翌朝、リリアが目を覚ましたのは六時十二分だった。いつもよりずっと早い。もう一度眠ろうと目を閉じてみたものの、昨日のカイルの声が蘇ってきて、ものの数秒で諦めた。
『俺は、お前が好きだ』
思い出した途端、リリアは布団を鼻まで引き上げた。
「……朝から無理」
昨日は言われる側だった。今日は、自分が返事をする番だ。
答えはもう決まっている。それなのに緊張だけは昨日よりひどくて、いつもより時間をかけて髪を整え、制服の襟を直し、銀白のネクタイまで二度結び直した。鏡を三回確認したところで、自分でもおかしくなってくる。
「別に昨日と顔変わってないのに」
七時になった。まだ早い。七時五分。早い。七時十分まで耐えたところで、リリアはとうとう鞄を持って立ち上がった。
七時十二分、女子寮の玄関を出る。
そして、すぐに足を止めた。
「……クロフォード先輩」
いつもの木の下に、もうカイルがいた。向こうもリリアがこんなに早く出てくるとは思っていなかったらしく、僅かに目を見開く。
「早いな」
「先輩こそ。何時からいるの?」
「今来た」
「嘘」
「……七時だ」
「二十五分前じゃん」
「眠れなかった」
あまりにも素直に白状されて、リリアは笑ってしまった。
「私も。六時十二分に起きた」
「早すぎる」
「五時台に起きてそうな人に言われたくない」
冗談で言ったのに、カイルが黙った。
「……何時に起きたの?」
「五時半」
「やっぱりじゃん」
「寝直そうとはした」
「無理だった?」
「ああ」
告白した本人も、自分の返事ひとつで眠れなかったらしい。その事実を知ったら、少しだけ緊張がほどけた。
けれど今日は、いつものようにカイルから手を差し出してこない。
「手、繋がないの?」
「……返事を聞く前に、今までと同じように触れていいのか迷っている」
「昨日まで普通に繋いでたのに」
「昨日と今日は違う。俺はもう、お前を好きだと伝えたからな」
真っ直ぐ言われて、心臓が跳ねた。
「じゃあ聞けばいいでしょ」
「繋いでいいか」
「うん」
リリアから手を差し出すと、カイルがその手を取る。指が絡み、掌がぴたりと重なった。
昨日までと同じはずなのに、今日は触れた瞬間から妙に意識してしまう。
「クロフォード先輩、緊張してる?」
「している」
「私も」
「……そうか」
そこで会話が止まった。
いつもならもう歩き始めているのに、今日はどちらも動かない。やがてカイルが、少しだけ躊躇うように口を開いた。
「返事を聞いてもいいか」
「もう?」
「駄目か」
「駄目じゃないけど……ちょっと待って」
「分かった」
「そんなすぐ待てる?」
「待つと言ったからな」
「三分くらい?」
「必要なら何年でも待つ」
「それは待ちすぎ」
「なら早めに頼む」
「今言う」
「どっちだ」
思わず二人で笑った。
その笑いで最後の緊張が少しだけ解けて、リリアは繋いだ手を握り直した。
「昨日、部屋に戻ってから考えました。私がクロフォード先輩に会いたいのは、毎朝会うのが習慣になったからなのかなって。手を繋ぎたいのも、そうするのに慣れただけなのかなって」
カイルは何も言わずに聞いている。
「でも、最初は習慣じゃなかった。まだ毎朝会ってなかった時から、先輩のことが気になってた。怖い人だと思ってたのに、笑ったら嬉しかったし、私が好きなものを覚えてくれてたのも嬉しかった。昔のリリアに会いたいって言われた時は、嫌だった」
「……ああ」
「一日会えなかったら寂しかった。会えたら嬉しくて走った。手を繋げたらもっと嬉しかったし、昨日、昔のことを全部聞いても離れたいとは思わなかった」
そこまで言うと、もう答えは一つしかなかった。
「告白されたから好きになったんじゃないです。告白される前から、たぶんずっと好きになってた」
