恋人になった日の授業ほど、長く感じるものはないのかもしれない。
少なくとも、その日のリリアはそう思った。
午前中の魔法理論はいつも通りだったし、昼休みもいつも通りだった。教師の話もちゃんと聞いていたし、指名された問題にも答えられた。それなのに、時計を見る回数だけが明らかに多い。
「……あと三時間」
思わず呟いたところで、隣にいたセシルがこちらを見た。
「何かあるの?」
「放課後に出かける」
「へえ。誰と?」
「クロフォード先輩」
答えてから、少し迷う。
別に隠す必要はない。カイルも今朝、「聞かれたらそうだと答える」と言っていた。
「今日から付き合うことになった」
セシルが一度瞬きをした。
「……そっか」
「うん」
「ちゃんと答え、出たんだね」
「出た」
セシルは少しだけ目を細めた。それがどんな感情なのか、リリアには分からなかった。ただ次の瞬間には、いつもの穏やかな笑顔に戻っている。
「おめでとう、リリア」
「ありがとう」
「それで、初デート?」
「たぶん」
「たぶん?」
「本屋行くって話してたら、これ初デートじゃない?ってなった」
セシルがくすっと笑う。
「二人らしいね」
「でも朝からもうキスした」
「…………え?」
珍しくセシルが固まった。
「一回だけ」
「回数の問題じゃないかな」
「そう?」
「そうだと思うよ」
セシルは困ったように笑いながら、頬杖をついた。
「リリアって、恋愛の話になると急にすごいことを普通の顔で言うよね」
「クロフォード先輩にも似たようなこと言われる」
「クロフォード先輩、大変そう」
「何で?」
「……ううん。幸せそうならいいよ」
最後の言葉だけ、少し優しかった。
リリアがその意味を考える前に予鈴が鳴り、昼休みは終わった。
午後の授業を終え、リリアが教室を出たのは予定より五分ほど遅かった。廊下へ出た瞬間、窓際に立つ黒髪の青年が目に入る。
「あ」
カイルもこちらに気づいた。
リリアは思わず駆け寄った。
「クロフォード先輩」
「走るな」
「待った?」
「五分程度だ」
「ごめんなさい」
「別にいい。待つのは慣れている」
「それ、何か重い意味ある?」
「今回はない」
「今回は」
リリアが笑うと、カイルも僅かに口元を緩めた。
そこで、二人とも同時に黙った。
朝なら自然に繋げたはずの手が、なぜか今日は動かない。
「……行く?」
「ああ」
二人で歩き出す。
手は繋がない。
昨日までなら迷子防止だの何だのと言いながら、ほとんど当然のように触れていた。それなのに“初デート”と名前がついた途端、妙に意識してしまう。
校門まで来たところで、リリアは我慢できなくなった。
「何で手繋がないの?」
「お前も繋がないだろう」
「先輩から来るかなって」
「俺も同じことを考えていた」
「何それ」
「知らん」
少しだけ見つめ合ったあと、リリアが先に笑った。
「付き合う前の方が普通に繋いでたね」
「そうだな」
「恋人になったのに」
「……恋人になったからだろう」
カイルが右手を差し出した。
「今までより意味を考える」
「手繋ぐだけなのに?」
「俺にとっては、もう“だけ”ではない」
さらりと言われ、リリアの方が黙ってしまった。
「……クロフォード先輩」
「何だ」
「最近、急にそういうこと言うよね」
「嫌か」
「好き」
「なら問題ない」
「強くなったなあ」
「誰のせいだ」
差し出された手へ自分の手を重ねる。
指が絡むと、ようやくいつもの二人に戻れた気がした。
学院から街の中心部までは、歩いて十五分ほどだった。休日ほどではないものの通りには学生や買い物客が多く、パン屋や菓子店から甘い香りが漂っている。
「先に本屋?」
「ああ。何か見たい本はあるか」
「特にない。クロフォード先輩が何見るのか見たい」
「俺を見に本屋へ行くのか」
「そう」
「本の意味がないな」
「デートだからいいの」
その言葉を聞くたびに、カイルの耳が僅かに赤くなる。
「まだ慣れない?」
「何に」
「デートって言われるの」
「……少し」
「私も」
「お前は楽しそうに連呼しているが」
「言ったら慣れるかなと思って」
「俺で実験するな」
「研究者なのに?」
「そういう問題ではない」
話しているうちに本屋へ着いた。
店内へ入ると、カイルは自然に魔法学の専門書が並ぶ棚へ向かう。リリアもその隣についていった。
「やっぱりここなんだ」
「何がだ」
「デートでも研究の本見るんだなって」
「見たい本を見て何が悪い」
