翌日の放課後。
リリアは生徒会室の扉の前で、自分の右手を見ていた。
正確には、小指を。
昨日ここで、ルシアンの小指に触れた。
たったそれだけ。
手を繋いだわけでもない。
抱きしめられたわけでもない。
なのに、昨日の夜から何度も思い出している。
「……変なの」
小指なんて普段意識しない。
それなのに今は、妙に存在感がある。
ノックしようと手を上げたところで、扉が開いた。
「わ」
「おっと」
目の前にルシアンがいた。
ぶつかりそうになり、反射的に一歩下がる。
「びっくりした」
「僕もだよ」
「どこ行くの?」
「君を迎えに」
リリアは瞬きをした。
「私?」
「ああ」
「何で?」
「昨日、来てほしいと言っただろう」
「うん」
「待っていたんだけどね」
ルシアンが時計を見る。
「約束の時間を決めていなかったことに気づいた」
「あ」
「だから教室へ行こうと思っていた」
「私も今来た」
「ちょうどよかったね」
「……迎えに来てくれようとしたんだ」
「ああ」
「嬉しい」
素直に言う。
ルシアンが一瞬だけ黙った。
「先輩?」
「君は今日も容赦がないなと思って」
「何が?」
「何でもないよ」
そう言って身体をずらす。
「どうぞ」
「お邪魔します」
「昨日も来ていたけどね」
中へ入る。
今日は机の上に書類がほとんどなかった。
「仕事ないの?」
「終わらせた」
「早い」
「君が来るから」
リリアは鞄を置こうとして、止まった。
「……今の何?」
「仕事を早めに終わらせた理由」
「私が来るから?」
「ああ」
「私と話すため?」
「そうだけど」
あまりにも普通に言われる。
「何でそんな普通に言えるの」
「何が?」
「そういうの」
「昨日、正直にと言われたからね」
「急に素直すぎる」
「不満?」
「……不満じゃない」
「ならよかった」
ルシアンが微笑む。
ずるい。
昨日までは自分が困らせている側だったはずなのに。
今日は逆になっている。
リリアはソファへ座る。
昨日と同じ場所。
ルシアンも来る。
そして。
当然のように向かいへ座った。
「……そこ?」
「何か?」
「昨日、隣だった」
言ってから、自分で驚く。
ルシアンも少し驚いたようだった。
「隣がいい?」
「……うん」
「どうして?」
「分かんない」
「昨日は遠いと言っていたね」
「今日も遠い」
「これくらいしか離れていないよ」
「でも遠い」
ルシアンはしばらくこちらを見る。
「君は今日、随分可愛いことを言うね」
「え」
「何でもない」
「今絶対何か言った」
「気のせいじゃないかな」
「聞こえた!」
ルシアンは笑いながら立ち上がった。
そしてリリアの隣へ座る。
昨日より少し近い。
「これで?」
「……うん」
「満足?」
「うん」
「そう」
肩が触れそうで触れない。
その距離が気になる。
リリアはまた自分の右手を見る。
ルシアンが気づいた。
「昨日のこと?」
「何で分かるの」
「僕も考えていたから」
リリアは顔を上げる。
「小指?」
「ああ」
「先輩も?」
「何度かね」
「……私だけじゃなかった」
「安心した?」
「ちょっと」
「それはよかった」
ルシアンの右手がソファへ置かれる。
昨日と同じ。
リリアのすぐ近く。
「今日は?」
聞かれた。
「何が?」
「触れたい?」
昨日と同じ質問。
でも今日は、答えが違った。
「……うん」
ルシアンの目が僅かに揺れる。
「昨日より分かってる」
「そう」
「先輩は?」
「触れたいよ」
「今日も?」
「昨日より」
胸が跳ねた。
リリアは彼の手を見る。
「じゃあ」
少し迷ってから、小指を伸ばす。
昨日と同じように触れる。
でも。
「……これじゃ足りないかも」
自分で言って、自分で恥ずかしくなった。
ルシアンは動かなかった。
「リリア」
「何」
