翌日の放課後。
リリアは生徒会室の前で、一度深呼吸した。
昨日までは、扉を開けることに緊張なんてしなかった。
今日は違う。
恋人になってから、初めて会う。
それに。
『それでもまだ僕にキスしたいと思っていたら』
思い出す。
「……意識するに決まってる」
昨日、自分から予約したようなものだ。
逃げるわけにもいかない。
ノックする。
「どうぞ」
声を聞いただけで、少し胸が跳ねた。
扉を開ける。
「こんにちは」
「こんにちは、リリア」
ルシアンはいつもの机にいた。
顔を見る。
昨日と同じ。
眼鏡。
黒紫の髪。
深紅のネクタイ。
なのに。
「……何だろ」
「何が?」
「恋人になってる」
ルシアンが数秒黙った。
「昨日からね」
「分かってる」
「確認したかった?」
「ちょっと」
ルシアンが笑った。
「では確認しておこうか。僕は今日も君の恋人だよ」
「よかった」
「一日で変わると思っていたの?」
「思ってないけど」
「僕も今日まで君を好きだったよ」
「今日まで?」
「言い方を間違えた」
「今終わったみたい」
「訂正する。今日も好きだ」
「私も」
自然に返した。
昨日より少しだけ恥ずかしくない。
でも嬉しさは変わらない。
「……慣れるの早いね」
「毎日言えばもっと慣れるかも」
「それは困るな」
「何で?」
「僕はしばらく慣れたくない」
「変なの」
「君に好きだと言われるたび嬉しい方がいいだろう?」
また胸が跳ねる。
「そういうのは上手い」
「何が?」
「キュンとさせるの」
「それは光栄だね」
「自覚ある?」
「今できた」
ルシアンがペンを置いた。
今日は仕事をするつもりがないらしい。
「座ろうか」
「うん」
昨日までと同じソファへ向かう。
リリアが座る。
ルシアンも当然のように隣へ座った。
少しだけ距離がある。
リリアはその隙間を見る。
「……遠い」
「昨日より近いよ」
「恋人になったのに」
「では?」
ルシアンがこちらを見る。
「君はどのくらいがいい?」
聞かれる。
リリアは少し考えて、自分から身体を寄せた。
肩が触れる。
「これくらい」
「分かった」
ルシアンは逃げなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「手も」
「はい」
差し出された手を取る。
指が重なる。
昨日までと違って、今日は自然に指同士を絡めた。
ルシアンの指が一瞬止まる。
「……何?」
「いや」
「嫌だった?」
「逆だよ」
絡んだ指を見下ろす。
「昨日より積極的だと思って」
「恋人だから」
「便利な言葉だね」
「嫌?」
「だから逆だと言っているだろう」
少しだけ握られる。
それだけで嬉しい。
でも今日は、これだけをしに来たわけではない。
「ルシアン先輩」
「ああ」
「聞く」
笑顔が少し消えた。
「うん」
「昨日の続き」
「……分かった」
ルシアンは手を離さなかった。
むしろ、少しだけ握り直した。
「長い話になる」
「いいよ」
「聞いている途中で、僕から離れたくなったら離れていい」
「うん」
「質問もしていい」
「うん」
「怒ってもいい」
「そんなに?」
「僕としては、それくらいのつもりで話す」
リリアはルシアンを見る。
「怖い?」
聞くと、少し驚いた顔をされた。
「……僕が?」
「うん」
昨日から思っていた。
ルシアンは何でも知っている。
世界のことも。
過去のことも。
自分のことも。
でもこの話だけは、ずっと避けてきた。
「怖いよ」
今日は誤魔化さなかった。
「君が僕を見る目が変わるかもしれない」
「そっか」
「だから」
「でも話す?」
「ああ」
「何で?」
「君が好きだから」
静かな答えだった。
「好きだからこそ、君が知らないまま僕を選ぶ状態にはしたくない」
リリアは絡んだ指を少し握った。
「分かった」
「……うん」
「聞く」
ルシアンは一度、目を閉じた。
それから話し始めた。
「最初のリリアは、人間として生まれたわけではない」
「うん」
「世界が最初に崩壊しかけた時、人類は生存するための術式を作った」
「それが再構築?」
「その原型だ」
ルシアンの声は穏やかだった。
でも、繋いだ手は少し冷たい。
「当時の世界には、崩壊を止められるだけの力を持つ人間がいなかった。だから作ろうとした」
「人を?」
「ああ」
「それがリリア?」