「悪くないよ。クロフォード先輩っぽい」
カイルは一冊を手に取った。
古代術式に関する分厚い本だった。
「面白い?」
「面白い」
「どこが?」
「術式構造の変遷が――」
説明が始まった。
最初は軽い気持ちで聞いたリリアだったが、カイルは本当に楽しそうだった。普段より僅かに話す速度が速い。ページを開いて図を見せながら、古い術式と現在の魔法理論の違いを説明してくれる。
リリアは途中から、本よりカイルの顔を見ていた。
「……聞いているか」
「聞いてる」
「ならこっちを見ろ」
「見てるよ」
「本をだ」
「クロフォード先輩見てた」
カイルが黙った。
「楽しそうだったから」
「……悪いか」
「全然。もっと見たい」
「俺は展示物じゃない」
「彼氏です」
「それを言えば何でも通ると思うな」
「通らない?」
「……少しは通る」
「通るんだ」
リリアが笑うと、カイルは諦めたように本を閉じた。
「お前は何か見ないのか」
「じゃあ魔法書」
「どんなものがいい」
「可能性創造に関係ありそうなの」
その瞬間だけ、カイルの表情が僅かに変わった。
「……なら、こっちだ」
連れて行かれたのは、一般的な魔法理論ではなく、魂や魔力の構造を扱う専門書の棚だった。
「私の魔法って、やっぱり魂と関係あるの?」
「可能性は高い。お前の魔法は通常の属性魔法と違って、魔力だけで完結していない」
「世界そのものに触ってるから?」
「ああ」
カイルは一冊の本を抜き出し、ページをめくる。
「ただし、今までの研究には前提が一つ欠けていた」
「何?」
「お前自身の意思だ」
リリアは彼を見た。
「俺はずっと、お前を危険から遠ざける方法を探していた。魔力を封じる方法も、世界との接続を切る方法もな」
「私に黙って?」
「……以前は、そのつもりだった」
「やっぱり」
「怒るな。今は違う」
カイルはすぐに本を閉じた。
「お前に何かするなら、まずお前に説明する。お前が嫌だと言えば別の方法を探す」
「本当に?」
「ああ」
「世界が危なくなっても?」
カイルの表情が固まった。
答えが出るまで少し時間がかかった。
「……それでもだ」
その言葉が簡単ではないことくらい、リリアにも分かった。
「俺は過去に一度、“世界のため”という理由で愛した人間の選択を受け入れた。今度は逆に、お前を守るという理由で、お前から選択を奪うところだった」
「うん」
「どちらも違う」
カイルはリリアを見る。
「今度は、一緒に決める」
その言葉が嬉しくて、リリアは彼の袖を少し引いた。
「それ、忘れないでね」
「ああ」
「私も忘れない」
研究の話はそこで終わりにした。
会計を済ませて店を出ると、カイルは結局三冊も本を買っていた。
「重そう」
「問題ない」
「一冊持とうか?」
「必要ない」
「彼女なのに?」
「彼女だから荷物を持たせない」
「そういうのいいから一冊ちょうだい」
「なぜ」
「一緒に買った感じがするから」
カイルはしばらくリリアを見たあと、一番薄い本を差し出した。
「これなら」
「過保護」
「重いものを持たせる意味がない」
「じゃあ今度クロフォード先輩が重そうな荷物持ってたら私も持つ」
「俺はお前より力がある」
「そういう問題じゃない」
今度はカイルが黙った。
「……なるほど」
「分かった?」
「ああ。今のは俺が悪かった」
「素直」
「学習している」
その答えに、リリアは満足した。
本屋を出たあとは、通りにある小さな菓子店へ入った。
ショーケースを見た瞬間、リリアはカイルを見る。
「ある」
「何が」
「苺タルト」
「見れば分かる」
「食べる」
「そう言うと思った」
カイルは自分には甘くない焼き菓子とコーヒーを選んだ。窓際の二人席へ座り、リリアは苺タルトを一口食べる。
「おいしい」
「そうか」
「食べる?」
「甘いだろう」
「一口」
「いらない」
「恋人っぽいことしようよ」
「それは恋人でなくてもできる」
「じゃあクロフォード先輩が思う恋人っぽいことって何?」
カイルの動きが止まった。
「……難しい質問をするな」
「研究者なのに」
「研究対象にしたことがない」
「じゃあ今から研究しよう」
「何を」
「恋人」
リリアはフォークを置いて、少し考える。
「手繋ぐ」
「もうしている」
「デートする」
「今している」
「キスする」
「……朝した」
「じゃあ全部してる」
「そうだな」
「付き合う前から半分くらいやってたね」
「言うな」
カイルがコーヒーへ逃げるように口をつける。