「僕にどうしてほしい?」
「分かんない」
「では待つよ」
「……先輩はどうしたいの?」
「それを言うと、君が合わせそうだから」
「合わせないよ」
「本当に?」
「嫌だったら嫌って言う」
ルシアンがこちらを見る。
しばらくして、静かに言った。
「手を繋ぎたい」
心臓が大きく鳴った。
「……私と?」
「ここまで来て他に誰がいるんだい?」
「確認」
「君の癖が移ったかな」
少し笑う。
それから、ルシアンは手のひらを上に向けた。
「嫌なら触れなくていい」
リリアはその手を見る。
昨日より、一歩先。
自分から指を伸ばす。
手のひらを重ねる。
ルシアンの指がゆっくり閉じた。
手を繋いだ。
「……あ」
「どう?」
「思ったより」
「何?」
「緊張する」
「僕もだよ」
「嘘」
「本当」
「全然見えない」
「なら触ってみる?」
「どこ?」
ルシアンは一瞬黙った。
それから繋いでいない方の手で、自分の胸元を指した。
「心臓」
「……触っていいの?」
「君が確認したいなら」
リリアは迷った。
でも気になる。
繋いだ手はそのまま。
もう片方の手を、そっとルシアンの胸元へ当てる。
服越しに鼓動が伝わった。
「……速い」
「だから言っただろう」
「本当に緊張してる」
「しているよ」
「何で?」
「好きな女の子と初めて手を繋いでいるから、と言ったら?」
リリアの手が止まった。
ルシアンも止まった。
数秒。
「……え?」
「……今のは忘れてくれるかな」
「無理」
「そうだろうね」
「好きな女の子って言った」
「言ったね」
「私?」
「それ以外に聞こえた?」
心臓が今度は自分の方でうるさくなる。
「……それ、告白?」
「まだ違う」
「まだ?」
「ああ」
ルシアンは繋いだ手を離さない。
「好きだという事実を隠すのは、もう難しそうだから認める。でも今、君に答えを求めるつもりはない」
「何で?」
「君はまだ、自分の気持ちが分かっていないだろう?」
図星だった。
「……うん」
「だから」
ルシアンが少し笑う。
「僕が好きだと知ったから、僕を好きになろうとしなくていい」
「そんなことしないよ」
「そう?」
「好きなら好きになるし、違ったら違う」
「うん」
「でも」
リリアは繋いだ手を見る。
「今、結構嬉しい」
ルシアンの指が僅かに動いた。
「僕が君を好きなのが?」
「うん」
「それは期待しても?」
「分かんない」
「正直だね」
「まだ分かんないから」
「それでいい」
ルシアンの親指が、リリアの手の甲を一度だけ撫でた。
小さな動き。
なのに、そこだけ熱くなる。
「……今の」
「嫌だった?」
「違う」
「では?」
「もう一回して」
今度はルシアンが黙った。
「……リリア」
「何?」
「君は僕をどうしたいんだろうね」
「分かんない」
「僕も分からなくなってきたよ」
そう言いながら、もう一度。
親指が手の甲をゆっくり撫でる。
「これ?」
「うん」
「好き?」
「うん」
「覚えておくよ」
「何で?」
「君の好きなものを知りたいから」
リリアは顔を上げる。
目が合った。
近い。
昨日より近い。
眼鏡越しの紫の瞳。
「ルシアン先輩」
「何?」
「私のこと、いつから好き?」
ルシアンは少し考えた。
「はっきりとは分からない」
「昨日?」
「もっと前だと思う」
「最初から?」
「それは違う」
きっぱり言われる。
なぜか安心した。
「最初の頃は、君を見るたびに過去を意識していた」
「昔のリリア?」
「ああ」
「今は?」
「君を見ると君のことを考える」
「例えば?」
「今なら」
ルシアンが少しだけ顔を寄せる。
「どうしてそんなに僕の近くへ座りたがるのか、とか」
「……近くにいたいから」
「そういう答えが返ってくるから困るんだよ」
「本当だもん」
「うん」
