翌朝、リリアが女子寮の玄関を出たのは七時二十八分だった。
約束より二分早い。普段なら朝の二分など気にも留めないのに、今日はなぜか部屋を出る前から時計を何度も確認してしまった。別に急ぐ必要はないし、カイルが迎えに来るというだけで特別な予定があるわけでもない。それでも昨日の「明日は、迷う前に待っていろ」という声を思い出すと、少しだけ胸が落ち着かなかった。
外へ出て、すぐに足を止める。
カイルはもういた。
女子寮から少し離れた木の下で、深紅のネクタイを締めた長身の青年が腕を組んで立っている。朝の光の中でも相変わらず近寄りがたい雰囲気なのに、リリアを見つけるとすぐにこちらへ歩いてきた。
「早いですね」
「お前もな」
「何時からいたの?」
「少し前だ」
「何分?」
「どうでもいい」
「気になる」
「五分だ」
「七時二十五分?」
「ああ」
「私、七時半って言ったのに」
「遅れるよりいい」
「もしかして楽しみだった?」
カイルの足が一瞬止まった。
「何がだ」
「私に会うの」
「……朝から妙なことを言うな」
「違うんだ」
「そういう問題ではない」
「じゃあ何?」
「行くぞ」
答えずに歩き始める。
昨日より分かりやすい。
リリアは少し笑いながら隣へ並んだ。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「歩くの遅くしてる?」
「していない」
「昨日より遅い」
「気のせいだ」
「私に合わせてる?」
「……お前は朝からよく喋るな」
「答えないってことは当たり?」
「好きに解釈しろ」
「じゃあ優しいってことにします」
カイルは何も言わなかったが、歩く速度は変わらなかった。
北塔へ向かうには一年生棟とは反対方向へ進む必要がある。本来ならリリアがわざわざ行く理由はない。それでも昨日見た研究室が気になっていたし、何よりカイルと話したかった。
「昨日の魔法陣、続きを見てもいい?」
「ああ」
「触っても?」
「駄目だ」
「何で?」
「壊す」
「壊さない」
「お前の魔力は干渉が強い。触れた瞬間に術式が変わる可能性がある」
「じゃあクロフォード先輩が一緒なら?」
「俺が見ていても駄目だ」
「厳しい」
「研究を何だと思っている」
「面白そうなもの」
「触るな」
「まだ何もしてない」
カイルが小さく息を吐く。
昨日までは、この溜息をつかれると嫌われているのかと思っていた。
今は少し違う。
「クロフォード先輩、私と話す時よく溜息つきますね」
「誰のせいだ」
「嫌?」
カイルがこちらを見る。
「何が」
「私と話すの」
「……嫌なら迎えに来ていない」
胸が少しだけ鳴った。
「そうですね」
「何だ」
「何でもない」
「急に静かになるな」
「クロフォード先輩のせい」
「なぜ俺のせいになる」
「知らない」
今度はリリアが前を向いた。
少しだけ頬が熱い。
それを見られたくなかった。
*
研究室へ入ると、昨日と同じ魔法陣が浮かんでいた。
カイルは机の上に資料を広げ、リリアへ一冊の古い本を渡した。
「これを読め」
「朝から勉強?」
「見たいと言ったのはお前だ」
「見るだけかと思った」
「理解せずに見ても意味がない」
「先生みたい」
「嫌なら帰れ」
「読みます」
椅子へ座り、本を開く。
魂と魔力の結合について書かれた専門書らしく、一ページ目から知らない用語が並んでいた。
「……難しい」
「どこが」
「最初から」
「貸せ」
カイルが隣へ来る。
リリアの持っている本へ手を伸ばし、ページを指差した。
「ここは飛ばしていい。必要なのは魂が魔力情報を保持する仕組みだ」
「魂って記憶を持つの?」
「通常は完全な形では持たない。だが強い魔力や感情が結びついた場合、痕跡が残ることがある」
「クロフォード先輩の記憶みたいに?」