リリアは笑いながらタルトをもう一口食べた。
「でも、何か違う」
「何が」
「朝からずっと、同じことしてても前より嬉しい」
カイルがカップを置いた。
「俺もだ」
「本当?」
「ああ。今までは、どこまで望んでいいのか分からなかった」
「今は?」
「少なくとも、お前に好きでいてほしいと思うことを隠さなくていい」
静かな声だった。
「会いたいと言える。触れたいと言える。お前が他の男と親しくしていれば嫉妬するとも言える」
「嫉妬するの?」
「する」
「誰に?」
「言わない」
「ノア?」
カイルの眉が僅かに動いた。
「ノアなんだ」
「名前を出すな」
「アレン先輩は?」
「増やすな」
「レオン先輩」
「リリア」
低い声で名前を呼ばれ、リリアは笑った。
「結構いるね」
「楽しむな」
「だってクロフォード先輩も嫉妬するんだなって」
「する。だが、それを理由にお前が誰と話すか決めるつもりはない」
カイルは少しだけ間を置いた。
「そこは間違えない」
冗談の中に混ざったその一言に、リリアは目を細めた。
「うん。それなら嫉妬していいよ」
「許可されるものなのか?」
「知らない。でもちょっと嬉しい」
「……お前は変なところで喜ぶな」
「好きだからじゃない?」
カイルが黙る。
「また止まった」
「まだ慣れていない」
「好きって言われるの?」
「ああ」
「じゃあいっぱい言った方がいい?」
「やめろ」
「嫌?」
「そういう意味ではない」
「じゃあ言う」
「リリア」
「好き」
カイルが額を押さえた。
「……本当にやめろ」
「何で?」
「帰したくなくなる」
今度はリリアが止まった。
カイルは自分で言ってから気づいたらしく、少しだけ目を逸らす。
「……今のは忘れろ」
「無理」
「忘れろ」
「絶対無理」
リリアは熱くなった頬を隠すために、残っていたタルトを食べた。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「私も、まだ帰りたくない」
今度は二人とも黙った。
付き合ったからといって、急に何もかも上手くなるわけではないらしい。
むしろ好きだと分かっているからこそ、言葉一つで以前より簡単に動揺する。
それが少し面倒で、でもかなり楽しかった。
店を出る頃には、空が夕方の色へ変わり始めていた。
学院へ戻る道で、カイルは当然のように手を差し出した。
今度は迷わず握る。
「初デート、どうでした?」
「面接か?」
「感想聞いてる」
「楽しかった」
「何が一番?」
カイルは少し考えた。
「全部だ」
「ずるい答え」
「本当だから仕方ない」
「本屋とタルトと私なら?」
「お前」
即答だった。
「……そこは考えてよ」
「なぜだ」
「こっちにも心の準備があるから」
「朝、お前も同じようなことをしていただろう」
「仕返し?」
「違う。聞かれたから答えただけだ」
カイルは前を向いたまま続ける。
「本はいつでも読める。タルトもいつでも買える。今日が楽しかったのは、お前がいたからだ」
「……強くなりすぎ」
「何が」
「彼氏力」
「意味が分からない」
本人が本気で分かっていないらしいのが、余計に困る。
学院へ戻る頃には、辺りはすっかり夕暮れになっていた。女子寮まで送ってもらい、入口の前で二人は向かい合う。
「今日はありがとう」
「ああ」
「楽しかった」
「俺もだ」
「次はどこ行く?」
「もう次の話か」
「行きたくない?」
「行きたい」
「じゃあ決まり」
カイルが少し笑う。
「お前といると、予定が増えるな」
「嫌?」
「逆だ」
その答えを聞いた瞬間、リリアは今日一日ずっと感じていたことが分かった。
カイルにとって未来は、ずっと怖いものだったのだ。
また同じことが起きるかもしれない。リリアが死ぬかもしれない。自分が同じ選択をするかもしれない。だから未来を考える時、彼はいつも最悪の可能性から先に見ていた。
けれど今は違う。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「来週もどこか行こう」
「ああ」
「その次も」
「ああ」
「卒業したあとも」
カイルが少し驚いた顔をした。
リリア自身も、そこまで先のことを言うつもりはなかった。
「……今のはちょっと先すぎた?」
「いや」
カイルは繋いでいた手を握り直した。
「嬉しかった」
その声が思ったより優しくて、リリアは笑った。
「じゃあ覚えといて」
「ああ」