「そうだ」
リリアは黙って聞く。
「膨大な魔力と、世界そのものへ干渉できる魂。その器を作るため、人々の願いが集められた」
「願い?」
「生きたい。死にたくない。子どもを助けたい。家族を守りたい。世界を終わらせたくない」
無数の願い。
それが、一人の少女を作った。
「でも願いだけでは、人間の魂にはならなかった」
「じゃあ何が足りなかったの?」
ルシアンが黙った。
そして。
「僕だ」
リリアは瞬きをした。
「……ルシアン先輩?」
「ああ」
「どういうこと?」
「僕の魂を二つに分けた」
繋いだ手が僅かに強くなる。
「半分を、彼女へ与えた」
理解するまで少しかかった。
「……最初のリリアの魂に?」
「ああ」
「先輩の魂が入ってた?」
「半分だけね」
リリアはルシアンの顔を見る。
彼は笑っていなかった。
「当時の僕は、今のような立場ではなかった。まだ若かった」
「今も見た目若いけど」
「そこは今気にしなくていい」
「はい」
「術式を完成させるために、僕の魂が最も適合した」
「それで渡したの?」
「自分で選んだ」
「怖くなかった?」
「怖かったよ」
少しだけ笑う。
「僕も今よりずっと未熟だったからね」
「……痛かった?」
「かなり」
「嫌だな」
「もう終わったことだよ」
「でも嫌」
リリアは繋いだ手を握る。
ルシアンが一瞬こちらを見る。
「続けて」
「……ああ」
最初のリリアは生まれた。
銀白色の髪。
紫の瞳。
世界へ干渉する力。
人々の願いと、ルシアンの魂の半分を持って。
「最初は感情も薄かった」
「人形みたい?」
「近いかな。知識はあった。でも、自分が何を好きで、何を嫌うのか分からなかった」
「それで?」
「僕が彼女の監督役になった」
「……先輩が?」
「ああ」
教えた。
食事の味。
花の名前。
本の読み方。
雨の日の過ごし方。
笑うこと。
怒ること。
誰かを大切にすること。
「彼女は少しずつ人間らしくなった」
ルシアンの声が柔らかくなる。
「そしてある日、僕に言った」
何を言われたのか。
リリアには分かった。
「好き?」
「ああ」
『あなたのことが好き』
最初のリリアは、そう言った。
「先輩も好きだったんでしょ?」
「好きだった」
「なのに断った」
「ああ」
「何で?」
昨日まで秘密にされていた答え。
ルシアンは少しだけ目を伏せた。
「信じられなかったんだ」
「何を?」
「彼女の『好き』を」
リリアは眉を寄せる。
「どういうこと?」
「彼女の魂の半分は僕だった」
「うん」
「生まれてから最も長く一緒にいたのも僕だった」
「うん」
「人間として生きる方法を教えたのも僕だった」
ルシアンの指が僅かに震えた。
「そんな彼女が僕を好きになった時、僕には分からなかった」
「何が?」
「それが彼女自身の自由な感情なのか」
リリアは黙った。
「僕の魂を持っているから惹かれたのかもしれない。最初に与えられた相手だから依存したのかもしれない。術式が、僕を愛するよう彼女を形作ったのかもしれない」
「でも分からないんでしょ?」
「ああ」
「本当に好きだったかもしれない」
「そうだね」
「先輩は好きだった」
「ああ」
「じゃあ付き合えばよかったのに」
「そう思う?」
「ちょっと」
ルシアンは寂しそうに笑った。
「僕も何度もそう思ったよ」
「じゃあ何で」
「彼女を僕から切り離したかった」
リリアはルシアンを見る。
「僕の半分としてではなく、一人の人間として生きてほしかった」
「……それで断ったの?」
「ああ」
「好きなのに?」
「好きだから」
胸が少し痛くなった。
「彼女は泣いた?」
「泣いたよ」
「先輩は?」
「彼女の前では泣かなかった」
「一人で?」
「……少しね」
「馬鹿」
口から出た。
ルシアンが目を瞬く。
「馬鹿です」
「二回言ったね」
「だって二人とも好きだったのに」
「そうだね」
「勝手に決めたじゃん」
リリアは少し怒っていた。
「彼女の好きが本物かどうか、先輩が決めた」
「……ああ」
「本人に決めさせなかった」
「その通りだ」
反論しなかった。
「だから後悔している」
静かな声。
「彼女のためだと思っていた。でも僕は、彼女が自分の感情を決める権利まで奪った」
リリアは少し黙った。
「それから?」
「彼女は僕から離れた」
そして世界を救った。