「俺の場合は特殊だ」
「生まれた時から覚えてたんでしょ?」
「ああ」
「怖くなかった?」
カイルの指が止まった。
「何が」
「赤ちゃんの時から知らない人生の記憶があるの」
「幼い頃は夢だと思っていた」
「いつ本当だって気づいた?」
「五歳頃だ」
「早い」
「夢で見た魔法陣を書いたら発動した」
「五歳で?」
「ああ」
「天才」
「お前に言われたくない」
「私も天才だから?」
「自覚があるのか」
「あります」
「そこは謙遜しろ」
「事実なので」
カイルの口元が僅かに緩んだ。
「笑った」
「笑っていない」
「今笑った」
「気のせいだ」
「最近そればっかり」
「お前が余計なところを見ているからだ」
「見たいから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
カイルも黙る。
「……何をだ」
「クロフォード先輩」
今度は考えてから答えた。
「もっと知りたい」
カイルの視線が本からリリアへ移った。
近い。
隣に座っているから、昨日よりずっと近い距離に顔がある。
「なぜ」
「分からない」
「昨日からそればかりだな」
「クロフォード先輩も分からないって言ってたでしょ」
「俺は」
何か言いかけて止まる。
「何?」
「……いや」
「また隠した」
「隠していない」
「じゃあ言って」
「必要ない」
「ほら」
リリアは少しむっとして本を閉じた。
「クロフォード先輩、私には何でも聞くくせに、自分のこと全然言わない」
「何でもは聞いていない」
「昨日だって私が何で来たのか聞いた」
「それは普通だろう」
「私だって普通に聞いてる」
「何を知りたい」
「いっぱい」
リリアは指を折った。
「好きな食べ物」
「特にない」
「それ禁止」
「なぜ」
「会話が終わるから。何かあるでしょ」
「……コーヒー」
「食べ物じゃない」
「甘くない焼き菓子」
「あるじゃん」
「お前は?」
「甘いもの」
「知っている」
「何で?」
「よく食べている」
リリアは瞬きをした。
「見てたの?」
「目に入る」
「どんなの食べてた?」
「先週は食堂で苺のタルト。その前は図書館前の売店で蜂蜜菓子。実戦祭の時はノアからチョコレートを貰っていた」
「……めちゃくちゃ見てない?」
カイルが固まった。
「クロフォード先輩」
「偶然だ」
「三回も?」
「学院は狭い」
「広いですよ」
「……本を読め」
「誤魔化した」
カイルが本を開き直し、リリアの前へ置く。
耳が少し赤い。
昨日は確認できなかった。
今日ははっきり見えた。
「やっぱり赤い」
「何が」
「耳」
「赤くない」
「赤い」
「見るな」
「可愛い」
今度こそカイルがこちらを向いた。
「……誰が」
「クロフォード先輩」
「俺にその言葉を使うな」
「何で?」
「似合わない」
「でも可愛い」
「やめろ」
「照れてる」
「リリア」
「はい」
「黙って読め」
「怒った?」
「怒っていない」
「じゃあ可愛い」
「……帰すぞ」
「読みます」
笑いを堪えながら本へ視線を落とす。
でも、内容はしばらく頭に入ってこなかった。
カイルの耳が赤くなること。
自分が何を食べているのか覚えていたこと。
そんな些細なことばかりが気になった。
怖い先輩だと思っていたのに。
知れば知るほど、全然違う。
*
それから数日、朝の約束は自然に続いた。
最初は北塔へ行くためだった。
二日目も研究室。
三日目も研究室。
四日目になると、リリアが「今日は別に研究しなくてもいい」と言った。
「なら、なぜ来た」
「会いたかったから」
カイルはその場で黙った。
「……それだけか」
「うん」
「研究は?」
「今日はいい」
「では何をする」
「散歩?」
「朝から?」
「嫌?」
「嫌ではないが」