「私、忘れるかもしれないけど」
「お前が言い出したんだろう」
「じゃあ先輩が覚えてて」
「任せろ」
しばらく見つめ合ったあと、カイルの視線がほんの一瞬だけリリアの唇へ落ちた。
朝のことを思い出す。
「……キスしたい?」
聞くと、カイルは小さく息を吐いた。
「お前は毎回聞くのか」
「だって顔に出てた」
「出していない」
「見てたよ」
「……したい」
素直な答えに胸が鳴る。
それでもカイルは近づいてこなかった。
「でも今日はしない」
「何で?」
「朝したから十分だ」
「一日一回制?」
「そんな制度はない」
「じゃあ何?」
カイルは少しだけ考えてから、リリアの頭へ手を置いた。
「急ぎたくない」
「……そっか」
「嫌か?」
「ううん」
むしろ、その答えが嬉しかった。
好きだから触れたい。
でも好きだから、急がない。
その両方がカイルの中にある。
「じゃあ今日はこれで我慢する」
リリアは一歩近づき、彼の腕へ軽く抱きついた。
カイルの身体が一瞬固まる。
「リリア」
「キスじゃないからいいでしょ」
「そういう問題か?」
「嫌?」
「……嫌ではない」
少しして、背中へ腕が回った。
昨日より自然だった。
ほんの少しだけ抱きしめてもらってから、リリアは自分から離れる。
「おやすみ、クロフォード先輩」
「ああ。おやすみ、リリア」
寮へ入ろうとして、ふと足を止めた。
恋人になったのに、ずっと名字で呼んでいる。
それが急に気になった。
「ねえ、クロフォード先輩」
「何だ」
「恋人なのにずっとクロフォード先輩って、ちょっと遠くない?」
カイルの表情が止まった。
リリアはその変化を見逃さなかった。
「……昔の私は、何て呼んでたの?」
少しの沈黙。
「カイル、と」
「そっか」
胸の奥に、ほんの僅かな引っかかりが生まれた。
けれど以前ほど嫌ではない。
「じゃあ私は同じにしない」
「……なぜ」
「真似したみたいになるから」
リリアは少し考える。
「カイル先輩」
呼んだ瞬間、彼の目が見開かれた。
「これなら私の呼び方でしょ」
「……ああ」
「嫌?」
「いや」
カイルはしばらく何かを堪えるように黙っていた。
「もう一度呼んでくれ」
「カイル先輩」
今度は、はっきり笑った。
「それがいい」
「じゃあ今日からカイル先輩」
「ああ」
「おやすみ、カイル先輩」
「……おやすみ、リリア」
その夜、研究室へ戻ったカイルは、机の上に置かれた一冊の研究記録を開いた。
最初のページには、数ヶ月前に自分で書いた文字が残っている。
『研究対象――リリア・アスター』
入学する前から調べていた。
同じ悲劇を繰り返さないために。
彼女の魔力を解析し、危険があれば封じ、必要なら本人の意思より先に守るつもりだった。
今なら、その文字がひどく傲慢に見える。
カイルはペンを取り、その一行へ線を引いた。
『研究対象――リリア・アスター』
少し考えてから、その下へ新しく書き加える。
『研究協力者――リリア・アスター』
勝手に決めたことだから、明日見せたら怒られるかもしれない。「私まだ協力するって言ってない」と言う顔まで想像できた。
それなら明日、聞けばいい。
彼女が嫌だと言えば書き直せばいい。
それでいいのだ。
カイルはページをめくろうとして、手を止めた。
紙の端に、ごく薄い赤い光が浮かんでいる。
「……何だ?」
恋人になった浮ついた気分が、一瞬で消えた。
魔力を流す。
すると今まで反応しなかった術式の一部が、ゆっくりと文字を形成した。
『独立個体――ELICIA』
その下に、もう一行。
『魂魄封印術式――再起動兆候』
カイルの表情が変わった。
魂魄封印術式。
それは、過去の世界で何度もリリアと彼らを縛ってきたものだった。
しかも、現在の世界では停止しているはずのものだ。
カイルはすぐに別の資料を開き、数値を照合する。
間違いではない。
何かが動き始めている。
けれど、その瞬間に彼の頭へ浮かんだのは、リリアの魔力を封じる方法ではなかった。
今日、本屋で交わした約束だった。
『今度は、一緒に決める』
カイルは記録を閉じなかった。
隠すこともしなかった。
「……明日、話す」
今までなら一人で調べ、解決策を見つけてから彼女へ伝えただろう。
今は違う。
怖い未来ほど、一緒に見る。
それが恋人になるより前に、二人で決めたことだった。
机の上では、赤い文字が静かに明滅している。
幸せな一日の終わりに現れた、小さな異変。
