に誰がいるの?」
胸がきゅっとなる。
「嬉しい」
「そう?」
「うん」
「ならよかった」
リリアは少しだけそのままにした。
ルシアンの心臓。
確かに速い。
自分だけじゃない。
「先輩」
「何?」
「もう一回したい」
ルシアンが目を閉じた。
「……五分と言ったのは誰だったかな」
「まだ五分くらいじゃない?」
「とっくに過ぎている」
「何分?」
「十五分」
「嘘」
「本当」
「じゃああと一回だけ」
「リリア」
「お願い」
「……」
「駄目?」
ルシアンは数秒黙った。
「君、その言い方が僕に効くと分かってやっている?」
「ちょっと」
「やっぱり」
「でもしたいのは本当」
「僕もだよ」
「じゃあいいじゃん」
「理屈が強い」
「でしょ」
「では、本当に最後」
「今日の朝は?」
「朝は」
「うん」
「……最後」
「よし」
リリアが笑う。
ルシアンも笑った。
そして近づく。
でも。
今度は唇の直前で止まった。
「何?」
「リリアから来て」
「え」
「いつも僕からだから」
「……恥ずかしい」
「嫌なら僕からする」
「嫌じゃない」
「では待っている」
ずるい。
目の前。
あと少し。
ルシアンは動かない。
リリアは一度視線を逸らす。
「見ないで」
「それは難しいな」
「目閉じて」
「はい」
ルシアンが目を閉じる。
眼鏡がない。
無防備な顔。
余計に緊張する。
リリアは少しだけ近づいた。
止まる。
もう少し。
唇へ触れる。
一瞬。
すぐ離れた。
ルシアンが目を開ける。
「……短い」
「え」
今度はルシアンが言った。
「それ私の!」
「言ってみたかった」
「じゃあもう一回?」
「最後だったはずだけど」
「先輩が短いって言った」
「……確かに」
「仕方ないなあ」
「随分嬉しそうだね」
「仕方なくです」
「そういうことにしておこう」
今度はリリアから。
さっきより少しだけ長く。
触れる。
離れようとすると。
ルシアンの手が頬へ触れた。
止められたわけではない。
ただ。
離れたあとも近くにいた。
「……上手になった?」
リリアが聞く。
「何の感想を求めているの?」
「キス」
「採点するものではないよ」
「じゃあ好き?」
「かなり」
「よかった」
「君は?」
「好き」
「僕が?」
「キスも」
「……順番が逆じゃなくて安心した」
「先輩も好き」
「ありがとう」
「もっと好きになった?」
「増えたよ」
「やった」
ルシアンが笑う。
「君、本当に嬉しそうだね」
「だって目標だから」
「何が?」
「先輩をもっと好きにさせる」
昨日の朝。
自分で言った。
ルシアンは一瞬驚いたあと。
ひどく柔らかく笑った。
「もうかなり好きなんだけどな」
「まだいける」
「どこまで?」
「知らない」
「では僕も頑張らないと」
「何を?」
「君にもっと好きになってもらう」
「私もかなり好きだよ」
「まだいけるんだろう?」
言い返された。
「……いける」
「よし」
ルシアンが眼鏡をかけ直す。
「では恋愛勝負は一旦休憩して、世界を救おう」
「急に規模でかい」
「僕たちの恋愛を邪魔されないためにもね」
「それは大事」
「だろう?」
二人で机へ向かった。
手は離した。
でもさっきまでの温度が残っている。
管理構造。
黒い月。
拒否権。
七十二時間。
調べ始めて十分ほど経った時。
リリアが一冊の古い記録を止めた。
「先輩」
「何?」
「これ」
「読める?」
「文字は読めない。でも絵」
ページ中央。
二つの魂を示す円。
一つは管理者。
一つは中心個体。
その間に一本の線。
「今の私たち?」
「古い管理構造だね」
「こっち」
次の図。
同じ二つの魂。
でも。
線がない。
代わりに、それぞれから別々の方向へ術式が伸びている。
「……これは」
