魔法より、君に恋をする。

翌朝、目を覚まして最初に思い浮かんだのは、昨日ノートに書いた六つの名前だった。

 ノア。

 レオン先輩。

 アレン先輩。

 クロフォード先輩。

 ルシアン先輩。

 セシル。

 それぞれに違う気持ちがある。

 安心する人。気になる人。一緒にいると楽しい人。もっと知りたい人。

 その中で、今日一日何の予定もなくて、誰のところへ行ってもいいと言われたら。

 誰に会いたいだろう。

 ベッドの上でしばらく考えて、リリアは起き上がった。

「……決めた」

 身支度を済ませて女子寮を出る。

 行き先は、生徒会室だった。

 理由は簡単だった。

 一番分からないからだ。

 ルシアン・ノクス。

 生徒会長。

 学院の監督役。

 世界についても、過去のリリアについても、自分の知らないことをたくさん知っている人。

 いつも穏やかで、少し意地悪で、何を聞いても答えているようで肝心なところだけ綺麗に避ける。

 だから今日は、世界のことを聞きに行く。

 ――つもりだった。

 生徒会室の前まで来て、リリアは扉を見つめた。

「……本当に?」

 自分に聞く。

 昨日までは、知りたいことがあるからルシアンに会っていた。

 でも今日は違う。

 別に今日じゃなくてもいい。

 世界は今すぐ壊れそうなわけではないし、昨日、自分が独立した存在であることも分かった。

 急いで何かを聞く必要はない。

 それでもここへ来た。

「……まあ、いいか」

 考えても分からない。

 ノックする。

「どうぞ」

 聞き慣れた声が返ってきた。

 扉を開ける。

 ルシアンは窓際の机に座っていた。

 黒紫の髪。

 眼鏡の奥の紫の瞳。

 深紅のネクタイ。

 いつも通り、書類の山に囲まれている。

「おはようございます」

「おはよう、リリア」

 ルシアンは顔を上げる。

「朝から珍しいね。何か問題でも?」

「ないです」

「迷子?」

「違います」

「それは失礼」

「ちゃんと生徒会室目指して来ました」

「それは偉い」

「馬鹿にしてます?」

「褒めているよ」

「絶対嘘」

 いつものやり取り。

 それだけで、少し安心した。

「それで?」

 ルシアンがペンを置く。

「何を聞きに来たのかな」

「……何で質問がある前提なんですか」

「君が僕を訪ねる時は、大抵そうだからね」

「じゃあ今日は違います」

 ルシアンの動きが止まった。

「違う?」

「はい」

「では何の用?」

 リリアは少し考える。

 自分でも、まだ上手く言葉にできない。

「会いに来ました」

 沈黙した。

 ルシアンはリリアを見る。

「……僕に?」

「他に誰がいるんですか」

「いや」

 眼鏡を押し上げる。

「それはそうなんだけどね」

「何ですかその反応」

「予想していなかった」

「ルシアン先輩でも予想外とかあるんだ」

「僕を何だと思っているのかな」

「大体何でも知ってる人」

「買い被りだよ」

「じゃあ私が今日来るのも知らなかった?」

「ああ」

 ルシアンは少し笑った。

「知らなかった」

 その言い方が、なぜか印象に残った。

「……嬉しいですか?」

「何が?」

「私が会いに来たの」

 聞いてから、少し変な質問だったと思う。

 けれどルシアンは笑わなかった。

「嬉しいよ」

 思ったより普通に返ってきた。

「そうなんだ」

「疑っていたのかい?」

「ちょっと」

「傷つくな」

「絶対傷ついてない」

「それも決めつけだね」

 ルシアンが立ち上がる。

「座る?」

「はい」

 ソファへ移動する。

 リリアがいつもの位置へ座ると、ルシアンは向かい側に腰を下ろした。

「それで、会いに来たあとは?」

「考えてませんでした」

「計画性がない」

「会ってから考えようと思って」

「僕が忙しかったら?」

「帰ります」

「潔いね」

「忙しい?」

 ルシアンは机の上の書類を見る。

「忙しいと言えば忙しい」

「じゃあ帰る」

 立ち上がろうとした。

「待って」

 止められる。

 リリアはルシアンを見る。

「何ですか」

「帰る必要はないよ」

「でも忙しいんでしょ?」

「君と話す時間くらいはある」

「無理してない?」

「していない」

「本当に?」

「……今日はよく疑うね」

「ルシアン先輩、何考えてるか分からないから」

 その言葉に、ルシアンの表情が僅かに変わった。

「そうだね」

 否定しなかった。

「僕は君に隠していることが多い」

