魔法より、君に恋をする。

翌日の放課後。

 リリアは生徒会室の前で、一度深呼吸した。

 昨日までは、扉を開けることに緊張なんてしなかった。

 今日は違う。

 恋人になってから、初めて会う。

 それに。

『それでもまだ僕にキスしたいと思っていたら』

 思い出す。

「……意識するに決まってる」

 昨日、自分から予約したようなものだ。

 逃げるわけにもいかない。

 ノックする。

「どうぞ」

 声を聞いただけで、少し胸が跳ねた。

 扉を開ける。

「こんにちは」

「こんにちは、リリア」

 ルシアンはいつもの机にいた。

 顔を見る。

 昨日と同じ。

 眼鏡。

 黒紫の髪。

 深紅のネクタイ。

 なのに。

「……何だろ」

「何が?」

「恋人になってる」

 ルシアンが数秒黙った。

「昨日からね」

「分かってる」

「確認したかった?」

「ちょっと」

 ルシアンが笑った。

「では確認しておこうか。僕は今日も君の恋人だよ」

「よかった」

「一日で変わると思っていたの?」

「思ってないけど」

「僕も今日まで君を好きだったよ」

「今日まで?」

「言い方を間違えた」

「今終わったみたい」

「訂正する。今日も好きだ」

「私も」

 自然に返した。

 昨日より少しだけ恥ずかしくない。

 でも嬉しさは変わらない。

「……慣れるの早いね」

「毎日言えばもっと慣れるかも」

「それは困るな」

「何で?」

「僕はしばらく慣れたくない」

「変なの」

「君に好きだと言われるたび嬉しい方がいいだろう?」

 また胸が跳ねる。

「そういうのは上手い」

「何が?」

「キュンとさせるの」

「それは光栄だね」

「自覚ある?」

「今できた」

 ルシアンがペンを置いた。

 今日は仕事をするつもりがないらしい。

「座ろうか」

「うん」

 昨日までと同じソファへ向かう。

 リリアが座る。

 ルシアンも当然のように隣へ座った。

 少しだけ距離がある。

 リリアはその隙間を見る。

「……遠い」

「昨日より近いよ」

「恋人になったのに」

「では?」

 ルシアンがこちらを見る。

「君はどのくらいがいい?」

 聞かれる。

 リリアは少し考えて、自分から身体を寄せた。

 肩が触れる。

「これくらい」

「分かった」

 ルシアンは逃げなかった。

 ただ、少しだけ笑った。

「手も」

「はい」

 差し出された手を取る。

 指が重なる。

 昨日までと違って、今日は自然に指同士を絡めた。

 ルシアンの指が一瞬止まる。

「……何?」

「いや」

「嫌だった?」

「逆だよ」

 絡んだ指を見下ろす。

「昨日より積極的だと思って」

「恋人だから」

「便利な言葉だね」

「嫌?」

「だから逆だと言っているだろう」

 少しだけ握られる。

 それだけで嬉しい。

 でも今日は、これだけをしに来たわけではない。

「ルシアン先輩」

「ああ」

「聞く」

 笑顔が少し消えた。

「うん」

「昨日の続き」

「……分かった」

 ルシアンは手を離さなかった。

 むしろ、少しだけ握り直した。

「長い話になる」

「いいよ」

「聞いている途中で、僕から離れたくなったら離れていい」

「うん」

「質問もしていい」

「うん」

「怒ってもいい」

「そんなに?」

「僕としては、それくらいのつもりで話す」

 リリアはルシアンを見る。

「怖い?」

 聞くと、少し驚いた顔をされた。

「……僕が?」

「うん」

 昨日から思っていた。

 ルシアンは何でも知っている。

 世界のことも。

 過去のことも。

 自分のことも。

 でもこの話だけは、ずっと避けてきた。

「怖いよ」

 今日は誤魔化さなかった。

「君が僕を見る目が変わるかもしれない」

「そっか」

「だから」

「でも話す?」

「ああ」

「何で?」

「君が好きだから」

 静かな答えだった。

「好きだからこそ、君が知らないまま僕を選ぶ状態にはしたくない」

 リリアは絡んだ指を少し握った。

「分かった」

「……うん」

「聞く」

 ルシアンは一度、目を閉じた。

 それから話し始めた。

「最初のリリアは、人間として生まれたわけではない」

「うん」

「世界が最初に崩壊しかけた時、人類は生存するための術式を作った」

「それが再構築?」

「その原型だ」

 ルシアンの声は穏やかだった。

 でも、繋いだ手は少し冷たい。

「当時の世界には、崩壊を止められるだけの力を持つ人間がいなかった。だから作ろうとした」

「人を?」

「ああ」

「それがリリア?」

「そうだ」

