翌朝、目を覚まして最初に思い浮かんだのは、昨日ノートに書いた六つの名前だった。
ノア。
レオン先輩。
アレン先輩。
クロフォード先輩。
ルシアン先輩。
セシル。
それぞれに違う気持ちがある。
安心する人。気になる人。一緒にいると楽しい人。もっと知りたい人。
その中で、今日一日何の予定もなくて、誰のところへ行ってもいいと言われたら。
誰に会いたいだろう。
ベッドの上でしばらく考えて、リリアは起き上がった。
「……決めた」
身支度を済ませて女子寮を出る。
行き先は、生徒会室だった。
理由は簡単だった。
一番分からないからだ。
ルシアン・ノクス。
生徒会長。
学院の監督役。
世界についても、過去のリリアについても、自分の知らないことをたくさん知っている人。
いつも穏やかで、少し意地悪で、何を聞いても答えているようで肝心なところだけ綺麗に避ける。
だから今日は、世界のことを聞きに行く。
――つもりだった。
生徒会室の前まで来て、リリアは扉を見つめた。
「……本当に?」
自分に聞く。
昨日までは、知りたいことがあるからルシアンに会っていた。
でも今日は違う。
別に今日じゃなくてもいい。
世界は今すぐ壊れそうなわけではないし、昨日、自分が独立した存在であることも分かった。
急いで何かを聞く必要はない。
それでもここへ来た。
「……まあ、いいか」
考えても分からない。
ノックする。
「どうぞ」
聞き慣れた声が返ってきた。
扉を開ける。
ルシアンは窓際の机に座っていた。
黒紫の髪。
眼鏡の奥の紫の瞳。
深紅のネクタイ。
いつも通り、書類の山に囲まれている。
「おはようございます」
「おはよう、リリア」
ルシアンは顔を上げる。
「朝から珍しいね。何か問題でも?」
「ないです」
「迷子?」
「違います」
「それは失礼」
「ちゃんと生徒会室目指して来ました」
「それは偉い」
「馬鹿にしてます?」
「褒めているよ」
「絶対嘘」
いつものやり取り。
それだけで、少し安心した。
「それで?」
ルシアンがペンを置く。
「何を聞きに来たのかな」
「……何で質問がある前提なんですか」
「君が僕を訪ねる時は、大抵そうだからね」
「じゃあ今日は違います」
ルシアンの動きが止まった。
「違う?」
「はい」
「では何の用?」
リリアは少し考える。
自分でも、まだ上手く言葉にできない。
「会いに来ました」
沈黙した。
ルシアンはリリアを見る。
「……僕に?」
「他に誰がいるんですか」
「いや」
眼鏡を押し上げる。
「それはそうなんだけどね」
「何ですかその反応」
「予想していなかった」
「ルシアン先輩でも予想外とかあるんだ」
「僕を何だと思っているのかな」
「大体何でも知ってる人」
「買い被りだよ」
「じゃあ私が今日来るのも知らなかった?」
「ああ」
ルシアンは少し笑った。
「知らなかった」
その言い方が、なぜか印象に残った。
「……嬉しいですか?」
「何が?」
「私が会いに来たの」
聞いてから、少し変な質問だったと思う。
けれどルシアンは笑わなかった。
「嬉しいよ」
思ったより普通に返ってきた。
「そうなんだ」
「疑っていたのかい?」
「ちょっと」
「傷つくな」
「絶対傷ついてない」
「それも決めつけだね」
ルシアンが立ち上がる。
「座る?」
「はい」
ソファへ移動する。
リリアがいつもの位置へ座ると、ルシアンは向かい側に腰を下ろした。
「それで、会いに来たあとは?」
「考えてませんでした」
「計画性がない」
「会ってから考えようと思って」
「僕が忙しかったら?」
「帰ります」
「潔いね」
「忙しい?」
ルシアンは机の上の書類を見る。
「忙しいと言えば忙しい」
「じゃあ帰る」
立ち上がろうとした。
「待って」
止められる。
リリアはルシアンを見る。
「何ですか」
「帰る必要はないよ」
「でも忙しいんでしょ?」
「君と話す時間くらいはある」
「無理してない?」
「していない」
「本当に?」
「……今日はよく疑うね」
「ルシアン先輩、何考えてるか分からないから」
その言葉に、ルシアンの表情が僅かに変わった。
「そうだね」
否定しなかった。
「僕は君に隠していることが多い」