「やっぱり」

「知っていただろう?」

「まあ」

「それを聞きに来た?」

「今日は違います」

 リリアは首を振った。

「今日はルシアン先輩のことを知りたい」

 また沈黙した。

 今日はよく黙る。

「……僕の?」

「はい」

「世界の仕組みではなく?」

「うん」

「過去の君のことでもなく?」

「うん」

「魂についてでもない?」

「しつこい」

「確認しているんだよ」

「ルシアン先輩のこと」

 はっきり言う。

「好きな食べ物とか、嫌いなものとか、休みの日何してるとか。そういう普通のこと」

 ルシアンが目を細めた。

「なぜ?」

「知らないから」

「知らなくても困らないよ」

「でも知りたい」

 答えると、ルシアンが黙る。

「……駄目?」

「いや」

 少し遅れて返ってきた。

「駄目ではない」

「じゃあ好きな食べ物」

「急だね」

「何?」

「特にない」

「つまんない」

「酷いな」

「じゃあ甘いもの好き?」

「普通」

「辛いもの」

「普通」

「嫌いな食べ物」

「特にない」

「面白くない!」

「食事に娯楽性を求めすぎじゃないかな」

 リリアは眉を寄せる。

「じゃあ趣味」

「読書」

「何読むの?」

「魔法史、古代術式、世界構造論」

「仕事じゃん」

「趣味だよ」

「絶対嘘」

「本当に好きなんだけどね」

「もっと普通のないの?」

「普通とは?」

「散歩とか。寝るとか。お菓子食べるとか」

「君の趣味が混ざっていないかい?」

「寝るの好き」

「知っている」

 さらりと言われた。

 リリアは止まる。

「何で知ってるの?」

「朝が弱いだろう」

「……見てた?」

「君は割と有名だからね」

「誤魔化した」

「そうかな」

「そうです」

 ルシアンは微笑んでいる。

 いつもの顔。

 でも、ふと思った。

「ルシアン先輩って、私のこと結構知ってますよね」

「ああ」

「私は先輩のこと全然知らない」

「そうだね」

「不公平」

「何が?」

「私ばっかり知られてる」

 リリアはソファの背もたれへ寄りかかった。

「だから教えて」

「何を?」

「ルシアン先輩のこと」

 ルシアンはしばらくこちらを見ていた。

 やがて、小さく息を吐く。

「コーヒーは苦い方が好きだ」

「うん」

「雨の日は嫌いじゃない」

「うん」

「静かな場所が好きだが、静かすぎる場所はあまり好きじゃない」

「それ何で?」

「考えすぎるから」

 少し意外だった。

「何を?」

「色々と」

「また誤魔化した」

「全部一度に知ろうとしないでくれるかな」

「じゃあ次」

「まだあるの?」

「いっぱい」

 ルシアンが少し笑った。

「休みの日は?」

「学院の外へ出ることもある」

「どこ行くの?」

「古書店」

「やっぱり本」

「あとは適当に歩く」

「散歩するんじゃん!」

「するよ」

「最初に言ってよ」

「君が勝手に僕を本棚に住んでいる人間みたいに扱ったんだろう」

「住んでそう」

「失礼だな」

「今度一緒に行きたい」

 口から自然に出た。

 ルシアンの表情が止まる。

「古書店?」

「うん」

「僕と?」

「だから何で毎回そこ確認するの」

「……そうだね」

 ルシアンは眼鏡の位置を直した。

「行く?」

「いいんですか?」

「ああ」

「いつ?」

「次の休日」

「空いてる」

「では決まりだ」

「やった」

 思ったより簡単に約束ができた。

 嬉しくなって、リリアは笑う。

 その顔をルシアンが見ていた。

「何ですか」

「いや」

「またそれ」

「君は分かりやすいなと思って」

「何が?」

「嬉しい時」

「嬉しいから」

「僕と出かけるのが?」

「うん」

 ルシアンが黙った。

「……先輩?」

「君は時々、随分と困ることを平気で言うね」

「何で?」

「自覚がないなら、そのままでいいよ」

「気になる」

「教えない」

「意地悪」

「知っている」

 そのあとも、しばらくどうでもいい話をした。

 ルシアンが意外と朝に強いこと。

 料理はできるけれど、必要がなければしないこと。

 猫より犬が好きなこと。

 理由は「猫は僕を信用しないから」。

 それを聞いてリリアは笑った。

「絶対何か見抜かれてるんですよ」

「猫に?」

「うん」

「何を」

「怪しい人だって」

「君も随分言うようになったね」

「仲良くなったから」

 ルシアンの笑みが、ほんの少し止まる。