 リリアは黙って聞く。

「膨大な魔力と、世界そのものへ干渉できる魂。その器を作るため、人々の願いが集められた」

「願い?」

「生きたい。死にたくない。子どもを助けたい。家族を守りたい。世界を終わらせたくない」

 無数の願い。

 それが、一人の少女を作った。

「でも願いだけでは、人間の魂にはならなかった」

「じゃあ何が足りなかったの?」

 ルシアンが黙った。

 そして。

「僕だ」

 リリアは瞬きをした。

「……ルシアン先輩?」

「ああ」

「どういうこと?」

「僕の魂を二つに分けた」

 繋いだ手が僅かに強くなる。

「半分を、彼女へ与えた」

 理解するまで少しかかった。

「……最初のリリアの魂に?」

「ああ」

「先輩の魂が入ってた?」

「半分だけね」

 リリアはルシアンの顔を見る。

 彼は笑っていなかった。

「当時の僕は、今のような立場ではなかった。まだ若かった」

「今も見た目若いけど」

「そこは今気にしなくていい」

「はい」

「術式を完成させるために、僕の魂が最も適合した」

「それで渡したの?」

「自分で選んだ」

「怖くなかった?」

「怖かったよ」

 少しだけ笑う。

「僕も今よりずっと未熟だったからね」

「……痛かった?」

「かなり」

「嫌だな」

「もう終わったことだよ」

「でも嫌」

 リリアは繋いだ手を握る。

 ルシアンが一瞬こちらを見る。

「続けて」

「……ああ」

 最初のリリアは生まれた。

 銀白色の髪。

 紫の瞳。

 世界へ干渉する力。

 人々の願いと、ルシアンの魂の半分を持って。

「最初は感情も薄かった」

「人形みたい?」

「近いかな。知識はあった。でも、自分が何を好きで、何を嫌うのか分からなかった」

「それで?」

「僕が彼女の監督役になった」

「……先輩が?」

「ああ」

 教えた。

 食事の味。

 花の名前。

 本の読み方。

 雨の日の過ごし方。

 笑うこと。

 怒ること。

 誰かを大切にすること。

「彼女は少しずつ人間らしくなった」

 ルシアンの声が柔らかくなる。

「そしてある日、僕に言った」

 何を言われたのか。

 リリアには分かった。

「好き?」

「ああ」

『あなたのことが好き』

 最初のリリアは、そう言った。

「先輩も好きだったんでしょ?」

「好きだった」

「なのに断った」

「ああ」

「何で?」

 昨日まで秘密にされていた答え。

 ルシアンは少しだけ目を伏せた。

「信じられなかったんだ」

「何を?」

「彼女の『好き』を」

 リリアは眉を寄せる。

「どういうこと?」

「彼女の魂の半分は僕だった」

「うん」

「生まれてから最も長く一緒にいたのも僕だった」

「うん」

「人間として生きる方法を教えたのも僕だった」

 ルシアンの指が僅かに震えた。

「そんな彼女が僕を好きになった時、僕には分からなかった」

「何が?」

「それが彼女自身の自由な感情なのか」

 リリアは黙った。

「僕の魂を持っているから惹かれたのかもしれない。最初に与えられた相手だから依存したのかもしれない。術式が、僕を愛するよう彼女を形作ったのかもしれない」

「でも分からないんでしょ?」

「ああ」

「本当に好きだったかもしれない」

「そうだね」

「先輩は好きだった」

「ああ」

「じゃあ付き合えばよかったのに」

「そう思う?」

「ちょっと」

 ルシアンは寂しそうに笑った。

「僕も何度もそう思ったよ」

「じゃあ何で」

「彼女を僕から切り離したかった」

 リリアはルシアンを見る。

「僕の半分としてではなく、一人の人間として生きてほしかった」

「……それで断ったの?」

「ああ」

「好きなのに?」

「好きだから」

 胸が少し痛くなった。

「彼女は泣いた?」

「泣いたよ」

「先輩は?」

「彼女の前では泣かなかった」

「一人で?」

「……少しね」

「馬鹿」

 口から出た。

 ルシアンが目を瞬く。

「馬鹿です」

「二回言ったね」

「だって二人とも好きだったのに」

「そうだね」

「勝手に決めたじゃん」

 リリアは少し怒っていた。

「彼女の好きが本物かどうか、先輩が決めた」

「……ああ」

「本人に決めさせなかった」

「その通りだ」

 反論しなかった。

「だから後悔している」

 静かな声。

「彼女のためだと思っていた。でも僕は、彼女が自分の感情を決める権利まで奪った」

 リリアは少し黙った。

「それから?」

「彼女は僕から離れた」

 そして世界を救った。

 その後、世界は崩壊と再構築を繰り返すようになった。