「やっぱり」
「知っていただろう?」
「まあ」
「それを聞きに来た?」
「今日は違います」
リリアは首を振った。
「今日はルシアン先輩のことを知りたい」
また沈黙した。
今日はよく黙る。
「……僕の?」
「はい」
「世界の仕組みではなく?」
「うん」
「過去の君のことでもなく?」
「うん」
「魂についてでもない?」
「しつこい」
「確認しているんだよ」
「ルシアン先輩のこと」
はっきり言う。
「好きな食べ物とか、嫌いなものとか、休みの日何してるとか。そういう普通のこと」
ルシアンが目を細めた。
「なぜ?」
「知らないから」
「知らなくても困らないよ」
「でも知りたい」
答えると、ルシアンが黙る。
「……駄目?」
「いや」
少し遅れて返ってきた。
「駄目ではない」
「じゃあ好きな食べ物」
「急だね」
「何?」
「特にない」
「つまんない」
「酷いな」
「じゃあ甘いもの好き?」
「普通」
「辛いもの」
「普通」
「嫌いな食べ物」
「特にない」
「面白くない!」
「食事に娯楽性を求めすぎじゃないかな」
リリアは眉を寄せる。
「じゃあ趣味」
「読書」
「何読むの?」
「魔法史、古代術式、世界構造論」
「仕事じゃん」
「趣味だよ」
「絶対嘘」
「本当に好きなんだけどね」
「もっと普通のないの?」
「普通とは?」
「散歩とか。寝るとか。お菓子食べるとか」
「君の趣味が混ざっていないかい?」
「寝るの好き」
「知っている」
さらりと言われた。
リリアは止まる。
「何で知ってるの?」
「朝が弱いだろう」
「……見てた?」
「君は割と有名だからね」
「誤魔化した」
「そうかな」
「そうです」
ルシアンは微笑んでいる。
いつもの顔。
でも、ふと思った。
「ルシアン先輩って、私のこと結構知ってますよね」
「ああ」
「私は先輩のこと全然知らない」
「そうだね」
「不公平」
「何が?」
「私ばっかり知られてる」
リリアはソファの背もたれへ寄りかかった。
「だから教えて」
「何を?」
「ルシアン先輩のこと」
ルシアンはしばらくこちらを見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「コーヒーは苦い方が好きだ」
「うん」
「雨の日は嫌いじゃない」
「うん」
「静かな場所が好きだが、静かすぎる場所はあまり好きじゃない」
「それ何で?」
「考えすぎるから」
少し意外だった。
「何を?」
「色々と」
「また誤魔化した」
「全部一度に知ろうとしないでくれるかな」
「じゃあ次」
「まだあるの?」
「いっぱい」
ルシアンが少し笑った。
「休みの日は?」
「学院の外へ出ることもある」
「どこ行くの?」
「古書店」
「やっぱり本」
「あとは適当に歩く」
「散歩するんじゃん!」
「するよ」
「最初に言ってよ」
「君が勝手に僕を本棚に住んでいる人間みたいに扱ったんだろう」
「住んでそう」
「失礼だな」
「今度一緒に行きたい」
口から自然に出た。
ルシアンの表情が止まる。
「古書店?」
「うん」
「僕と?」
「だから何で毎回そこ確認するの」
「……そうだね」
ルシアンは眼鏡の位置を直した。
「行く?」
「いいんですか?」
「ああ」
「いつ?」
「次の休日」
「空いてる」
「では決まりだ」
「やった」
思ったより簡単に約束ができた。
嬉しくなって、リリアは笑う。
その顔をルシアンが見ていた。
「何ですか」
「いや」
「またそれ」
「君は分かりやすいなと思って」
「何が?」
「嬉しい時」
「嬉しいから」
「僕と出かけるのが?」
「うん」
ルシアンが黙った。
「……先輩?」
「君は時々、随分と困ることを平気で言うね」
「何で?」
「自覚がないなら、そのままでいいよ」
「気になる」
「教えない」
「意地悪」
「知っている」
そのあとも、しばらくどうでもいい話をした。
ルシアンが意外と朝に強いこと。
料理はできるけれど、必要がなければしないこと。
猫より犬が好きなこと。
理由は「猫は僕を信用しないから」。
それを聞いてリリアは笑った。
「絶対何か見抜かれてるんですよ」
「猫に?」
「うん」
「何を」
「怪しい人だって」
「君も随分言うようになったね」