ルシアンの声が少し柔らかくなる。
「だから好きになったんだと思う」
リリアは何も言えなかった。
嬉しい。
恥ずかしい。
もっと聞きたい。
色々な気持ちが混ざる。
「私」
「うん」
「先輩が昔のリリア好きだったって聞いた時、嫌だった」
「昨日言っていたね」
「嫉妬だったのかな」
「僕に聞く?」
「分かんないから」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
「役に立たない」
「恋愛相談の相手が、君を好きな男だからね」
「……それ言われると変な感じ」
「嫌?」
「嫌じゃない」
即答した。
ルシアンが少し笑う。
「それなら十分だよ」
「でもセシルと話してて嫉妬したんでしょ?」
「ああ」
「ノアだったら?」
「するかもしれない」
「アレン先輩」
「するね」
「レオン先輩」
「する」
「クロフォード先輩」
「君、楽しんでいない?」
「ちょっと」
「するよ」
「全員?」
「君が誰かを選ぶ自由は君にある。それと僕が嫉妬することは別だ」
リリアは少し笑った。
「余裕あるのかないのか分かんない」
「ないよ」
「え?」
「君が思っているほど余裕はない」
ルシアンは繋いだ手を少し持ち上げた。
「これだけでも、かなり嬉しい」
「……そうなんだ」
「ああ」
「じゃあもっとしたら?」
「何を?」
「分かんないけど」
「危険な提案だね」
「何で?」
「僕が色々考えるから」
「例えば?」
「教えない」
「また秘密」
「これは君が自分で知る必要のない秘密だよ」
「気になる」
「駄目」
リリアは不満そうに彼を見る。
するとルシアンが笑った。
「そんな顔をしても駄目」
「ケチ」
「君がもう少し自分の気持ちを知ったらね」
「そしたら教えてくれる?」
「その頃には、聞かなくても分かるかもしれない」
「何それ」
「秘密」
「増えてる!」
笑っているうちに、最初の緊張は少し薄れた。
それでも手は繋いだままだった。
しばらくして、リリアはルシアンの肩を見る。
「寄りかかっていい?」
「……今日は積極的だね」
「嫌?」
「逆」
「じゃあ」
そっと肩へ頭を預ける。
ルシアンの身体が一瞬だけ固くなった。
「緊張してる?」
「している」
「心臓確認する?」
「やめてくれるかな」
「何で?」
「さっきより速い自信がある」
思わず笑った。
「可愛い」
「僕にその言葉を使う人は初めてかもしれない」
「嫌?」
「……悪くない」
リリアはそのまま目を閉じる。
「眠い?」
「ちょっと」
「寝てもいいよ」
「仕事は?」
「今日は終わっている」
「私のために?」
「そうだよ」
「……嬉しい」
「うん」
「先輩」
「何?」
「手、離さないで」
また身体が僅かに固くなった。
「寝るまで?」
「起きるまで」
「長いね」
「嫌?」
「まさか」
繋いだ手に、少しだけ力が入る。
「離さないよ」
その言葉が心地よかった。
少しして、リリアは本当に眠ってしまった。
目を覚ました時、窓の外は夕方だった。
「……寝た」
「よく寝ていたね」
顔を上げる。
ルシアンはまだ隣にいる。
そして。
「……本当に繋いでる」
「約束したからね」
「ずっと?」
「ああ」
「手疲れなかった?」
「少し」
「離せばよかったのに」
「君が離すなと言っただろう」
「律儀」
「そういうところはね」
リリアは繋いだ手を見る。
なんとなく。
まだ離したくない。
「ルシアン先輩」
「何?」
「私、先輩のこと好きなのかな」
ルシアンの表情が止まった。
「……それを僕に聞くのかい?」
「だって詳しそう」
「世界構造より難しい質問だよ」
「分かんない?」
「僕には決められない」
「そっか」
「ただ」
ルシアンがこちらを見る。
「君が僕に会いたいと言ってくれるのは嬉しい」