その後、世界は崩壊と再構築を繰り返すようになった。
最初のリリアの情報もまた、世界に利用された。
何度も少女が作られた。
何度も誰かを選ばされた。
「僕は長い間、それを見てきた」
ルシアンは言う。
「止めようとした。でも完全には止められなかった」
「十二回」
「ああ」
「ずっと?」
「形は違ってもね」
リリアは彼の横顔を見る。
想像できないほど長い時間。
ずっと同じ少女の面影を見続けた。
「それで私が生まれた」
「ああ」
ルシアンがこちらを見る。
「でも君は違った」
「独立した魂」
「そう」
「先輩の半分じゃない」
「一切ない」
即答だった。
「君の魂には、僕のものは何も入っていない」
「本当に?」
「ああ」
「術式で先輩を好きになるようにもなってない?」
「なっていない」
「運命で結ばれてるとか?」
「ないよ」
「前世で恋人とか?」
「君には前世としての彼女すらない」
「じゃあ」
リリアは少し考えた。
「私とルシアン先輩って、何にもないんだ」
ルシアンの表情が僅かに揺れた。
「……そうだね」
「魂の繋がりもない」
「ああ」
「運命もない」
「ああ」
「昔の約束もない」
「ああ」
リリアは自分たちの繋いだ手を見る。
「じゃあ何で手繋いでるの?」
ルシアンが黙った。
「何にもないのに」
「……リリア」
「私が繋ぎたいからでしょ?」
顔を上げる。
「先輩も繋ぎたいから」
紫の瞳を見る。
「私が先輩に会いたいと思ったのも」
「……うん」
「昨日ずっと待ってたのも」
「うん」
「好きって言ったのも」
「うん」
「全部、私が決めたんじゃん」
ルシアンは何も言わない。
「それってすごくない?」
「……すごい?」
「うん」
リリアは笑った。
「運命ないんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ私たち、何にもないところから好きになったんだ」
ルシアンの目が僅かに見開かれる。
「私はそれ、嬉しい」
「……嫌じゃない?」
「何が?」
「最初の彼女が、僕の魂の半分から生まれたこと」
「びっくりはした」
「僕が彼女を拒んだことも」
「そこはまだ馬鹿だと思ってる」
「厳しいな」
「でも」
リリアは少し考える。
「今の私には関係ない」
ルシアンが止まった。
「冷たい?」
「いや」
「だって私、その人じゃないもん」
「ああ」
「その人が先輩をどれだけ好きだったかも、その時先輩がどれだけ好きだったかも、私には分からない」
「うん」
「大事な過去なのは分かる。でも」
繋いだ手を持ち上げる。
「今これしてるのは私」
ルシアンの指が僅かに震えた。
「先輩が今好きなのも?」
「君だよ」
「ならいい」
「……それだけ?」
「うん」
「本当に?」
「あと一個怒ってる」
「何?」
「嫌われるかもって思ってたこと」
「それは仕方ないだろう」
「私そんなに心狭くない」
「そこではなくてね」
「じゃあ何?」
「僕自身が、怖かったんだよ」
ルシアンが苦笑する。
「一度好きな人を、自分の判断で手放した。だからまた同じことをするんじゃないかと思っていた」
「今回も?」
「ああ」
「私のためって言って?」
「そう」
「それやったら怒るよ」
「知っている」
「別れるかどうかは私も決めるから」
「うん」
「先輩一人で決めないで」
「約束する」
リリアは満足して頷いた。
「じゃあ話終わり?」
「……随分あっさりしているね」
「まだある?」
「核心は話した」
「じゃあ」
リリアはルシアンを見る。
「約束覚えてる?」
今度はルシアンが完全に黙った。
「……覚えているよ」
「何だっけ?」
「君、分かっていて聞いているだろう」
「確認」
「最近その言葉を便利に使うね」
「何だっけ?」
ルシアンが小さく息を吐く。
「僕の話を全部聞いて」
「うん」
「それでも君が僕にキスしたいと思っていたら」
「うん」
「僕から聞く」
「じゃあ聞いて」
ルシアンがこちらを見る。
さっきまで過去を話していた時より、明らかに困っている。
「……リリア」
「はい」
「少しくらい余韻をくれないかな」
「昨日から待ってた」
「それを言われると弱いな」
リリアは少し笑う。
「まだしたいよ」
はっきり言った。
「話聞いても変わらなかった」
「……そう」
「むしろ前よりしたいかも」
「それ以上言うと、僕が困る」