ルシアンが古代文字を読む。
「管理関係解除後の独立構造」
「解除できるの?」
「記録上は」
「どうやって?」
ルシアンが続きを読む。
表情が変わった。
「何?」
「条件がある」
「何?」
「管理者と対象個体、双方による権限放棄」
「できるじゃん」
「ただし」
次の行。
「完全同期前に限る」
「完全同期って百パーセント?」
「ああ」
「今四十八・七」
「まだ間に合う」
「じゃあやろう」
「待って」
「何?」
「権限放棄には、管理者側だけではなく対象側にも何かが必要らしい」
「私?」
「ああ」
「何するの?」
「ここが欠けている」
ページの一部が破れていた。
「……最悪」
「別の記録を探そう」
「あるかな」
「探す」
「一緒に」
「ああ」
その時。
監視術式が動いた。
《管理構造修復開始まで――六十四時間》
さらに。
《同期率――四十八・七パーセント》
変化なし。
リリアは少し笑う。
「先輩」
「何?」
「さっきあんなにキスしたのに上がってない」
「……今それを確認する?」
「重要な実験結果」
「実験だったの?」
「半分」
「残りは?」
「したかった」
「知っているよ」
「先輩は?」
ルシアンが記録から顔を上げる。
「全部したかった」
「……全部?」
「ああ」
「実験じゃなかった?」
「最初から一度も」
リリアが固まる。
「それは」
「うん?」
「かなりキュンとした」
「そう」
「ずるい」
「恋人なので」
また使った。
「……それ便利すぎ」
「君が教えてくれたんだよ」
ルシアンは笑って、再び本へ視線を落とした。
リリアも隣の記録を開く。
数分後。
机の下で。
何かが小指へ触れた。
見る。
ルシアンの小指。
最初の日と同じ。
リリアも絡める。
「調査中でしょ」
「小指だけならいいかと思って」
「集中できない」
「嫌?」
「逆」
「なら同じだ」
顔は互いに本へ向けたまま。
小指だけ。
繋がっている。
世界が二人を管理者と対象として繋ごうとしている。
そんな線はいらない。
命令も。
管理も。
強制された同期も。
いらない。
ただ、触れたい時に触れる。
離れたい時には離れられる。
好きだから近づく。
嫌なら拒める。
その当たり前を守りたい。
リリアはページをめくりながら、小指へ少しだけ力を入れた。
ルシアンも同じだけ返した。
その瞬間。
机の上の古い記録。
誰も触れていない一冊が。
ひとりでに開いた。
「……先輩」
「ああ」
ページが高速でめくられる。
ある場所で止まった。
そこには。
最初のリリアの名。
そして。
ルシアン・ノクス。
二人の名が並んでいた。
その下。
古い文字で記された一文。
ルシアンが読む。
「『管理関係解除の失敗記録』」
リリアの小指が止まった。
「……失敗?」
「ああ」
「誰の?」
ルシアンは答えなかった。
答える必要もなかった。
その下に。
彼自身の筆跡が残っていた。
『彼女を自由にするため、管理権限の放棄を試みる』
『失敗』
『理由――対象個体が拒否』
「……最初のリリアが?」
ルシアンの顔から、表情が消えた。
さらに下。
『彼女は言った』
古い記憶。
何千年も忘れていた言葉。
『あなたとの繋がりがなくなるくらいなら、自由なんていらない』
リリアは黙った。
ルシアンも動かなかった。
そして。
最後の一行。
『私は、その言葉を嬉しいと思ってしまった』
ルシアンの小指が。
リリアから、ゆっくり離れた。
リリアはまだ半分眠ったまま、指を少し動かした。何かを握っている。正確には、握られている。
「……ん」
目を開ける。
ベッドの横。
椅子に座ったまま眠っているルシアンがいた。
「……え」
一気に目が覚めた。