絡んでいるカイルの指が僅かに震えた。
リリアは彼を見上げる。
「私、クロフォード先輩が好きです」
口にした瞬間、不思議なくらいしっくりきた。
「昔の私を好きだったクロフォード先輩じゃなくて、今、私の前にいる先輩が好き。怖い顔するし、すぐ一人で勝手に決めるし、研究ばっかりしてるし、私のこと監視してたし」
「……悪口が多くないか」
「まだ途中」
「そうか」
「でも優しいし、私の好きなものをすぐ覚えるし、ちゃんと話せば聞いてくれるし、最近は照れても認めるし」
「それは長所なのか?」
「可愛いから長所」
「可愛いはやめろ」
「あと、私に触る時すごく優しい」
カイルが黙った。
リリアは少しだけ恥ずかしくなったけれど、今更止めなかった。
「それが、結構好き」
「……リリア」
「だから私も、クロフォード先輩に私を好きでいてほしい」
しばらく返事がなかった。
不安になって顔を覗き込もうとすると、カイルが小さく息を吐いた。
「今、かなり余裕がない」
「顔はいつも通りですよ」
「中身の話だ」
「嬉しい?」
「嬉しい」
「どれくらい?」
「言葉にできないくらいだ」
そう言って、カイルが笑った。
いつもの僅かに口元を緩めるだけの笑い方ではない。本当に嬉しそうに、目元まで柔らかくなっている。
リリアは思わず見つめた。
「その顔、好き」
「今言うのか」
「初めて見たから」
「お前のせいだ」
「じゃあ、もっと笑わせたい」
「……好きな女に好きだと言われた直後に、それ以上求めるな」
好きな女。
その言葉が今は自分を指している。
途端に頬が熱くなった。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「私たち、今どういう状態?」
「どういう意味だ」
「両想い」
「ああ」
「じゃあ恋人?」
カイルが一瞬黙った。
「俺は、そうなりたい」
「私も」
「……本当に?」
「何で急に自信なくなるの?」
「お前が思ったより簡単に言うからだ」
「簡単じゃないよ。一晩考えた」
「一晩は短い」
「でも、その前からずっと考えてた」
リリアは繋いだ手を一度揺らした。
「クロフォード先輩、私と付き合いたい?」
「ああ」
「じゃあ、ちゃんと言って」
「昨日好きだとは言っただろう」
「それとこれは別」
「必要か?」
「必要です」
カイルは少しだけ困ったような顔をした。それでも誤魔化さず、一度息を整える。
「リリア」
「はい」
「俺と付き合ってほしい」
「はい」
返事をした瞬間、カイルの肩から目に見えて力が抜けた。
「今、安心した?」
「した」
「断ると思ってた?」
「一パーセントくらいは」
「少なっ」
「一パーセントでも怖いものは怖い」
その言葉が妙に可愛くて、リリアは一歩近づいた。
「じゃあ、今日から恋人?」
「ああ」
「クロフォード先輩が彼氏?」
「……そうなるな」
「変な感じ」
「俺もだ」
「私、先輩の彼女なんだ」
「何度確認する」
「嬉しいから」
カイルは困ったように息を吐いたあと、今度は少し意地悪そうにリリアを見た。
「俺も嬉しい。お前が俺の彼女になったことが」
「……言い返すのずるい」
「なぜ」
「恥ずかしい」
「俺には何度も言わせるくせに?」
「それとこれは違います」
「同じだ」
完全にやり返された。
リリアが何も言えなくなっていると、カイルが少し笑う。
付き合った途端に別人になったわけではない。それでも昨日までより、ほんの少しだけ彼が素直になっている。その変化が嬉しかった。
そして、そこでリリアは昨日のことを思い出した。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「昨日、キスは返事を聞いてからって言ったよね」