「仲良くなったから」
ルシアンの笑みが、ほんの少し止まる。
「……仲良くなった?」
「違う?」
「いや」
紫の瞳が柔らかくなる。
「そうだといいね」
「何その言い方」
「僕は友人関係の判定に自信がなくてね」
「じゃあ私が決めます」
「君が?」
「うん。仲良し」
「勝手だな」
「嫌?」
「嫌じゃないよ」
少しだけ笑う。
「むしろ嬉しい」
今日二回目の「嬉しい」だった。
ルシアンは思ったより、自分の気持ちを言う。
ただし、こちらから聞いた時だけ。
「じゃあもう一個聞く」
「どうぞ」
「私が来なかったら、今日何してた?」
「仕事」
「一日?」
「おそらく」
「つまんない」
「君は僕の生活に厳しいね」
「じゃあ来てよかった?」
ルシアンは少しだけ考えた。
「よかったよ」
「仕事邪魔したのに?」
「ああ」
「何で?」
また、聞いてしまった。
ルシアンは答えようとして。
やめた。
「……それはまだ秘密かな」
「また秘密」
「全部教えたら、君はもう僕を知りたいと思わなくなるだろう?」
「ならないと思う」
「どうして?」
「一個知ると、また次知りたくなるから」
ルシアンがこちらを見る。
「今日もそう。コーヒー好きって知ったら、どこのが好きなのか気になるし、散歩するって知ったらどこ歩くのか気になる」
「……そう」
「だから多分、いっぱい知っても終わらない」
何となく言っただけだった。
けれどルシアンは、しばらく何も言わなかった。
「先輩?」
「君は本当に」
小さく息を吐く。
「残酷だね」
「えっ」
「褒めている」
「絶対違う」
「半分くらいは」
「半分悪口じゃん」
リリアが睨むと、ルシアンは笑った。
でもその笑顔は、いつもより少しだけ困っているように見えた。
昼前になり、リリアは立ち上がった。
「そろそろ帰ります」
「昼食は?」
「まだ決めてない」
「一緒に食べる?」
今度はリリアが止まった。
「ルシアン先輩から誘った」
「そんなに珍しい?」
「珍しい」
「なら撤回しようかな」
「食べる!」
「即答だね」
「どこ?」
「食堂でいいだろう」
「うん」
二人で生徒会室を出る。
廊下を歩きながら、リリアは少し不思議な気分だった。
今までルシアンと歩く時は、何か問題があった。
世界のこと。
魔法のこと。
過去のこと。
今日は何もない。
ただ一緒に昼食を食べるために歩いている。
「ルシアン先輩」
「何?」
「今日、普通ですね」
「僕は普段から普通だよ」
「嘘」
「酷いな」
「でもこっちの方が好きかも」
ルシアンの足が僅かに止まった。
「……何が?」
「世界の話してないルシアン先輩」
「そう」
「普通に喋ってる方が楽しい」
「……そうか」
「うん」
また歩き出す。
けれど少しだけ、ルシアンの歩く速度が遅くなった。
リリアは気づかなかった。
彼が横を向いた理由にも。
眼鏡の奥の目を、一瞬だけ伏せたことにも。
その日の夜。
ルシアンは一人、生徒会室に残っていた。
机の上には、古い記録が開かれている。
十二の世界。
十二回の再構築。
そして、その遥か前。
まだ最初の世界すら壊れていなかった頃の記録。
そこには一人の少女と、一人の少年の名前があった。
ルシアンは長い間、そのページを見ていた。
『あなたのことが好き』
記録の中に残る言葉。
かつて彼女が、彼に伝えた言葉だった。
そして自分は、それを拒んだ。
拒まなければならなかった。
彼女が一人の人間として生きるために。
「……今度は逆か」
小さく呟く。
今日、リリアは自分から会いに来た。
世界について聞くためではない。
過去を知るためでもない。
ただ、自分を知りたいと言った。
次の休日、一緒に出かける約束までした。
それがどれほど嬉しかったか。
彼女は知らない。
知らなくていいと思う。
今のリリアは、あの少女ではない。
自分の魂の半分から生まれた存在でもない。
運命で結ばれた相手でもない。
だからこそ。
「……困ったな」
ルシアンは眼鏡を外し、目元を押さえた。
世界の構造なら読める。
術式なら解ける。
過去も知っている。
未来の可能性だって、ある程度なら予測できる。
けれど。
次の休日、彼女と二人で出かける時。
