魔法より、君に恋をする。

翌朝。

 リリアは目を覚まして、しばらく天井を見ていた。

 昨日のことを思い出す。

 最初のリリア。

 ルシアンの魂。

 運命なんてないこと。

 そして。

 キス。

「……あ」

 そこまで思い出したところで、布団を頭まで被った。

 昨日は平気だった。

 自分から「短い」とまで言った。

 なのに一晩経ったら急に恥ずかしい。

「何で今……」

 唇へ触れる。

 当然、何も残っていない。

 それでも思い出せる。

 眼鏡を外した顔。

 頬に触れた手。

『キスしてもいい?』

「……無理」

 今日会ったら絶対思い出す。

 でも。

 会いたくないかと言われれば。

「会いたい……」

 結局そこだった。

 放課後。

 授業が終わると、リリアはいつものように生徒会室へ向かった。

 扉の前まで来る。

 昨日までなら、そのままノックしていた。

 今日は一度止まった。

 深呼吸する。

「……普通にしよう」

 恋人になっただけだ。

 昨日キスしただけだ。

 何も変ではない。

 ノックする。

「どうぞ」

 声を聞く。

 もう少し緊張する。

 扉を開けた。

「こんにちは」

「こんにちは、リリア」

 ルシアンが顔を上げる。

 眼鏡。

 いつもの顔。

 いつもの笑み。

「……普通だ」

「何が?」

「何でもない」

「入らないの?」

「入ります」

 扉を閉める。

 ルシアンはリリアを見ていた。

「何ですか」

「いや」

「絶対何かある」

「君が今日はどこまで近づいてくるのかなと思って」

 足が止まった。

「……何それ」

「昨日までは、随分積極的だったからね」

「今日は普通です」

「そう」

「普通に恋人です」

「それは普通なのかな」

「分かんない」

 ルシアンが笑った。

「おいで」

「……どこに?」

「ここへ」

 ソファを指す。

「言い方」

「何かおかしかった?」

「犬みたい」

「では訂正しよう。隣に座ってくれる?」

「はい」

 いつものソファへ座る。

 ルシアンも隣へ来た。

 昨日と同じ。

 なのにリリアは妙に姿勢がいい。

「リリア」

「はい」

「緊張している?」

「してない」

「背筋が随分伸びているけど」

「姿勢がいいだけ」

「普段はもう少し丸いよ」

「見すぎ」

「好きな人だからね」

 さらりと言われた。

 リリアは横を見る。

「……今日も好き?」

「ああ」

「よかった」

「毎日確認するつもり?」

「しばらく」

「構わないよ」

 ルシアンが少しだけ笑う。

「僕も毎日答えたい」

 まただ。

 こういうことを平気で言う。

「先輩、昨日から強くなった」

「何が?」

「キュンとさせる力」

「そんな魔法は持っていないよ」

「魔法じゃない」

「なら君にしか効かないのかもしれないね」

「……今のも」

「何が?」

「もういい」

 リリアは顔を逸らした。

 ルシアンが楽しそうに笑う。

「昨日はあんなに僕を困らせていたのに」

「昨日の私は強かった」

「今日は?」

「弱い」

「どうして?」

 分かっているくせに。

 リリアは少し迷ってから答えた。

「……昨日のこと思い出すから」

「色々あったね」

「最後の方」

「最後?」

「分かってるでしょ」

「分からないな」

「絶対嘘」

「言ってくれたら分かるかもしれない」

 意地悪だ。

「キス」

 小さく言う。

 ルシアンの笑みが少し変わった。

「思い出していた?」

「朝から」

「それは」

 ほんの一瞬、言葉に詰まる。

「……嬉しいな」

「先輩は?」

「もちろん思い出したよ」

「いつ?」

「朝」

「同じじゃん」

「そうだね」

「恥ずかしくなった?」

「少し」

「嘘」

「本当だよ」

「全然見えない」

 リリアはルシアンの顔をじっと見る。

 いつも通り。

 余裕がある。

「ずるい」

「何が?」

「私だけ顔に出る」

「僕だって出ていると思うけど」

「どこ?」

「そんなに見られると余計に隠したくなるな」

「見せて」

「嫌だ」

「恋人なのに?」

「便利な言葉として使い始めたね」

 ルシアンが笑う。

 リリアはもっと近くから確認しようと身体を寄せた。

「どこ?」

「リリア」

「耳?」

「近いよ」

「昨日もっと近かった」

「それを今言う?」