カイルが完全に止まった。
「……覚えていたのか」
「もちろん」
「そうか」
「する?」
今度は返事がない。
「したくない?」
「逆だ」
「じゃあ?」
「お前はもう少し緊張しろ」
「してるよ」
「そうは見えない」
「めちゃくちゃしてる」
リリアは自分の胸元を押さえた。
「すごい鳴ってる」
カイルの視線が一瞬そこへ落ち、すぐに顔へ戻った。
「……分かったから、その言い方はやめろ」
「何で?」
「何でもだ」
「また誤魔化した」
「これは説明しない」
少しだけ笑い合う。
けれど、その笑いが消えるにつれて二人の間の空気も変わっていった。
カイルが繋いでいた手を離す。
寂しいと思うより先に、その手がリリアの頬へ触れた。
「触っていいか」
「恋人になっても聞くんだ」
「恋人なら何をしてもいいわけじゃないだろう」
思っていなかった答えに、リリアは一瞬黙った。
「……そういうところも好き」
「今それを言うな」
「何で?」
「キスする前に俺を困らせるな」
「困ってる?」
「かなり」
そうは見えない。でも、頬を包む掌がほんの少しだけ熱かった。
「触っていいよ」
「ああ」
親指が銀白の髪を耳へかける。
カイルの顔がゆっくり近づいてきた。
さっきまで平気だったのに、本当にキスをするのだと分かった瞬間、リリアの心臓が一気に速くなる。
「待って」
カイルがぴたりと止まった。
「嫌か?」
「違う。心の準備」
「……分かった」
本当にその位置で待った。
近い。
息が触れそうなくらい近い。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「目って閉じる?」
「……たぶんな」
「先輩も分からないの?」
「俺も今のお前とは初めてだ」
その言葉に、リリアは瞬きをした。
昔のリリアとカイルがどんな恋をしたのか、自分は知らない。キスをしたのかもしれない。もっと長い時間を一緒に過ごしたのかもしれない。
それでも、この瞬間は初めてだ。
今のリリアと、今のカイルにとって。
「じゃあ一緒ですね」
「ああ」
それだけで、不思議と怖くなくなった。
「……いいよ」
目を閉じる。
頬に触れていた手に、ほんの少し力が入った。
次の瞬間、唇へ柔らかな感触が触れた。
本当に短い。
触れて、すぐに離れる。
それだけだったのに、リリアはしばらく目を開けられなかった。
「……リリア?」
「待って」
「何だ」
「今、顔見ないで」
「なぜ」
「恥ずかしい」
カイルが小さく笑った。
「今更か」
「キスは別」
「そうか」
「クロフォード先輩は平気なの?」
「平気に見えるか」
リリアがそっと目を開ける。
カイルの耳は、今まで見た中で一番赤かった。
「……赤い」
「言うな」
「可愛い」
「それも言うな」
思わず笑うと、カイルも少しだけ笑った。
「もう一回したい?」
リリアが尋ねると、カイルは一瞬だけ目を細めた。
「したい」
今度は即答だった。
「でも、今はやめておく」
「何で?」
「このままだと授業へ行きたくなくなる」
「そんなに?」
「ああ」
さらりと言われて、今度はリリアの方が赤くなった。
「……クロフォード先輩、付き合ったら強くなった」
「お前が聞くから答えているだけだ」
「今までは誤魔化してたのに」
「もう隠す理由がない」
「それ、結構ずるい」
「嫌か?」
「全然」
リリアはもう一度手を差し出した。
「じゃあ授業行こう、彼氏」
「その呼び方はやめろ」
「何で?」
「慣れていない」
「彼氏なのに?」
「そうだが」
「クロフォード先輩、私の彼氏なんだ」
「何度言う」
「嬉しいから」
カイルは呆れたように息を吐いた。
それでも差し出された手を取る。
歩き始めてすぐ、今度はカイルが口を開いた。