「……仲良くなった?」

「違う?」

「いや」

 紫の瞳が柔らかくなる。

「そうだといいね」

「何その言い方」

「僕は友人関係の判定に自信がなくてね」

「じゃあ私が決めます」

「君が?」

「うん。仲良し」

「勝手だな」

「嫌?」

「嫌じゃないよ」

 少しだけ笑う。

「むしろ嬉しい」

 今日二回目の「嬉しい」だった。

 ルシアンは思ったより、自分の気持ちを言う。

 ただし、こちらから聞いた時だけ。

「じゃあもう一個聞く」

「どうぞ」

「私が来なかったら、今日何してた?」

「仕事」

「一日?」

「おそらく」

「つまんない」

「君は僕の生活に厳しいね」

「じゃあ来てよかった?」

 ルシアンは少しだけ考えた。

「よかったよ」

「仕事邪魔したのに?」

「ああ」

「何で?」

 また、聞いてしまった。

 ルシアンは答えようとして。

 やめた。

「……それはまだ秘密かな」

「また秘密」

「全部教えたら、君はもう僕を知りたいと思わなくなるだろう?」

「ならないと思う」

「どうして?」

「一個知ると、また次知りたくなるから」

 ルシアンがこちらを見る。

「今日もそう。コーヒー好きって知ったら、どこのが好きなのか気になるし、散歩するって知ったらどこ歩くのか気になる」

「……そう」

「だから多分、いっぱい知っても終わらない」

 何となく言っただけだった。

 けれどルシアンは、しばらく何も言わなかった。

「先輩?」

「君は本当に」

 小さく息を吐く。

「残酷だね」

「えっ」

「褒めている」

「絶対違う」

「半分くらいは」

「半分悪口じゃん」

 リリアが睨むと、ルシアンは笑った。

 でもその笑顔は、いつもより少しだけ困っているように見えた。

 昼前になり、リリアは立ち上がった。

「そろそろ帰ります」

「昼食は?」

「まだ決めてない」

「一緒に食べる?」

 今度はリリアが止まった。

「ルシアン先輩から誘った」

「そんなに珍しい?」

「珍しい」

「なら撤回しようかな」

「食べる!」

「即答だね」

「どこ?」

「食堂でいいだろう」

「うん」

 二人で生徒会室を出る。

 廊下を歩きながら、リリアは少し不思議な気分だった。

 今までルシアンと歩く時は、何か問題があった。

 世界のこと。

 魔法のこと。

 過去のこと。

 今日は何もない。

 ただ一緒に昼食を食べるために歩いている。

「ルシアン先輩」

「何?」

「今日、普通ですね」

「僕は普段から普通だよ」

「嘘」

「酷いな」

「でもこっちの方が好きかも」

 ルシアンの足が僅かに止まった。

「……何が?」

「世界の話してないルシアン先輩」

「そう」

「普通に喋ってる方が楽しい」

「……そうか」

「うん」

 また歩き出す。

 けれど少しだけ、ルシアンの歩く速度が遅くなった。

 リリアは気づかなかった。

 彼が横を向いた理由にも。

 眼鏡の奥の目を、一瞬だけ伏せたことにも。

 その日の夜。

 ルシアンは一人、生徒会室に残っていた。

 机の上には、古い記録が開かれている。

 十二の世界。

 十二回の再構築。

 そして、その遥か前。

 まだ最初の世界すら壊れていなかった頃の記録。

 そこには一人の少女と、一人の少年の名前があった。

 ルシアンは長い間、そのページを見ていた。

『あなたのことが好き』

 記録の中に残る言葉。

 かつて彼女が、彼に伝えた言葉だった。

 そして自分は、それを拒んだ。

 拒まなければならなかった。

 彼女が一人の人間として生きるために。

「……今度は逆か」

 小さく呟く。

 今日、リリアは自分から会いに来た。

 世界について聞くためではない。

 過去を知るためでもない。

 ただ、自分を知りたいと言った。

 次の休日、一緒に出かける約束までした。

 それがどれほど嬉しかったか。

 彼女は知らない。

 知らなくていいと思う。

 今のリリアは、あの少女ではない。

 自分の魂の半分から生まれた存在でもない。

 運命で結ばれた相手でもない。

 だからこそ。

「……困ったな」

 ルシアンは眼鏡を外し、目元を押さえた。

 世界の構造なら読める。

 術式なら解ける。

 過去も知っている。

 未来の可能性だって、ある程度なら予測できる。

 けれど。

 次の休日、彼女と二人で出かける時。

 自分がどんな顔をすればいいのかだけは。

 どうしても分からなかった。