それでもカイルは、もう一人で未来を決めようとはしなかった。
少なくとも、その日のリリアはそう思った。
午前中の魔法理論はいつも通りだったし、昼休みもいつも通りだった。教師の話もちゃんと聞いていたし、指名された問題にも答えられた。それなのに、時計を見る回数だけが明らかに多い。
「……あと三時間」
思わず呟いたところで、隣にいたセシルがこちらを見た。
「何かあるの?」
「放課後に出かける」
「へえ。誰と?」
「クロフォード先輩」
答えてから、少し迷う。
別に隠す必要はない。カイルも今朝、「聞かれたらそうだと答える」と言っていた。
「今日から付き合うことになった」
セシルが一度瞬きをした。
「……そっか」
「うん」
「ちゃんと答え、出たんだね」
「出た」
セシルは少しだけ目を細めた。それがどんな感情なのか、リリアには分からなかった。ただ次の瞬間には、いつもの穏やかな笑顔に戻っている。
「おめでとう、リリア」
「ありがとう」
「それで、初デート?」
「たぶん」
「たぶん?」
「本屋行くって話してたら、これ初デートじゃない?ってなった」
セシルがくすっと笑う。
「二人らしいね」
「でも朝からもうキスした」
「…………え?」
珍しくセシルが固まった。
「一回だけ」
「回数の問題じゃないかな」
「そう?」
「そうだと思うよ」
セシルは困ったように笑いながら、頬杖をついた。
「リリアって、恋愛の話になると急にすごいことを普通の顔で言うよね」
「クロフォード先輩にも似たようなこと言われる」
「クロフォード先輩、大変そう」
「何で?」
「……ううん。幸せそうならいいよ」
最後の言葉だけ、少し優しかった。
リリアがその意味を考える前に予鈴が鳴り、昼休みは終わった。
午後の授業を終え、リリアが教室を出たのは予定より五分ほど遅かった。廊下へ出た瞬間、窓際に立つ黒髪の青年が目に入る。
「あ」
カイルもこちらに気づいた。
リリアは思わず駆け寄った。
「クロフォード先輩」
「走るな」
「待った?」
「五分程度だ」
「ごめんなさい」
「別にいい。待つのは慣れている」
「それ、何か重い意味ある?」
「今回はない」
「今回は」
リリアが笑うと、カイルも僅かに口元を緩めた。
そこで、二人とも同時に黙った。
朝なら自然に繋げたはずの手が、なぜか今日は動かない。
「……行く?」
「ああ」
二人で歩き出す。
手は繋がない。
昨日までなら迷子防止だの何だのと言いながら、ほとんど当然のように触れていた。それなのに“初デート”と名前がついた途端、妙に意識してしまう。
校門まで来たところで、リリアは我慢できなくなった。
「何で手繋がないの?」
「お前も繋がないだろう」
「先輩から来るかなって」
「俺も同じことを考えていた」
「何それ」
「知らん」
少しだけ見つめ合ったあと、リリアが先に笑った。
「付き合う前の方が普通に繋いでたね」
「そうだな」
「恋人になったのに」
「……恋人になったからだろう」
カイルが右手を差し出した。
「今までより意味を考える」
「手繋ぐだけなのに?」
「俺にとっては、もう“だけ”ではない」
さらりと言われ、リリアの方が黙ってしまった。
「……クロフォード先輩」
「何だ」
「最近、急にそういうこと言うよね」
「嫌か」
「好き」
「なら問題ない」
「強くなったなあ」
「誰のせいだ」
差し出された手へ自分の手を重ねる。
指が絡むと、ようやくいつもの二人に戻れた気がした。
学院から街の中心部までは、歩いて十五分ほどだった。休日ほどではないものの通りには学生や買い物客が多く、パン屋や菓子店から甘い香りが漂っている。
「先に本屋?」
「ああ。何か見たい本はあるか」
「特にない。クロフォード先輩が何見るのか見たい」
「俺を見に本屋へ行くのか」
「そう」
「本の意味がないな」
「デートだからいいの」
その言葉を聞くたびに、カイルの耳が僅かに赤くなる。
「まだ慣れない?」
「何に」
「デートって言われるの」
「……少し」
「私も」
「お前は楽しそうに連呼しているが」
「言ったら慣れるかなと思って」
「俺で実験するな」
「研究者なのに?」
「そういう問題ではない」
話しているうちに本屋へ着いた。
店内へ入ると、カイルは自然に魔法学の専門書が並ぶ棚へ向かう。リリアもその隣についていった。
「やっぱりここなんだ」
「何がだ」
「デートでも研究の本見るんだなって」
「見たい本を見て何が悪い」
「悪くないよ。クロフォード先輩っぽい」