「何で?」
「君、本当に分かっていない?」
「何を?」
「いや」
ルシアンが眼鏡を外した。
「何で外すの?」
「邪魔だから」
その答えだけで、一気に緊張した。
「……あ」
「今さら?」
「急に緊張してきた」
「やめる?」
「やめない」
「即答だね」
「したい」
ルシアンが少し笑う。
「分かった」
それから。
空いている手が、リリアの頬へ触れる。
昨日まで頭を撫でられることはあった。
でも頬は初めてだった。
「嫌じゃない?」
「うん」
「リリア」
「何?」
眼鏡のない紫の瞳が、近くにある。
ルシアンも緊張している。
今なら分かる。
「キスしてもいい?」
昨日予告された言葉。
なのに実際に聞かれると、全然違った。
「……はい」
ルシアンが近づく。
でも途中で止まった。
「何?」
「君があまりに見ているから」
「目閉じる?」
「できれば」
「先輩も緊張してる?」
「かなり」
「可愛い」
「今言う?」
「だって」
「リリア」
「はい」
「目を閉じて」
「はい」
言われた通りにする。
頬に触れている手が少し動く。
そして。
唇が触れた。
ほんの短いキスだった。
すぐに離れる。
目を開ける。
ルシアンが近くにいる。
思ったよりずっと近い。
「……終わった?」
「終わったよ」
「短い」
言ってから、ルシアンが固まった。
「……リリア」
「何?」
「それは、もう一度してほしいという意味?」
自分でも考える。
「……多分」
「多分?」
「したい」
今度は自分から言った。
ルシアンが困ったように笑う。
「本当に手強いね、君は」
「嫌?」
「逆」
もう一度、頬へ触れられる。
今度はリリアも目を閉じた。
二度目も優しかった。
少しだけ長い。
それでもすぐ離れる。
ルシアンの額が、リリアの額へ軽く触れた。
「……今日はここまで」
「何で?」
「僕の理性のため」
「そんなに?」
「そんなに」
リリアは少し笑った。
「先輩、余裕ないね」
「ずっとそう言っているだろう」
「やっと分かった」
「遅いよ」
繋いでいた手は、まだ離れていない。
「ルシアン先輩」
「何?」
「好き」
近いまま言う。
ルシアンが目を閉じた。
「……それも今言う?」
「言いたかった」
「そう」
もう一度キスされるかと思った。
でもルシアンはしなかった。
代わりに、リリアの手を自分の頬へ持っていく。
「僕も好きだよ」
その声の方が、キスより胸に残った。
「今の私?」
「ああ」
「魂の半分じゃなくて?」
「君には入っていない」
「運命じゃなくて?」
「運命じゃない」
「じゃあ何で?」
少し意地悪く聞く。
ルシアンは笑った。
「君だから」
胸が跳ねる。
「……それ好き」
「何が?」
「その答え」
「なら覚えておこう」
「また言って」
「何度でも」
リリアは少しだけ肩へ寄りかかった。
ルシアンも自然に受け止める。
「何にもないんだね、私たち」
「ああ」
「何にも決められてない」
「ああ」
「明日別れる可能性もある?」
「理論上は」
「嫌?」
「かなり」
「私も」
「そう」
「じゃあ明日は別れない」
ルシアンが笑った。
「その次は?」
「明日決める」
「なるほど」
「毎日決めればいいでしょ」
「そうだね」
昔。
彼は、好きな少女を手放した。
彼女の自由のためだと思って。
今。
自由な少女が、自分から彼の隣へ座っている。
誰にも決められていない。
何にも繋がれていない。
それでも。
手を繋ぐ。
好きだと言う。
キスをする。
それだけでよかった。
その日の夜。
リリアが帰ったあとの生徒会室で、ルシアンは一人、古い記録を閉じた。
長い間、開くたび胸が痛んだ記録だった。
最初の彼女。
彼女の告白。
自分の拒絶。
その後に続いた、十二の世界。
どれも消えない。
消す必要もない。
けれど今日。
初めて、その記録の隣に置けるものができた。
過去の続きではない。
全く新しい記憶。
『運命ないんでしょ?』
思い出して、少し笑う。
『じゃあ私たち、何にもないところから好きになったんだ』
「……そうだね」
ルシアンは眼鏡を外す。
今日、彼女に触れた唇を思い出す。
最初のリリアとは、一度もキスをしなかった。
恋人にもならなかった。
だから今日のことは。
誰の記憶とも重ならない。
今の自分と。
今の彼女だけのものだった。
「運命がなくても」