昨夜のことを思い出す。魔力の暴走。管理権限。抱きしめてもらったこと。何度かキスしたこと。そのあと、眠るまでここにいると言われて。
「本当にいた……」
帰ったと思っていた。
リリアは繋がれた手を見る。
眠っている間も、ずっと握っていたのだろうか。
少しだけ指へ力を入れてみる。
ルシアンは起きない。
「先輩」
小さく呼ぶ。
反応なし。
「ルシアン先輩」
まだ起きない。
珍しい。
いつもなら気配だけで起きそうなのに。
よほど疲れていたのだろう。
リリアは横になったまま、彼の顔を見る。
眼鏡は外して、ベッド脇の机に置かれている。
眠っている顔。
初めて見た。
「……綺麗」
起きている時より幼く見える。
眉間にも皺がない。
リリアは少し身体を起こした。
もう少し近くから見る。
「まつ毛長い」
「……」
「肌綺麗」
「……」
「顔いいな」
「……聞こえているよ」
「え」
紫の目が開いた。
リリアが固まる。
「いつから?」
「綺麗、あたりから」
「最初じゃん!」
「途中で起きた」
「言ってよ!」
「随分楽しそうだったから」
「最悪」
布団を引き上げる。
顔を隠した。
「おはよう、リリア」
「おはようございます……」
「顔を見せて」
「嫌」
「どうして?」
「恥ずかしい」
「僕は嬉しかったけど」
「何が?」
「顔がいいと言われたこと」
「聞かなかったことにして」
「無理だね」
「忘れて」
「それも無理」
「管理権限で記憶消せない?」
「そんな使い方を提案しないでくれるかな」
布団の向こうからルシアンが笑う声がする。
リリアは少しだけ顔を出した。
「……いつまでいるの?」
「随分な言い方だね」
「違う。朝になったから」
「ああ」
ルシアンが窓を見る。
「僕も少し驚いている」
「寝ちゃった?」
「そのようだ」
「椅子で?」
「そうらしい」
「身体痛くない?」
「少し」
「ベッドで寝ればよかったのに」
言ってから。
二人とも止まった。
「……」
「……」
リリアが先に意味へ気づく。
「違う!」
「何も言っていないよ」
「今変な意味になった」
「僕は何も」
「顔!」
「どんな顔?」
「笑ってる」
「君が可愛いことを言うから」
「一緒に寝ようって意味じゃない!」
「分かっている」
「先輩が椅子で寝て身体痛いなら、私が起きたあとベッド使えばよかったって」
「分かっているよ」
「本当に?」
「ああ」
「……じゃあいい」
また布団へ少し潜る。
ルシアンはまだ笑っている。
「もう」
「ごめん」
「絶対面白がってる」
「少しだけ」
「嫌い」
「それは困るな」
「嘘」
「よかった」
あまりにも早い。
「何で分かるの」
「手」
「手?」
「嫌いと言いながら、離していない」
リリアは自分の右手を見る。
まだ繋いでいる。
「あ」
「僕も離していないけどね」
「……じゃあ同罪」
「そうしよう」
指が少し動く。
絡み直される。
朝から胸がくすぐったい。
「同期率は?」
リリアが聞く。
「起きてすぐ確認する?」
「大事でしょ」
「四十八・七」
「上がってない?」
「ああ」
「一晩手繋いでたのに?」
「上がっていない」
「じゃあ手は安全」
「現時点ではね」
「やった」
「そんなに嬉しい?」
「嬉しいよ」
リリアは繋いだ手を少し持ち上げる。
「好きだから触りたい」
ルシアンが黙った。
「……何?」
「朝から強いね」
「普通のこと言っただけ」
「僕にはかなり効く」
「じゃあ先輩は?」
「何が?」
「好きだから触りたい?」
今度はルシアンが困る番だった。
「……触りたいよ」
「どこ?」
「リリア」
「何?」
「朝から僕を困らせるのはやめようか」
「手とか、頭とか、頬とか聞いただけ」
「本当に?」
「半分くらい」
「残り半分は?」
「何て答えるかなって」
「答えない」
「ケチ」