カイルは一冊を手に取った。
古代術式に関する分厚い本だった。
「面白い?」
「面白い」
「どこが?」
「術式構造の変遷が――」
説明が始まった。
最初は軽い気持ちで聞いたリリアだったが、カイルは本当に楽しそうだった。普段より僅かに話す速度が速い。ページを開いて図を見せながら、古い術式と現在の魔法理論の違いを説明してくれる。
リリアは途中から、本よりカイルの顔を見ていた。
「……聞いているか」
「聞いてる」
「ならこっちを見ろ」
「見てるよ」
「本をだ」
「クロフォード先輩見てた」
カイルが黙った。
「楽しそうだったから」
「……悪いか」
「全然。もっと見たい」
「俺は展示物じゃない」
「彼氏です」
「それを言えば何でも通ると思うな」
「通らない?」
「……少しは通る」
「通るんだ」
リリアが笑うと、カイルは諦めたように本を閉じた。
「お前は何か見ないのか」
「じゃあ魔法書」
「どんなものがいい」
「可能性創造に関係ありそうなの」
その瞬間だけ、カイルの表情が僅かに変わった。
「……なら、こっちだ」
連れて行かれたのは、一般的な魔法理論ではなく、魂や魔力の構造を扱う専門書の棚だった。
「私の魔法って、やっぱり魂と関係あるの?」
「可能性は高い。お前の魔法は通常の属性魔法と違って、魔力だけで完結していない」
「世界そのものに触ってるから?」
「ああ」
カイルは一冊の本を抜き出し、ページをめくる。
「ただし、今までの研究には前提が一つ欠けていた」
「何?」
「お前自身の意思だ」
リリアは彼を見た。
「俺はずっと、お前を危険から遠ざける方法を探していた。魔力を封じる方法も、世界との接続を切る方法もな」
「私に黙って?」
「……以前は、そのつもりだった」
「やっぱり」
「怒るな。今は違う」
カイルはすぐに本を閉じた。
「お前に何かするなら、まずお前に説明する。お前が嫌だと言えば別の方法を探す」
「本当に?」
「ああ」
「世界が危なくなっても?」
カイルの表情が固まった。
答えが出るまで少し時間がかかった。
「……それでもだ」
その言葉が簡単ではないことくらい、リリアにも分かった。
「俺は過去に一度、“世界のため”という理由で愛した人間の選択を受け入れた。今度は逆に、お前を守るという理由で、お前から選択を奪うところだった」
「うん」
「どちらも違う」
カイルはリリアを見る。
「今度は、一緒に決める」
その言葉が嬉しくて、リリアは彼の袖を少し引いた。
「それ、忘れないでね」
「ああ」
「私も忘れない」
研究の話はそこで終わりにした。
会計を済ませて店を出ると、カイルは結局三冊も本を買っていた。
「重そう」
「問題ない」
「一冊持とうか?」
「必要ない」
「彼女なのに?」
「彼女だから荷物を持たせない」
「そういうのいいから一冊ちょうだい」
「なぜ」
「一緒に買った感じがするから」
カイルはしばらくリリアを見たあと、一番薄い本を差し出した。
「これなら」
「過保護」
「重いものを持たせる意味がない」
「じゃあ今度クロフォード先輩が重そうな荷物持ってたら私も持つ」
「俺はお前より力がある」
「そういう問題じゃない」
今度はカイルが黙った。
「……なるほど」
「分かった?」
「ああ。今のは俺が悪かった」
「素直」
「学習している」
その答えに、リリアは満足した。
本屋を出たあとは、通りにある小さな菓子店へ入った。
ショーケースを見た瞬間、リリアはカイルを見る。
「ある」
「何が」
「苺タルト」
「見れば分かる」
「食べる」
「そう言うと思った」
カイルは自分には甘くない焼き菓子とコーヒーを選んだ。窓際の二人席へ座り、リリアは苺タルトを一口食べる。
「おいしい」
「そうか」
「食べる?」
「甘いだろう」
「一口」
「いらない」
「恋人っぽいことしようよ」
「それは恋人でなくてもできる」
「じゃあクロフォード先輩が思う恋人っぽいことって何?」
カイルの動きが止まった。
「……難しい質問をするな」
「研究者なのに」
「研究対象にしたことがない」
「じゃあ今から研究しよう」
「何を」
「恋人」
リリアはフォークを置いて、少し考える。
「手繋ぐ」
「もうしている」
「デートする」
「今している」
「キスする」
「……朝した」
「じゃあ全部してる」
「そうだな」
「付き合う前から半分くらいやってたね」
「言うな」
カイルがコーヒーへ逃げるように口をつける。
リリアは笑いながらタルトをもう一口食べた。