小さく呟く。
「僕は君を選ぶよ」
その言葉を、いつか本人にも伝えようと思った。
リリアは生徒会室の前で、一度深呼吸した。
昨日までは、扉を開けることに緊張なんてしなかった。
今日は違う。
恋人になってから、初めて会う。
それに。
『それでもまだ僕にキスしたいと思っていたら』
思い出す。
「……意識するに決まってる」
昨日、自分から予約したようなものだ。
逃げるわけにもいかない。
ノックする。
「どうぞ」
声を聞いただけで、少し胸が跳ねた。
扉を開ける。
「こんにちは」
「こんにちは、リリア」
ルシアンはいつもの机にいた。
顔を見る。
昨日と同じ。
眼鏡。
黒紫の髪。
深紅のネクタイ。
なのに。
「……何だろ」
「何が?」
「恋人になってる」
ルシアンが数秒黙った。
「昨日からね」
「分かってる」
「確認したかった?」
「ちょっと」
ルシアンが笑った。
「では確認しておこうか。僕は今日も君の恋人だよ」
「よかった」
「一日で変わると思っていたの?」
「思ってないけど」
「僕も今日まで君を好きだったよ」
「今日まで?」
「言い方を間違えた」
「今終わったみたい」
「訂正する。今日も好きだ」
「私も」
自然に返した。
昨日より少しだけ恥ずかしくない。
でも嬉しさは変わらない。
「……慣れるの早いね」
「毎日言えばもっと慣れるかも」
「それは困るな」
「何で?」
「僕はしばらく慣れたくない」
「変なの」
「君に好きだと言われるたび嬉しい方がいいだろう?」
また胸が跳ねる。
「そういうのは上手い」
「何が?」
「キュンとさせるの」
「それは光栄だね」
「自覚ある?」
「今できた」
ルシアンがペンを置いた。
今日は仕事をするつもりがないらしい。
「座ろうか」
「うん」
昨日までと同じソファへ向かう。
リリアが座る。
ルシアンも当然のように隣へ座った。
少しだけ距離がある。
リリアはその隙間を見る。
「……遠い」
「昨日より近いよ」
「恋人になったのに」
「では?」
ルシアンがこちらを見る。
「君はどのくらいがいい?」
聞かれる。
リリアは少し考えて、自分から身体を寄せた。
肩が触れる。
「これくらい」
「分かった」
ルシアンは逃げなかった。
ただ、少しだけ笑った。
「手も」
「はい」
差し出された手を取る。
指が重なる。
昨日までと違って、今日は自然に指同士を絡めた。
ルシアンの指が一瞬止まる。
「……何?」
「いや」
「嫌だった?」
「逆だよ」
絡んだ指を見下ろす。
「昨日より積極的だと思って」
「恋人だから」
「便利な言葉だね」
「嫌?」
「だから逆だと言っているだろう」
少しだけ握られる。
それだけで嬉しい。
でも今日は、これだけをしに来たわけではない。
「ルシアン先輩」
「ああ」
「聞く」
笑顔が少し消えた。
「うん」
「昨日の続き」
「……分かった」
ルシアンは手を離さなかった。
むしろ、少しだけ握り直した。
「長い話になる」
「いいよ」
「聞いている途中で、僕から離れたくなったら離れていい」
「うん」
「質問もしていい」
「うん」
「怒ってもいい」
「そんなに?」
「僕としては、それくらいのつもりで話す」
リリアはルシアンを見る。
「怖い?」
聞くと、少し驚いた顔をされた。
「……僕が?」
「うん」
昨日から思っていた。
ルシアンは何でも知っている。
世界のことも。
過去のことも。
自分のことも。
でもこの話だけは、ずっと避けてきた。
「怖いよ」
今日は誤魔化さなかった。
「君が僕を見る目が変わるかもしれない」
「そっか」
「だから」
「でも話す?」
「ああ」
「何で?」
「君が好きだから」
静かな答えだった。
「好きだからこそ、君が知らないまま僕を選ぶ状態にはしたくない」
リリアは絡んだ指を少し握った。
「分かった」
「……うん」
「聞く」
ルシアンは一度、目を閉じた。
それから話し始めた。
「最初のリリアは、人間として生まれたわけではない」
「うん」
「世界が最初に崩壊しかけた時、人類は生存するための術式を作った」
「それが再構築?」
「その原型だ」
ルシアンの声は穏やかだった。
でも、繋いだ手は少し冷たい。
「当時の世界には、崩壊を止められるだけの力を持つ人間がいなかった。だから作ろうとした」
「人を?」
「ああ」
「それがリリア?」
