魔法より、君に恋をする。

異変が起きたのは、一時間目の実技訓練だった。

 課題は単純な魔力制御。標的へ一定量の魔力を流し、指定された範囲だけを破壊する。入学してから何度もやってきた訓練で、リリアにとって失敗する方が難しいはずだった。

「――あれ?」

 魔法を発動した瞬間、いつもと感覚が違った。

 指先から放った光が標的へ届く。その直後、止めたはずの魔力が勝手に膨らんだ。

 白い光が弾ける。

「リリア!」

 セシルの声が聞こえた。

 リリアは咄嗟に術式を解除した。けれど魔法は消えず、逆に空間そのものを巻き込むように広がっていく。

「止まって……!」

 もう一度強く念じる。

 それでも止まらない。

 怖い。

 そう思った瞬間、魔力がさらに膨れ上がった。

 感情に反応している。

 昨日カイルと調べたことが頭をよぎった。

 焦れば焦るほど悪化する。

「リリア、こっち見て」

 すぐ近くまで来たセシルの声がした。

「大丈夫。まだ誰も怪我してない。だから一回、息して」

「でも止まらない」

「うん。でもリリアなら止められる。私もいるから」

 セシルの声に合わせて息を吸おうとした、その時だった。

 訓練場の扉が勢いよく開いた。

 振り向くより先に分かった。

「リリア!」

 聞き慣れた声だった。

「……カイル先輩」

 カイルが走ってくる。

 いつもの彼なら、こんな顔はしない。

 明らかに焦っていた。

「動くな」

「カイル先輩、魔力が――」

「分かっている。俺を見るんだ」

 言われた通り顔を上げる。

 カイルはリリアのすぐ近くまで来たところで、手を伸ばしかけた。

 けれど止まった。

 触れれば魂魄封印術式が反応するかもしれない。

 二人とも、それを知っている。

「リリア。触れていいか」

 こんな時なのに。

 それでも聞いた。

 そのことが、リリアには嬉しかった。

「うん」

 返事をした瞬間、カイルの手がリリアの手首を掴んだ。

「俺に魔力を流せ」

「でも先輩の封印が」

「全部じゃない。余った分だけだ。俺が受ける」

「危なくない?」

「危険なら止める。一緒にやると言っただろう」

 カイルの手は強い。

 けれど痛くはなかった。

「俺を見るんだ。周りは見るな」

「うん」

「息を吸え」

 リリアは息を吸う。

「吐け」

 ゆっくり吐く。

 もう一度。

 カイルの声だけを聞く。

 少しずつ、暴れていた魔力が収まっていった。

 白い光が小さくなる。

 最後の一筋が消えた瞬間、リリアは大きく息を吐いた。

「……止まった」

「ああ」

「私、止められた?」

「止めた」

 カイルの声が少しだけ震えていた。

「お前が止めた」

 安心した途端、身体から力が抜けた。

「わ」

 倒れそうになった身体を、カイルがすぐに支える。

 そのまま胸元へ抱き込まれた。

「カイル先輩?」

 返事がない。

 腕が強い。

 いつも抱きしめられる時より、明らかに強かった。

「……ちょっと苦しい」

 言った瞬間、カイルの腕が緩んだ。

「悪い」

「ううん」

「怪我は」

「ない」

「本当に?」

「うん」

「痛いところは」

「ないよ」

「気分は」

「大丈夫」

「魔力酔いは」

「してない」

「本当に?」

「カイル先輩」

「何だ」

「質問多い」

 カイルが黙った。

 その顔を見て、リリアはようやく気づいた。

「……怖かった?」

 答えがない。

「カイル先輩?」

「怖かった」

 小さな声だった。

「お前の魔力が暴走したと聞いた瞬間、何も考えられなくなった」

 カイルはリリアの肩を支えたまま、目を閉じる。

「また間に合わないと思った」

 その言葉が何を意味しているのか、すぐに分かった。

 昔のリリア。

 救えなかった人。

「でも間に合ったよ」

「ああ」

「私、生きてる」

「ああ」

「カイル先輩が来る前から、セシルもいてくれた」

 カイルがセシルを見る。

「……助かった」

「私は声をかけただけですよ」

 セシルは少し笑った。

「でもリリア、今日はもう休んだ方がいいと思います。クロフォード先輩、連れていってあげてください」

「ああ」

「セシル、ありがとう」

「うん。あとで顔見に行くね」

