魔法より、君に恋をする。

翌朝七時二十分、リリアは女子寮の玄関を出た。約束は七時二十五分だから、今日は自分が先だと思っていたのに、扉を開けた瞬間、いつもの木の下に黒髪の青年を見つけてしまう。

「クロフォード先輩、何時に来たの?」

「七時十五分だ」

「十分前じゃん。楽しみだった?」

 いつもなら、ここで否定される。ところがカイルは少しだけ黙ったあと、「……そうだ」と答えた。

 リリアは思わず彼の顔を見つめた。

「認めるんだ」

「嘘をつく必要がない」

「昨日までめちゃくちゃ誤魔化してたのに」

「昨日までの俺に言え」

「同じ人でしょ」

「今日から改めた」

 真顔で言われて、リリアは笑ってしまった。するとカイルもほんの少しだけ口元を緩める。その顔を見ただけで胸が鳴って、昨日ベッドの上で考えたことを思い出した。

 好きになる途中。

 そう思っていたけれど、その“途中”はもうかなり終わりに近いのかもしれない。

「行くぞ」

「うん。……あれ?」

「何だ」

「手」

 カイルは今日は自分から手を差し出していなかった。昨日の朝とは違って避けている様子はないので、リリアは試しに自分から右手を差し出す。

「どうぞ」

「何だ」

「見れば分かるでしょ」

「本当に繋ぎたいのか確認している」

「繋ぎたい」

「そうか」

 それを聞いてから、カイルはようやく手を取った。最初から指が絡み、掌がぴたりと重なる。もう迷子にならないためなんて言い訳もない。ただ触れたいから繋いでいる。それが嬉しくて、リリアは二人の手を一度だけ揺らした。

「機嫌がいいな」

「うん」

「なぜ」

「クロフォード先輩がいるから」

 隣から返事がなくなった。横を見ると、カイルは前だけを向いている。

「無視?」

「違う」

「じゃあ何?」

「朝から処理できないことを言うな」

「照れてる?」

「……そうだ」

「また認めた」

「逃げないと約束したからな。この程度で誤魔化す意味もない」

「クロフォード先輩、急成長ですね」

「誰のせいだと思っている」

「私?」

「他に誰がいる」

 そう言って握られた手に少し力が加わる。その小さな仕草だけで、また心臓が騒がしくなった。

 今日は北塔へ行かず、授業が始まるまで学院の庭を歩くことにした。朝露の残る芝生の横を並んで歩きながら、リリアは何度もカイルの横顔を盗み見る。昨日まで「好きかもしれない」と言っていた人が、今朝は明らかに何か違う。