「リリア」
「何?」
「俺の彼女なんだな」
リリアの足が止まりかけた。
「……仕返し?」
「いや」
「じゃあ何?」
「俺も嬉しいから確認しただけだ」
「ずるい」
「お互い様だろう」
昨日までと同じ学院への道を、二人で歩く。
同じ朝で、同じ手で、同じ人なのに、今日からその意味だけが少し違っている。
途中で何人かの生徒とすれ違った。繋いだ手を見られているような気がして、リリアは少しだけ恥ずかしくなる。
「人いるね」
「ああ」
「見られてるかも」
「嫌なら離す」
カイルがそう言ったので、リリアは反射的に握る力を強くした。
「嫌じゃない」
「ならこのままでいい」
「クロフォード先輩って意外と堂々としてる」
「隠す理由がない」
「付き合ってるって聞かれたら?」
「そうだと答える」
「即答?」
「ああ」
それが妙に嬉しい。
「私、今日ずっと嬉しいかも」
「さっきからそればかりだな」
「だって嬉しい日だから」
カイルがこちらを見る。
「そうだな」
その声も、少し嬉しそうだった。
授業棟が見えてくる。そろそろ離れなければならないと思うと、リリアは繋いだ手を少しだけ強く握った。
「放課後も会える?」
「ああ」
「研究室?」
「今日は研究する気にならない」
「クロフォード先輩が?」
「俺でもそういう日はある」
「じゃあ何する?」
「街へ行くか」
「本屋?」
「ああ。そのあと、お前の好きな店にも行けばいい」
リリアは少し考えてから笑った。
「それ、初デート?」
カイルの足が一瞬止まった。
「……そうなるのか」
「恋人になって最初に二人で出かけるんだから、そうじゃない?」
「なら、初デートだ」
「楽しみ?」
「ああ」
少しだけ間があった。
けれど、今度は照れても誤魔化さない。
「かなり楽しみだ」
「私も」
授業棟の前で、ようやく手を離した。少し寂しかったけれど、朝とは違う。放課後にはまた会える。明日も、その次の日も、会いたいと言っていい。
「じゃあ放課後」
「ああ」
「迎えに来てくれる?」
「行く」
「私もう迷わないけど?」
「知っている」
「じゃあ何で?」
答えを知っている質問だった。
それでも聞きたかった。
カイルも、それを分かっているようだった。
「会いたいからだ」
胸が鳴る。
「……うん。待ってる」
「ああ」
リリアが歩き出そうとすると、後ろから名前を呼ばれた。
「リリア」
「何?」
振り返る。
カイルは少しだけ迷ったあと、今朝見せたあの柔らかな笑顔を浮かべた。
「好きだ」
今度は、聞いていないのに言った。
リリアは一瞬固まり、それから頬が熱くなるのを感じながら笑った。
「私も好き」
今度こそ教室へ向かった。
廊下を歩きながら、何度も笑いそうになる。唇にはもう何の感触も残っていないのに、思い出すたびに胸が熱くなった。
昨日まで、恋は答えを探すものだった。
けれど、好きだと分かったから終わるわけではない。
好きだと伝え合ったところから、二人の恋が始まる。
同じ頃、三年生棟へ向かっていたカイルも、階段の途中で一度だけ足を止めた。自分の唇へ指を触れさせそうになり、人目があることを思い出してやめる。
過去のリリアを愛した記憶は消えていない。
それでも、今朝のキスに過去は一つもなかった。
緊張して目を閉じた今のリリアも、終わった途端に顔を見るなと言った彼女も、彼氏と呼んで自分を困らせた彼女も、全部初めて知る人だった。
やり直したのではない。
戻ったのでもない。
今日、初めて始まった。
そう思えることが、カイルには何より嬉しかった。
そして放課後には、人生で初めて“今のリリア”とするデートが待っている。
その事実だけで朝から自分でも呆れるほど浮ついていることを、カイルはもう過去のせいにも、彼女を守るためという言葉にも隠さなかった。