 そう言って、セシルはそれ以上二人の間へ入らなかった。

 保健室へ向かう途中、カイルはずっとリリアの隣にいた。

 手は繋いでいない。

 けれど、少しでもふらつけば支えられるような距離を保っている。

「手、繋がないの?」

「今はやめておく」

「何で?」

「俺の封印がどうなっているか分からない」

「そっか」

「……繋ぎたいが」

 小さく付け足された言葉に、リリアは笑った。

「私も」

「だから言うな」

「何で?」

「我慢している」

 昨日も聞いた言葉だった。

 でも今日は少し意味が違う。

 触れたいのに、リリアのために触れない。

「じゃあ袖なら?」

「何?」

「手じゃなくて、袖」

 リリアはカイルの制服の袖をつまんだ。

「これくらいならいいでしょ」

「……子供か」

「嫌?」

「嫌ではない」

「じゃあこれで」

 袖をつまんだまま歩く。

 カイルは何も言わなかった。

 ただ歩く速度が少しだけ遅くなった。

 保健室で簡単な診察を受けた結果、リリアの身体に異常はなかった。魔力の消耗も想定より少なく、少し休めば授業へ戻ってもいいと言われた。

 けれど、保健室を出たところでカイルが言った。

「今日は戻るな」

 リリアは足を止めた。

「……今の、命令?」

 カイルも止まる。

 一瞬、何かを言いかけた。

 けれど飲み込んだ。

「……違う」

「じゃあ?」

「俺は、戻ってほしくない」

 言い直した。

「理由は?」

「怖いからだ。また暴走するかもしれない。今度は俺が間に合わないかもしれない」

「うん」

「だから今日は休んでほしい。だが、決めるのはお前だ」

 リリアはしばらくカイルを見つめた。

「じゃあ今日は休む」

「……いいのか」

「うん。私ももう一回起きたら怖いし、原因調べたい」

 カイルの表情が少し緩んだ。

「ただし」

「何だ」

「研究室で一人で調べるの禁止」

「……分かっている」

「私も行く」

「今日は休め」

「研究室のソファで休む」

「女子寮へ戻れ」

「一人になる方が不安」

 その一言で、カイルが黙った。

「カイル先輩といたい」

「……そういう言い方はずるい」

「本当だもん」

「分かった。研究室へ行く」

「やった」

「ただしお前は休む。解析は俺がする」

「一緒に決めるんじゃなかったの?」

「調べるのは俺だ。結果は全部見せる」

「ならいい」

 北塔へ向かう途中も、リリアはずっとカイルの袖をつまんでいた。

 研究室へ入ると、カイルはまずソファへリリアを座らせ、毛布まで持ってきた。

「そこまでしなくても」

「黙って使え」

「過保護始まってる?」

 カイルの動きが止まった。

 冗談のつもりだった。

 けれど彼は笑わなかった。

「……そうかもしれない」

「カイル先輩」

「今、かなり強い」

「何が?」

「お前をここから出したくないという気持ちが」

 リリアは黙った。

「誰にも会わせず、魔法も使わせず、俺の見える場所に置いておきたい」

 静かな声だった。

「それが術式の影響なのか、俺自身の恐怖なのか、もう区別がつかない」

 リリアは毛布を膝にかけたまま、カイルを見る。

「でも今、私を閉じ込めてないよ」

「ああ」

「授業戻るなって命令したのも言い直した」

「ああ」

「じゃあ大丈夫」

「簡単に言うな」

「簡単じゃないよ」

 リリアはソファから立ち上がった。

「座っていろ」

「ちょっとだけ」

「リリア」

「カイル先輩」

 目の前まで行く。

「私に触れたい?」

 カイルの眉が僅かに寄った。

「……触れたい」

「どれくらい?」

「今すぐ抱きしめたい」

「じゃあ、していいよ」

「駄目だ」

 即答だった。

「何で?」

「今の俺がどこまで自分を制御できるか分からない」

「でも私が嫌って言ったら離せる?」

「離す」

「絶対?」

「ああ」

「じゃあ大丈夫」

「リリア」

「試してみよう」

 リリアは両腕を広げた。

「抱きしめて」

 カイルは動かなかった。

「カイル先輩」

「……お前は俺を信用しすぎだ」

「違う」

「何が」

「信用してるけど、何でも許すわけじゃない」

 リリアは真っ直ぐ彼を見る。

「苦しかったら苦しいって言う。嫌だったら嫌って言う。離してって言う。それでカイル先輩が離してくれなかったら、本気で怒る」