「クロフォード先輩。昨日、自分の気持ちが分かったら教えるって言ってたよね」

「ああ」

「分かった?」

「ああ」

 あまりにも早い返事に、今度はリリアが足を止めた。繋いだ手に引かれてカイルも止まり、二人は向かい合う。

「じゃあ教えて」

「その前に、お前に話さなければならないことがある」

「昔のこと?」

「ああ」

「……私を殺した時のこと?」

 カイルの指が僅かに強張った。それでも手は離れない。

「聞きたいと言ったな」

「うん」

「今でもか」

「クロフォード先輩が話してくれるなら、聞きたい」

「話したくはない」

「じゃあ無理しなくても――」

「だが、話さなければ俺はお前に何も言えない」

 その言葉で、リリアは何となく分かった。カイルが今朝から急に素直になったことも、昨日の最後に見せた表情も、全部この先へ繋がっている。

「今日の放課後、研究室へ来い。全部話す」

「うん」

「……怖くないのか」

「何が?」

「俺が何をしたのか知ることが」

「クロフォード先輩は怖い?」

「ああ」

「私に嫌われるのが?」

「それもある」

 カイルは少し迷ってから、低い声で続けた。

「話せば、俺自身がもう一度あの日を見ることになる。それも怖い」

 簡単に「大丈夫」とは言えなかった。リリアにはその記憶がない。彼が何を見て、何を感じたのか、本当の意味では分からない。

 だから代わりに、繋いだ手を強く握った。

「じゃあ一緒に見よう」

「何?」

「クロフォード先輩が話して、私が聞く。一人で思い出さなくていいでしょ。今は私もいるから」

 カイルの瞳が揺れた。

「お前は昔からそうだった」

「……それ、褒めてる?」

 言った瞬間、カイルは目を伏せた。

「悪い。今の言い方は違った」

「うん」

「昔の彼女にも似たところはあった。だが、今そう言ったのはお前だ」

「はい」

「だから……ありがとうと言うべきだった」

「どういたしまして」

 リリアが笑うと、カイルもようやく少しだけ息を抜いた。

「放課後まで、こうしていていいか」

 繋いだ手を少し持ち上げて尋ねられ、リリアはすぐに握り返した。

「もちろん」

 放課後、リリアはまっすぐ北塔へ向かった。今日は一度も迷わなかった。研究室の扉を開けると、カイルはいつもの机ではなく、窓際の椅子に座って待っている。机の上には魔法陣も資料もなく、二人分の飲み物だけが置かれていた。

「今日は研究しないんですね」

「ああ」

「私のミルクティー?」

「いつもと同じだ」

 リリアは向かいではなく、カイルの隣へ座った。肩が僅かに触れる距離だったが、彼は離れなかった。

 しばらく沈黙が続いた。リリアは急かさず、甘いミルクティーを一口飲む。いつもと同じ味が、妙に安心した。

 やがてカイルが、自分の右手を見ながら話し始めた。

「昔の世界では、リリアの魔力が世界そのものと繋がっていた。彼女が生きている限り崩壊が進み、最後には全てが消えるとされた。俺たちは何ヶ月も別の方法を探した。術式を切断する方法も、魔力を封じる方法も、彼女だけを別空間へ移す方法も試した。全部失敗した」

 声は平静だった。それでも、膝の上に置かれた右手だけが強く握られている。

「最後に残った方法が、彼女の死だった。俺は反対した。世界が滅びても構わないと思った。彼女一人を殺して残る世界に、何の意味があると本気で思っていた」

「でも、昔の私は違った?」

「ああ。自分一人のために何万人も死ぬことを受け入れられないと言った。そして……俺に、自分を殺してほしいと頼んだ」

「どうしてクロフォード先輩だったの?」

「俺以外には頼めないと言った」

 カイルは一度目を閉じた。

「好きだから、最後は俺がいいと」

 リリアの胸が痛んだ。昔の自分への嫉妬ではない。好きな人からそんな願いを託されたカイルが、どんな気持ちだったのかを想像したからだった。

「俺は何度も断った。彼女を眠らせて、その間に別の方法を探そうともした。だが時間がなかった。空が裂け、街が消え始めて……彼女は最後まで俺に頼んだ」

 カイルの声が僅かに掠れる。

「最後に笑ったんだ。泣いていたくせに、俺を安心させるみたいに『大丈夫』と言った。大丈夫なわけがないのにな」

 握られた右手が震えた。

「それで俺は、彼女の胸へ魔法を撃った。確実に終わらせるために、一番近い距離から。倒れる前に抱き止めた。まだ温かかった。名前を呼んだら、一度だけ目を開けて……ありがとう、と言った。それが最後だった」

 リリアは何も言えなかった。時計の針が進む音だけが、静かな研究室に響いている。

「世界は助かった。少なくとも、その瞬間はな。だから正しい選択だったと言われた。彼女自身も望んだことだと、何度も言われた」

「でも、クロフォード先輩はそう思えなかった」

「ああ。それに結局、その世界も長くは続かなかった。再構築された」

「……じゃあ」

「俺が守ったと思った世界も消えた。彼女を殺した意味さえ、最後には残らなかった」

 その言葉が一番痛かった。

 カイルが抱えているのは、愛した人を自分の手で殺した記憶だけではない。世界を救うためだと自分へ言い聞かせたのに、その世界さえ消えてしまった。だから今度こそ守ると決めた。今のリリアを死なせないために研究を続け、好きになることすら恐れた。

「クロフォード先輩。今、触っていい?」

「……何を」

「手」

 少しの沈黙のあと、固く握られていた右手がゆっくり開いた。

 リリアはその掌へ自分の手を重ねる。

「これで、昔の私を殺したんですね」

「ああ」

「今でも覚えてる?」

「忘れたことはない」

 リリアはその指へ自分の指を絡めた。

「じゃあ、これも覚えてて」

「何を」

「今の私が、この手を怖くないって言ったこと」

 カイルがようやく顔を上げた。

「同じ手だ」

「うん。でも今、この手は私を殺してない。私と手を繋いでる」

「リリア……」

「過去がなくなるわけじゃないよ。忘れろとも言わない。でも、この手がそれしかできないわけじゃないでしょ。タルトも買えるし、ミルクティーも作れるし、迷子の私を連れて歩けるし、私の頬にも触れる」

