翌朝。
リリアは目を覚まして、しばらく天井を見ていた。
昨日のことを思い出す。
最初のリリア。
ルシアンの魂。
運命なんてないこと。
そして。
キス。
「……あ」
そこまで思い出したところで、布団を頭まで被った。
昨日は平気だった。
自分から「短い」とまで言った。
なのに一晩経ったら急に恥ずかしい。
「何で今……」
唇へ触れる。
当然、何も残っていない。
それでも思い出せる。
眼鏡を外した顔。
頬に触れた手。
『キスしてもいい?』
「……無理」
今日会ったら絶対思い出す。
でも。
会いたくないかと言われれば。
「会いたい……」
結局そこだった。
放課後。
授業が終わると、リリアはいつものように生徒会室へ向かった。
扉の前まで来る。
昨日までなら、そのままノックしていた。
今日は一度止まった。
深呼吸する。
「……普通にしよう」
恋人になっただけだ。
昨日キスしただけだ。
何も変ではない。
ノックする。
「どうぞ」
声を聞く。
もう少し緊張する。
扉を開けた。
「こんにちは」
「こんにちは、リリア」
ルシアンが顔を上げる。
眼鏡。
いつもの顔。
いつもの笑み。
「……普通だ」
「何が?」
「何でもない」
「入らないの?」
「入ります」
扉を閉める。
ルシアンはリリアを見ていた。
「何ですか」
「いや」
「絶対何かある」
「君が今日はどこまで近づいてくるのかなと思って」
足が止まった。
「……何それ」
「昨日までは、随分積極的だったからね」
「今日は普通です」
「そう」
「普通に恋人です」
「それは普通なのかな」
「分かんない」
ルシアンが笑った。
「おいで」
「……どこに?」
「ここへ」
ソファを指す。
「言い方」
「何かおかしかった?」
「犬みたい」
「では訂正しよう。隣に座ってくれる?」
「はい」
いつものソファへ座る。
ルシアンも隣へ来た。
昨日と同じ。
なのにリリアは妙に姿勢がいい。
「リリア」
「はい」
「緊張している?」
「してない」
「背筋が随分伸びているけど」
「姿勢がいいだけ」
「普段はもう少し丸いよ」
「見すぎ」
「好きな人だからね」
さらりと言われた。
リリアは横を見る。
「……今日も好き?」
「ああ」
「よかった」
「毎日確認するつもり?」
「しばらく」
「構わないよ」
ルシアンが少しだけ笑う。
「僕も毎日答えたい」
まただ。
こういうことを平気で言う。
「先輩、昨日から強くなった」
「何が?」
「キュンとさせる力」
「そんな魔法は持っていないよ」
「魔法じゃない」
「なら君にしか効かないのかもしれないね」
「……今のも」
「何が?」
「もういい」
リリアは顔を逸らした。
ルシアンが楽しそうに笑う。
「昨日はあんなに僕を困らせていたのに」
「昨日の私は強かった」
「今日は?」
「弱い」
「どうして?」
分かっているくせに。
リリアは少し迷ってから答えた。
「……昨日のこと思い出すから」
「色々あったね」
「最後の方」
「最後?」
「分かってるでしょ」
「分からないな」
「絶対嘘」
「言ってくれたら分かるかもしれない」
意地悪だ。
「キス」
小さく言う。
ルシアンの笑みが少し変わった。
「思い出していた?」
「朝から」
「それは」
ほんの一瞬、言葉に詰まる。
「……嬉しいな」
「先輩は?」
「もちろん思い出したよ」
「いつ?」
「朝」
「同じじゃん」
「そうだね」
「恥ずかしくなった?」
「少し」
「嘘」
「本当だよ」
「全然見えない」
リリアはルシアンの顔をじっと見る。
いつも通り。
余裕がある。
「ずるい」
「何が?」
「私だけ顔に出る」
「僕だって出ていると思うけど」
「どこ?」
「そんなに見られると余計に隠したくなるな」
「見せて」
「嫌だ」
「恋人なのに?」
「便利な言葉として使い始めたね」
ルシアンが笑う。
リリアはもっと近くから確認しようと身体を寄せた。
「どこ?」
「リリア」
「耳?」
「近いよ」
「昨日もっと近かった」
「それを今言う?」
ルシアンが僅かに身体を引く。
追いかける。
