魔法より、君に恋をする。

翌日の放課後。

 リリアは生徒会室の扉の前で、自分の右手を見ていた。

 正確には、小指を。

 昨日ここで、ルシアンの小指に触れた。

 たったそれだけ。

 手を繋いだわけでもない。

 抱きしめられたわけでもない。

 なのに、昨日の夜から何度も思い出している。

「……変なの」

 小指なんて普段意識しない。

 それなのに今は、妙に存在感がある。

 ノックしようと手を上げたところで、扉が開いた。

「わ」

「おっと」

 目の前にルシアンがいた。

 ぶつかりそうになり、反射的に一歩下がる。

「びっくりした」

「僕もだよ」

「どこ行くの?」

「君を迎えに」

 リリアは瞬きをした。

「私?」

「ああ」

「何で?」

「昨日、来てほしいと言っただろう」

「うん」

「待っていたんだけどね」

 ルシアンが時計を見る。

「約束の時間を決めていなかったことに気づいた」

「あ」

「だから教室へ行こうと思っていた」

「私も今来た」

「ちょうどよかったね」

「……迎えに来てくれようとしたんだ」

「ああ」

「嬉しい」

 素直に言う。

 ルシアンが一瞬だけ黙った。

「先輩?」

「君は今日も容赦がないなと思って」

「何が?」

「何でもないよ」

 そう言って身体をずらす。

「どうぞ」

「お邪魔します」

「昨日も来ていたけどね」

 中へ入る。

 今日は机の上に書類がほとんどなかった。

「仕事ないの?」

「終わらせた」

「早い」

「君が来るから」

 リリアは鞄を置こうとして、止まった。

「……今の何?」

「仕事を早めに終わらせた理由」

「私が来るから?」

「ああ」

「私と話すため?」

「そうだけど」

 あまりにも普通に言われる。

「何でそんな普通に言えるの」

「何が?」

「そういうの」

「昨日、正直にと言われたからね」

「急に素直すぎる」

「不満?」

「……不満じゃない」

「ならよかった」

 ルシアンが微笑む。

 ずるい。

 昨日までは自分が困らせている側だったはずなのに。

 今日は逆になっている。

 リリアはソファへ座る。

 昨日と同じ場所。

 ルシアンも来る。

 そして。

 当然のように向かいへ座った。

「……そこ?」

「何か?」

「昨日、隣だった」

 言ってから、自分で驚く。

 ルシアンも少し驚いたようだった。

「隣がいい?」

「……うん」

「どうして?」

「分かんない」

「昨日は遠いと言っていたね」

「今日も遠い」

「これくらいしか離れていないよ」

「でも遠い」

 ルシアンはしばらくこちらを見る。

「君は今日、随分可愛いことを言うね」

「え」

「何でもない」

「今絶対何か言った」

「気のせいじゃないかな」

「聞こえた!」

 ルシアンは笑いながら立ち上がった。

 そしてリリアの隣へ座る。

 昨日より少し近い。

「これで?」

「……うん」

「満足?」

「うん」

「そう」

 肩が触れそうで触れない。

 その距離が気になる。

 リリアはまた自分の右手を見る。

 ルシアンが気づいた。

「昨日のこと?」

「何で分かるの」

「僕も考えていたから」

 リリアは顔を上げる。

「小指?」

「ああ」

「先輩も?」

「何度かね」

「……私だけじゃなかった」

「安心した?」

「ちょっと」

「それはよかった」

 ルシアンの右手がソファへ置かれる。

 昨日と同じ。

 リリアのすぐ近く。

「今日は?」

 聞かれた。

「何が?」

「触れたい?」

 昨日と同じ質問。

 でも今日は、答えが違った。

「……うん」

 ルシアンの目が僅かに揺れる。

「昨日より分かってる」

「そう」

「先輩は?」

「触れたいよ」

「今日も?」

「昨日より」

 胸が跳ねた。

 リリアは彼の手を見る。

「じゃあ」

 少し迷ってから、小指を伸ばす。

 昨日と同じように触れる。

 でも。

「……これじゃ足りないかも」

 自分で言って、自分で恥ずかしくなった。

 ルシアンは動かなかった。

「リリア」

「何」

「僕にどうしてほしい?」

「分かんない」

「では待つよ」

「……先輩はどうしたいの?」

「それを言うと、君が合わせそうだから」

「合わせないよ」

「本当に?」

「嫌だったら嫌って言う」

 ルシアンがこちらを見る。

 しばらくして、静かに言った。

「手を繋ぎたい」

 心臓が大きく鳴った。

「……私と?」

「ここまで来て他に誰がいるんだい?」

「確認」

「君の癖が移ったかな」

 少し笑う。

 それから、ルシアンは手のひらを上に向けた。

「嫌なら触れなくていい」

 リリアはその手を見る。