「うん」
「触れたいと思ってくれるのも」
「うん」
「僕が君を好きだと知って嬉しいと言ってくれたことも」
「うん」
「全部、僕には十分すぎるくらい嬉しいよ」
リリアは少し考える。
「じゃあまだ考える」
「ああ」
「明日も会っていい?」
「もちろん」
「手も?」
「君が繋ぎたければ」
「先輩は?」
「繋ぎたい」
「じゃあ繋ぐ」
「そうだね」
立ち上がる。
その時ようやく手が離れた。
少しだけ寂しい。
それがまた気になった。
生徒会室を出る前、リリアは振り返る。
「ルシアン先輩」
「何?」
「また明日」
「ああ」
少しだけ間があって。
「楽しみにしているよ」
廊下へ出る。
扉を閉める。
リリアはまた右手を見る。
昨日は小指だけだった。
今日は手を繋いだ。
肩にも寄りかかった。
好きだと言われた。
嬉しかった。
そして今。
明日も会いたい。
「……これ、結構怪しいな」
自分の気持ちが。
かなり。
一方、生徒会室。
ルシアンは一人になってから、長く息を吐いた。
「……危なかった」
手を繋いだ。
胸に触れられた。
肩へ寄りかかられた。
離さないでと言われた。
そして。
『私、先輩のこと好きなのかな』
「それを僕に聞かないでほしいな」
答えは言える。
期待もしている。
けれど、言わない。
今の彼女が自分で辿り着くまで。
昔の彼女は、自分の魂の半分から生まれた。
今の彼女には、その繋がりがない。
だからこそ。
今度の「好き」は。
何にも決められていないものとして聞きたい。
ルシアンは眼鏡を外す。
肩には、まだ彼女の頭の重さが残っている気がした。
「……それにしても」
思い出す。
『手、離さないで』
ルシアンは片手で顔を覆った。
「今の君の方が、ずっと手強いよ」
世界を十二回見てきた男が。
たった一人の少女の一言に振り回されている。
それが妙に可笑しくて。
少しだけ、幸せだった。
リリアは生徒会室の扉の前で、自分の右手を見ていた。
正確には、小指を。
昨日ここで、ルシアンの小指に触れた。
たったそれだけ。
手を繋いだわけでもない。
抱きしめられたわけでもない。
なのに、昨日の夜から何度も思い出している。
「……変なの」
小指なんて普段意識しない。
それなのに今は、妙に存在感がある。
ノックしようと手を上げたところで、扉が開いた。
「わ」
「おっと」
目の前にルシアンがいた。
ぶつかりそうになり、反射的に一歩下がる。
「びっくりした」
「僕もだよ」
「どこ行くの?」
「君を迎えに」
リリアは瞬きをした。
「私?」
「ああ」
「何で?」
「昨日、来てほしいと言っただろう」
「うん」
「待っていたんだけどね」
ルシアンが時計を見る。
「約束の時間を決めていなかったことに気づいた」
「あ」
「だから教室へ行こうと思っていた」
「私も今来た」
「ちょうどよかったね」
「……迎えに来てくれようとしたんだ」
「ああ」
「嬉しい」
素直に言う。
ルシアンが一瞬だけ黙った。
「先輩?」
「君は今日も容赦がないなと思って」
「何が?」
「何でもないよ」
そう言って身体をずらす。
「どうぞ」
「お邪魔します」
「昨日も来ていたけどね」
中へ入る。
今日は机の上に書類がほとんどなかった。
「仕事ないの?」
「終わらせた」
「早い」
「君が来るから」
リリアは鞄を置こうとして、止まった。
「……今の何?」
「仕事を早めに終わらせた理由」
「私が来るから?」
「ああ」
「私と話すため?」
「そうだけど」
あまりにも普通に言われる。
「何でそんな普通に言えるの」
「何が?」
「そういうの」
「昨日、正直にと言われたからね」
「急に素直すぎる」
「不満?」
「……不満じゃない」
「ならよかった」
ルシアンが微笑む。