ただ好きだから会いたい。
今は、それだけでよかった。
『俺は、お前が好きだ』
思い出した途端、リリアは布団を鼻まで引き上げた。
「……朝から無理」
昨日は言われる側だった。今日は、自分が返事をする番だ。
答えはもう決まっている。それなのに緊張だけは昨日よりひどくて、いつもより時間をかけて髪を整え、制服の襟を直し、銀白のネクタイまで二度結び直した。鏡を三回確認したところで、自分でもおかしくなってくる。
「別に昨日と顔変わってないのに」
七時になった。まだ早い。七時五分。早い。七時十分まで耐えたところで、リリアはとうとう鞄を持って立ち上がった。
七時十二分、女子寮の玄関を出る。
そして、すぐに足を止めた。
「……クロフォード先輩」
いつもの木の下に、もうカイルがいた。向こうもリリアがこんなに早く出てくるとは思っていなかったらしく、僅かに目を見開く。
「早いな」
「先輩こそ。何時からいるの?」
「今来た」
「嘘」
「……七時だ」
「二十五分前じゃん」
「眠れなかった」
あまりにも素直に白状されて、リリアは笑ってしまった。
「私も。六時十二分に起きた」
「早すぎる」
「五時台に起きてそうな人に言われたくない」
冗談で言ったのに、カイルが黙った。
「……何時に起きたの?」
「五時半」
「やっぱりじゃん」
「寝直そうとはした」
「無理だった?」
「ああ」
告白した本人も、自分の返事ひとつで眠れなかったらしい。その事実を知ったら、少しだけ緊張がほどけた。
けれど今日は、いつものようにカイルから手を差し出してこない。
「手、繋がないの?」
「……返事を聞く前に、今までと同じように触れていいのか迷っている」
「昨日まで普通に繋いでたのに」
「昨日と今日は違う。俺はもう、お前を好きだと伝えたからな」
真っ直ぐ言われて、心臓が跳ねた。
「じゃあ聞けばいいでしょ」
「繋いでいいか」
「うん」
リリアから手を差し出すと、カイルがその手を取る。指が絡み、掌がぴたりと重なった。
昨日までと同じはずなのに、今日は触れた瞬間から妙に意識してしまう。
「クロフォード先輩、緊張してる?」
「している」
「私も」
「……そうか」
そこで会話が止まった。
いつもならもう歩き始めているのに、今日はどちらも動かない。やがてカイルが、少しだけ躊躇うように口を開いた。
「返事を聞いてもいいか」
「もう?」
「駄目か」
「駄目じゃないけど……ちょっと待って」
「分かった」
「そんなすぐ待てる?」
「待つと言ったからな」
「三分くらい?」
「必要なら何年でも待つ」
「それは待ちすぎ」
「なら早めに頼む」
「今言う」
「どっちだ」
思わず二人で笑った。
その笑いで最後の緊張が少しだけ解けて、リリアは繋いだ手を握り直した。
「昨日、部屋に戻ってから考えました。私がクロフォード先輩に会いたいのは、毎朝会うのが習慣になったからなのかなって。手を繋ぎたいのも、そうするのに慣れただけなのかなって」
カイルは何も言わずに聞いている。
「でも、最初は習慣じゃなかった。まだ毎朝会ってなかった時から、先輩のことが気になってた。怖い人だと思ってたのに、笑ったら嬉しかったし、私が好きなものを覚えてくれてたのも嬉しかった。昔のリリアに会いたいって言われた時は、嫌だった」
「……ああ」
「一日会えなかったら寂しかった。会えたら嬉しくて走った。手を繋げたらもっと嬉しかったし、昨日、昔のことを全部聞いても離れたいとは思わなかった」
そこまで言うと、もう答えは一つしかなかった。
「告白されたから好きになったんじゃないです。告白される前から、たぶんずっと好きになってた」
絡んでいるカイルの指が僅かに震えた。
リリアは彼を見上げる。
