魔法より、君に恋をする。

 翌朝七時二十五分、リリアが女子寮を出ると、カイルはすでに昨日と同じ木の下に立っていた。

 予想していたはずなのに、姿を見つけた瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。昨日は七時二十八分に出て「早い」と言われたから、今日はさらに三分早くした。自分でも何を競っているのか分からないが、少なくとも今日はカイルより先に着けるかもしれないと思っていたのだ。

「クロフォード先輩、何時に来たの?」

「今だ」

「嘘」

「なぜ分かる」

「もう待ってた顔してる」

「待っていた顔とは何だ」

「こういう顔」

 リリアはいつもの無表情を真似してみせた。カイルは数秒黙ったあと、眉間に皺を寄せる。

「似ていない」

「似てる」

「俺はそんな間抜けな顔をしていない」

「ひどい」

「事実だ」

「じゃあ何時?」

「七時二十分だ」

「五分前」

「昨日そう言っただろう」

「本当に五分前に来たんだ」

「約束したからな」

 たったそれだけの言葉なのに嬉しい。昨日までは「迎えに来てくれること」が嬉しかったのに、今日は「約束したから来た」と言われることまで嬉しくなっている。

 自分でも少し変だと思う。

「行くぞ」

「うん」

 カイルが歩き出す。

 リリアも隣へ並んだ。

 昨日は北塔まで手を繋いだ。

 今日はどうするのだろう。

 そのことを意識した途端、右手が妙に気になった。

 カイルの左手はすぐ隣にある。

 昨日と同じくらい近い。

 けれど、今日は何も起こらない。

 普通に歩いている。

「……クロフォード先輩」

「何だ」

「今日、迷うと思う?」

「俺がいるのにどうやって迷う」

「確かに」

 会話が終わった。

 手は繋がない。

 リリアは少しだけ唇を尖らせた。

 別に手を繋ぐ約束はしていない。

 昨日だって、迷わないためという理由だった。

 今日はカイルが迎えに来ているのだから必要ない。

 分かっている。

 それなのに少し残念だった。

「どうした」

「何が?」

「さっきから右手を見ている」

「見てない」

「見ていた」

「気のせい」

「昨日俺に言った言葉を返すな」

「じゃあ見てた」

「なぜ」

「……何でもない」

 今度はカイルがリリアを見る。

「何だ」

「何でもないです」

「言え」

「嫌」

「昨日は俺に言えと言っていただろう」

「自分が言われると嫌ですね」

「理不尽だな」

「そうかも」

 しばらく歩く。

 右手はまだ少し寂しい。

 リリアは自分でも馬鹿らしいと思いながら、指を軽く握った。

 すると突然、手の甲に何かが触れた。

 カイルの指だった。

「え?」

「これか」

「何が?」

「気にしていたのは」

 そのまま掌を重ねられる。

 昨日と同じ、大きくて少し硬い手。

「……手?」

「違うなら離す」

 指が離れかけた。

 リリアは反射的に握った。

「違わない」

 自分で言ってから、急に恥ずかしくなった。

 カイルも何も言わない。

 二人とも前を向いたまま歩く。

 昨日より静かなのに、昨日よりずっと意識する。

「クロフォード先輩」

「何だ」

「私、手繋ぎたかったみたい」

「……そうか」

「先輩は?」

 返事がない。

「嫌だった?」

「嫌なら繋がない」

「じゃあ繋ぎたかった?」

「お前は答えが分かっていることを聞く癖があるな」

「分からないから聞いてる」

「……少し」

「少し?」

「これ以上は言わない」

「私も少し」

「そうか」

 握られた手に、ほんの少し力が加わった。

 その小さな変化だけで胸が鳴る。

 昨日より一歩進んだような気がした。

     *

 研究室では、カイルが昨日の続きを説明してくれた。

「魂に残る情報と、本人の意思は別物だ」

「どういうこと?」

「例えば俺には過去の記憶がある。だが記憶があるからといって、過去と同じ選択をする必要はない」

「うん」

「お前にも過去のリリアの魔力情報が一部残っている可能性はある。だが、それはお前が彼女と同じ人間だという証明にはならない」

「昨日見てた魔法陣は、それを調べてたの?」

「ああ」

「何のために?」

 カイルが黙った。

「また答えない?」

「……確認したかった」

「何を?」

「お前が、本当に別人なのか」