ずるい。
昨日までは自分が困らせている側だったはずなのに。
今日は逆になっている。
リリアはソファへ座る。
昨日と同じ場所。
ルシアンも来る。
そして。
当然のように向かいへ座った。
「……そこ?」
「何か?」
「昨日、隣だった」
言ってから、自分で驚く。
ルシアンも少し驚いたようだった。
「隣がいい?」
「……うん」
「どうして?」
「分かんない」
「昨日は遠いと言っていたね」
「今日も遠い」
「これくらいしか離れていないよ」
「でも遠い」
ルシアンはしばらくこちらを見る。
「君は今日、随分可愛いことを言うね」
「え」
「何でもない」
「今絶対何か言った」
「気のせいじゃないかな」
「聞こえた!」
ルシアンは笑いながら立ち上がった。
そしてリリアの隣へ座る。
昨日より少し近い。
「これで?」
「……うん」
「満足?」
「うん」
「そう」
肩が触れそうで触れない。
その距離が気になる。
リリアはまた自分の右手を見る。
ルシアンが気づいた。
「昨日のこと?」
「何で分かるの」
「僕も考えていたから」
リリアは顔を上げる。
「小指?」
「ああ」
「先輩も?」
「何度かね」
「……私だけじゃなかった」
「安心した?」
「ちょっと」
「それはよかった」
ルシアンの右手がソファへ置かれる。
昨日と同じ。
リリアのすぐ近く。
「今日は?」
聞かれた。
「何が?」
「触れたい?」
昨日と同じ質問。
でも今日は、答えが違った。
「……うん」
ルシアンの目が僅かに揺れる。
「昨日より分かってる」
「そう」
「先輩は?」
「触れたいよ」
「今日も?」
「昨日より」
胸が跳ねた。
リリアは彼の手を見る。
「じゃあ」
少し迷ってから、小指を伸ばす。
昨日と同じように触れる。
でも。
「……これじゃ足りないかも」
自分で言って、自分で恥ずかしくなった。
ルシアンは動かなかった。
「リリア」
「何」
「僕にどうしてほしい?」
「分かんない」
「では待つよ」
「……先輩はどうしたいの?」
「それを言うと、君が合わせそうだから」
「合わせないよ」
「本当に?」
「嫌だったら嫌って言う」
ルシアンがこちらを見る。
しばらくして、静かに言った。
「手を繋ぎたい」
心臓が大きく鳴った。
「……私と?」
「ここまで来て他に誰がいるんだい?」
「確認」
「君の癖が移ったかな」
少し笑う。
それから、ルシアンは手のひらを上に向けた。
「嫌なら触れなくていい」
リリアはその手を見る。
昨日より、一歩先。
自分から指を伸ばす。
手のひらを重ねる。
ルシアンの指がゆっくり閉じた。
手を繋いだ。
「……あ」
「どう?」
「思ったより」
「何?」
「緊張する」
「僕もだよ」
「嘘」
「本当」
「全然見えない」
「なら触ってみる?」
「どこ?」
ルシアンは一瞬黙った。
それから繋いでいない方の手で、自分の胸元を指した。
「心臓」
「……触っていいの?」
「君が確認したいなら」
リリアは迷った。
でも気になる。
繋いだ手はそのまま。
もう片方の手を、そっとルシアンの胸元へ当てる。
服越しに鼓動が伝わった。
「……速い」
「だから言っただろう」
「本当に緊張してる」
「しているよ」
「何で?」
「好きな女の子と初めて手を繋いでいるから、と言ったら?」
リリアの手が止まった。
ルシアンも止まった。
数秒。
「……え?」
「……今のは忘れてくれるかな」
「無理」
「そうだろうね」
「好きな女の子って言った」
「言ったね」
「私?」
「それ以外に聞こえた?」
心臓が今度は自分の方でうるさくなる。
「……それ、告白?」
「まだ違う」
「まだ?」
「ああ」
ルシアンは繋いだ手を離さない。
「好きだという事実を隠すのは、もう難しそうだから認める。でも今、君に答えを求めるつもりはない」