 最初のリリアの情報もまた、世界に利用された。

 何度も少女が作られた。

 何度も誰かを選ばされた。

「僕は長い間、それを見てきた」

 ルシアンは言う。

「止めようとした。でも完全には止められなかった」

「十二回」

「ああ」

「ずっと?」

「形は違ってもね」

 リリアは彼の横顔を見る。

 想像できないほど長い時間。

 ずっと同じ少女の面影を見続けた。

「それで私が生まれた」

「ああ」

 ルシアンがこちらを見る。

「でも君は違った」

「独立した魂」

「そう」

「先輩の半分じゃない」

「一切ない」

 即答だった。

「君の魂には、僕のものは何も入っていない」

「本当に?」

「ああ」

「術式で先輩を好きになるようにもなってない?」

「なっていない」

「運命で結ばれてるとか?」

「ないよ」

「前世で恋人とか?」

「君には前世としての彼女すらない」

「じゃあ」

 リリアは少し考えた。

「私とルシアン先輩って、何にもないんだ」

 ルシアンの表情が僅かに揺れた。

「……そうだね」

「魂の繋がりもない」

「ああ」

「運命もない」

「ああ」

「昔の約束もない」

「ああ」

 リリアは自分たちの繋いだ手を見る。

「じゃあ何で手繋いでるの?」

 ルシアンが黙った。

「何にもないのに」

「……リリア」

「私が繋ぎたいからでしょ?」

 顔を上げる。

「先輩も繋ぎたいから」

 紫の瞳を見る。

「私が先輩に会いたいと思ったのも」

「……うん」

「昨日ずっと待ってたのも」

「うん」

「好きって言ったのも」

「うん」

「全部、私が決めたんじゃん」

 ルシアンは何も言わない。

「それってすごくない?」

「……すごい?」

「うん」

 リリアは笑った。

「運命ないんでしょ?」

「ああ」

「じゃあ私たち、何にもないところから好きになったんだ」

 ルシアンの目が僅かに見開かれる。

「私はそれ、嬉しい」

「……嫌じゃない?」

「何が?」

「最初の彼女が、僕の魂の半分から生まれたこと」

「びっくりはした」

「僕が彼女を拒んだことも」

「そこはまだ馬鹿だと思ってる」

「厳しいな」

「でも」

 リリアは少し考える。

「今の私には関係ない」

 ルシアンが止まった。

「冷たい?」

「いや」

「だって私、その人じゃないもん」

「ああ」

「その人が先輩をどれだけ好きだったかも、その時先輩がどれだけ好きだったかも、私には分からない」

「うん」

「大事な過去なのは分かる。でも」

 繋いだ手を持ち上げる。

「今これしてるのは私」

 ルシアンの指が僅かに震えた。

「先輩が今好きなのも?」

「君だよ」

「ならいい」

「……それだけ?」

「うん」

「本当に?」

「あと一個怒ってる」

「何?」

「嫌われるかもって思ってたこと」

「それは仕方ないだろう」

「私そんなに心狭くない」

「そこではなくてね」

「じゃあ何?」

「僕自身が、怖かったんだよ」

 ルシアンが苦笑する。

「一度好きな人を、自分の判断で手放した。だからまた同じことをするんじゃないかと思っていた」

「今回も?」

「ああ」

「私のためって言って?」

「そう」

「それやったら怒るよ」

「知っている」

「別れるかどうかは私も決めるから」

「うん」

「先輩一人で決めないで」

「約束する」

 リリアは満足して頷いた。

「じゃあ話終わり?」

「……随分あっさりしているね」

「まだある?」

「核心は話した」

「じゃあ」

 リリアはルシアンを見る。

「約束覚えてる?」

 今度はルシアンが完全に黙った。

「……覚えているよ」

「何だっけ?」

「君、分かっていて聞いているだろう」

「確認」

「最近その言葉を便利に使うね」

「何だっけ?」

 ルシアンが小さく息を吐く。

「僕の話を全部聞いて」

「うん」

「それでも君が僕にキスしたいと思っていたら」

「うん」

「僕から聞く」

「じゃあ聞いて」

 ルシアンがこちらを見る。

 さっきまで過去を話していた時より、明らかに困っている。

「……リリア」

「はい」

「少しくらい余韻をくれないかな」

「昨日から待ってた」

「それを言われると弱いな」

 リリアは少し笑う。

「まだしたいよ」

 はっきり言った。

「話聞いても変わらなかった」

「……そう」

「むしろ前よりしたいかも」

「それ以上言うと、僕が困る」

「何で?」

「君、本当に分かっていない?」

「何を?」

「いや」

 ルシアンが眼鏡を外した。

「何で外すの?」

「邪魔だから」

 その答えだけで、一気に緊張した。