 リリアは少しだけ息を止めた。

「最初は?」

「同じであってほしかった」

 予想していなかった答えだった。

「そうなんだ」

「ああ」

「どうして?」

「もう一度会いたかったからだ」

 静かな声だった。

 感情を抑えているのに、それでも重い。

「昔の私に?」

「ああ」

 胸の奥が少し痛んだ。

 嫉妬とは違う。

 昔の自分に嫉妬するなんて変だと思う。

 でも、何となく嫌だった。

「今も?」

 思ったより早く口から出た。

「何がだ」

「今も、昔のリリアに会いたい?」

 カイルはすぐには答えなかった。

 リリアはその沈黙が嫌だった。

「会いたいなら、会いたいって言っていいですよ」

「なぜお前が不機嫌になる」

「なってない」

「なっている」

「なってません」

「顔に出ている」

「クロフォード先輩が昔の私の方が好きそうだから」

 言ってしまった。

 カイルが目を見開く。

 リリア自身も、今の言葉を聞いてから自分の気持ちに気づいた。

 好き。

 その単語を使った。

 昔のリリアの方が好き。

 では、自分はどうなのか。

「……リリア」

「何」

「こっちを見ろ」

「嫌」

「なぜ」

「何となく」

「お前が聞いたんだろう」

「じゃあ答えて」

「顔を見て話す」

「面倒」

「いいから」

 仕方なく顔を上げる。

 カイルは真っ直ぐこちらを見ていた。

「昔の彼女に、会えるなら会いたいと思う」

 胸がきゅっとなる。

 予想していたのに、実際に言われると嫌だった。

「そう」

「だが」

 カイルの声が続く。

「もう一度やり直したいとは思わない」

 リリアは顔を上げた。

「違うの?」

「ああ」

「何で?」

「彼女は死んだ」

 カイルの表情は苦しそうだった。

「俺が殺した。何度考えても変わらない」

「……うん」

「もし会えるなら謝りたい。聞きたいこともある。だが、彼女が戻ってきたからといって、あの頃へ戻れるとは思っていない」

「じゃあ」

 リリアは少し迷う。

「今、会いたい人は?」

 カイルの視線が揺れた。

「……何だ、その質問は」

「聞きたい」

「今会っているだろう」

「誰に?」

「お前に」

 胸が鳴った。

「私?」

「目の前にいるのはお前だろう」

「そうじゃなくて」

「分かっている」

 カイルは少しだけ目を逸らした。

「朝、迎えに行くのも、お前と話すためだ」

「昔のリリアじゃなくて?」

「ああ」

「タルト買ったのも?」

「お前が好きだからだ」

 心臓が跳ねた。

「……え?」

 カイルが固まった。

 リリアも固まった。

 数秒後、カイルが眉間を押さえた。

「違う」

「今、好きって」

「タルトの話だ」

「私が好きだからって言った」

「お前がタルトを好きだからという意味だ」

「あ」

 理解する。

「びっくりした」

「俺もだ」

「クロフォード先輩が私を好きなのかと思った」

「……」

「何で黙るの?」

「黙っていない」

「黙ってた」

「その話は終わりだ」

「怪しい」

「リリア」

「はい」

「本を読め」

「逃げた」

「読め」

 リリアは本を開いた。

 でも、全然読めなかった。

 心臓がまだ速い。

 勘違いだった。

 カイルは「リリアがタルトを好きだから」と言いたかっただけ。

 分かっている。

 それなのに、もし違ったらと思ってしまった。

 もし本当に「お前が好きだから」と言われたら、自分はどうしたのだろう。

 嫌ではない。

 それだけはすぐに分かった。

 むしろ、一瞬だけ嬉しかった。

「……まずい」

「何が」

「何でもない」

「さっきからそればかりだな」

「クロフォード先輩の真似」

「やめろ」

 リリアは本へ顔を隠した。

 今は、カイルの顔をまともに見られそうになかった。

     *

 その日の放課後、リリアはセシルと一緒に食堂へいた。

「セシル」

「うん?」

「好きかどうか分からない時って、どうしたら分かる?」

 セシルのフォークが止まった。

「……ずいぶん急だね」

「今気になった」

「誰か好きなの?」

「それが分からないから聞いてる」

 セシルは少しだけ困ったように笑った。

「そうだね。会いたいとか、触れたいとか、その人が自分以外の誰かを特別に思っていたら嫌だとか、そういうのは分かりやすいかもしれない」