 リリアは少し笑った。

「それに、私が好きかもしれない人の手でもある」

 カイルが息を止めた。

「……今、何と言った」

「クロフォード先輩が好きかもしれないって言いました」

「……そうか」

「何その反応」

「この状況で言われるとは思っていなかった」

「私も言うと思ってなかった。でも今、言いたくなった」

 カイルの目が少しずつ柔らかくなる。

「話を聞いて、嫌いにならなかったか」

「ならないよ。むしろ前より分かった。でも一個だけ嫌」

「何だ」

「昔の私とのことを理由に、今の私とのことまで勝手に諦めるのは嫌」

 しばらく見つめ合ったあと、カイルが静かに尋ねた。

「それは、俺に期待していいという意味か」

「何を?」

「お前を好きになることを」

 リリアは思わず笑った。

「もう好きなんじゃないの?」

 図星だったらしい。カイルは一瞬だけ目を逸らした。

「昨日、分かったって言ってたし」

「……ああ」

「じゃあ、好き?」

「お前は本当に容赦がないな」

「聞きたい」

 カイルは長く息を吐いたあと、繋いでいた手を一度離した。その手がリリアの頬へ触れる。昨日と同じ場所なのに、今日は指先が僅かに震えていた。

「リリア」

「うん」

「俺は、お前が好きだ」

 ずっと聞きたかったはずの言葉なのに、実際に聞くと息が止まった。

「昔の彼女に似ているからじゃない。守れなかった人の代わりでもない。朝に会いたいと思うのも、笑っていると嬉しいのも、他の奴といると気になるのも、お前に触れたいと思うのも……全部、今のお前だからだ」