 ルシアンが僅かに身体を引く。

 追いかける。

「耳赤くない」

「赤くなるまで見るつもり?」

「うん」

「困った恋人だ」

 その言い方に、胸が跳ねる。

「……もう一回」

「何を?」

「恋人って」

 ルシアンが少し驚いたあと、柔らかく笑った。

「僕の恋人」

「……それいい」

「そう?」

「うん」

「では覚えておこう」

「先輩は?」

「何が?」

「私に何て呼ばれたら嬉しい?」

 ルシアンが少し考える。

「今のままでいいよ」

「ルシアン先輩?」

「ああ」

「恋人なのに先輩?」

「君が自然にそう呼んでいるからね」

「ルシアンは?」

 口に出した瞬間。

 ルシアンが止まった。

 分かりやすく。

「……あ」

「何?」

「今の顔」

「どんな顔?」

「びっくりしてた」

「急だったからね」

「ルシアン」

 もう一度。

「リリア」

「何?」

「楽しんでいるだろう」

「ちょっと」

「困ったな」

「嫌?」

「逆だよ」

 またその言葉。

「でも今は先輩つける」

「なぜ?」

「そっちの方がしっくりくる」

「そう」

「卒業したら考える」

 ルシアンが一瞬黙った。

「……卒業したら?」

「うん」

「その頃も僕と付き合っている前提なんだね」

「嫌なの?」

「まさか」

 今度は本当に、少しだけ耳が赤くなった。

「見つけた」

「何を?」

「赤い」

「……君は本当に」

「卒業したあとも付き合いたい?」

 聞く。

 ルシアンは笑うのをやめた。

「付き合いたいよ」

 静かな声。

「君がそう望んでくれるなら」

「先輩も望んで」

「もちろん」

「じゃあいい」

「ずっと先まで?」

「分かんない」

 リリアは正直に答える。

「でも今は、卒業したあとも一緒にいたい」

「うん」

「先輩は?」

「僕は」

 ルシアンが少し考える。

「先のことを考えすぎる癖があるからね」

「そうだね」

「だから今日は、明日も君に会いたいとだけ言っておくよ」

 その答えが、なぜかすごく好きだった。

「私も」

「そう」

「明日も会いたい」

「よかった」

 自然に手が近づく。

 でも、触れる直前でルシアンが止めた。

「手、繋ぐ?」

 聞かれる。

「うん」

 リリアから手を重ねる。

 指を絡める。

 昨日より自然だった。

「……これ慣れてきた」

「残念だな」

「何で?」

「緊張している君も可愛かったから」

「今は?」

「今も可愛いよ」

「……そういうの」

「嫌?」

「もっと言って」

 ルシアンが吹き出した。

「君は時々本当に強いね」

「今日は弱いって言った」

「訂正する。十分強い」

 繋いだ手を見ながら、リリアは少し考える。

「ねえ」

「何?」

「恋人って何するの?」

「随分大きな質問だね」

「付き合ったけど、よく分かってない」

「何かしなければいけないわけではないよ」

「でもデートとかするでしょ?」

「するね」

「手繋ぐ」

「している」

「キス」

「……するね」

 少し間があった。

 リリアは横を見る。

「今意識した?」

「したよ」

「私も」

「そう」

 二人とも黙る。

 数秒。

 昨日のことを思い出す。

「……したい?」

 リリアが聞いた。

「正直に?」

「うん」

「したい」

 即答だった。

 胸が跳ねる。

「先輩から言うと結構恥ずかしい」

「君が聞いたんだろう」

「そうだけど」

「君は?」

「……したい」

 ルシアンがリリアを見る。

 視線が合う。

「では」

 少しだけ近づいてくる。

 でも途中で止まる。

「キスしてもいい?」

 昨日と同じ。

 リリアは頷こうとして。

「待って」

 止めた。

 ルシアンもすぐ止まる。

「どうした?」

「眼鏡」

「眼鏡?」

「昨日外してた」

「ああ」

「今日は?」

 ルシアンが少し笑う。

「外した方がいい?」

「分かんない」

「では試してみようか」

「試す?」

「眼鏡ありとなし」

「何を?」

「キスを」

 今度はリリアが固まった。

「……先輩」

「何?」

「今日、強い」

「恋人になったから少しくらいはね」

「ずるい」

「嫌ならやめるよ」

「やめない」

「即答」

 ルシアンが眼鏡をかけたまま、少し近づく。

「いい?」

「うん」

 目を閉じる。