「全部あるかも」

 セシルが黙った。

「全部?」

「会いたい。手も繋ぎたい。昔好きだった人の話されたらちょっと嫌だった」

「……そっか」

「これ好き?」

「私が決めることじゃないよ」

「ですよね」

「でも、リリアがその人をかなり特別に思ってるのは確かだと思う」

「特別」

「うん」

 リリアは考える。

 毎朝会いたい。

 手を繋ぎたい。

 自分の好きなものを覚えていてくれたことが嬉しい。

 昔のリリアに会いたいと言われた時は嫌だった。

 もし「好き」と言われたら。

 想像しただけで胸が鳴る。

「……好きなのかな」

「急いで名前をつけなくてもいいんじゃない?」

「そう?」

「うん。好きになってる途中かもしれないし、もう好きなのに自分が気づいてないだけかもしれない。どっちでも、今その人と一緒にいたいなら、それで十分じゃないかな」

「セシルって恋愛詳しい?」

「……どうだろうね」

 セシルは少しだけ笑った。

「自分のことになると、全然分からないよ」

「そんなもん?」

「そんなものだと思う」

 リリアは頷いた。

「じゃあ明日も会ってみる」

「毎日会ってるの?」

「朝」

「二人で?」

「うん」

「……そう」

「手も繋いだ」

 セシルが今度こそ完全に止まった。

「それ、相手も結構リリアのこと好きなんじゃない?」

「そうなの?」

「少なくとも、何とも思ってない人と毎朝二人で会って手を繋ぐ人は少ないと思うよ」

「クロフォード先輩、私のこと好きなのかな」

 名前を聞いたセシルが少し目を伏せた。

 それでもすぐにいつもの柔らかな顔へ戻る。

「それは本人に聞かないと分からないね」

「聞いていいと思う?」

「今すぐ?」

「うん」

「……リリアなら聞きそうだね」

「駄目?」

「駄目じゃない。でも、相手の気持ちを聞くなら、自分の気持ちも聞かれるかもしれないよ」

「あ」

 そこまで考えていなかった。

「じゃあまだ聞かない」

「ふふ。珍しく慎重だね」

「私も成長する」

「そうだね」

 セシルは笑った。

 その笑顔が少しだけ寂しく見えた気がしたが、リリアが理由を尋ねる前に話題を変えられた。

     *

 翌朝、リリアは七時二十分に女子寮を出た。

 昨日より五分早い。

 カイルを待ってみたかった。

 いつも自分が待ってもらっているから、今日は先に来て驚かせようと思ったのだ。

 ところが七時二十五分になっても、カイルは来なかった。

 七時三十分。

 まだ来ない。

「……また?」

 昨日のことがあるので、今度はすぐ探しに行かない。

 七時三十五分。

 待つ。

 七時四十分。

 少し不安になる。

 七時四十五分。

 昨日より長い。

 胸の奥に嫌な感覚が広がる。

「今日はタルトじゃないよね……」

 七時五十分。

 さすがに待てなくなった。

 今度こそ北塔へ行こうとした時、遠くからノアが歩いてきた。

「リリア? こんなところで何してるの?」

「クロフォード先輩待ってる」

「カイル先輩?」

「うん」

「今日は来ないんじゃない?」

 胸が落ちた。

「何で?」

「朝から先生に呼ばれてたよ。魔法障壁の調整だったかな。三年生何人か連れて学院の外周にいるはず」

「……そうなんだ」

「聞いてない?」

「うん」

「急に決まったのかもね」

 ノアはリリアの顔を見る。

「残念?」

「……うん」

 思った以上に素直に出た。

「会いたかった」

 ノアが少しだけ目を細める。

「そっか」

「昨日、明日もって言ったのに」

「終わったら会えるんじゃない?」

「でも朝じゃない」

「朝が大事なの?」

 聞かれて初めて気づいた。

「大事みたい」

「なるほどね」

 ノアは何か納得したように笑った。

「じゃあ、朝ご飯一緒に食べる?」

「食べる」

「即答だ」

「お腹空いた」

「そこは普通なんだ」

 ノアと食堂へ向かいながらも、リリアは何度か後ろを振り返った。

 もちろんカイルはいない。

 たった一週間ほど。

 それだけなのに、朝にカイルがいないことが変な感じだった。

 食堂でノアと話していても、昨日カイルと話したことを思い出す。授業中も、今頃何をしているのだろうと考える。昼休みになっても姿を見かけず、午後の実技が終わっても会えなかった。