「私、クロフォード先輩が好きです」
口にした瞬間、不思議なくらいしっくりきた。
「昔の私を好きだったクロフォード先輩じゃなくて、今、私の前にいる先輩が好き。怖い顔するし、すぐ一人で勝手に決めるし、研究ばっかりしてるし、私のこと監視してたし」
「……悪口が多くないか」
「まだ途中」
「そうか」
「でも優しいし、私の好きなものをすぐ覚えるし、ちゃんと話せば聞いてくれるし、最近は照れても認めるし」
「それは長所なのか?」
「可愛いから長所」
「可愛いはやめろ」
「あと、私に触る時すごく優しい」
カイルが黙った。
リリアは少しだけ恥ずかしくなったけれど、今更止めなかった。
「それが、結構好き」
「……リリア」
「だから私も、クロフォード先輩に私を好きでいてほしい」
しばらく返事がなかった。
不安になって顔を覗き込もうとすると、カイルが小さく息を吐いた。
「今、かなり余裕がない」
「顔はいつも通りですよ」
「中身の話だ」
「嬉しい?」
「嬉しい」
「どれくらい?」
「言葉にできないくらいだ」
そう言って、カイルが笑った。
いつもの僅かに口元を緩めるだけの笑い方ではない。本当に嬉しそうに、目元まで柔らかくなっている。
リリアは思わず見つめた。
「その顔、好き」
「今言うのか」
「初めて見たから」
「お前のせいだ」
「じゃあ、もっと笑わせたい」
「……好きな女に好きだと言われた直後に、それ以上求めるな」
好きな女。
その言葉が今は自分を指している。
途端に頬が熱くなった。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「私たち、今どういう状態?」
「どういう意味だ」
「両想い」
「ああ」
「じゃあ恋人?」
カイルが一瞬黙った。
「俺は、そうなりたい」
「私も」
「……本当に?」
「何で急に自信なくなるの?」
「お前が思ったより簡単に言うからだ」
「簡単じゃないよ。一晩考えた」
「一晩は短い」
「でも、その前からずっと考えてた」
リリアは繋いだ手を一度揺らした。
「クロフォード先輩、私と付き合いたい?」
「ああ」
「じゃあ、ちゃんと言って」
「昨日好きだとは言っただろう」
「それとこれは別」
「必要か?」
「必要です」
カイルは少しだけ困ったような顔をした。それでも誤魔化さず、一度息を整える。
「リリア」
「はい」
「俺と付き合ってほしい」
「はい」
返事をした瞬間、カイルの肩から目に見えて力が抜けた。
「今、安心した?」
「した」
「断ると思ってた?」
「一パーセントくらいは」
「少なっ」
「一パーセントでも怖いものは怖い」
その言葉が妙に可愛くて、リリアは一歩近づいた。
「じゃあ、今日から恋人?」
「ああ」
「クロフォード先輩が彼氏?」
「……そうなるな」
「変な感じ」
「俺もだ」
「私、先輩の彼女なんだ」
「何度確認する」
「嬉しいから」
カイルは困ったように息を吐いたあと、今度は少し意地悪そうにリリアを見た。
「俺も嬉しい。お前が俺の彼女になったことが」
「……言い返すのずるい」
「なぜ」
「恥ずかしい」
「俺には何度も言わせるくせに?」
「それとこれは違います」
「同じだ」
完全にやり返された。
リリアが何も言えなくなっていると、カイルが少し笑う。
付き合った途端に別人になったわけではない。それでも昨日までより、ほんの少しだけ彼が素直になっている。その変化が嬉しかった。
そして、そこでリリアは昨日のことを思い出した。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「昨日、キスは返事を聞いてからって言ったよね」
カイルが完全に止まった。
「……覚えていたのか」
「もちろん」
「そうか」