「そうだ」
リリアは黙って聞く。
「膨大な魔力と、世界そのものへ干渉できる魂。その器を作るため、人々の願いが集められた」
「願い?」
「生きたい。死にたくない。子どもを助けたい。家族を守りたい。世界を終わらせたくない」
無数の願い。
それが、一人の少女を作った。
「でも願いだけでは、人間の魂にはならなかった」
「じゃあ何が足りなかったの?」
ルシアンが黙った。
そして。
「僕だ」
リリアは瞬きをした。
「……ルシアン先輩?」
「ああ」
「どういうこと?」
「僕の魂を二つに分けた」
繋いだ手が僅かに強くなる。
「半分を、彼女へ与えた」
理解するまで少しかかった。
「……最初のリリアの魂に?」
「ああ」
「先輩の魂が入ってた?」
「半分だけね」
リリアはルシアンの顔を見る。
彼は笑っていなかった。
「当時の僕は、今のような立場ではなかった。まだ若かった」
「今も見た目若いけど」
「そこは今気にしなくていい」
「はい」
「術式を完成させるために、僕の魂が最も適合した」
「それで渡したの?」
「自分で選んだ」
「怖くなかった?」
「怖かったよ」
少しだけ笑う。
「僕も今よりずっと未熟だったからね」
「……痛かった?」
「かなり」
「嫌だな」
「もう終わったことだよ」
「でも嫌」
リリアは繋いだ手を握る。
ルシアンが一瞬こちらを見る。
「続けて」
「……ああ」
最初のリリアは生まれた。
銀白色の髪。
紫の瞳。
世界へ干渉する力。
人々の願いと、ルシアンの魂の半分を持って。
「最初は感情も薄かった」
「人形みたい?」
「近いかな。知識はあった。でも、自分が何を好きで、何を嫌うのか分からなかった」
「それで?」
「僕が彼女の監督役になった」
「……先輩が?」
「ああ」
教えた。
食事の味。
花の名前。
本の読み方。
雨の日の過ごし方。
笑うこと。
怒ること。
誰かを大切にすること。
「彼女は少しずつ人間らしくなった」
ルシアンの声が柔らかくなる。
「そしてある日、僕に言った」
何を言われたのか。
リリアには分かった。
「好き?」
「ああ」
『あなたのことが好き』
最初のリリアは、そう言った。
「先輩も好きだったんでしょ?」
「好きだった」
「なのに断った」
「ああ」
「何で?」
昨日まで秘密にされていた答え。
ルシアンは少しだけ目を伏せた。
「信じられなかったんだ」
「何を?」
「彼女の『好き』を」
リリアは眉を寄せる。
「どういうこと?」
「彼女の魂の半分は僕だった」
「うん」
「生まれてから最も長く一緒にいたのも僕だった」
「うん」
「人間として生きる方法を教えたのも僕だった」
ルシアンの指が僅かに震えた。
「そんな彼女が僕を好きになった時、僕には分からなかった」
「何が?」
「それが彼女自身の自由な感情なのか」
リリアは黙った。
「僕の魂を持っているから惹かれたのかもしれない。最初に与えられた相手だから依存したのかもしれない。術式が、僕を愛するよう彼女を形作ったのかもしれない」
「でも分からないんでしょ?」
「ああ」
「本当に好きだったかもしれない」
「そうだね」
「先輩は好きだった」
「ああ」
「じゃあ付き合えばよかったのに」
「そう思う?」
「ちょっと」
ルシアンは寂しそうに笑った。
「僕も何度もそう思ったよ」
「じゃあ何で」
「彼女を僕から切り離したかった」
リリアはルシアンを見る。
「僕の半分としてではなく、一人の人間として生きてほしかった」
「……それで断ったの?」
「ああ」
「好きなのに?」
「好きだから」
胸が少し痛くなった。
「彼女は泣いた?」
「泣いたよ」
「先輩は?」
「彼女の前では泣かなかった」
「一人で?」
「……少しね」
「馬鹿」
口から出た。
ルシアンが目を瞬く。
「馬鹿です」
「二回言ったね」
「だって二人とも好きだったのに」
「そうだね」
「勝手に決めたじゃん」
リリアは少し怒っていた。
「彼女の好きが本物かどうか、先輩が決めた」
「……ああ」
「本人に決めさせなかった」
「その通りだ」
反論しなかった。
「だから後悔している」
静かな声。
「彼女のためだと思っていた。でも僕は、彼女が自分の感情を決める権利まで奪った」
リリアは少し黙った。
「それから?」
「彼女は僕から離れた」
そして世界を救った。
その後、世界は崩壊と再構築を繰り返すようになった。