 こんなに気になるとは思わなかった。

 夕方になり、リリアは一年生棟を出た。

 今日はもう会えないのかもしれない。

 明日の朝には会える。

 たった一日だ。

 それなのに少し寂しい。

「……これ、結構好きなんじゃない?」

 自分で呟いて、恥ずかしくなる。

 誰も聞いていないことを確認してから歩き出す。

 その時だった。

「リリア」

 足が止まった。

 振り返る。

 廊下の向こうにカイルがいた。

 いつもの制服姿ではあるが、外で作業していたのか黒髪が少し乱れている。普段なら整っている深紅のネクタイも僅かにずれていて、いつもより疲れて見えた。

「クロフォード先輩」

 気づいた時には走っていた。

 カイルのところまで行く。

「どうした」

「どうしたじゃない」

「何だ」

「朝」

 カイルの表情が僅かに曇った。

「悪かった」

「来なかった」

「ああ」

「待ってた」

「……すまない」

「五十分まで」

「そんなに?」

「だって来ると思ってたから」

 カイルは少しだけ苦しそうな顔をした。

「昨日の夜に急に決まった。伝えようと思ったが、女子寮へ連絡する方法がなくて」

「誰かに頼めばよかったのに」

「朝になればすぐ戻れると思った」

「戻れてない」

「ああ」

「私、会えないと思った」

 言った途端、カイルの目が僅かに見開かれた。

「……それで?」

「寂しかった」

 もう隠す理由が分からなかった。

「一日なのに。変ですよね」

 カイルは答えない。

「クロフォード先輩?」

「変じゃない」

「そう?」

「ああ」

「先輩は?」

「何がだ」

「今日、私に会えなくて寂しかった?」

 聞いてから、やっぱり直球すぎたと思った。

 でもカイルは逃げなかった。

「……ああ」

 小さな声だった。

「本当に?」

「何度も言わせるな」

「もう一回」

「嫌だ」

「私言ったのに」

「俺も言った」

「一回だけ」

「十分だ」

 リリアは笑った。

 朝からずっと胸の中にあった寂しさが、一気に消えていく。

「じゃあ明日は?」

「行く」

「七時半?」

「ああ」

「五分前?」

「行く」

「今日の分は?」

「何だ」

「手」

 カイルがリリアを見る。

 もう、誤魔化すのも変な気がした。

「今日、繋いでない」

「……そうだな」

「今、繋ぐ?」

 カイルは周囲を見る。

 放課後の廊下にはまだ何人か生徒がいる。

「人いるね」

「いるな」

「嫌?」

「俺は構わない」

「私も」

 リリアが手を差し出す。

 カイルはその手を見た。

 昨日までは、理由が必要だった。

 迷うから。

 道を案内するから。

 今日は何もない。

 ただ触れたい。

 それだけだ。

 カイルの手が伸びる。

 掌が重なった。

 今度は最初から、指が少しだけ絡んだ。

 リリアはその違いに気づいた。

「昨日より繋ぎ方違う」

「……嫌か」

「嫌じゃない」

「ならいい」

「それ誰かの台詞みたい」

「誰だ」

「秘密」

 カイルは追及しなかった。

 二人で歩き始める。

「どこ行く?」

「どこでもいい」

「珍しい」

「今日はお前に任せる」

「私に任せたら迷うよ」

「俺がいる」

 さらりと言われた。

 リリアは横を見る。

「……クロフォード先輩」

「何だ」

「今日ちょっと格好いい」

「今日だけか」

「いつも格好いいけど」

 カイルの足が止まりかけた。

「何?」

「お前はそういうことを簡単に言うな」

「簡単じゃないですよ」

「昨日も聞いた」

「じゃあクロフォード先輩にだけ言ってる」

 繋いだ手に少し力が入った。

「それも言うな」

「何で?」

「……期待する」

 今度はリリアが止まった。

 カイルも止まる。

「何を?」

「聞くな」

「気になる」

「まだ言えない」

「まだ?」

 その一言を拾うと、カイルが目を閉じた。

「忘れろ」

「無理」

「忘れろ」

「嫌」

「リリア」

「まだってことは、いつか言う?」

「……」

「クロフォード先輩」

「今は言わない」

「いつ?」

「俺が分かったらだ」

「何が?」

 カイルは少し迷ったあと、繋いだ手を見る。

「この感情が何なのか」

 リリアの胸が鳴った。

「先輩も分からないの?」

「ああ」

「私と一緒だ」

「お前も?」

「うん」

 リリアは笑った。

「私も今、クロフォード先輩のことが好きなのか考えてる途中」

 カイルの表情が完全に止まった。

「……お前」

「何?」

「それを本人に言うのか」

「駄目?」

「普通は言わない」

「でも先輩も今言った」

「俺は好きという単語を使っていない」

「でも似たようなものでしょ」

「全然違う」

「じゃあ違うの?」

 カイルは答えない。

 けれど手は離れない。

「じゃあ一緒に考えよう」

「何を」

「私がクロフォード先輩を好きか。クロフォード先輩が私を好きか」

「……どうやって」

「いっぱい会う」

「それだけか」

「いっぱい話す。手も繋ぐ」

「それは必要なのか」

「私はしたい」

 カイルが黙る。

「先輩は嫌?」

「……嫌ではない」

「じゃあする」

「お前は本当に」

 呆れたように言いながら、カイルの口元が少しだけ緩む。

「何?」

「いや」

「また隠す」

「今はいい」

「じゃあ明日聞く」

「覚えていたらな」

「覚えてます」

 二人は再び歩き出した。

 目的地は決めていない。

 どこへ行くかも分からない。

 それでも、今日は迷ってもいいと思った。

 隣にカイルがいるから。

 そしてカイルも、行き先を尋ねなかった。

 ただリリアの歩幅に合わせ、繋いだ手を離さずに歩いていた。

 やがて学院の裏庭へ出ると、夕暮れの光が木々の隙間から差し込んでいた。リリアは空いているベンチを見つけ、カイルを引っ張るようにそこへ向かった。隣に座っても手は繋いだままで、どちらから離そうとも言わなかった。