「耳赤くない」
「赤くなるまで見るつもり?」
「うん」
「困った恋人だ」
その言い方に、胸が跳ねる。
「……もう一回」
「何を?」
「恋人って」
ルシアンが少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「僕の恋人」
「……それいい」
「そう?」
「うん」
「では覚えておこう」
「先輩は?」
「何が?」
「私に何て呼ばれたら嬉しい?」
ルシアンが少し考える。
「今のままでいいよ」
「ルシアン先輩?」
「ああ」
「恋人なのに先輩?」
「君が自然にそう呼んでいるからね」
「ルシアンは?」
口に出した瞬間。
ルシアンが止まった。
分かりやすく。
「……あ」
「何?」
「今の顔」
「どんな顔?」
「びっくりしてた」
「急だったからね」
「ルシアン」
もう一度。
「リリア」
「何?」
「楽しんでいるだろう」
「ちょっと」
「困ったな」
「嫌?」
「逆だよ」
またその言葉。
「でも今は先輩つける」
「なぜ?」
「そっちの方がしっくりくる」
「そう」
「卒業したら考える」
ルシアンが一瞬黙った。
「……卒業したら?」
「うん」
「その頃も僕と付き合っている前提なんだね」
「嫌なの?」
「まさか」
今度は本当に、少しだけ耳が赤くなった。
「見つけた」
「何を?」
「赤い」
「……君は本当に」
「卒業したあとも付き合いたい?」
聞く。
ルシアンは笑うのをやめた。
「付き合いたいよ」
静かな声。
「君がそう望んでくれるなら」
「先輩も望んで」
「もちろん」
「じゃあいい」
「ずっと先まで?」
「分かんない」
リリアは正直に答える。
「でも今は、卒業したあとも一緒にいたい」
「うん」
「先輩は?」
「僕は」
ルシアンが少し考える。
「先のことを考えすぎる癖があるからね」
「そうだね」
「だから今日は、明日も君に会いたいとだけ言っておくよ」
その答えが、なぜかすごく好きだった。
「私も」
「そう」
「明日も会いたい」
「よかった」
自然に手が近づく。
でも、触れる直前でルシアンが止めた。
「手、繋ぐ?」
聞かれる。
「うん」
リリアから手を重ねる。
指を絡める。
昨日より自然だった。
「……これ慣れてきた」
「残念だな」
「何で?」
「緊張している君も可愛かったから」
「今は?」
「今も可愛いよ」
「……そういうの」
「嫌?」
「もっと言って」
ルシアンが吹き出した。
「君は時々本当に強いね」
「今日は弱いって言った」
「訂正する。十分強い」
繋いだ手を見ながら、リリアは少し考える。
「ねえ」
「何?」
「恋人って何するの?」
「随分大きな質問だね」
「付き合ったけど、よく分かってない」
「何かしなければいけないわけではないよ」
「でもデートとかするでしょ?」
「するね」
「手繋ぐ」
「している」
「キス」
「……するね」
少し間があった。
リリアは横を見る。
「今意識した?」
「したよ」
「私も」
「そう」
二人とも黙る。
数秒。
昨日のことを思い出す。
「……したい?」
リリアが聞いた。
「正直に?」
「うん」
「したい」
即答だった。
胸が跳ねる。
「先輩から言うと結構恥ずかしい」
「君が聞いたんだろう」
「そうだけど」
「君は?」
「……したい」
ルシアンがリリアを見る。
視線が合う。
「では」
少しだけ近づいてくる。
でも途中で止まる。
「キスしてもいい?」
昨日と同じ。
リリアは頷こうとして。
「待って」
止めた。
ルシアンもすぐ止まる。
「どうした?」
「眼鏡」
「眼鏡?」
「昨日外してた」
「ああ」
「今日は?」
ルシアンが少し笑う。
「外した方がいい?」
「分かんない」
「では試してみようか」
「試す?」
「眼鏡ありとなし」
「何を?」
「キスを」
今度はリリアが固まった。
「……先輩」
「何?」
「今日、強い」
「恋人になったから少しくらいはね」
「ずるい」
「嫌ならやめるよ」
「やめない」
「即答」
ルシアンが眼鏡をかけたまま、少し近づく。
「いい?」
「うん」