「……ああ」

「だから今は、抱きしめてほしい」

 長い沈黙のあと、カイルが一歩近づいた。

 腕が背中へ回る。

 最初は、驚くほど弱かった。

「もっと普通でいいよ」

「普通が分からない」

「昨日くらい」

「……難しい注文だな」

 少しずつ腕に力が加わる。

 胸元へ頬を寄せる。

 いつものカイルの匂いがした。

「これくらい?」

「ああ」

「苦しくない」

「そうか」

「落ち着く」

 腕がほんの少しだけ強くなった。

「俺もだ」

 その声が頭の上から落ちてくる。

「リリア」

「何?」

「さっき、お前が倒れそうになった時」

「うん」

「本当に、何も考えられなかった」

 リリアは黙って聞いた。

「世界がどうなるかも、封印がどうなるかもどうでもよかった。ただお前が生きていればいいと思った」

「うん」

「それが怖い」

「何で?」

「昔と同じだからだ」

 カイルの腕が少し緩む。

「昔も、彼女一人が生きるなら世界が滅びてもいいと思った」

「でも今は違うよ」

「何が」

「私が世界滅びてもいいって言ったら、カイル先輩は止めるでしょ?」

 少しの沈黙。

「……止める」

「じゃあ違う」

「そんな単純な話か?」

「私にはそう見える」

 リリアは胸元から顔を上げた。

「好きな人が危なかったら、他のこと考えられなくなる時くらいあるんじゃない? 私だって今日カイル先輩が怪我したら、多分研究どころじゃなくなる」

「お前も?」

「当たり前でしょ」

 カイルが少し驚いた顔をする。

「何その顔」

「いや」

「私だけが大事にされてると思ってた?」

「……少し」

「ひどい」

「悪い」

「私もカイル先輩のこと大事だよ」

 その瞬間、背中に回っていた腕がまた強くなった。

「苦しい?」

「大丈夫」

「本当に?」

「うん」

 リリアは少し笑った。

「でもカイル先輩、今すごく抱きしめてる」

「……分かっている」

「離したくない?」

「ああ」

「私も今は離れたくない」

 カイルが息を止めたのが分かった。

「リリア」

「何?」

「そういうことを言われると、キスしたくなる」

「していいよ」

「……お前な」

「嫌じゃないもん」

「今日は感情を大きく動かさない方がいい」

「じゃあしない?」

「……する」

「するんだ」

「今のは俺が悪い」

 思わず笑った。

 カイルも少しだけ笑う。

 それから身体を離し、リリアの頬へ手を添えた。

「本当にいいか」

「うん」

 唇が触れる。

 短い。

 いつもと同じくらい短いはずだった。

 けれど離れたあと、カイルはすぐには手を退けなかった。

 額が触れる。

「……もう一回したい」

 初めて、カイルから言った。

 リリアの胸が一気に熱くなる。

「うん」

「いいのか」

「したい」

 今度は、リリアから少しだけ顔を近づけた。

 二度目のキスも優しかった。

 さっきよりほんの少し長い。

 それでも、どちらからともなく離れる。

 カイルの顔が近いままだった。

「……大丈夫?」

「何が?」

「止まれる?」

 聞くと、カイルは一瞬黙った。

「止まれる」

「よかった」

「ただ」

「ただ?」

「かなり惜しい」

 リリアは吹き出した。

「何それ」

「正直に言えと言ったのはお前だ」

「そうだけど」

「もう一度したい」

「じゃあ――」

「今日は終わりだ」

 自分で言って、自分から一歩離れる。

「えー」

「その顔をするな」

「したかった」

「俺もだ」

「じゃあ何で?」

「お前の魔力が暴走した日だからだ」

「……それ言われたら何も言えない」

「だろうな」

 カイルが少し笑った。

「続きは、お前が元気な日にする」

「続きって言った」

「言葉の綾だ」

「覚えとこ」

「忘れろ」

「無理」

 久しぶりに、研究とは関係のないことで笑った気がした。

 それからリリアはソファへ戻り、カイルは机に向かった。

 けれど三十分ほど経ったところで、リリアは気づく。

「カイル先輩」

「何だ」

「こっち来て」

「なぜ」

「眠い」

「なら寝ろ」

「一人だと寝れない」

「……さっき一人が不安だと言っていたな」