「昨日も聞いた気がするな、それ」
ルシアンが立ち上がる。
繋いでいた手が離れた。
「あ」
思わず声が出る。
ルシアンが止まった。
「……何?」
「離れた」
「立つためにね」
「分かってる」
「もう一度?」
手を差し出される。
リリアは笑って取った。
「うん」
「これでは何もできないな」
「じゃあ何で出したの?」
「君が寂しそうな顔をしたから」
「してない」
「していたよ」
「してない」
「では僕が繋ぎたかったことにしておこう」
「それなら許す」
「許された」
ルシアンが笑う。
「朝食を取ろう。昨夜何も食べていないだろう?」
「先輩もでしょ?」
「僕は」
「コーヒーは朝食じゃないよ」
「まだ何も言っていない」
「どうせコーヒーって言う」
「……よく分かってきたね」
「恋人なので」
「便利だな、その言葉」
「先輩も使っていいよ」
「では恋人なので、君に朝食を食べさせたい」
「いいよ」
「素直だ」
「お腹すいた」
「そちらか」
「先輩とも食べたい」
「……それなら満点」
「採点された」
支度をして、二人で部屋を出た。
寮の廊下はまだ人が少ない。
外へ出る。
朝の空気が冷たい。
昨日の夜、ここで死ぬかもしれないと思ったのが嘘みたいだった。
「リリア」
「何?」
「寒い?」
「ちょっと」
ルシアンが上着を脱ごうとする。
「いらない」
「でも」
「先輩が寒くなる」
「僕は平気だよ」
「私も歩けば平気」
「そう?」
「うん」
少し歩く。
リリアはルシアンの左側へ寄った。
肩が触れる。
「……これは?」
「寒いから」
「上着はいらないのに?」
「人間の方があったかい」
「なるほど」
「嫌?」
「まさか」
ルシアンの肩が少しだけこちらへ寄る。
それだけ。
手は繋がない。
でも十分近い。
「先輩」
「何?」
「昨日、怖かった?」
「ああ」
「どの時が一番?」
「君が痛いと言った時」
「そっか」
「君は?」
「魔力が戻ってきた時」
「うん」
「あと、先輩が管理権限使うか聞いてきた時」
「……怖かった?」
「ちょっと」
「ごめん」
「でも聞いてくれて嬉しかった」
ルシアンがこちらを見る。
「変かな?」
「いや」
「使ってほしくはなかった。でも、死にたくなかったから」
「うん」
「自分で決められたのがよかった」
「……そう」
「だから昨日のは嫌な思い出じゃないよ」
「リリア」
「何?」
「君は時々、僕が欲しい言葉を簡単にくれるね」
「欲しかった?」
「かなり」
「じゃあもう一個あげる」
「何?」
「昨日来てくれて嬉しかった」
ルシアンが止まった。
リリアも数歩先で止まる。
「先輩?」
「……朝から多いな」
「何が?」
「僕が君を好きになる理由」
心臓が跳ねた。
「それはずるい」
「何が?」
「今の」
「本当のことだけど」
「もう好きでしょ」
「ああ」
ルシアンが歩き出す。
リリアの隣へ戻る。
「それでも増えるらしい」
「好きが?」
「多分」
「どこまで?」
「知らない」
「私も増えるかな」
「増えてほしいな」
「じゃあ頑張って」
「何を?」
「もっと好きにさせる」
ルシアンが笑った。
「それは責任重大だ」
「私も頑張る」
「君はもう十分だよ」
「何が?」
「僕を好きにさせること」
「……それ」
「うん?」
「もう一回」
「嫌だ」
「何で!」
「今の反応が可愛かったから、一回で十分」
「ずるい」
「恋人なので」
「あ、使った」
「便利だね」
「でしょ?」
食堂はまだ空いていた。
朝食を二つ受け取る。
リリアはパンとスープと卵。
ルシアンはコーヒーと。
「少な」
「パンもある」
「一個」
「十分だよ」
「昨日何も食べてないのに?」
「食欲が」
「駄目」
「リリア」
「私の卵半分あげる」
「君が食べなさい」