 唇が短く触れた。

 昨日より緊張しなかった。

 でも嬉しい。

 離れる。

「……どう?」

「分かんない」

「何が?」

「眼鏡あんまり関係なかった」

「そうだろうね」

「じゃあ外してもう一回」

 ルシアンが黙った。

「……最初からそれが目的だった?」

「違う」

「本当に?」

「半分くらい」

「正直だね」

 ルシアンが眼鏡を外す。

 テーブルへ置く。

 紫の瞳が近くなる。

 やっぱり印象が違う。

「こっち好き」

「眼鏡がない方?」

「顔がよく見える」

「君は僕の顔が好きだね」

「好き」

「……そう」

「ルシアン先輩も私の顔好き?」

「かなり」

「どこ?」

「全部」

「雑」

「では具体的に?」

「うん」

 ルシアンがリリアの顔を見る。

 思ったより真剣に。

「目」

「うん」

「笑った時の口元」

「うん」

「考え事をしている時、少しだけ眉間に皺が寄るところ」

「そんなとこ?」

「それから」

 指先が頬の近くまで来る。

 触れる前に止まる。

「ここ、触っていい?」

「うん」

 指が頬へ触れた。

「頬」

「何で?」

「柔らかいから」

「それ顔が好きな理由?」

「触るのが好きな理由」

 急に恥ずかしくなる。

「……もういい」

「聞いたのは君だよ」

「キスする」

「話を終わらせる方法として使わないでくれるかな」

「したくなったの」

 ルシアンが黙る。

「……それなら仕方ない」

「仕方ないの?」

「僕もしたいからね」

 今度はリリアから少し近づいた。

 でも最後の距離はルシアンが埋める。

 二度目のキス。

 短く触れて、離れる。

 昨日より少しだけ自然。

 それで十分だった。

「……どっち?」

 ルシアンが聞く。

「何が?」

「眼鏡ありとなし」

 リリアは真面目に考える。

「なし」

「そう」

「近い時は」

「近い時?」

「キスする時とか」

 ルシアンが一瞬視線を逸らした。

「あ」

「何?」

「今照れた」

「君は本当に見逃さないね」

「だって嬉しい」

「僕が照れると?」

「うん」

「なぜ?」

「私のせいだから」

 ルシアンはしばらくリリアを見たあと、笑った。

「それは僕も同じだよ」

「何が?」

「君が僕のせいで照れていると、嬉しい」

「性格悪い」

「お互い様だね」

 眼鏡をかけ直す。

 いつものルシアンに戻る。

 でももう知っている。

 この人が余裕ばかりではないこと。

 自分の一言で耳が赤くなること。

 手を繋ぐだけで緊張すること。

 キスの前には、必ず聞いてくれること。

 それを知っているのが、少し嬉しい。

「そうだ」

 ルシアンが言った。

「次の休日、空いている?」

「空いてる」

「まだ日も言っていないよ」

「いつでも空ける」

「それは嬉しいけれど」

「どこ行くの?」

「君が行きたい場所」

「先輩の好きな場所は前行った」

「ああ」

「じゃあ今度は私?」

「そうしよう」

 リリアは考える。

「街の大きい本屋」

「また本?」

「先輩好きでしょ」

「君が行きたい場所でいいんだよ」

「じゃあ服見る」

「うん」

「お菓子食べる」

「うん」

「雑貨見る」

「うん」

「先輩つまんなくない?」

「君が楽しんでいるところを見るのは、割と好きだよ」

「……それデートっぽい」

「デートに誘ったつもりだけど」

「そうなの?」

「恋人だからね」

 またその言葉。

 何度聞いても少し嬉しい。

「行く」

「決まりだ」

「手繋ぐ?」

「君が嫌でなければ」

「キスは?」

 ルシアンがこちらを見る。

「外で?」

「分かんない。聞いただけ」

「君は時々、僕の心臓を試しているのかな」

「してない」

「では、その時二人でしたければ」

「する?」

「ああ」

「分かった」

「随分楽しそうだね」

「楽しみだから」

「僕もだよ」

 それからしばらく、何でもない話をした。

 授業のこと。

 食堂の新しいメニュー。

 リリアが今日また階段を一本間違えたこと。

 ルシアンが朝、眼鏡を探していたのに頭の上に乗せていたこと。

「それ見たかった!」

「絶対に見せない」

「次やったら呼んで」

「なぜ自分の失敗を恋人に報告しなければならないんだい」

「可愛いから」

「君の中で僕はどうなっているんだろうね」