自分がどんな顔をすればいいのかだけは。
どうしても分からなかった。
ノア。
レオン先輩。
アレン先輩。
クロフォード先輩。
ルシアン先輩。
セシル。
それぞれに違う気持ちがある。
安心する人。気になる人。一緒にいると楽しい人。もっと知りたい人。
その中で、今日一日何の予定もなくて、誰のところへ行ってもいいと言われたら。
誰に会いたいだろう。
ベッドの上でしばらく考えて、リリアは起き上がった。
「……決めた」
身支度を済ませて女子寮を出る。
行き先は、生徒会室だった。
理由は簡単だった。
一番分からないからだ。
ルシアン・ノクス。
生徒会長。
学院の監督役。
世界についても、過去のリリアについても、自分の知らないことをたくさん知っている人。
いつも穏やかで、少し意地悪で、何を聞いても答えているようで肝心なところだけ綺麗に避ける。
だから今日は、世界のことを聞きに行く。
――つもりだった。
生徒会室の前まで来て、リリアは扉を見つめた。
「……本当に?」
自分に聞く。
昨日までは、知りたいことがあるからルシアンに会っていた。
でも今日は違う。
別に今日じゃなくてもいい。
世界は今すぐ壊れそうなわけではないし、昨日、自分が独立した存在であることも分かった。
急いで何かを聞く必要はない。
それでもここへ来た。
「……まあ、いいか」
考えても分からない。
ノックする。
「どうぞ」
聞き慣れた声が返ってきた。
扉を開ける。
ルシアンは窓際の机に座っていた。
黒紫の髪。
眼鏡の奥の紫の瞳。
深紅のネクタイ。
いつも通り、書類の山に囲まれている。
「おはようございます」
「おはよう、リリア」
ルシアンは顔を上げる。
「朝から珍しいね。何か問題でも?」
「ないです」
「迷子?」
「違います」
「それは失礼」
「ちゃんと生徒会室目指して来ました」
「それは偉い」
「馬鹿にしてます?」
「褒めているよ」
「絶対嘘」
いつものやり取り。
それだけで、少し安心した。
「それで?」
ルシアンがペンを置く。
「何を聞きに来たのかな」
「……何で質問がある前提なんですか」
「君が僕を訪ねる時は、大抵そうだからね」
「じゃあ今日は違います」
ルシアンの動きが止まった。
「違う?」
「はい」
「では何の用?」
リリアは少し考える。
自分でも、まだ上手く言葉にできない。
「会いに来ました」
沈黙した。
ルシアンはリリアを見る。
「……僕に?」
「他に誰がいるんですか」
「いや」
眼鏡を押し上げる。
「それはそうなんだけどね」
「何ですかその反応」
「予想していなかった」
「ルシアン先輩でも予想外とかあるんだ」
「僕を何だと思っているのかな」
「大体何でも知ってる人」
「買い被りだよ」
「じゃあ私が今日来るのも知らなかった?」
「ああ」
ルシアンは少し笑った。
「知らなかった」
その言い方が、なぜか印象に残った。
「……嬉しいですか?」
「何が?」
「私が会いに来たの」
聞いてから、少し変な質問だったと思う。
けれどルシアンは笑わなかった。
「嬉しいよ」
思ったより普通に返ってきた。
「そうなんだ」
「疑っていたのかい?」
「ちょっと」
「傷つくな」
「絶対傷ついてない」
「それも決めつけだね」
ルシアンが立ち上がる。
「座る?」
「はい」
ソファへ移動する。
リリアがいつもの位置へ座ると、ルシアンは向かい側に腰を下ろした。
「それで、会いに来たあとは?」
「考えてませんでした」
「計画性がない」
「会ってから考えようと思って」
「僕が忙しかったら?」
「帰ります」
「潔いね」
「忙しい?」
ルシアンは机の上の書類を見る。
「忙しいと言えば忙しい」
「じゃあ帰る」
立ち上がろうとした。
「待って」
止められる。
リリアはルシアンを見る。
「何ですか」
「帰る必要はないよ」
「でも忙しいんでしょ?」
「君と話す時間くらいはある」
「無理してない?」
「していない」
「本当に?」
「……今日はよく疑うね」
「ルシアン先輩、何考えてるか分からないから」
その言葉に、ルシアンの表情が僅かに変わった。
「そうだね」
否定しなかった。
「僕は君に隠していることが多い」
「やっぱり」