「クロフォード先輩」

「何だ」

「今日、私のこと思い出した?」

「ああ」

「いつ?」

「朝」

「他は?」

「作業中」

「他は?」

「昼」

「他は?」

「……何回聞く」

「嬉しいから」

 カイルがリリアを見る。

「そんなにか」

「うん。私だけじゃなかったって分かるから」

 リリアは繋いだ手を眺めながら、朝から何度も彼を探していたことを思い返した。

「私もいっぱい思い出した。朝ご飯の時も、授業中も、昼も、実技の後も」

「授業中は授業に集中しろ」

「クロフォード先輩も作業中に思い出したんでしょ」

「……そうだな」

「何考えてた?」

「朝、待っているだろうと思った」

「待ってた」

「悪かったと思った」

「それだけ?」

 カイルは少し黙ったあと、視線を落とした。

「会いたいと思った」

 胸が、今日一番大きく鳴った。

「もう一回言って」

「断る」

「聞きたい」

「一度言った」

「嬉しかったから」

「……会いたかった」

 今度はリリアが黙った。

 思っていたよりずっと嬉しい。

 顔が熱くなる。

「お前が言わせたんだろう」

「そうだけど」

「なぜお前が照れる」

「実際聞いたら恥ずかしかった」

「なら聞くな」

「でも聞きたい」

「面倒だな」

「嫌?」

 カイルはもう、その質問に慣れたらしい。

「嫌ならここにいない」

 そう答えて、繋いだ手を少し持ち上げる。

「これもしていない」

「……うん」

「朝、迎えにも行かない」

「うん」

「お前が好きなものも覚えない」

 リリアが彼を見る。

 カイルもこちらを見ている。

「それって」

「まだ聞くな」

 先に止められた。

「ずるい」

「俺自身が分かっていない」

「じゃあ分かったら教えて」

「ああ」

「約束?」

「約束する」

 リリアは笑った。

「じゃあ私も、分かったら言う」

「……何を」

「クロフォード先輩が好きかどうか」

 カイルの視線が僅かに揺れた。

「そうか」

「怖い?」

 リリアが尋ねると、カイルは少しだけ考えた。

「怖い」

 予想外に素直な答えだった。

「何で?」

「お前が違う答えを出すかもしれないからだ」

 リリアはしばらく彼を見つめた。

 この人は、自分が昔のリリアと違うことを確かめようとしていた。違うと分かって安心したはずなのに、今度は違う人間だからこそ、自分を選ばない可能性を恐れている。

「私も怖いかも」

「なぜ」

「クロフォード先輩が、やっぱり昔のリリアの方が好きってなるかもしれないから」

「それはない」

 あまりにも早い返事だった。

 リリアは瞬きをする。

「即答」

 カイル自身も気づいたらしく、少しだけ目を見開いた。

「……少なくとも、それはない」

「どうして?」

 カイルは言葉を探すように黙ったあと、リリアの手を見た。

「今、俺が手を繋ぎたいと思っているのはお前だからだ」

 リリアは何も言えなくなった。

 カイルは続ける。

「朝、会いたいと思ったのもお前だ。タルトを渡して喜ばせたいと思ったのも、研究室でくだらないことを言われて困るのも、全部今のお前に対してだ」

「……くだらないは余計」

「そこだけ拾うな」

「だって恥ずかしい」

「俺に言わせたのはお前だろう」

「そうだけど」

 リリアは少し俯いた。

 繋いだ手が熱い。

「クロフォード先輩」

「何だ」

「私、たぶん結構好きになる途中です」

 カイルはしばらく何も言わなかった。