目を閉じる。
唇が短く触れた。
昨日より緊張しなかった。
でも嬉しい。
離れる。
「……どう?」
「分かんない」
「何が?」
「眼鏡あんまり関係なかった」
「そうだろうね」
「じゃあ外してもう一回」
ルシアンが黙った。
「……最初からそれが目的だった?」
「違う」
「本当に?」
「半分くらい」
「正直だね」
ルシアンが眼鏡を外す。
テーブルへ置く。
紫の瞳が近くなる。
やっぱり印象が違う。
「こっち好き」
「眼鏡がない方?」
「顔がよく見える」
「君は僕の顔が好きだね」
「好き」
「……そう」
「ルシアン先輩も私の顔好き?」
「かなり」
「どこ?」
「全部」
「雑」
「では具体的に?」
「うん」
ルシアンがリリアの顔を見る。
思ったより真剣に。
「目」
「うん」
「笑った時の口元」
「うん」
「考え事をしている時、少しだけ眉間に皺が寄るところ」
「そんなとこ?」
「それから」
指先が頬の近くまで来る。
触れる前に止まる。
「ここ、触っていい?」
「うん」
指が頬へ触れた。
「頬」
「何で?」
「柔らかいから」
「それ顔が好きな理由?」
「触るのが好きな理由」
急に恥ずかしくなる。
「……もういい」
「聞いたのは君だよ」
「キスする」
「話を終わらせる方法として使わないでくれるかな」
「したくなったの」
ルシアンが黙る。
「……それなら仕方ない」
「仕方ないの?」
「僕もしたいからね」
今度はリリアから少し近づいた。
でも最後の距離はルシアンが埋める。
二度目のキス。
短く触れて、離れる。
昨日より少しだけ自然。
それで十分だった。
「……どっち?」
ルシアンが聞く。
「何が?」
「眼鏡ありとなし」
リリアは真面目に考える。
「なし」
「そう」
「近い時は」
「近い時?」
「キスする時とか」
ルシアンが一瞬視線を逸らした。
「あ」
「何?」
「今照れた」
「君は本当に見逃さないね」
「だって嬉しい」
「僕が照れると?」
「うん」
「なぜ?」
「私のせいだから」
ルシアンはしばらくリリアを見たあと、笑った。
「それは僕も同じだよ」
「何が?」
「君が僕のせいで照れていると、嬉しい」
「性格悪い」
「お互い様だね」
眼鏡をかけ直す。
いつものルシアンに戻る。
でももう知っている。
この人が余裕ばかりではないこと。
自分の一言で耳が赤くなること。
手を繋ぐだけで緊張すること。
キスの前には、必ず聞いてくれること。
それを知っているのが、少し嬉しい。
「そうだ」
ルシアンが言った。
「次の休日、空いている?」
「空いてる」
「まだ日も言っていないよ」
「いつでも空ける」
「それは嬉しいけれど」
「どこ行くの?」
「君が行きたい場所」
「先輩の好きな場所は前行った」
「ああ」
「じゃあ今度は私?」
「そうしよう」
リリアは考える。
「街の大きい本屋」
「また本?」
「先輩好きでしょ」
「君が行きたい場所でいいんだよ」
「じゃあ服見る」
「うん」
「お菓子食べる」
「うん」
「雑貨見る」
「うん」
「先輩つまんなくない?」
「君が楽しんでいるところを見るのは、割と好きだよ」
「……それデートっぽい」
「デートに誘ったつもりだけど」
「そうなの?」
「恋人だからね」
またその言葉。
何度聞いても少し嬉しい。
「行く」
「決まりだ」
「手繋ぐ?」
「君が嫌でなければ」
「キスは?」
ルシアンがこちらを見る。
「外で?」
「分かんない。聞いただけ」
「君は時々、僕の心臓を試しているのかな」
「してない」
「では、その時二人でしたければ」
「する?」
「ああ」
「分かった」
「随分楽しそうだね」
「楽しみだから」
「僕もだよ」
それからしばらく、何でもない話をした。
授業のこと。
食堂の新しいメニュー。
リリアが今日また階段を一本間違えたこと。
ルシアンが朝、眼鏡を探していたのに頭の上に乗せていたこと。
「それ見たかった!」
「絶対に見せない」
「次やったら呼んで」
「なぜ自分の失敗を恋人に報告しなければならないんだい」
「可愛いから」