「知っていただろう?」
「まあ」
「それを聞きに来た?」
「今日は違います」
リリアは首を振った。
「今日はルシアン先輩のことを知りたい」
また沈黙した。
今日はよく黙る。
「……僕の?」
「はい」
「世界の仕組みではなく?」
「うん」
「過去の君のことでもなく?」
「うん」
「魂についてでもない?」
「しつこい」
「確認しているんだよ」
「ルシアン先輩のこと」
はっきり言う。
「好きな食べ物とか、嫌いなものとか、休みの日何してるとか。そういう普通のこと」
ルシアンが目を細めた。
「なぜ?」
「知らないから」
「知らなくても困らないよ」
「でも知りたい」
答えると、ルシアンが黙る。
「……駄目?」
「いや」
少し遅れて返ってきた。
「駄目ではない」
「じゃあ好きな食べ物」
「急だね」
「何?」
「特にない」
「つまんない」
「酷いな」
「じゃあ甘いもの好き?」
「普通」
「辛いもの」
「普通」
「嫌いな食べ物」
「特にない」
「面白くない!」
「食事に娯楽性を求めすぎじゃないかな」
リリアは眉を寄せる。
「じゃあ趣味」
「読書」
「何読むの?」
「魔法史、古代術式、世界構造論」
「仕事じゃん」
「趣味だよ」
「絶対嘘」
「本当に好きなんだけどね」
「もっと普通のないの?」
「普通とは?」
「散歩とか。寝るとか。お菓子食べるとか」
「君の趣味が混ざっていないかい?」
「寝るの好き」
「知っている」
さらりと言われた。
リリアは止まる。
「何で知ってるの?」
「朝が弱いだろう」
「……見てた?」
「君は割と有名だからね」
「誤魔化した」
「そうかな」
「そうです」
ルシアンは微笑んでいる。
いつもの顔。
でも、ふと思った。
「ルシアン先輩って、私のこと結構知ってますよね」
「ああ」
「私は先輩のこと全然知らない」
「そうだね」
「不公平」
「何が?」
「私ばっかり知られてる」
リリアはソファの背もたれへ寄りかかった。
「だから教えて」
「何を?」
「ルシアン先輩のこと」
ルシアンはしばらくこちらを見ていた。
やがて、小さく息を吐く。
「コーヒーは苦い方が好きだ」
「うん」
「雨の日は嫌いじゃない」
「うん」
「静かな場所が好きだが、静かすぎる場所はあまり好きじゃない」
「それ何で?」
「考えすぎるから」
少し意外だった。
「何を?」
「色々と」
「また誤魔化した」
「全部一度に知ろうとしないでくれるかな」
「じゃあ次」
「まだあるの?」
「いっぱい」
ルシアンが少し笑った。
「休みの日は?」
「学院の外へ出ることもある」
「どこ行くの?」
「古書店」
「やっぱり本」
「あとは適当に歩く」
「散歩するんじゃん!」
「するよ」
「最初に言ってよ」
「君が勝手に僕を本棚に住んでいる人間みたいに扱ったんだろう」
「住んでそう」
「失礼だな」
「今度一緒に行きたい」
口から自然に出た。
ルシアンの表情が止まる。
「古書店?」
「うん」
「僕と?」
「だから何で毎回そこ確認するの」
「……そうだね」
ルシアンは眼鏡の位置を直した。
「行く?」
「いいんですか?」
「ああ」
「いつ?」
「次の休日」
「空いてる」
「では決まりだ」
「やった」
思ったより簡単に約束ができた。
嬉しくなって、リリアは笑う。
その顔をルシアンが見ていた。
「何ですか」
「いや」
「またそれ」
「君は分かりやすいなと思って」
「何が?」
「嬉しい時」
「嬉しいから」
「僕と出かけるのが?」
「うん」
ルシアンが黙った。
「……先輩?」
「君は時々、随分と困ることを平気で言うね」
「何で?」
「自覚がないなら、そのままでいいよ」
「気になる」
「教えない」
「意地悪」
「知っている」
そのあとも、しばらくどうでもいい話をした。
ルシアンが意外と朝に強いこと。
料理はできるけれど、必要がなければしないこと。
猫より犬が好きなこと。
理由は「猫は僕を信用しないから」。
それを聞いてリリアは笑った。
「絶対何か見抜かれてるんですよ」
「猫に?」
「うん」
「何を」
「怪しい人だって」
「君も随分言うようになったね」
「仲良くなったから」
ルシアンの笑みが、ほんの少し止まる。