最初のリリアの情報もまた、世界に利用された。
何度も少女が作られた。
何度も誰かを選ばされた。
「僕は長い間、それを見てきた」
ルシアンは言う。
「止めようとした。でも完全には止められなかった」
「十二回」
「ああ」
「ずっと?」
「形は違ってもね」
リリアは彼の横顔を見る。
想像できないほど長い時間。
ずっと同じ少女の面影を見続けた。
「それで私が生まれた」
「ああ」
ルシアンがこちらを見る。
「でも君は違った」
「独立した魂」
「そう」
「先輩の半分じゃない」
「一切ない」
即答だった。
「君の魂には、僕のものは何も入っていない」
「本当に?」
「ああ」
「術式で先輩を好きになるようにもなってない?」
「なっていない」
「運命で結ばれてるとか?」
「ないよ」
「前世で恋人とか?」
「君には前世としての彼女すらない」
「じゃあ」
リリアは少し考えた。
「私とルシアン先輩って、何にもないんだ」
ルシアンの表情が僅かに揺れた。
「……そうだね」
「魂の繋がりもない」
「ああ」
「運命もない」
「ああ」
「昔の約束もない」
「ああ」
リリアは自分たちの繋いだ手を見る。
「じゃあ何で手繋いでるの?」
ルシアンが黙った。
「何にもないのに」
「……リリア」
「私が繋ぎたいからでしょ?」
顔を上げる。
「先輩も繋ぎたいから」
紫の瞳を見る。
「私が先輩に会いたいと思ったのも」
「……うん」
「昨日ずっと待ってたのも」
「うん」
「好きって言ったのも」
「うん」
「全部、私が決めたんじゃん」
ルシアンは何も言わない。
「それってすごくない?」
「……すごい?」
「うん」
リリアは笑った。
「運命ないんでしょ?」
「ああ」
「じゃあ私たち、何にもないところから好きになったんだ」
ルシアンの目が僅かに見開かれる。
「私はそれ、嬉しい」
「……嫌じゃない?」
「何が?」
「最初の彼女が、僕の魂の半分から生まれたこと」
「びっくりはした」
「僕が彼女を拒んだことも」
「そこはまだ馬鹿だと思ってる」
「厳しいな」
「でも」
リリアは少し考える。
「今の私には関係ない」
ルシアンが止まった。
「冷たい?」
「いや」
「だって私、その人じゃないもん」
「ああ」
「その人が先輩をどれだけ好きだったかも、その時先輩がどれだけ好きだったかも、私には分からない」
「うん」
「大事な過去なのは分かる。でも」
繋いだ手を持ち上げる。
「今これしてるのは私」
ルシアンの指が僅かに震えた。
「先輩が今好きなのも?」
「君だよ」
「ならいい」
「……それだけ?」
「うん」
「本当に?」
「あと一個怒ってる」
「何?」
「嫌われるかもって思ってたこと」
「それは仕方ないだろう」
「私そんなに心狭くない」
「そこではなくてね」
「じゃあ何?」
「僕自身が、怖かったんだよ」
ルシアンが苦笑する。
「一度好きな人を、自分の判断で手放した。だからまた同じことをするんじゃないかと思っていた」
「今回も?」
「ああ」
「私のためって言って?」
「そう」
「それやったら怒るよ」
「知っている」
「別れるかどうかは私も決めるから」
「うん」
「先輩一人で決めないで」
「約束する」
リリアは満足して頷いた。
「じゃあ話終わり?」
「……随分あっさりしているね」
「まだある?」
「核心は話した」
「じゃあ」
リリアはルシアンを見る。
「約束覚えてる?」
今度はルシアンが完全に黙った。
「……覚えているよ」
「何だっけ?」
「君、分かっていて聞いているだろう」
「確認」
「最近その言葉を便利に使うね」
「何だっけ?」
ルシアンが小さく息を吐く。
「僕の話を全部聞いて」
「うん」
「それでも君が僕にキスしたいと思っていたら」
「うん」
「僕から聞く」
「じゃあ聞いて」
ルシアンがこちらを見る。
さっきまで過去を話していた時より、明らかに困っている。
「……リリア」
「はい」
「少しくらい余韻をくれないかな」
「昨日から待ってた」
「それを言われると弱いな」
リリアは少し笑う。
「まだしたいよ」
はっきり言った。
「話聞いても変わらなかった」
「……そう」
「むしろ前よりしたいかも」
「それ以上言うと、僕が困る」
「何で?」
「君、本当に分かっていない?」
「何を?」
「いや」
ルシアンが眼鏡を外した。