「じゃあパンもう一個取ってきて」
「……」
「恋人なので心配です」
ルシアンが目を細める。
「その使い方は卑怯じゃないかな」
「食べて」
「はい」
「よし」
結局、パンをもう一つ取ってきた。
向かいに座る。
「昨日さ」
リリアがパンをちぎりながら言う。
「うん」
「キスしたじゃん」
ルシアンがコーヒーを置いた。
「食事中にその話をする?」
「駄目?」
「駄目ではないけれど」
「三回?」
「数える話は昨日終わったと思っていたよ」
「でも気になった」
「何が?」
「最後のやつ」
ルシアンの視線が少し泳ぐ。
「……最後?」
「先輩が途中で離れたやつ」
「ああ」
「あれ何で?」
「君が服を掴んだから」
「嫌だと思った?」
「逆」
「逆?」
ルシアンが少し黙る。
「嫌ではないと分かっていたら、もう少し続けたかった」
リリアの手が止まる。
「……え」
「だから離れた」
「何で?」
「君がどういう意味で掴んだのか分からなかったから」
「私は」
思い出す。
近くて。
離れてほしくなくて。
「……もうちょっとしてほしかった」
今度はルシアンが止まった。
「先輩?」
「リリア」
「はい」
「今それを聞くのは、かなり困る」
「何で?」
「昨日に戻りたくなる」
「戻れば?」
「戻れないよ」
「今日またすればいいじゃん」
「……」
ルシアンが眼鏡の位置を直した。
「照れてる?」
「朝食を食べよう」
「逃げた」
「食べなさい」
「命令?」
「お願いです」
「よろしい」
「君は本当に楽しそうだね」
「楽しい」
素直に答える。
「恋人になってから先輩、結構面白い」
「面白い?」
「前は何でも余裕だった」
「そう見せていただけだよ」
「今は?」
「君のせいで余裕がないことが多い」
「嬉しい」
「喜ぶところかな」
「だって私だけじゃないって分かる」
「何が?」
「ドキドキしてるの」
ルシアンが少し黙る。
「……しているよ」
「今も?」
「ああ」
「何で?」
「昨日のキスの話を朝食中にしてくる恋人が目の前にいるから」
「それだけ?」
「可愛いから」
リリアが黙る。
今度は自分がパンを見る。
「……食べよ」
「逃げた?」
「食事中だから」
「なるほど」
笑われた。
悔しい。
でも嬉しい。
朝食を終え、生徒会室へ向かった。
授業まではまだ少し時間がある。
昨夜表示された内容を確認するためだ。
「これ」
ルシアンが監視術式を開く。
《管理構造修復開始まで――六十六時間》
「減ってる」
「ああ」
「昨日七十二だった?」
「そうだ」
「あと三日弱」
「それまでに、古い機構との接続を切る方法を見つける」
「見つからなかったら?」
「それも考える」
「一緒に?」
「もちろん」
「よし」
リリアはソファへ座る。
ルシアンは机へ向かおうとして。
「先輩」
「何?」
「こっち」
「調べ物を」
「五分」
「何をするの?」
「昨日の続き」
「調査?」
「違う」
「では何?」
リリアは自分の隣を軽く叩いた。
「恋人」
ルシアンが黙った。
「五分だけ」
「……何をしたい?」
「何もしなくてもいい」
「それなら」
「でもくっつきたい」
ルシアンの目が少し細くなる。
「朝から随分甘えるね」
「昨日死にかけたから」
冗談っぽく言ったつもりだった。
でもルシアンは笑わなかった。
「……それを言われると弱い」
「じゃあ来て」
「はい」
隣へ座る。
リリアはすぐ肩を寄せた。
ルシアンの腕へ自分の腕をくっつける。
「これだけ?」
「今は」
「今は?」
「五分あるから考える」
「嫌な予感がするな」
「手」
「はい」
差し出される。
繋ぐ。
「肩」
「もう触れている」
「うん」
「他は?」
聞かれて。
リリアは少し考える。
「頭撫でて」
ルシアンが止まった。