「する?」
今度は返事がない。
「したくない?」
「逆だ」
「じゃあ?」
「お前はもう少し緊張しろ」
「してるよ」
「そうは見えない」
「めちゃくちゃしてる」
リリアは自分の胸元を押さえた。
「すごい鳴ってる」
カイルの視線が一瞬そこへ落ち、すぐに顔へ戻った。
「……分かったから、その言い方はやめろ」
「何で?」
「何でもだ」
「また誤魔化した」
「これは説明しない」
少しだけ笑い合う。
けれど、その笑いが消えるにつれて二人の間の空気も変わっていった。
カイルが繋いでいた手を離す。
寂しいと思うより先に、その手がリリアの頬へ触れた。
「触っていいか」
「恋人になっても聞くんだ」
「恋人なら何をしてもいいわけじゃないだろう」
思っていなかった答えに、リリアは一瞬黙った。
「……そういうところも好き」
「今それを言うな」
「何で?」
「キスする前に俺を困らせるな」
「困ってる?」
「かなり」
そうは見えない。でも、頬を包む掌がほんの少しだけ熱かった。
「触っていいよ」
「ああ」
親指が銀白の髪を耳へかける。
カイルの顔がゆっくり近づいてきた。
さっきまで平気だったのに、本当にキスをするのだと分かった瞬間、リリアの心臓が一気に速くなる。
「待って」
カイルがぴたりと止まった。
「嫌か?」
「違う。心の準備」
「……分かった」
本当にその位置で待った。
近い。
息が触れそうなくらい近い。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「目って閉じる?」
「……たぶんな」
「先輩も分からないの?」
「俺も今のお前とは初めてだ」
その言葉に、リリアは瞬きをした。
昔のリリアとカイルがどんな恋をしたのか、自分は知らない。キスをしたのかもしれない。もっと長い時間を一緒に過ごしたのかもしれない。
それでも、この瞬間は初めてだ。
今のリリアと、今のカイルにとって。
「じゃあ一緒ですね」
「ああ」
それだけで、不思議と怖くなくなった。
「……いいよ」
目を閉じる。
頬に触れていた手に、ほんの少し力が入った。
次の瞬間、唇へ柔らかな感触が触れた。
本当に短い。
触れて、すぐに離れる。
それだけだったのに、リリアはしばらく目を開けられなかった。
「……リリア?」
「待って」
「何だ」
「今、顔見ないで」
「なぜ」
「恥ずかしい」
カイルが小さく笑った。
「今更か」
「キスは別」
「そうか」
「クロフォード先輩は平気なの?」
「平気に見えるか」
リリアがそっと目を開ける。
カイルの耳は、今まで見た中で一番赤かった。
「……赤い」
「言うな」
「可愛い」
「それも言うな」
思わず笑うと、カイルも少しだけ笑った。
「もう一回したい?」
リリアが尋ねると、カイルは一瞬だけ目を細めた。
「したい」
今度は即答だった。
「でも、今はやめておく」
「何で?」
「このままだと授業へ行きたくなくなる」
「そんなに?」
「ああ」
さらりと言われて、今度はリリアの方が赤くなった。
「……クロフォード先輩、付き合ったら強くなった」
「お前が聞くから答えているだけだ」
「今までは誤魔化してたのに」
「もう隠す理由がない」
「それ、結構ずるい」
「嫌か?」
「全然」
リリアはもう一度手を差し出した。
「じゃあ授業行こう、彼氏」
「その呼び方はやめろ」
「何で?」
「慣れていない」
「彼氏なのに?」
「そうだが」
「クロフォード先輩、私の彼氏なんだ」
「何度言う」
「嬉しいから」
カイルは呆れたように息を吐いた。
それでも差し出された手を取る。
歩き始めてすぐ、今度はカイルが口を開いた。
「リリア」
「何?」
「俺の彼女なんだな」
リリアの足が止まりかけた。
「……仕返し?」