「でも、何か違う」
「何が」
「朝からずっと、同じことしてても前より嬉しい」
カイルがカップを置いた。
「俺もだ」
「本当?」
「ああ。今までは、どこまで望んでいいのか分からなかった」
「今は?」
「少なくとも、お前に好きでいてほしいと思うことを隠さなくていい」
静かな声だった。
「会いたいと言える。触れたいと言える。お前が他の男と親しくしていれば嫉妬するとも言える」
「嫉妬するの?」
「する」
「誰に?」
「言わない」
「ノア?」
カイルの眉が僅かに動いた。
「ノアなんだ」
「名前を出すな」
「アレン先輩は?」
「増やすな」
「レオン先輩」
「リリア」
低い声で名前を呼ばれ、リリアは笑った。
「結構いるね」
「楽しむな」
「だってクロフォード先輩も嫉妬するんだなって」
「する。だが、それを理由にお前が誰と話すか決めるつもりはない」
カイルは少しだけ間を置いた。
「そこは間違えない」
冗談の中に混ざったその一言に、リリアは目を細めた。
「うん。それなら嫉妬していいよ」
「許可されるものなのか?」
「知らない。でもちょっと嬉しい」
「……お前は変なところで喜ぶな」
「好きだからじゃない?」
カイルが黙る。
「また止まった」
「まだ慣れていない」
「好きって言われるの?」
「ああ」
「じゃあいっぱい言った方がいい?」
「やめろ」
「嫌?」
「そういう意味ではない」
「じゃあ言う」
「リリア」
「好き」
カイルが額を押さえた。
「……本当にやめろ」
「何で?」
「帰したくなくなる」
今度はリリアが止まった。
カイルは自分で言ってから気づいたらしく、少しだけ目を逸らす。
「……今のは忘れろ」
「無理」
「忘れろ」
「絶対無理」
リリアは熱くなった頬を隠すために、残っていたタルトを食べた。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「私も、まだ帰りたくない」
今度は二人とも黙った。
付き合ったからといって、急に何もかも上手くなるわけではないらしい。
むしろ好きだと分かっているからこそ、言葉一つで以前より簡単に動揺する。
それが少し面倒で、でもかなり楽しかった。
店を出る頃には、空が夕方の色へ変わり始めていた。
学院へ戻る道で、カイルは当然のように手を差し出した。
今度は迷わず握る。
「初デート、どうでした?」
「面接か?」
「感想聞いてる」
「楽しかった」
「何が一番?」
カイルは少し考えた。
「全部だ」
「ずるい答え」
「本当だから仕方ない」
「本屋とタルトと私なら?」
「お前」
即答だった。
「……そこは考えてよ」
「なぜだ」
「こっちにも心の準備があるから」
「朝、お前も同じようなことをしていただろう」
「仕返し?」
「違う。聞かれたから答えただけだ」
カイルは前を向いたまま続ける。
「本はいつでも読める。タルトもいつでも買える。今日が楽しかったのは、お前がいたからだ」
「……強くなりすぎ」
「何が」
「彼氏力」
「意味が分からない」
本人が本気で分かっていないらしいのが、余計に困る。
学院へ戻る頃には、辺りはすっかり夕暮れになっていた。女子寮まで送ってもらい、入口の前で二人は向かい合う。
「今日はありがとう」
「ああ」
「楽しかった」
「俺もだ」
「次はどこ行く?」
「もう次の話か」
「行きたくない?」
「行きたい」
「じゃあ決まり」
カイルが少し笑う。
「お前といると、予定が増えるな」
「嫌?」
「逆だ」
その答えを聞いた瞬間、リリアは今日一日ずっと感じていたことが分かった。
カイルにとって未来は、ずっと怖いものだったのだ。
また同じことが起きるかもしれない。リリアが死ぬかもしれない。自分が同じ選択をするかもしれない。だから未来を考える時、彼はいつも最悪の可能性から先に見ていた。
けれど今は違う。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「来週もどこか行こう」
「ああ」
「その次も」
「ああ」
「卒業したあとも」
カイルが少し驚いた顔をした。
リリア自身も、そこまで先のことを言うつもりはなかった。
「……今のはちょっと先すぎた?」
「いや」
カイルは繋いでいた手を握り直した。
「嬉しかった」
その声が思ったより優しくて、リリアは笑った。
「じゃあ覚えといて」
「ああ」
「私、忘れるかもしれないけど」