「かっこいいし可愛い」

「欲張りだな」

「好きだから」

 自然に言えた。

 ルシアンは一瞬黙ってから、少し笑った。

「……やっぱり、それにはまだ慣れたくないな」

「何で?」

「今くらい嬉しいままでいたい」

 帰る時間になった。

 生徒会室を出る。

 廊下では手を繋がなかった。

 人がいるから隠す、というより。

 二人とも自然にそうした。

 でも階段を降りて、人の少ない渡り廊下へ入ったところで。

 リリアの手に何かが触れた。

 ルシアンの小指だった。

 最初の日と同じ。

 小指だけ。

 リリアは横を見る。

「何?」

「いや」

 ルシアンは前を向いている。

「手繋ぎたい?」

「少し」

「じゃあ繋げばいいのに」

「人が来るかもしれない」

「見られたら駄目?」

「僕は構わないよ」

「私も」

「では」

 小指だけだった触れ方が変わる。

 指が絡む。

 手を繋ぐ。

 そのまま歩いた。

「ねえ」

「何?」

「先輩って、付き合ってるの隠したい?」

「いや」

「じゃあ聞かれたら言う?」

「ああ」

「生徒会長なのに?」

「恋愛禁止ではないからね」

「人気あるでしょ」

「そうなの?」

「絶対ある」

「興味がなかった」

「女の子に告白されたことは?」

「あるよ」

「何回?」

「数えていない」

「……何か嫌」

 足が少し遅くなった。

 ルシアンが気づく。

「嫉妬?」

「多分」

「そう」

「嬉しそう」

「少しね」

「性格悪い」

「でも」

 ルシアンが歩く速度を合わせる。

「全部断ったよ」

「何で?」

「好きな人がいなかったから」

「……今は?」

「いる」

「誰?」

「本当に聞くの?」

「聞きたい」

 ルシアンが笑う。

「リリア・アスター」

 名前まで言われると思わなかった。

 顔が熱くなる。

「聞かなきゃよかった」

「君が聞いたんだよ」

「そうだけど」

「エリシアでもある、今の君だ」

「……うん」

「満足?」

「かなり」

 女子寮が見えてくる。

 もう少し歩きたいと思った。

 でも今日は、明日も会える。

「ルシアン先輩」

「何?」

「明日も生徒会室行っていい?」

「ああ」

「仕事あったら?」

「待っていて」

「いいの?」

「君がいる方が早く終わらせようと思える」

「邪魔しない?」

「少しくらいならしてもいいよ」

「じゃあいっぱい話しかける」

「前言撤回しようかな」

「遅い」

 寮の前で手を離す。

 今日はキスしない。

 それでも寂しくなかった。

「じゃあ明日」

「ああ」

「おやすみ」

「おやすみ、リリア」

 数歩進んで。

 リリアは振り返った。

「ルシアン先輩!」

「何?」

「今日も好きだった!」

 一瞬。

 ルシアンが完全に固まった。

 その顔が面白くて、リリアは笑う。

「また明日!」

「……リリア」

「何?」

 ルシアンは少し困ったように笑った。

「僕もだよ」

 それだけ聞いて、今度こそ寮へ入った。

 ルシアンは一人になってから、しばらくその場に立っていた。

「今日も、か」

 今日も好きだった。

 明日のことは明日決める。

 以前の自分なら、不安になったかもしれない。

 永遠を保証する言葉を求めたかもしれない。

 でも今は。

 今日選ばれたことが嬉しい。

 明日また会えることが楽しみだった。

 それで十分だと思える。

「……随分変わったな、僕も」

 小さく笑う。

 その時だった。

 視界の端で、淡い光が揺れた。

「……?」

 振り返る。

 誰もいない。

 けれど、学院の中央塔の上。

 ほんの一瞬だけ。

 黒い月のような輪郭が浮かんだ。

 そして消えた。

 ルシアンの表情から笑みが消える。

「今のは……」

 見間違いではない。

 知っている。

 何度も見た。

 十二の世界が終わる前に現れたもの。

 けれど。

「あり得ない」

 今の世界は、独立している。

 リリアはエリシアだ。

 再構築される理由はない。

 それでも。

 確かに見えた。

 黒い月。

 ルシアンはしばらく中央塔を見上げていた。

 そして、すぐにはリリアを追わなかった。

 明日話す。

 隠さない。

 自分だけで答えを出さない。

 昔と同じ間違いはしない。

 そう決めて。

 ルシアンは静かに学院へ戻った。