「……仲良くなった?」
「違う?」
「いや」
紫の瞳が柔らかくなる。
「そうだといいね」
「何その言い方」
「僕は友人関係の判定に自信がなくてね」
「じゃあ私が決めます」
「君が?」
「うん。仲良し」
「勝手だな」
「嫌?」
「嫌じゃないよ」
少しだけ笑う。
「むしろ嬉しい」
今日二回目の「嬉しい」だった。
ルシアンは思ったより、自分の気持ちを言う。
ただし、こちらから聞いた時だけ。
「じゃあもう一個聞く」
「どうぞ」
「私が来なかったら、今日何してた?」
「仕事」
「一日?」
「おそらく」
「つまんない」
「君は僕の生活に厳しいね」
「じゃあ来てよかった?」
ルシアンは少しだけ考えた。
「よかったよ」
「仕事邪魔したのに?」
「ああ」
「何で?」
また、聞いてしまった。
ルシアンは答えようとして。
やめた。
「……それはまだ秘密かな」
「また秘密」
「全部教えたら、君はもう僕を知りたいと思わなくなるだろう?」
「ならないと思う」
「どうして?」
「一個知ると、また次知りたくなるから」
ルシアンがこちらを見る。
「今日もそう。コーヒー好きって知ったら、どこのが好きなのか気になるし、散歩するって知ったらどこ歩くのか気になる」
「……そう」
「だから多分、いっぱい知っても終わらない」
何となく言っただけだった。
けれどルシアンは、しばらく何も言わなかった。
「先輩?」
「君は本当に」
小さく息を吐く。
「残酷だね」
「えっ」
「褒めている」
「絶対違う」
「半分くらいは」
「半分悪口じゃん」
リリアが睨むと、ルシアンは笑った。
でもその笑顔は、いつもより少しだけ困っているように見えた。
昼前になり、リリアは立ち上がった。
「そろそろ帰ります」
「昼食は?」
「まだ決めてない」
「一緒に食べる?」
今度はリリアが止まった。
「ルシアン先輩から誘った」
「そんなに珍しい?」
「珍しい」
「なら撤回しようかな」
「食べる!」
「即答だね」
「どこ?」
「食堂でいいだろう」
「うん」
二人で生徒会室を出る。
廊下を歩きながら、リリアは少し不思議な気分だった。
今までルシアンと歩く時は、何か問題があった。
世界のこと。
魔法のこと。
過去のこと。
今日は何もない。
ただ一緒に昼食を食べるために歩いている。
「ルシアン先輩」
「何?」
「今日、普通ですね」
「僕は普段から普通だよ」
「嘘」
「酷いな」
「でもこっちの方が好きかも」
ルシアンの足が僅かに止まった。
「……何が?」
「世界の話してないルシアン先輩」
「そう」
「普通に喋ってる方が楽しい」
「……そうか」
「うん」
また歩き出す。
けれど少しだけ、ルシアンの歩く速度が遅くなった。
リリアは気づかなかった。
彼が横を向いた理由にも。
眼鏡の奥の目を、一瞬だけ伏せたことにも。
その日の夜。
ルシアンは一人、生徒会室に残っていた。
机の上には、古い記録が開かれている。
十二の世界。
十二回の再構築。
そして、その遥か前。
まだ最初の世界すら壊れていなかった頃の記録。
そこには一人の少女と、一人の少年の名前があった。
ルシアンは長い間、そのページを見ていた。
『あなたのことが好き』
記録の中に残る言葉。
かつて彼女が、彼に伝えた言葉だった。
そして自分は、それを拒んだ。
拒まなければならなかった。
彼女が一人の人間として生きるために。
「……今度は逆か」
小さく呟く。
今日、リリアは自分から会いに来た。
世界について聞くためではない。
過去を知るためでもない。
ただ、自分を知りたいと言った。
次の休日、一緒に出かける約束までした。
それがどれほど嬉しかったか。
彼女は知らない。
知らなくていいと思う。
今のリリアは、あの少女ではない。
自分の魂の半分から生まれた存在でもない。
運命で結ばれた相手でもない。
だからこそ。
「……困ったな」
ルシアンは眼鏡を外し、目元を押さえた。
世界の構造なら読める。
術式なら解ける。
過去も知っている。
未来の可能性だって、ある程度なら予測できる。
けれど。
次の休日、彼女と二人で出かける時。
自分がどんな顔をすればいいのかだけは。
どうしても分からなかった。