「何で?」
「君はまだ、自分の気持ちが分かっていないだろう?」
図星だった。
「……うん」
「だから」
ルシアンが少し笑う。
「僕が好きだと知ったから、僕を好きになろうとしなくていい」
「そんなことしないよ」
「そう?」
「好きなら好きになるし、違ったら違う」
「うん」
「でも」
リリアは繋いだ手を見る。
「今、結構嬉しい」
ルシアンの指が僅かに動いた。
「僕が君を好きなのが?」
「うん」
「それは期待しても?」
「分かんない」
「正直だね」
「まだ分かんないから」
「それでいい」
ルシアンの親指が、リリアの手の甲を一度だけ撫でた。
小さな動き。
なのに、そこだけ熱くなる。
「……今の」
「嫌だった?」
「違う」
「では?」
「もう一回して」
今度はルシアンが黙った。
「……リリア」
「何?」
「君は僕をどうしたいんだろうね」
「分かんない」
「僕も分からなくなってきたよ」
そう言いながら、もう一度。
親指が手の甲をゆっくり撫でる。
「これ?」
「うん」
「好き?」
「うん」
「覚えておくよ」
「何で?」
「君の好きなものを知りたいから」
リリアは顔を上げる。
目が合った。
近い。
昨日より近い。
眼鏡越しの紫の瞳。
「ルシアン先輩」
「何?」
「私のこと、いつから好き?」
ルシアンは少し考えた。
「はっきりとは分からない」
「昨日?」
「もっと前だと思う」
「最初から?」
「それは違う」
きっぱり言われる。
なぜか安心した。
「最初の頃は、君を見るたびに過去を意識していた」
「昔のリリア?」
「ああ」
「今は?」
「君を見ると君のことを考える」
「例えば?」
「今なら」
ルシアンが少しだけ顔を寄せる。
「どうしてそんなに僕の近くへ座りたがるのか、とか」
「……近くにいたいから」
「そういう答えが返ってくるから困るんだよ」
「本当だもん」
「うん」
ルシアンの声が少し柔らかくなる。
「だから好きになったんだと思う」
リリアは何も言えなかった。
嬉しい。
恥ずかしい。
もっと聞きたい。
色々な気持ちが混ざる。
「私」
「うん」
「先輩が昔のリリア好きだったって聞いた時、嫌だった」
「昨日言っていたね」
「嫉妬だったのかな」
「僕に聞く?」
「分かんないから」
「そうかもしれないし、違うかもしれない」
「役に立たない」
「恋愛相談の相手が、君を好きな男だからね」
「……それ言われると変な感じ」
「嫌?」
「嫌じゃない」
即答した。
ルシアンが少し笑う。
「それなら十分だよ」
「でもセシルと話してて嫉妬したんでしょ?」
「ああ」
「ノアだったら?」
「するかもしれない」
「アレン先輩」
「するね」
「レオン先輩」
「する」
「クロフォード先輩」
「君、楽しんでいない?」
「ちょっと」
「するよ」
「全員?」
「君が誰かを選ぶ自由は君にある。それと僕が嫉妬することは別だ」
リリアは少し笑った。
「余裕あるのかないのか分かんない」
「ないよ」
「え?」
「君が思っているほど余裕はない」
ルシアンは繋いだ手を少し持ち上げた。
「これだけでも、かなり嬉しい」
「……そうなんだ」
「ああ」
「じゃあもっとしたら?」
「何を?」
「分かんないけど」
「危険な提案だね」
「何で?」
「僕が色々考えるから」
「例えば?」
「教えない」
「また秘密」
「これは君が自分で知る必要のない秘密だよ」
「気になる」
「駄目」
リリアは不満そうに彼を見る。
するとルシアンが笑った。
「そんな顔をしても駄目」
「ケチ」
「君がもう少し自分の気持ちを知ったらね」
「そしたら教えてくれる?」
「その頃には、聞かなくても分かるかもしれない」
「何それ」
「秘密」
「増えてる!」
笑っているうちに、最初の緊張は少し薄れた。