「君の中で僕はどうなっているんだろうね」
「かっこいいし可愛い」
「欲張りだな」
「好きだから」
自然に言えた。
ルシアンは一瞬黙ってから、少し笑った。
「……やっぱり、それにはまだ慣れたくないな」
「何で?」
「今くらい嬉しいままでいたい」
帰る時間になった。
生徒会室を出る。
廊下では手を繋がなかった。
人がいるから隠す、というより。
二人とも自然にそうした。
でも階段を降りて、人の少ない渡り廊下へ入ったところで。
リリアの手に何かが触れた。
ルシアンの小指だった。
最初の日と同じ。
小指だけ。
リリアは横を見る。
「何?」
「いや」
ルシアンは前を向いている。
「手繋ぎたい?」
「少し」
「じゃあ繋げばいいのに」
「人が来るかもしれない」
「見られたら駄目?」
「僕は構わないよ」
「私も」
「では」
小指だけだった触れ方が変わる。
指が絡む。
手を繋ぐ。
そのまま歩いた。
「ねえ」
「何?」
「先輩って、付き合ってるの隠したい?」
「いや」
「じゃあ聞かれたら言う?」
「ああ」
「生徒会長なのに?」
「恋愛禁止ではないからね」
「人気あるでしょ」
「そうなの?」
「絶対ある」
「興味がなかった」
「女の子に告白されたことは?」
「あるよ」
「何回?」
「数えていない」
「……何か嫌」
足が少し遅くなった。
ルシアンが気づく。
「嫉妬?」
「多分」
「そう」
「嬉しそう」
「少しね」
「性格悪い」
「でも」
ルシアンが歩く速度を合わせる。
「全部断ったよ」
「何で?」
「好きな人がいなかったから」
「……今は?」
「いる」
「誰?」
「本当に聞くの?」
「聞きたい」
ルシアンが笑う。
「リリア・アスター」
名前まで言われると思わなかった。
顔が熱くなる。
「聞かなきゃよかった」
「君が聞いたんだよ」
「そうだけど」
「エリシアでもある、今の君だ」
「……うん」
「満足?」
「かなり」
女子寮が見えてくる。
もう少し歩きたいと思った。
でも今日は、明日も会える。
「ルシアン先輩」
「何?」
「明日も生徒会室行っていい?」
「ああ」
「仕事あったら?」
「待っていて」
「いいの?」
「君がいる方が早く終わらせようと思える」
「邪魔しない?」
「少しくらいならしてもいいよ」
「じゃあいっぱい話しかける」
「前言撤回しようかな」
「遅い」
寮の前で手を離す。
今日はキスしない。
それでも寂しくなかった。
「じゃあ明日」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ、リリア」
数歩進んで。
リリアは振り返った。
「ルシアン先輩!」
「何?」
「今日も好きだった!」
一瞬。
ルシアンが完全に固まった。
その顔が面白くて、リリアは笑う。
「また明日!」
「……リリア」
「何?」
ルシアンは少し困ったように笑った。
「僕もだよ」
それだけ聞いて、今度こそ寮へ入った。
ルシアンは一人になってから、しばらくその場に立っていた。
「今日も、か」
今日も好きだった。
明日のことは明日決める。
以前の自分なら、不安になったかもしれない。
永遠を保証する言葉を求めたかもしれない。
でも今は。
今日選ばれたことが嬉しい。
明日また会えることが楽しみだった。
それで十分だと思える。
「……随分変わったな、僕も」
小さく笑う。
その時だった。
視界の端で、淡い光が揺れた。
「……?」
振り返る。
誰もいない。
けれど、学院の中央塔の上。
ほんの一瞬だけ。
黒い月のような輪郭が浮かんだ。
そして消えた。
ルシアンの表情から笑みが消える。
「今のは……」
見間違いではない。
知っている。
何度も見た。
十二の世界が終わる前に現れたもの。
けれど。
「あり得ない」
今の世界は、独立している。
リリアはエリシアだ。
再構築される理由はない。
それでも。
確かに見えた。
黒い月。
ルシアンはしばらく中央塔を見上げていた。
そして、すぐにはリリアを追わなかった。
明日話す。
隠さない。
自分だけで答えを出さない。