「じゃあ行こう」
そうして二人で学院の庭を歩いた。
五日目にはカイルがコーヒーを持ってきた。
リリアの分は甘いミルクティーだった。
「何で私の甘いの?」
「苦いものは飲まないだろう」
「知ってるんだ」
「……見ていれば分かる」
「また見てた」
「その言い方をやめろ」
六日目にはリリアが焼き菓子を持っていった。
甘くないものを選んだ。
カイルは一口食べて「悪くない」と言った。
「美味しいって言えばいいのに」
「悪くないは褒めている」
「分かりづらい」
「覚えろ」
「じゃあクロフォード先輩が『悪くない』って言ったら『好き』って意味?」
「飛躍するな」
「私のことは?」
「何が」
「悪くない?」
カイルがむせた。
初めて見た。
「大丈夫?」
「お前……」
「冗談」
「そういう冗談を言うな」
「何で?」
「……何でもだ」
それからリリアは、その質問を何となく忘れられなくなった。
*
七日目。
いつもの場所へ行くと、カイルがいなかった。
リリアは時計を見る。
七時三十分。
「珍しい」
遅刻する人には見えない。
七時三十五分。
まだ来ない。
七時四十分。
少し不安になる。
「何かあった?」
前日の別れ際には何も言っていなかった。
研究で徹夜でもしたのだろうか。
体調を崩したのかもしれない。
七時四十五分になったところで、リリアは待つのをやめた。
「探そう」
北塔ならもう一人でも行ける。
一週間通ったのだ。
さすがに覚えた。
そう思って歩き出し、数分後。
「……ここどこ?」
見覚えのない階段にいた。
「何で?」
「それは俺が聞きたい」
後ろから声がした。
勢いよく振り返る。
「クロフォード先輩!」
階段の下にカイルが立っていた。
いつもより少し息が上がっている。
「何でここにいる」
「探してた」
「待っていろと言っただろ」
「遅かったから」
「十五分だ」
「十五分も」
「それくらい待て」
「何かあったのかと思った」
言うと、カイルが黙った。
「研究で倒れてるかもしれないし、体調悪いのかもしれないし」
「リリア」
「何?」
「心配したのか」
「するでしょ」
「……そうか」
「何でちょっと嬉しそうなの?」
「嬉しくない」
「嘘」
「それより戻るぞ」
「何で遅れたの?」
カイルは答えない。
「クロフォード先輩」
「……これだ」
差し出されたのは小さな紙袋だった。
「何?」
「開けろ」
中を見る。
小さな苺のタルトが入っていた。
「……これ」
「先週食べていただろう」
「食堂の?」
「同じ店のものだ」
「何で?」
「朝、店が開く時間が遅れた」
「それで遅刻したの?」
「遅刻ではない」
「十五分遅れた」
「……悪かった」
リリアはタルトを見る。
それからカイルを見る。
「私に?」
「他に誰がいる」
昨日までなら、ただ嬉しかったと思う。
でも今は違った。
胸の奥がきゅっと縮まって、そこから熱が広がる。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「これ、かなり嬉しい」
「そうか」
「ありがとう」
「ああ」
「私が好きだから買ってきたの?」
「タルトが、だろう」
「うん」
「そうだ」
「私が喜ぶと思った?」
カイルが一瞬黙った。
「……そうだ」
「喜ばせたかった?」
「質問が多い」
「答えて」
カイルは視線を逸らした。
「そうだ」
胸がまた鳴った。
「何で?」
「何でとは」
「私を喜ばせたい理由」
「……知らない」
「分からない?」
「ああ」
「私も分からない」
「何が」
「何でこんなに嬉しいのか」
カイルがこちらを見る。
リリアは紙袋を胸元へ抱えた。
「タルト貰ったからだけじゃない気がする」
「……そうか」
「うん」
少しだけ沈黙が落ちた。