それでも手は繋いだままだった。
しばらくして、リリアはルシアンの肩を見る。
「寄りかかっていい?」
「……今日は積極的だね」
「嫌?」
「逆」
「じゃあ」
そっと肩へ頭を預ける。
ルシアンの身体が一瞬だけ固くなった。
「緊張してる?」
「している」
「心臓確認する?」
「やめてくれるかな」
「何で?」
「さっきより速い自信がある」
思わず笑った。
「可愛い」
「僕にその言葉を使う人は初めてかもしれない」
「嫌?」
「……悪くない」
リリアはそのまま目を閉じる。
「眠い?」
「ちょっと」
「寝てもいいよ」
「仕事は?」
「今日は終わっている」
「私のために?」
「そうだよ」
「……嬉しい」
「うん」
「先輩」
「何?」
「手、離さないで」
また身体が僅かに固くなった。
「寝るまで?」
「起きるまで」
「長いね」
「嫌?」
「まさか」
繋いだ手に、少しだけ力が入る。
「離さないよ」
その言葉が心地よかった。
少しして、リリアは本当に眠ってしまった。
目を覚ました時、窓の外は夕方だった。
「……寝た」
「よく寝ていたね」
顔を上げる。
ルシアンはまだ隣にいる。
そして。
「……本当に繋いでる」
「約束したからね」
「ずっと?」
「ああ」
「手疲れなかった?」
「少し」
「離せばよかったのに」
「君が離すなと言っただろう」
「律儀」
「そういうところはね」
リリアは繋いだ手を見る。
なんとなく。
まだ離したくない。
「ルシアン先輩」
「何?」
「私、先輩のこと好きなのかな」
ルシアンの表情が止まった。
「……それを僕に聞くのかい?」
「だって詳しそう」
「世界構造より難しい質問だよ」
「分かんない?」
「僕には決められない」
「そっか」
「ただ」
ルシアンがこちらを見る。
「君が僕に会いたいと言ってくれるのは嬉しい」
「うん」
「触れたいと思ってくれるのも」
「うん」
「僕が君を好きだと知って嬉しいと言ってくれたことも」
「うん」
「全部、僕には十分すぎるくらい嬉しいよ」
リリアは少し考える。
「じゃあまだ考える」
「ああ」
「明日も会っていい?」
「もちろん」
「手も?」
「君が繋ぎたければ」
「先輩は?」
「繋ぎたい」
「じゃあ繋ぐ」
「そうだね」
立ち上がる。
その時ようやく手が離れた。
少しだけ寂しい。
それがまた気になった。
生徒会室を出る前、リリアは振り返る。
「ルシアン先輩」
「何?」
「また明日」
「ああ」
少しだけ間があって。
「楽しみにしているよ」
廊下へ出る。
扉を閉める。
リリアはまた右手を見る。
昨日は小指だけだった。
今日は手を繋いだ。
肩にも寄りかかった。
好きだと言われた。
嬉しかった。
そして今。
明日も会いたい。
「……これ、結構怪しいな」
自分の気持ちが。
かなり。
一方、生徒会室。
ルシアンは一人になってから、長く息を吐いた。
「……危なかった」
手を繋いだ。
胸に触れられた。
肩へ寄りかかられた。
離さないでと言われた。
そして。
『私、先輩のこと好きなのかな』
「それを僕に聞かないでほしいな」
答えは言える。
期待もしている。
けれど、言わない。
今の彼女が自分で辿り着くまで。
昔の彼女は、自分の魂の半分から生まれた。
今の彼女には、その繋がりがない。
だからこそ。
今度の「好き」は。
何にも決められていないものとして聞きたい。
ルシアンは眼鏡を外す。
肩には、まだ彼女の頭の重さが残っている気がした。
「……それにしても」
思い出す。
『手、離さないで』
ルシアンは片手で顔を覆った。
「今の君の方が、ずっと手強いよ」
世界を十二回見てきた男が。
たった一人の少女の一言に振り回されている。
それが妙に可笑しくて。
少しだけ、幸せだった。