「……珍しい」
「嫌?」
「逆だよ」
手が髪へ触れる。
優しく。
頭の上から、髪を整えるように。
「こう?」
「うん」
「子ども扱いみたいじゃない?」
「先輩がやるならいい」
「そう」
もう一度。
ゆっくり撫でられる。
「……好きかも」
「何が?」
「これ」
「覚えておこう」
「疲れた時やって」
「ああ」
「怖い時も」
「ああ」
「普通の時も」
「結局いつでも?」
「うん」
ルシアンが笑う。
「分かった」
リリアは少し目を閉じる。
撫でられる。
手も繋いでいる。
あたたかい。
「先輩」
「何?」
「今幸せ?」
手が止まった。
「……急だね」
「聞きたくなった」
ルシアンは少し考える。
「幸せだよ」
「本当?」
「ああ」
「世界やばいのに?」
「それとこれは別だろう?」
昨日リリアが言ったことと同じだった。
「そっか」
「君は?」
「幸せ」
「世界がやばいのに?」
「それとこれは別」
「真似したね」
「先輩も昨日の私の真似した」
「ばれた?」
「うん」
また頭を撫でられる。
「幸せでいいのかな」
リリアが小さく言う。
「どうして?」
「こんな時に」
「いいよ」
即答だった。
「世界が危険だからといって、僕たちまで不幸でいる必要はない」
「……うん」
「怖い時は怖がる。嬉しい時は喜ぶ。好きなら好きと言う」
「キスしたい時は?」
「……そこへ持っていく?」
リリアが笑う。
「したい時は?」
ルシアンがこちらを見る。
「聞く」
「誰に?」
「君に」
「じゃあ聞いて」
「リリア」
「はい」
眼鏡越しに紫の目が見える。
「キスしてもいい?」
「いいよ」
リリアは目を閉じようとして。
「あ、待って」
「何?」
「今日は眼鏡あり?」
「昨日は途中で外したね」
「うん」
「どちらがいい?」
「先輩は?」
「僕?」
「どっちが好き?」
ルシアンが少し考える。
「なし」
「何で?」
「君の顔がよく見える」
胸に刺さる。
「……それ私が前言ったやつ」
「気持ちが分かったよ」
ルシアンが眼鏡を外す。
机へ置く。
戻ってくる。
今度は紫の瞳が直接見える。
「近い」
「君が呼んだんだよ」
「そうだけど」
「嫌?」
「もっと」
言ってから、自分でも驚いた。
「……近く?」
「うん」
ルシアンが少しだけ近づく。
膝が触れる。
「これくらい?」
「うん」
「リリア」
「何?」
「今、かなり可愛いことをしている自覚はある?」
「ない」
「そう」
「先輩は?」
「かなり困っている」
「嫌?」
「逆だと昨日から言っているだろう」
頬へ手が触れる。
親指が少し動く。
「いい?」
「うん」
キス。
短く触れる。
離れる。
リリアはルシアンを見る。
「……短い」
「また言った」
「だって」
「昨日より欲張りになっていない?」
「恋人だから」
「それで全部通すつもり?」
「駄目?」
ルシアンが困ったように笑う。
「駄目とは言えないな」
「じゃあ」
「もう一度?」
「うん」
「いいよ」
二度目。
今度は少し長い。
触れて。
一度離れかけて。
リリアが無意識にルシアンの袖を掴む。
ルシアンが止まった。
昨日と同じ。
「……嫌じゃない」
離れる前に言った。
紫の瞳が僅かに揺れる。
「続けていい?」
「うん」
もう一度、唇が重なった。
さっきよりゆっくり。
リリアの袖を掴む指に少し力が入る。
ルシアンの手は頬にある。
もう片方の手は、繋いだまま。
どこにも強く触れない。
ただ。
昨日より近い。
唇が離れる。
二人ともすぐには何も言わなかった。
「……」
「……」
リリアが先に笑った。
「何?」
「先輩、顔赤い」
「君もだよ」
「見ないで」
「僕には見せて」
思わずルシアンを見る。
「……今のずるい」
「何が?」
「僕には見せてって」