 昨日より、一歩先。

 自分から指を伸ばす。

 手のひらを重ねる。

 ルシアンの指がゆっくり閉じた。

 手を繋いだ。

「……あ」

「どう?」

「思ったより」

「何?」

「緊張する」

「僕もだよ」

「嘘」

「本当」

「全然見えない」

「なら触ってみる?」

「どこ?」

 ルシアンは一瞬黙った。

 それから繋いでいない方の手で、自分の胸元を指した。

「心臓」

「……触っていいの?」

「君が確認したいなら」

 リリアは迷った。

 でも気になる。

 繋いだ手はそのまま。

 もう片方の手を、そっとルシアンの胸元へ当てる。

 服越しに鼓動が伝わった。

「……速い」

「だから言っただろう」

「本当に緊張してる」

「しているよ」

「何で?」

「好きな女の子と初めて手を繋いでいるから、と言ったら?」

 リリアの手が止まった。

 ルシアンも止まった。

 数秒。

「……え?」

「……今のは忘れてくれるかな」

「無理」

「そうだろうね」

「好きな女の子って言った」

「言ったね」

「私?」

「それ以外に聞こえた?」

 心臓が今度は自分の方でうるさくなる。

「……それ、告白?」

「まだ違う」

「まだ?」

「ああ」

 ルシアンは繋いだ手を離さない。

「好きだという事実を隠すのは、もう難しそうだから認める。でも今、君に答えを求めるつもりはない」

「何で?」

「君はまだ、自分の気持ちが分かっていないだろう?」

 図星だった。

「……うん」

「だから」

 ルシアンが少し笑う。

「僕が好きだと知ったから、僕を好きになろうとしなくていい」

「そんなことしないよ」

「そう?」

「好きなら好きになるし、違ったら違う」

「うん」

「でも」

 リリアは繋いだ手を見る。

「今、結構嬉しい」

 ルシアンの指が僅かに動いた。

「僕が君を好きなのが?」

「うん」

「それは期待しても?」

「分かんない」

「正直だね」

「まだ分かんないから」

「それでいい」

 ルシアンの親指が、リリアの手の甲を一度だけ撫でた。

 小さな動き。

 なのに、そこだけ熱くなる。

「……今の」

「嫌だった?」

「違う」

「では?」

「もう一回して」

 今度はルシアンが黙った。

「……リリア」

「何?」

「君は僕をどうしたいんだろうね」

「分かんない」

「僕も分からなくなってきたよ」

 そう言いながら、もう一度。

 親指が手の甲をゆっくり撫でる。

「これ?」

「うん」

「好き?」

「うん」

「覚えておくよ」

「何で?」

「君の好きなものを知りたいから」

 リリアは顔を上げる。

 目が合った。

 近い。

 昨日より近い。

 眼鏡越しの紫の瞳。

「ルシアン先輩」

「何?」

「私のこと、いつから好き?」

 ルシアンは少し考えた。

「はっきりとは分からない」

「昨日?」

「もっと前だと思う」

「最初から?」

「それは違う」

 きっぱり言われる。

 なぜか安心した。

「最初の頃は、君を見るたびに過去を意識していた」

「昔のリリア?」

「ああ」

「今は?」

「君を見ると君のことを考える」

「例えば?」

「今なら」

 ルシアンが少しだけ顔を寄せる。

「どうしてそんなに僕の近くへ座りたがるのか、とか」

「……近くにいたいから」

「そういう答えが返ってくるから困るんだよ」

「本当だもん」

「うん」

 ルシアンの声が少し柔らかくなる。

「だから好きになったんだと思う」

 リリアは何も言えなかった。

 嬉しい。

 恥ずかしい。

 もっと聞きたい。

 色々な気持ちが混ざる。

「私」

「うん」

「先輩が昔のリリア好きだったって聞いた時、嫌だった」

「昨日言っていたね」

「嫉妬だったのかな」

「僕に聞く?」

「分かんないから」

「そうかもしれないし、違うかもしれない」

「役に立たない」

「恋愛相談の相手が、君を好きな男だからね」

「……それ言われると変な感じ」

「嫌?」

「嫌じゃない」

 即答した。

 ルシアンが少し笑う。

「それなら十分だよ」

「でもセシルと話してて嫉妬したんでしょ?」

「ああ」

「ノアだったら?」

「するかもしれない」

「アレン先輩」

「するね」

「レオン先輩」

「する」

「クロフォード先輩」

「君、楽しんでいない?」

「ちょっと」

「するよ」

「全員?」

「君が誰かを選ぶ自由は君にある。それと僕が嫉妬することは別だ」

 リリアは少し笑った。

「余裕あるのかないのか分かんない」

「ないよ」

「え?」

「君が思っているほど余裕はない」

 ルシアンは繋いだ手を少し持ち上げた。

「これだけでも、かなり嬉しい」

「……そうなんだ」