昔と同じ間違いはしない。
そう決めて。
ルシアンは静かに学院へ戻った。
リリアは目を覚まして、しばらく天井を見ていた。
昨日のことを思い出す。
最初のリリア。
ルシアンの魂。
運命なんてないこと。
そして。
キス。
「……あ」
そこまで思い出したところで、布団を頭まで被った。
昨日は平気だった。
自分から「短い」とまで言った。
なのに一晩経ったら急に恥ずかしい。
「何で今……」
唇へ触れる。
当然、何も残っていない。
それでも思い出せる。
眼鏡を外した顔。
頬に触れた手。
『キスしてもいい?』
「……無理」
今日会ったら絶対思い出す。
でも。
会いたくないかと言われれば。
「会いたい……」
結局そこだった。
放課後。
授業が終わると、リリアはいつものように生徒会室へ向かった。
扉の前まで来る。
昨日までなら、そのままノックしていた。
今日は一度止まった。
深呼吸する。
「……普通にしよう」
恋人になっただけだ。
昨日キスしただけだ。
何も変ではない。
ノックする。
「どうぞ」
声を聞く。
もう少し緊張する。
扉を開けた。
「こんにちは」
「こんにちは、リリア」
ルシアンが顔を上げる。
眼鏡。
いつもの顔。
いつもの笑み。
「……普通だ」
「何が?」
「何でもない」
「入らないの?」
「入ります」
扉を閉める。
ルシアンはリリアを見ていた。
「何ですか」
「いや」
「絶対何かある」
「君が今日はどこまで近づいてくるのかなと思って」
足が止まった。
「……何それ」
「昨日までは、随分積極的だったからね」
「今日は普通です」
「そう」
「普通に恋人です」
「それは普通なのかな」
「分かんない」
ルシアンが笑った。
「おいで」
「……どこに?」
「ここへ」
ソファを指す。
「言い方」
「何かおかしかった?」
「犬みたい」
「では訂正しよう。隣に座ってくれる?」
「はい」
いつものソファへ座る。
ルシアンも隣へ来た。
昨日と同じ。
なのにリリアは妙に姿勢がいい。
「リリア」
「はい」
「緊張している?」
「してない」
「背筋が随分伸びているけど」
「姿勢がいいだけ」
「普段はもう少し丸いよ」
「見すぎ」
「好きな人だからね」
さらりと言われた。
リリアは横を見る。
「……今日も好き?」
「ああ」
「よかった」
「毎日確認するつもり?」
「しばらく」
「構わないよ」
ルシアンが少しだけ笑う。
「僕も毎日答えたい」
まただ。
こういうことを平気で言う。
「先輩、昨日から強くなった」
「何が?」
「キュンとさせる力」
「そんな魔法は持っていないよ」
「魔法じゃない」
「なら君にしか効かないのかもしれないね」
「……今のも」
「何が?」
「もういい」
リリアは顔を逸らした。
ルシアンが楽しそうに笑う。
「昨日はあんなに僕を困らせていたのに」
「昨日の私は強かった」
「今日は?」
「弱い」
「どうして?」
分かっているくせに。
リリアは少し迷ってから答えた。
「……昨日のこと思い出すから」
「色々あったね」
「最後の方」
「最後?」
「分かってるでしょ」
「分からないな」
「絶対嘘」
「言ってくれたら分かるかもしれない」
意地悪だ。
「キス」
小さく言う。
ルシアンの笑みが少し変わった。
「思い出していた?」
「朝から」
「それは」
ほんの一瞬、言葉に詰まる。
「……嬉しいな」
「先輩は?」
「もちろん思い出したよ」
「いつ?」
「朝」
「同じじゃん」
「そうだね」
「恥ずかしくなった?」
「少し」
「嘘」
「本当だよ」
「全然見えない」
リリアはルシアンの顔をじっと見る。
いつも通り。
余裕がある。
「ずるい」
「何が?」
「私だけ顔に出る」
「僕だって出ていると思うけど」
「どこ?」
「そんなに見られると余計に隠したくなるな」
「見せて」
「嫌だ」
「恋人なのに?」
「便利な言葉として使い始めたね」
ルシアンが笑う。
リリアはもっと近くから確認しようと身体を寄せた。
「どこ?」
「リリア」
「耳?」
「近いよ」
「昨日もっと近かった」