「いや」
「じゃあ何?」
「俺も嬉しいから確認しただけだ」
「ずるい」
「お互い様だろう」
昨日までと同じ学院への道を、二人で歩く。
同じ朝で、同じ手で、同じ人なのに、今日からその意味だけが少し違っている。
途中で何人かの生徒とすれ違った。繋いだ手を見られているような気がして、リリアは少しだけ恥ずかしくなる。
「人いるね」
「ああ」
「見られてるかも」
「嫌なら離す」
カイルがそう言ったので、リリアは反射的に握る力を強くした。
「嫌じゃない」
「ならこのままでいい」
「クロフォード先輩って意外と堂々としてる」
「隠す理由がない」
「付き合ってるって聞かれたら?」
「そうだと答える」
「即答?」
「ああ」
それが妙に嬉しい。
「私、今日ずっと嬉しいかも」
「さっきからそればかりだな」
「だって嬉しい日だから」
カイルがこちらを見る。
「そうだな」
その声も、少し嬉しそうだった。
授業棟が見えてくる。そろそろ離れなければならないと思うと、リリアは繋いだ手を少しだけ強く握った。
「放課後も会える?」
「ああ」
「研究室?」
「今日は研究する気にならない」
「クロフォード先輩が?」
「俺でもそういう日はある」
「じゃあ何する?」
「街へ行くか」
「本屋?」
「ああ。そのあと、お前の好きな店にも行けばいい」
リリアは少し考えてから笑った。
「それ、初デート?」
カイルの足が一瞬止まった。
「……そうなるのか」
「恋人になって最初に二人で出かけるんだから、そうじゃない?」
「なら、初デートだ」
「楽しみ?」
「ああ」
少しだけ間があった。
けれど、今度は照れても誤魔化さない。
「かなり楽しみだ」
「私も」
授業棟の前で、ようやく手を離した。少し寂しかったけれど、朝とは違う。放課後にはまた会える。明日も、その次の日も、会いたいと言っていい。
「じゃあ放課後」
「ああ」
「迎えに来てくれる?」
「行く」
「私もう迷わないけど?」
「知っている」
「じゃあ何で?」
答えを知っている質問だった。
それでも聞きたかった。
カイルも、それを分かっているようだった。
「会いたいからだ」
胸が鳴る。
「……うん。待ってる」
「ああ」
リリアが歩き出そうとすると、後ろから名前を呼ばれた。
「リリア」
「何?」
振り返る。
カイルは少しだけ迷ったあと、今朝見せたあの柔らかな笑顔を浮かべた。
「好きだ」
今度は、聞いていないのに言った。
リリアは一瞬固まり、それから頬が熱くなるのを感じながら笑った。
「私も好き」
今度こそ教室へ向かった。
廊下を歩きながら、何度も笑いそうになる。唇にはもう何の感触も残っていないのに、思い出すたびに胸が熱くなった。
昨日まで、恋は答えを探すものだった。
けれど、好きだと分かったから終わるわけではない。
好きだと伝え合ったところから、二人の恋が始まる。
同じ頃、三年生棟へ向かっていたカイルも、階段の途中で一度だけ足を止めた。自分の唇へ指を触れさせそうになり、人目があることを思い出してやめる。
過去のリリアを愛した記憶は消えていない。
それでも、今朝のキスに過去は一つもなかった。
緊張して目を閉じた今のリリアも、終わった途端に顔を見るなと言った彼女も、彼氏と呼んで自分を困らせた彼女も、全部初めて知る人だった。
やり直したのではない。
戻ったのでもない。
今日、初めて始まった。
そう思えることが、カイルには何より嬉しかった。
そして放課後には、人生で初めて“今のリリア”とするデートが待っている。
その事実だけで朝から自分でも呆れるほど浮ついていることを、カイルはもう過去のせいにも、彼女を守るためという言葉にも隠さなかった。
ただ好きだから会いたい。
今は、それだけでよかった。