「ああ」

「じゃあもっとしたら?」

「何を?」

「分かんないけど」

「危険な提案だね」

「何で?」

「僕が色々考えるから」

「例えば?」

「教えない」

「また秘密」

「これは君が自分で知る必要のない秘密だよ」

「気になる」

「駄目」

 リリアは不満そうに彼を見る。

 するとルシアンが笑った。

「そんな顔をしても駄目」

「ケチ」

「君がもう少し自分の気持ちを知ったらね」

「そしたら教えてくれる?」

「その頃には、聞かなくても分かるかもしれない」

「何それ」

「秘密」

「増えてる!」

 笑っているうちに、最初の緊張は少し薄れた。

 それでも手は繋いだままだった。

 しばらくして、リリアはルシアンの肩を見る。

「寄りかかっていい?」

「……今日は積極的だね」

「嫌?」

「逆」

「じゃあ」

 そっと肩へ頭を預ける。

 ルシアンの身体が一瞬だけ固くなった。

「緊張してる?」

「している」

「心臓確認する?」

「やめてくれるかな」

「何で?」

「さっきより速い自信がある」

 思わず笑った。

「可愛い」

「僕にその言葉を使う人は初めてかもしれない」

「嫌?」

「……悪くない」

 リリアはそのまま目を閉じる。

「眠い?」

「ちょっと」

「寝てもいいよ」

「仕事は?」

「今日は終わっている」

「私のために?」

「そうだよ」

「……嬉しい」

「うん」

「先輩」

「何?」

「手、離さないで」

 また身体が僅かに固くなった。

「寝るまで?」

「起きるまで」

「長いね」

「嫌?」

「まさか」

 繋いだ手に、少しだけ力が入る。

「離さないよ」

 その言葉が心地よかった。

 少しして、リリアは本当に眠ってしまった。

 目を覚ました時、窓の外は夕方だった。

「……寝た」

「よく寝ていたね」

 顔を上げる。

 ルシアンはまだ隣にいる。

 そして。

「……本当に繋いでる」

「約束したからね」

「ずっと?」

「ああ」

「手疲れなかった?」

「少し」

「離せばよかったのに」

「君が離すなと言っただろう」

「律儀」

「そういうところはね」

 リリアは繋いだ手を見る。

 なんとなく。

 まだ離したくない。

「ルシアン先輩」

「何?」

「私、先輩のこと好きなのかな」

 ルシアンの表情が止まった。

「……それを僕に聞くのかい?」

「だって詳しそう」

「世界構造より難しい質問だよ」

「分かんない?」

「僕には決められない」

「そっか」

「ただ」

 ルシアンがこちらを見る。

「君が僕に会いたいと言ってくれるのは嬉しい」

「うん」

「触れたいと思ってくれるのも」

「うん」

「僕が君を好きだと知って嬉しいと言ってくれたことも」

「うん」

「全部、僕には十分すぎるくらい嬉しいよ」

 リリアは少し考える。

「じゃあまだ考える」

「ああ」

「明日も会っていい?」

「もちろん」

「手も?」

「君が繋ぎたければ」

「先輩は?」

「繋ぎたい」

「じゃあ繋ぐ」

「そうだね」

 立ち上がる。

 その時ようやく手が離れた。

 少しだけ寂しい。

 それがまた気になった。

 生徒会室を出る前、リリアは振り返る。

「ルシアン先輩」

「何?」

「また明日」

「ああ」

 少しだけ間があって。

「楽しみにしているよ」

 廊下へ出る。

 扉を閉める。

 リリアはまた右手を見る。

 昨日は小指だけだった。

 今日は手を繋いだ。

 肩にも寄りかかった。

 好きだと言われた。

 嬉しかった。

 そして今。

 明日も会いたい。

「……これ、結構怪しいな」

 自分の気持ちが。

 かなり。

 一方、生徒会室。

 ルシアンは一人になってから、長く息を吐いた。

「……危なかった」

 手を繋いだ。

 胸に触れられた。

 肩へ寄りかかられた。

 離さないでと言われた。

 そして。

『私、先輩のこと好きなのかな』

「それを僕に聞かないでほしいな」

 答えは言える。

 期待もしている。

 けれど、言わない。

 今の彼女が自分で辿り着くまで。

 昔の彼女は、自分の魂の半分から生まれた。

 今の彼女には、その繋がりがない。

 だからこそ。

 今度の「好き」は。

 何にも決められていないものとして聞きたい。

 ルシアンは眼鏡を外す。

 肩には、まだ彼女の頭の重さが残っている気がした。

「……それにしても」

 思い出す。

『手、離さないで』

 ルシアンは片手で顔を覆った。

「今の君の方が、ずっと手強いよ」

 世界を十二回見てきた男が。

 たった一人の少女の一言に振り回されている。

 それが妙に可笑しくて。

 少しだけ、幸せだった。