「それを今言う?」
ルシアンが僅かに身体を引く。
追いかける。
「耳赤くない」
「赤くなるまで見るつもり?」
「うん」
「困った恋人だ」
その言い方に、胸が跳ねる。
「……もう一回」
「何を?」
「恋人って」
ルシアンが少し驚いたあと、柔らかく笑った。
「僕の恋人」
「……それいい」
「そう?」
「うん」
「では覚えておこう」
「先輩は?」
「何が?」
「私に何て呼ばれたら嬉しい?」
ルシアンが少し考える。
「今のままでいいよ」
「ルシアン先輩?」
「ああ」
「恋人なのに先輩?」
「君が自然にそう呼んでいるからね」
「ルシアンは?」
口に出した瞬間。
ルシアンが止まった。
分かりやすく。
「……あ」
「何?」
「今の顔」
「どんな顔?」
「びっくりしてた」
「急だったからね」
「ルシアン」
もう一度。
「リリア」
「何?」
「楽しんでいるだろう」
「ちょっと」
「困ったな」
「嫌?」
「逆だよ」
またその言葉。
「でも今は先輩つける」
「なぜ?」
「そっちの方がしっくりくる」
「そう」
「卒業したら考える」
ルシアンが一瞬黙った。
「……卒業したら?」
「うん」
「その頃も僕と付き合っている前提なんだね」
「嫌なの?」
「まさか」
今度は本当に、少しだけ耳が赤くなった。
「見つけた」
「何を?」
「赤い」
「……君は本当に」
「卒業したあとも付き合いたい?」
聞く。
ルシアンは笑うのをやめた。
「付き合いたいよ」
静かな声。
「君がそう望んでくれるなら」
「先輩も望んで」
「もちろん」
「じゃあいい」
「ずっと先まで?」
「分かんない」
リリアは正直に答える。
「でも今は、卒業したあとも一緒にいたい」
「うん」
「先輩は?」
「僕は」
ルシアンが少し考える。
「先のことを考えすぎる癖があるからね」
「そうだね」
「だから今日は、明日も君に会いたいとだけ言っておくよ」
その答えが、なぜかすごく好きだった。
「私も」
「そう」
「明日も会いたい」
「よかった」
自然に手が近づく。
でも、触れる直前でルシアンが止めた。
「手、繋ぐ?」
聞かれる。
「うん」
リリアから手を重ねる。
指を絡める。
昨日より自然だった。
「……これ慣れてきた」
「残念だな」
「何で?」
「緊張している君も可愛かったから」
「今は?」
「今も可愛いよ」
「……そういうの」
「嫌?」
「もっと言って」
ルシアンが吹き出した。
「君は時々本当に強いね」
「今日は弱いって言った」
「訂正する。十分強い」
繋いだ手を見ながら、リリアは少し考える。
「ねえ」
「何?」
「恋人って何するの?」
「随分大きな質問だね」
「付き合ったけど、よく分かってない」
「何かしなければいけないわけではないよ」
「でもデートとかするでしょ?」
「するね」
「手繋ぐ」
「している」
「キス」
「……するね」
少し間があった。
リリアは横を見る。
「今意識した?」
「したよ」
「私も」
「そう」
二人とも黙る。
数秒。
昨日のことを思い出す。
「……したい?」
リリアが聞いた。
「正直に?」
「うん」
「したい」
即答だった。
胸が跳ねる。
「先輩から言うと結構恥ずかしい」
「君が聞いたんだろう」
「そうだけど」
「君は?」
「……したい」
ルシアンがリリアを見る。
視線が合う。
「では」
少しだけ近づいてくる。
でも途中で止まる。
「キスしてもいい?」
昨日と同じ。
リリアは頷こうとして。
「待って」
止めた。
ルシアンもすぐ止まる。
「どうした?」
「眼鏡」
「眼鏡?」
「昨日外してた」
「ああ」
「今日は?」
ルシアンが少し笑う。
「外した方がいい?」
「分かんない」
「では試してみようか」
「試す?」
「眼鏡ありとなし」
「何を?」
「キスを」
今度はリリアが固まった。
「……先輩」
「何?」
「今日、強い」
「恋人になったから少しくらいはね」
「ずるい」
「嫌ならやめるよ」
「やめない」
「即答」
ルシアンが眼鏡をかけたまま、少し近づく。
「いい?」
「うん」
目を閉じる。