「嫌なら見ないよ」
「嫌じゃない」
「なら見る」
「恥ずかしい」
「僕も恥ずかしいよ」
「全然見えない」
「では」
ルシアンがリリアの手を取る。
自分の胸元へ持っていった。
「え」
「分かる?」
掌の下。
心臓。
速い。
「……速い」
「ああ」
「私のせい?」
「他に誰がいるの?」
胸がきゅっとなる。
「嬉しい」
「そう?」
「うん」
「ならよかった」
リリアは少しだけそのままにした。
ルシアンの心臓。
確かに速い。
自分だけじゃない。
「先輩」
「何?」
「もう一回したい」
ルシアンが目を閉じた。
「……五分と言ったのは誰だったかな」
「まだ五分くらいじゃない?」
「とっくに過ぎている」
「何分?」
「十五分」
「嘘」
「本当」
「じゃああと一回だけ」
「リリア」
「お願い」
「……」
「駄目?」
ルシアンは数秒黙った。
「君、その言い方が僕に効くと分かってやっている?」
「ちょっと」
「やっぱり」
「でもしたいのは本当」
「僕もだよ」
「じゃあいいじゃん」
「理屈が強い」
「でしょ」
「では、本当に最後」
「今日の朝は?」
「朝は」
「うん」
「……最後」
「よし」
リリアが笑う。
ルシアンも笑った。
そして近づく。
でも。
今度は唇の直前で止まった。
「何?」
「リリアから来て」
「え」
「いつも僕からだから」
「……恥ずかしい」
「嫌なら僕からする」
「嫌じゃない」
「では待っている」
ずるい。
目の前。
あと少し。
ルシアンは動かない。
リリアは一度視線を逸らす。
「見ないで」
「それは難しいな」
「目閉じて」
「はい」
ルシアンが目を閉じる。
眼鏡がない。
無防備な顔。
余計に緊張する。
リリアは少しだけ近づいた。
止まる。
もう少し。
唇へ触れる。
一瞬。
すぐ離れた。
ルシアンが目を開ける。
「……短い」
「え」
今度はルシアンが言った。
「それ私の!」
「言ってみたかった」
「じゃあもう一回?」
「最後だったはずだけど」
「先輩が短いって言った」
「……確かに」
「仕方ないなあ」
「随分嬉しそうだね」
「仕方なくです」
「そういうことにしておこう」
今度はリリアから。
さっきより少しだけ長く。
触れる。
離れようとすると。
ルシアンの手が頬へ触れた。
止められたわけではない。
ただ。
離れたあとも近くにいた。
「……上手になった?」
リリアが聞く。
「何の感想を求めているの?」
「キス」
「採点するものではないよ」
「じゃあ好き?」
「かなり」
「よかった」
「君は?」
「好き」
「僕が?」
「キスも」
「……順番が逆じゃなくて安心した」
「先輩も好き」
「ありがとう」
「もっと好きになった?」
「増えたよ」
「やった」
ルシアンが笑う。
「君、本当に嬉しそうだね」
「だって目標だから」
「何が?」
「先輩をもっと好きにさせる」
昨日の朝。
自分で言った。
ルシアンは一瞬驚いたあと。
ひどく柔らかく笑った。
「もうかなり好きなんだけどな」
「まだいける」
「どこまで?」
「知らない」
「では僕も頑張らないと」
「何を?」
「君にもっと好きになってもらう」
「私もかなり好きだよ」
「まだいけるんだろう?」
言い返された。
「……いける」
「よし」
ルシアンが眼鏡をかけ直す。
「では恋愛勝負は一旦休憩して、世界を救おう」
「急に規模でかい」
「僕たちの恋愛を邪魔されないためにもね」
「それは大事」
「だろう?」
二人で机へ向かった。
手は離した。
でもさっきまでの温度が残っている。
管理構造。
黒い月。
拒否権。
七十二時間。
調べ始めて十分ほど経った時。
リリアが一冊の古い記録を止めた。
「先輩」
「何?」
「これ」
「読める?」
「文字は読めない。でも絵」