「……あ」

「今さら?」

「急に緊張してきた」

「やめる?」

「やめない」

「即答だね」

「したい」

 ルシアンが少し笑う。

「分かった」

 それから。

 空いている手が、リリアの頬へ触れる。

 昨日まで頭を撫でられることはあった。

 でも頬は初めてだった。

「嫌じゃない?」

「うん」

「リリア」

「何?」

 眼鏡のない紫の瞳が、近くにある。

 ルシアンも緊張している。

 今なら分かる。

「キスしてもいい?」

 昨日予告された言葉。

 なのに実際に聞かれると、全然違った。

「……はい」

 ルシアンが近づく。

 でも途中で止まった。

「何?」

「君があまりに見ているから」

「目閉じる?」

「できれば」

「先輩も緊張してる?」

「かなり」

「可愛い」

「今言う?」

「だって」

「リリア」

「はい」

「目を閉じて」

「はい」

 言われた通りにする。

 頬に触れている手が少し動く。

 そして。

 唇が触れた。

 ほんの短いキスだった。

 すぐに離れる。

 目を開ける。

 ルシアンが近くにいる。

 思ったよりずっと近い。

「……終わった?」

「終わったよ」

「短い」

 言ってから、ルシアンが固まった。

「……リリア」

「何?」

「それは、もう一度してほしいという意味?」

 自分でも考える。

「……多分」

「多分?」

「したい」

 今度は自分から言った。

 ルシアンが困ったように笑う。

「本当に手強いね、君は」

「嫌?」

「逆」

 もう一度、頬へ触れられる。

 今度はリリアも目を閉じた。

 二度目も優しかった。

 少しだけ長い。

 それでもすぐ離れる。

 ルシアンの額が、リリアの額へ軽く触れた。

「……今日はここまで」

「何で?」

「僕の理性のため」

「そんなに?」

「そんなに」

 リリアは少し笑った。

「先輩、余裕ないね」

「ずっとそう言っているだろう」

「やっと分かった」

「遅いよ」

 繋いでいた手は、まだ離れていない。

「ルシアン先輩」

「何?」

「好き」

 近いまま言う。

 ルシアンが目を閉じた。

「……それも今言う?」

「言いたかった」

「そう」

 もう一度キスされるかと思った。

 でもルシアンはしなかった。

 代わりに、リリアの手を自分の頬へ持っていく。

「僕も好きだよ」

 その声の方が、キスより胸に残った。

「今の私?」

「ああ」

「魂の半分じゃなくて?」

「君には入っていない」

「運命じゃなくて?」

「運命じゃない」

「じゃあ何で?」

 少し意地悪く聞く。

 ルシアンは笑った。

「君だから」

 胸が跳ねる。

「……それ好き」

「何が?」

「その答え」

「なら覚えておこう」

「また言って」

「何度でも」

 リリアは少しだけ肩へ寄りかかった。

 ルシアンも自然に受け止める。

「何にもないんだね、私たち」

「ああ」

「何にも決められてない」

「ああ」

「明日別れる可能性もある?」

「理論上は」

「嫌?」

「かなり」

「私も」

「そう」

「じゃあ明日は別れない」

 ルシアンが笑った。

「その次は?」

「明日決める」

「なるほど」

「毎日決めればいいでしょ」

「そうだね」

 昔。

 彼は、好きな少女を手放した。

 彼女の自由のためだと思って。

 今。

 自由な少女が、自分から彼の隣へ座っている。

 誰にも決められていない。

 何にも繋がれていない。

 それでも。

 手を繋ぐ。

 好きだと言う。

 キスをする。

 それだけでよかった。

 その日の夜。

 リリアが帰ったあとの生徒会室で、ルシアンは一人、古い記録を閉じた。

 長い間、開くたび胸が痛んだ記録だった。

 最初の彼女。

 彼女の告白。

 自分の拒絶。

 その後に続いた、十二の世界。

 どれも消えない。

 消す必要もない。

 けれど今日。

 初めて、その記録の隣に置けるものができた。

 過去の続きではない。

 全く新しい記憶。

『運命ないんでしょ?』

 思い出して、少し笑う。

『じゃあ私たち、何にもないところから好きになったんだ』

「……そうだね」

 ルシアンは眼鏡を外す。

 今日、彼女に触れた唇を思い出す。

 最初のリリアとは、一度もキスをしなかった。

 恋人にもならなかった。

 だから今日のことは。

 誰の記憶とも重ならない。

 今の自分と。

 今の彼女だけのものだった。

「運命がなくても」

 小さく呟く。

「僕は君を選ぶよ」

 その言葉を、いつか本人にも伝えようと思った。