唇が短く触れた。
昨日より緊張しなかった。
でも嬉しい。
離れる。
「……どう?」
「分かんない」
「何が?」
「眼鏡あんまり関係なかった」
「そうだろうね」
「じゃあ外してもう一回」
ルシアンが黙った。
「……最初からそれが目的だった?」
「違う」
「本当に?」
「半分くらい」
「正直だね」
ルシアンが眼鏡を外す。
テーブルへ置く。
紫の瞳が近くなる。
やっぱり印象が違う。
「こっち好き」
「眼鏡がない方?」
「顔がよく見える」
「君は僕の顔が好きだね」
「好き」
「……そう」
「ルシアン先輩も私の顔好き?」
「かなり」
「どこ?」
「全部」
「雑」
「では具体的に?」
「うん」
ルシアンがリリアの顔を見る。
思ったより真剣に。
「目」
「うん」
「笑った時の口元」
「うん」
「考え事をしている時、少しだけ眉間に皺が寄るところ」
「そんなとこ?」
「それから」
指先が頬の近くまで来る。
触れる前に止まる。
「ここ、触っていい?」
「うん」
指が頬へ触れた。
「頬」
「何で?」
「柔らかいから」
「それ顔が好きな理由?」
「触るのが好きな理由」
急に恥ずかしくなる。
「……もういい」
「聞いたのは君だよ」
「キスする」
「話を終わらせる方法として使わないでくれるかな」
「したくなったの」
ルシアンが黙る。
「……それなら仕方ない」
「仕方ないの?」
「僕もしたいからね」
今度はリリアから少し近づいた。
でも最後の距離はルシアンが埋める。
二度目のキス。
短く触れて、離れる。
昨日より少しだけ自然。
それで十分だった。
「……どっち?」
ルシアンが聞く。
「何が?」
「眼鏡ありとなし」
リリアは真面目に考える。
「なし」
「そう」
「近い時は」
「近い時?」
「キスする時とか」
ルシアンが一瞬視線を逸らした。
「あ」
「何?」
「今照れた」
「君は本当に見逃さないね」
「だって嬉しい」
「僕が照れると?」
「うん」
「なぜ?」
「私のせいだから」
ルシアンはしばらくリリアを見たあと、笑った。
「それは僕も同じだよ」
「何が?」
「君が僕のせいで照れていると、嬉しい」
「性格悪い」
「お互い様だね」
眼鏡をかけ直す。
いつものルシアンに戻る。
でももう知っている。
この人が余裕ばかりではないこと。
自分の一言で耳が赤くなること。
手を繋ぐだけで緊張すること。
キスの前には、必ず聞いてくれること。
それを知っているのが、少し嬉しい。
「そうだ」
ルシアンが言った。
「次の休日、空いている?」
「空いてる」
「まだ日も言っていないよ」
「いつでも空ける」
「それは嬉しいけれど」
「どこ行くの?」
「君が行きたい場所」
「先輩の好きな場所は前行った」
「ああ」
「じゃあ今度は私?」
「そうしよう」
リリアは考える。
「街の大きい本屋」
「また本?」
「先輩好きでしょ」
「君が行きたい場所でいいんだよ」
「じゃあ服見る」
「うん」
「お菓子食べる」
「うん」
「雑貨見る」
「うん」
「先輩つまんなくない?」
「君が楽しんでいるところを見るのは、割と好きだよ」
「……それデートっぽい」
「デートに誘ったつもりだけど」
「そうなの?」
「恋人だからね」
またその言葉。
何度聞いても少し嬉しい。
「行く」
「決まりだ」
「手繋ぐ?」
「君が嫌でなければ」
「キスは?」
ルシアンがこちらを見る。
「外で?」
「分かんない。聞いただけ」
「君は時々、僕の心臓を試しているのかな」
「してない」
「では、その時二人でしたければ」
「する?」
「ああ」
「分かった」
「随分楽しそうだね」
「楽しみだから」
「僕もだよ」
それからしばらく、何でもない話をした。
授業のこと。
食堂の新しいメニュー。
リリアが今日また階段を一本間違えたこと。
ルシアンが朝、眼鏡を探していたのに頭の上に乗せていたこと。
「それ見たかった!」
「絶対に見せない」
「次やったら呼んで」
「なぜ自分の失敗を恋人に報告しなければならないんだい」
「可愛いから」