ページ中央。
二つの魂を示す円。
一つは管理者。
一つは中心個体。
その間に一本の線。
「今の私たち?」
「古い管理構造だね」
「こっち」
次の図。
同じ二つの魂。
でも。
線がない。
代わりに、それぞれから別々の方向へ術式が伸びている。
「……これは」
ルシアンが古代文字を読む。
「管理関係解除後の独立構造」
「解除できるの?」
「記録上は」
「どうやって?」
ルシアンが続きを読む。
表情が変わった。
「何?」
「条件がある」
「何?」
「管理者と対象個体、双方による権限放棄」
「できるじゃん」
「ただし」
次の行。
「完全同期前に限る」
「完全同期って百パーセント?」
「ああ」
「今四十八・七」
「まだ間に合う」
「じゃあやろう」
「待って」
「何?」
「権限放棄には、管理者側だけではなく対象側にも何かが必要らしい」
「私?」
「ああ」
「何するの?」
「ここが欠けている」
ページの一部が破れていた。
「……最悪」
「別の記録を探そう」
「あるかな」
「探す」
「一緒に」
「ああ」
その時。
監視術式が動いた。
《管理構造修復開始まで――六十四時間》
さらに。
《同期率――四十八・七パーセント》
変化なし。
リリアは少し笑う。
「先輩」
「何?」
「さっきあんなにキスしたのに上がってない」
「……今それを確認する?」
「重要な実験結果」
「実験だったの?」
「半分」
「残りは?」
「したかった」
「知っているよ」
「先輩は?」
ルシアンが記録から顔を上げる。
「全部したかった」
「……全部?」
「ああ」
「実験じゃなかった?」
「最初から一度も」
リリアが固まる。
「それは」
「うん?」
「かなりキュンとした」
「そう」
「ずるい」
「恋人なので」
また使った。
「……それ便利すぎ」
「君が教えてくれたんだよ」
ルシアンは笑って、再び本へ視線を落とした。
リリアも隣の記録を開く。
数分後。
机の下で。
何かが小指へ触れた。
見る。
ルシアンの小指。
最初の日と同じ。
リリアも絡める。
「調査中でしょ」
「小指だけならいいかと思って」
「集中できない」
「嫌?」
「逆」
「なら同じだ」
顔は互いに本へ向けたまま。
小指だけ。
繋がっている。
世界が二人を管理者と対象として繋ごうとしている。
そんな線はいらない。
命令も。
管理も。
強制された同期も。
いらない。
ただ、触れたい時に触れる。
離れたい時には離れられる。
好きだから近づく。
嫌なら拒める。
その当たり前を守りたい。
リリアはページをめくりながら、小指へ少しだけ力を入れた。
ルシアンも同じだけ返した。
その瞬間。
机の上の古い記録。
誰も触れていない一冊が。
ひとりでに開いた。
「……先輩」
「ああ」
ページが高速でめくられる。
ある場所で止まった。
そこには。
最初のリリアの名。
そして。
ルシアン・ノクス。
二人の名が並んでいた。
その下。
古い文字で記された一文。
ルシアンが読む。
「『管理関係解除の失敗記録』」
リリアの小指が止まった。
「……失敗?」
「ああ」
「誰の?」
ルシアンは答えなかった。
答える必要もなかった。
その下に。
彼自身の筆跡が残っていた。
『彼女を自由にするため、管理権限の放棄を試みる』
『失敗』
『理由――対象個体が拒否』
「……最初のリリアが?」
ルシアンの顔から、表情が消えた。
さらに下。
『彼女は言った』
古い記憶。
何千年も忘れていた言葉。
『あなたとの繋がりがなくなるくらいなら、自由なんていらない』
リリアは黙った。
ルシアンも動かなかった。
そして。
最後の一行。
『私は、その言葉を嬉しいと思ってしまった』
ルシアンの小指が。
リリアから、ゆっくり離れた。