「何で外すの?」
「邪魔だから」
その答えだけで、一気に緊張した。
「……あ」
「今さら?」
「急に緊張してきた」
「やめる?」
「やめない」
「即答だね」
「したい」
ルシアンが少し笑う。
「分かった」
それから。
空いている手が、リリアの頬へ触れる。
昨日まで頭を撫でられることはあった。
でも頬は初めてだった。
「嫌じゃない?」
「うん」
「リリア」
「何?」
眼鏡のない紫の瞳が、近くにある。
ルシアンも緊張している。
今なら分かる。
「キスしてもいい?」
昨日予告された言葉。
なのに実際に聞かれると、全然違った。
「……はい」
ルシアンが近づく。
でも途中で止まった。
「何?」
「君があまりに見ているから」
「目閉じる?」
「できれば」
「先輩も緊張してる?」
「かなり」
「可愛い」
「今言う?」
「だって」
「リリア」
「はい」
「目を閉じて」
「はい」
言われた通りにする。
頬に触れている手が少し動く。
そして。
唇が触れた。
ほんの短いキスだった。
すぐに離れる。
目を開ける。
ルシアンが近くにいる。
思ったよりずっと近い。
「……終わった?」
「終わったよ」
「短い」
言ってから、ルシアンが固まった。
「……リリア」
「何?」
「それは、もう一度してほしいという意味?」
自分でも考える。
「……多分」
「多分?」
「したい」
今度は自分から言った。
ルシアンが困ったように笑う。
「本当に手強いね、君は」
「嫌?」
「逆」
もう一度、頬へ触れられる。
今度はリリアも目を閉じた。
二度目も優しかった。
少しだけ長い。
それでもすぐ離れる。
ルシアンの額が、リリアの額へ軽く触れた。
「……今日はここまで」
「何で?」
「僕の理性のため」
「そんなに?」
「そんなに」
リリアは少し笑った。
「先輩、余裕ないね」
「ずっとそう言っているだろう」
「やっと分かった」
「遅いよ」
繋いでいた手は、まだ離れていない。
「ルシアン先輩」
「何?」
「好き」
近いまま言う。
ルシアンが目を閉じた。
「……それも今言う?」
「言いたかった」
「そう」
もう一度キスされるかと思った。
でもルシアンはしなかった。
代わりに、リリアの手を自分の頬へ持っていく。
「僕も好きだよ」
その声の方が、キスより胸に残った。
「今の私?」
「ああ」
「魂の半分じゃなくて?」
「君には入っていない」
「運命じゃなくて?」
「運命じゃない」
「じゃあ何で?」
少し意地悪く聞く。
ルシアンは笑った。
「君だから」
胸が跳ねる。
「……それ好き」
「何が?」
「その答え」
「なら覚えておこう」
「また言って」
「何度でも」
リリアは少しだけ肩へ寄りかかった。
ルシアンも自然に受け止める。
「何にもないんだね、私たち」
「ああ」
「何にも決められてない」
「ああ」
「明日別れる可能性もある?」
「理論上は」
「嫌?」
「かなり」
「私も」
「そう」
「じゃあ明日は別れない」
ルシアンが笑った。
「その次は?」
「明日決める」
「なるほど」
「毎日決めればいいでしょ」
「そうだね」
昔。
彼は、好きな少女を手放した。
彼女の自由のためだと思って。
今。
自由な少女が、自分から彼の隣へ座っている。
誰にも決められていない。
何にも繋がれていない。
それでも。
手を繋ぐ。
好きだと言う。
キスをする。
それだけでよかった。
その日の夜。
リリアが帰ったあとの生徒会室で、ルシアンは一人、古い記録を閉じた。
長い間、開くたび胸が痛んだ記録だった。
最初の彼女。
彼女の告白。
自分の拒絶。
その後に続いた、十二の世界。
どれも消えない。
消す必要もない。
けれど今日。
初めて、その記録の隣に置けるものができた。
過去の続きではない。
全く新しい記憶。
『運命ないんでしょ?』
思い出して、少し笑う。
『じゃあ私たち、何にもないところから好きになったんだ』
「……そうだね」
ルシアンは眼鏡を外す。
今日、彼女に触れた唇を思い出す。
最初のリリアとは、一度もキスをしなかった。
恋人にもならなかった。
だから今日のことは。
誰の記憶とも重ならない。
今の自分と。
今の彼女だけのものだった。
「運命がなくても」
小さく呟く。
「僕は君を選ぶよ」
その言葉を、いつか本人にも伝えようと思った。