「お前が言い出したんだろう」
「じゃあ先輩が覚えてて」
「任せろ」
しばらく見つめ合ったあと、カイルの視線がほんの一瞬だけリリアの唇へ落ちた。
朝のことを思い出す。
「……キスしたい?」
聞くと、カイルは小さく息を吐いた。
「お前は毎回聞くのか」
「だって顔に出てた」
「出していない」
「見てたよ」
「……したい」
素直な答えに胸が鳴る。
それでもカイルは近づいてこなかった。
「でも今日はしない」
「何で?」
「朝したから十分だ」
「一日一回制?」
「そんな制度はない」
「じゃあ何?」
カイルは少しだけ考えてから、リリアの頭へ手を置いた。
「急ぎたくない」
「……そっか」
「嫌か?」
「ううん」
むしろ、その答えが嬉しかった。
好きだから触れたい。
でも好きだから、急がない。
その両方がカイルの中にある。
「じゃあ今日はこれで我慢する」
リリアは一歩近づき、彼の腕へ軽く抱きついた。
カイルの身体が一瞬固まる。
「リリア」
「キスじゃないからいいでしょ」
「そういう問題か?」
「嫌?」
「……嫌ではない」
少しして、背中へ腕が回った。
昨日より自然だった。
ほんの少しだけ抱きしめてもらってから、リリアは自分から離れる。
「おやすみ、クロフォード先輩」
「ああ。おやすみ、リリア」
寮へ入ろうとして、ふと足を止めた。
恋人になったのに、ずっと名字で呼んでいる。
それが急に気になった。
「ねえ、クロフォード先輩」
「何だ」
「恋人なのにずっとクロフォード先輩って、ちょっと遠くない?」
カイルの表情が止まった。
リリアはその変化を見逃さなかった。
「……昔の私は、何て呼んでたの?」
少しの沈黙。
「カイル、と」
「そっか」
胸の奥に、ほんの僅かな引っかかりが生まれた。
けれど以前ほど嫌ではない。
「じゃあ私は同じにしない」
「……なぜ」
「真似したみたいになるから」
リリアは少し考える。
「カイル先輩」
呼んだ瞬間、彼の目が見開かれた。
「これなら私の呼び方でしょ」
「……ああ」
「嫌?」
「いや」
カイルはしばらく何かを堪えるように黙っていた。
「もう一度呼んでくれ」
「カイル先輩」
今度は、はっきり笑った。
「それがいい」
「じゃあ今日からカイル先輩」
「ああ」
「おやすみ、カイル先輩」
「……おやすみ、リリア」
その夜、研究室へ戻ったカイルは、机の上に置かれた一冊の研究記録を開いた。
最初のページには、数ヶ月前に自分で書いた文字が残っている。
『研究対象――リリア・アスター』
入学する前から調べていた。
同じ悲劇を繰り返さないために。
彼女の魔力を解析し、危険があれば封じ、必要なら本人の意思より先に守るつもりだった。
今なら、その文字がひどく傲慢に見える。
カイルはペンを取り、その一行へ線を引いた。
『研究対象――リリア・アスター』
少し考えてから、その下へ新しく書き加える。
『研究協力者――リリア・アスター』
勝手に決めたことだから、明日見せたら怒られるかもしれない。「私まだ協力するって言ってない」と言う顔まで想像できた。
それなら明日、聞けばいい。
彼女が嫌だと言えば書き直せばいい。
それでいいのだ。
カイルはページをめくろうとして、手を止めた。
紙の端に、ごく薄い赤い光が浮かんでいる。
「……何だ?」
恋人になった浮ついた気分が、一瞬で消えた。
魔力を流す。
すると今まで反応しなかった術式の一部が、ゆっくりと文字を形成した。
『独立個体――ELICIA』
その下に、もう一行。
『魂魄封印術式――再起動兆候』
カイルの表情が変わった。
魂魄封印術式。
それは、過去の世界で何度もリリアと彼らを縛ってきたものだった。
しかも、現在の世界では停止しているはずのものだ。
カイルはすぐに別の資料を開き、数値を照合する。
間違いではない。
何かが動き始めている。
けれど、その瞬間に彼の頭へ浮かんだのは、リリアの魔力を封じる方法ではなかった。
今日、本屋で交わした約束だった。
『今度は、一緒に決める』
カイルは記録を閉じなかった。
隠すこともしなかった。
「……明日、話す」
今までなら一人で調べ、解決策を見つけてから彼女へ伝えただろう。
今は違う。
怖い未来ほど、一緒に見る。
それが恋人になるより前に、二人で決めたことだった。
机の上では、赤い文字が静かに明滅している。
幸せな一日の終わりに現れた、小さな異変。
それでもカイルは、もう一人で未来を決めようとはしなかった。