「うん」

 カイルは少し迷ったあと、資料を閉じた。

「隣?」

「隣」

 ソファの端へ座る。

 リリアは少しだけ身体を寄せた。

「肩借りていい?」

「ああ」

 頭を預ける。

 カイルの肩は少し硬かった。

「緊張してる?」

「している」

「何で」

「好きな女が肩で寝ようとしている」

「彼女でしょ」

「それでもだ」

「慣れて」

「努力する」

 目を閉じる。

 少しして、髪に指が触れた。

「撫でてる?」

「嫌か」

「好き」

 ゆっくりと髪を撫でられる。

 心地いい。

「カイル先輩」

「何だ」

「好き」

 髪を撫でる手が止まった。

「……寝る直前に言うな」

「何で」

「返事をしたくなる」

「すればいいじゃん」

 少しの沈黙。

「好きだ」

「うん」

「かなり好きだ」

 リリアは目を開けた。

「今のもう一回」

「寝ろ」

「聞きたい」

「言わない」

「何で?」

「お前が嬉しそうだからだ」

「じゃあ言ってよ」

「だから言わない」

「意地悪」

 リリアはカイルの肩へもう少し頬を寄せた。

「でも私もかなり好き」

「……リリア」

「何?」

「本当に寝ろ」

 声が少し困っている。

 それが面白くて、目を閉じたまま笑った。

 少しずつ眠気が強くなる。

 髪を撫でる手は止まらない。

 意識が落ちる直前、額に何か柔らかいものが触れた。

 キスだと思った。

 でも眠くて、確認できなかった。

 目を覚ましたのは、それから一時間ほど経った頃だった。

 窓の外は夕方になっている。

「……寝てた」

「ああ」

「カイル先輩、ずっとここにいた?」

「ああ」

「研究は?」

「していない」

「何で?」

「お前が俺の肩で寝ていたから動けなかった」

「起こせばよかったのに」

「起こしたくなかった」

 さらりと言われる。

 寝起きの頭には強すぎた。

「……額にキスした?」

 聞くと、カイルが黙った。

「したでしょ」

「寝ていたのに覚えているのか」

「やっぱりした」

「……一度だけだ」

「勝手に?」

 少し意地悪く聞くと、カイルの表情が固まった。

「悪い」

「怒ってないよ」

「だが――」

「嬉しかった」

 リリアは笑った。

「でも次は起きてる時にして」

「……分かった」

「約束」

「ああ」

 カイルは少し安心したように息を吐いた。

 その顔を見ながら、リリアは思った。

 好きになる前は、カイルのことを何でも一人で決める怖い先輩だと思っていた。

 今でもそういうところはある。

 今日だって、暴走を見た瞬間には「授業へ戻るな」と命令した。

 それでも言い直した。

 怖いと認めた。

 触れたいと言った。

 止まれるかと聞かれて、止まった。

 完璧に変わったわけではない。

 だからこそ、少しずつ変わっていくところを隣で見たいと思う。

「カイル先輩」

「何だ」

「今日、もっと好きになった」

「……また突然だな」

「言いたくなったから」

 カイルは少し黙ったあと、リリアの手を取った。

「俺もだ」

「何が?」

「今日、お前をもっと好きになった」

 今度はリリアが黙る。

「……ずるい」

「何がだ」

「同じこと返すの」

「本当だから仕方ない」

 指が絡む。

 その瞬間、机の上の記録帳が赤く光った。

 二人同時にそちらを見る。

「……忘れてた」

「俺もだ」

「今、絶対上がったよね」

「見るか?」

「見たくない」

「俺もだ」

 二人で顔を見合わせた。

 そして、笑った。

 危険が消えたわけではない。

 むしろ今日、リリアの魔法は初めて暴走した。

 カイルの魂魄封印も、少しずつ彼の感情へ影響を与え始めている。

 それでも今だけは、数字を見るより繋いだ手の方が大切だった。

 カイルは記録帳を閉じた。

「今日は帰ろう」

「調べなくていいの?」

「明日、お前と調べる」

「うん」

「今日は休め」

「カイル先輩もね」

「ああ」

 研究室を出る時も、二人は手を繋いだままだった。

 今度は、その手を離すべきかどうかを考えなかった。

 危険だから離れるのでも、好きだから何も考えず触れるのでもない。

 触れたいと二人で思って、触れている。

 今はそれでよかった。