「君の中で僕はどうなっているんだろうね」
「かっこいいし可愛い」
「欲張りだな」
「好きだから」
自然に言えた。
ルシアンは一瞬黙ってから、少し笑った。
「……やっぱり、それにはまだ慣れたくないな」
「何で?」
「今くらい嬉しいままでいたい」
帰る時間になった。
生徒会室を出る。
廊下では手を繋がなかった。
人がいるから隠す、というより。
二人とも自然にそうした。
でも階段を降りて、人の少ない渡り廊下へ入ったところで。
リリアの手に何かが触れた。
ルシアンの小指だった。
最初の日と同じ。
小指だけ。
リリアは横を見る。
「何?」
「いや」
ルシアンは前を向いている。
「手繋ぎたい?」
「少し」
「じゃあ繋げばいいのに」
「人が来るかもしれない」
「見られたら駄目?」
「僕は構わないよ」
「私も」
「では」
小指だけだった触れ方が変わる。
指が絡む。
手を繋ぐ。
そのまま歩いた。
「ねえ」
「何?」
「先輩って、付き合ってるの隠したい?」
「いや」
「じゃあ聞かれたら言う?」
「ああ」
「生徒会長なのに?」
「恋愛禁止ではないからね」
「人気あるでしょ」
「そうなの?」
「絶対ある」
「興味がなかった」
「女の子に告白されたことは?」
「あるよ」
「何回?」
「数えていない」
「……何か嫌」
足が少し遅くなった。
ルシアンが気づく。
「嫉妬?」
「多分」
「そう」
「嬉しそう」
「少しね」
「性格悪い」
「でも」
ルシアンが歩く速度を合わせる。
「全部断ったよ」
「何で?」
「好きな人がいなかったから」
「……今は?」
「いる」
「誰?」
「本当に聞くの?」
「聞きたい」
ルシアンが笑う。
「リリア・アスター」
名前まで言われると思わなかった。
顔が熱くなる。
「聞かなきゃよかった」
「君が聞いたんだよ」
「そうだけど」
「エリシアでもある、今の君だ」
「……うん」
「満足?」
「かなり」
女子寮が見えてくる。
もう少し歩きたいと思った。
でも今日は、明日も会える。
「ルシアン先輩」
「何?」
「明日も生徒会室行っていい?」
「ああ」
「仕事あったら?」
「待っていて」
「いいの?」
「君がいる方が早く終わらせようと思える」
「邪魔しない?」
「少しくらいならしてもいいよ」
「じゃあいっぱい話しかける」
「前言撤回しようかな」
「遅い」
寮の前で手を離す。
今日はキスしない。
それでも寂しくなかった。
「じゃあ明日」
「ああ」
「おやすみ」
「おやすみ、リリア」
数歩進んで。
リリアは振り返った。
「ルシアン先輩!」
「何?」
「今日も好きだった!」
一瞬。
ルシアンが完全に固まった。
その顔が面白くて、リリアは笑う。
「また明日!」
「……リリア」
「何?」
ルシアンは少し困ったように笑った。
「僕もだよ」
それだけ聞いて、今度こそ寮へ入った。
ルシアンは一人になってから、しばらくその場に立っていた。
「今日も、か」
今日も好きだった。
明日のことは明日決める。
以前の自分なら、不安になったかもしれない。
永遠を保証する言葉を求めたかもしれない。
でも今は。
今日選ばれたことが嬉しい。
明日また会えることが楽しみだった。
それで十分だと思える。
「……随分変わったな、僕も」
小さく笑う。
その時だった。
視界の端で、淡い光が揺れた。
「……?」
振り返る。
誰もいない。
けれど、学院の中央塔の上。
ほんの一瞬だけ。
黒い月のような輪郭が浮かんだ。
そして消えた。
ルシアンの表情から笑みが消える。
「今のは……」
見間違いではない。
知っている。
何度も見た。
十二の世界が終わる前に現れたもの。
けれど。
「あり得ない」
今の世界は、独立している。
リリアはエリシアだ。
再構築される理由はない。
それでも。
確かに見えた。
黒い月。
ルシアンはしばらく中央塔を見上げていた。
そして、すぐにはリリアを追わなかった。
明日話す。
隠さない。
自分だけで答えを出さない。
昔と同じ間違いはしない。
そう決めて。
ルシアンは静かに学院へ戻った。