 カイルはもう逃げなかった。

「昨日、お前に好きだと言われたら嬉しいと話しただろう。あれも違った。ただ嬉しいんじゃない。俺は、お前に俺を好きになってほしい」

「……クロフォード先輩」

「返事は今いらない。お前が考えると言ったから、待つ」

 頬から手が離れかけ、リリアは反射的にその手首を掴んだ。

「何で離れるの?」

「返事を急かしたくない」

「離れなくても急かさなければいいでしょ」

「……告白した男にそれを言うのか」

「だって、ここにいてほしい」

 カイルは完全に言葉を失った。

「今すぐ恋人になるって言えるかは分からない。でも、告白されたから急に距離を戻すのは嫌。明日も会いたいし、手も繋ぎたいし、休みの日に本屋も行きたい」

「それは待つ側にはかなり酷だぞ」

「嫌?」

「嫌とは言っていない」

「じゃあいい」

「よくない」

 そう言いながら、カイルは笑っていた。

「だが、断る気もない」

「じゃあ明日も七時二十五分」

「ああ」

「手も繋ぐ」

「お前が嫌でなければ」

「繋ぎたい」

「分かった」

 そこでリリアは少し迷ったあと、彼の肩を見た。

「もう一個してみたいことがある」

「何だ」

「抱きしめてみたい」

「……俺を?」

「うん」

「なぜ」

「好きか確認するため」

「お前の確認方法は毎回俺に厳しいな」

 それでも拒まれなかったので、リリアはそっと身体を寄せ、カイルの背中へ腕を回した。

 思っていたよりずっと大きい。胸元へ頬が触れ、制服越しの体温が伝わってくる。カイルはしばらく完全に固まっていた。

「クロフォード先輩」

「……何だ」

「抱き返さないの?」

「していいのか」

「そのために抱きしめたんだけど」

 背中へ腕が回る。

 最初は触れるだけだった手が、リリアが離れないと分かると、少しずつ力を増していった。

「どう?」

「……まずい」

「何が?」

「離したくない」

 胸が跳ねた。

「じゃあ、もう少しこのまま」

「お前、本当に返事を待たせる気があるのか」

「あるよ」

「なら少しは加減しろ」

「どうやって?」

「知らない」

 頭の上から聞こえる声がおかしくて、リリアは笑った。すると抱きしめる腕がまた少しだけ強くなる。

「クロフォード先輩、心臓速い」

「言うな」

「私も速い」

「……そうか」

「うん。これ、結構好きかも」

「抱きしめるのが?」

「クロフォード先輩に抱きしめられるのが」

 今度こそ、カイルは黙った。

「リリア」

「何?」

「それ以上は、返事を決めてからにしてくれ」

「それ以上って?」

「聞くな」

「キス?」

 腕が固まった。

「……お前はどうしてそこだけ察しがいい」

「したい?」

「今は答えない」

「逃げないって言ったのに」

「これは逃げているんじゃない。耐えている」

「何に?」

「お前に」

 その答えが嬉しくて、リリアは彼の胸元でまた笑った。

 少しして身体を離すと、カイルは本当に名残惜しそうに腕を解いた。その顔を見た瞬間、リリアの中で答えがまた一つ形になる。告白されたから意識しているのではない。昨日までだって会いたかったし、触れたかった。昔のリリアの話をされれば嫌だった。今日、この人が苦しんでいるのを見たら、そばにいたいと思った。

「クロフォード先輩」

「何だ」

「返事、そんなに待たせないと思う」

「急がなくていい」

「でも私が早く言いたいかも」

 カイルが目を見開いた。

「何を」

「まだ秘密」

「……お前な」

「明日の朝まで考える。たぶん、もう答えは出てる気がするから」

 帰り道、二人は昔の話をしなかった。夕食のこと、明日の授業のこと、今度の休日に行く本屋のこと。そんな普通の話ばかりだった。それがリリアには嬉しかった。過去を全部聞いたからといって、二人の間に過去しか残らないわけではない。むしろ今こうして手を繋いで歩いていることが、以前よりはっきり“現在の二人”のものになった気がした。

 女子寮の入口へ着いても、今日はどちらもすぐには手を離さなかった。

「明日、七時二十五分」

「ああ」

「私の返事、聞きたい?」

「……聞きたい」

「怖い?」

「怖い」

「じゃあ一個だけ先に教える」

 リリアは繋いだ手を両手で包んだ。

「嫌な答えではないと思う」

 カイルが息を止める。

「それは期待していいのか」

「うん」

 たった一言で、彼の表情が目に見えて柔らかくなった。それが嬉しくて、リリアは少しだけ近づく。

「おやすみなさい、クロフォード先輩」

「ああ。おやすみ、リリア」

 手を離そうとした瞬間、今度はカイルの方がリリアの手を引いた。

「何?」

「……これくらいならいいか」

「何が?」

 カイルの指が銀白の髪をそっと掬った。

 そして、その髪へ唇を触れさせる。

 ほんの一瞬だった。

 頬でも唇でもない。それなのにリリアは完全に固まった。

「……今の何?」

「キスは返事を聞いてからにする。だから、その代わりだ」

「髪ならいいの?」

「俺の中ではな」

「ずるい」

「何がだ」

「私、今かなり好きになったかもしれない」

「……それを今言うのか」

 カイルが片手で顔を覆う。

「耳真っ赤」

「帰れ」

「照れてる」

「早く寮へ入れ」

「明日逃げないでね」

 カイルは顔を覆っていた手を下ろした。その奥にある瞳は、もう昔の誰かを見てはいなかった。

「逃げない。明日、ちゃんとお前の答えを聞く」

「うん。また明日」

「ああ。また明日」

 部屋へ戻ったリリアは、ベッドへ座ると、さっき唇が触れた髪を指先でつまんだ。感触なんて残っているはずがないのに、思い出すだけで頬が熱くなる。

 答えを考えるために目を閉じた。

 けれど、もうほとんど考える必要はなかった。

 会いたい。触れたい。自分を見てほしい。好きだと言われて嬉しい。抱きしめられれば離れたくなくなるし、髪に触れた唇を思い出しただけで、今度はどこへ触れてほしいのかまで考えてしまう。

 それを恋ではないと言う方が、もう難しかった。

 一方、女子寮を離れたカイルも、自分の右手を見ていた。その手には長い間、昔のリリアを殺した感触だけが残っていると思っていた。けれど今は、指を絡めた温度も、頬へ触れた柔らかさも、抱きしめた身体の温もりも重なっている。

 過去は消えない。消す必要もない。

 愛した人を殺したことも、その人を今でも大切に思っていることも、自分の一部だ。それでも、その罪悪感を理由に今のリリアを愛さないことまで正しいとは、もう思えなかった。

 明日の朝、彼女は答えをくれる。

 怖い。それでも聞きたい。

 もし望んでいる言葉を彼女がくれるなら、過去の続きをやり直すのではなく、今度こそ今の彼女と初めから恋をしたい。

 カイルは夜空を見上げた。

 明日の七時二十五分が、待ち遠しかった。