 けれど、その手は離れなかった。

「……俺も」

 低い声が返ってくる。

「たぶん、同じだ」

 顔を上げる。

 カイルの耳が赤い。

「耳」

「見るな」

「赤い」

「言うな」

「可愛い」

「それも言うな」

 リリアは笑った。

 カイルは嫌そうな顔をしながらも、今度は目を逸らさなかった。

 恋人ではない。

 まだ好きだと言い切ったわけでもない。

 けれど二人とも、同じところに向かっている。

 それだけは分かった。

 帰る時間になり、ベンチから立ち上がっても、手は自然に繋がったままだった。女子寮へ向かう道の途中で、リリアが「もう道分かるから一人で帰れる」と言うと、カイルは「知っている」と答えた。それでも手を離す様子がないので、「じゃあ何で送るの?」と尋ねれば、少しだけ間を置いて「もう少し一緒にいたいからだ」と返された。

 今度こそリリアは何も言えなかった。

「……何だ」

「クロフォード先輩、今日急に強い」

「何が」

「そういうこと普通に言う」

「お前が聞くから答えただけだ」

「聞かなきゃ言わない?」

「……そのうちは」

「そのうち?」

「俺から言えるようになるかもしれない」

 リリアは嬉しくなって、繋いだ手を揺らした。

「じゃあ待ってる」

「期待するな」

「期待する」

「やめろ」

「嫌」

 女子寮が見えてくる。

 今日は朝から会えなかったのに、最後にはいつもより長く一緒にいた。

 入口の前で立ち止まり、ようやく手を離す。さっきまで触れていた場所に夜の冷たい空気が当たり、少し寂しい。

「じゃあ明日」

「ああ」

「七時二十五分?」

「七時半だ」

「でも先輩、五分前に来るでしょ」

「お前も来るつもりか」

「うん」

「なら七時二十五分でいい」

「約束」

「ああ」

 リリアは寮へ入ろうとした。

 でも数歩進んでから、何となく振り返る。

 カイルはまだそこにいた。

「クロフォード先輩」

「何だ」

「今日会えてよかった」

 カイルは一瞬驚いたような顔をしたあと、ほんの少し笑った。

「俺もだ」

 今度はそれだけで十分だった。

 リリアは笑って手を振り、寮へ入った。

 その夜、眠る前に考えたのは、昔の世界でも自分の正体でもなかった。明日の朝、七時二十五分に女子寮を出たら、カイルが待っている。その時、最初に何を話そうかという、驚くほど普通のことだった。

 そして同じ頃、北塔の研究室で資料を閉じたカイルもまた、明日のことを考えていた。これまで彼にとって未来とは、過去と同じ失敗を繰り返さないために警戒するものだった。リリアを守るための術式を調べ、彼女の魔力が暴走する可能性を潰し、かつて自分が下した選択を二度と繰り返さないために備える。それだけが未来へ向く理由だった。

 けれど今は、その未来の中に別のものがある。

 七時二十五分。

 銀白の髪を揺らして、少し眠そうな顔でこちらへ来る少女。

 昔のリリアではない。守れなかった人の代わりでもない。

 今日、自分が会いたいと思った人だ。

 カイルは机の端に置いていた時計を見て、いつもより早く資料を片づけた。明日の朝に寝不足の顔で会えば、きっとリリアはすぐに気づく。そして「ちゃんと寝てください」と余計な世話を焼くのだろう。

 その光景を想像すると、自然に口元が緩んだ。

 自分がこんな顔をすることを、明日の彼女はまだ知らない。

 けれどいつか、それすら隠さなくなる日が来るのかもしれないと考えた時、カイルはもうその可能性を拒みたいとは思わなかった。