今までなら気まずかったかもしれない。
でも今日は違う。
カイルの顔を見ているだけで、何となく落ち着く。
「食べるか」
「ここで?」
「研究室へ行く」
「一緒に?」
「俺が買ったんだ。感想くらい聞かせろ」
「じゃあ半分あげる」
「甘いものは食べない」
「一口」
「いらない」
「恋人みたい」
口から出た。
二人とも止まった。
「……何がだ」
カイルの声が僅かに低くなる。
「朝迎えに来て、好きなもの買ってきて、一緒に食べるの」
「それだけで恋人になるのか」
「ならないけど、ちょっとそれっぽい」
「お前は」
カイルが何か言いかけて、止めた。
「何?」
「そういうことを、他の男にも言うのか」
今度はリリアが黙った。
「言わないと思う」
「思う?」
「少なくとも、今はクロフォード先輩にしか言ってない」
カイルの目が僅かに揺れる。
「そうか」
「何で?」
「何でもない」
「またそれ」
リリアは少し考えてから、彼の袖を摘んだ。
「行こう」
「……何をしている」
「迷わないように」
「袖を掴む必要はない」
「じゃあ手?」
カイルが完全に固まった。
「手を繋げば迷わない」
「必要ない」
「何で?」
「お前は簡単に男と手を繋ごうとするな」
「簡単じゃないですよ」
「今言っただろう」
「クロフォード先輩だから」
昨日と似た言葉。
でも今日は、言った自分の方が先に恥ずかしくなった。
カイルも黙っている。
袖を摘んでいた指を離そうとした。
「……じゃあ、袖でいい」
その瞬間。
手首を掴まれた。
昨日より優しく。
カイルの手が、そのまま少し下へ滑る。
指先が触れる。
リリアは息を止めた。
「クロフォード先輩?」
「迷うんだろう」
「……うん」
「なら」
大きな手がリリアの手を包んだ。
完全に指を絡めるわけではない。
ただ掌を重ねているだけ。
それでも、初めてだった。
「これでいい」
カイルは前を向いたまま言った。
耳が赤い。
リリアも自分の顔が熱いことを自覚していた。
「……クロフォード先輩」
「何だ」
「私、今ちょっと緊張してる」
「言うな」
「先輩も?」
「言うな」
「してるんだ」
「リリア」
「はい」
「黙って歩け」
「手は?」
「……そのままでいい」
胸の奥がまた大きく鳴った。
二人で歩き出す。
いつもよりずっと近い。
カイルは前を向いたまま、こちらを見ない。
それなのに手だけは離さない。
リリアも何も言わず、その手を握った。
恋人ではない。
好きだとも言っていない。
ただ、朝に会う約束をして、好きなものを覚えていてくれて、手を繋いで歩いているだけ。
それなのに、昨日までとは明らかに何かが違っていた。
北塔へ着く頃には、リリアはもう道順をほとんど覚えていた。
それでも、カイルには言わなかった。
手を離す理由を、自分から作りたくなかったからだ。
研究室の前へ着くと、カイルが扉を開けるために手を離した。
たったそれだけなのに、掌が急に寒く感じた。
リリアは自分の手を見る。
「……何だろ」
「何が」
「何でもない」
「そうか」
カイルが扉を開ける。
「入れ」
「うん」
部屋へ入ろうとして、リリアは足を止めた。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「明日も迎えに来る?」
カイルは少しだけ目を見開いた。
「もう道は覚えただろう」
ばれていた。
「……たぶん」
「なら一人で来られる」
「そうだけど」
「何だ」
リリアは迷った。
理由を言ってしまったら、何かが変わる気がした。
それでも、昨日「もっと知りたい」と言った時と同じように、口から先に出た。
「迎えに来てほしい」
カイルの表情が止まった。
「何で?」
「分からない」
「またそれか」
「でも、来てほしい」
カイルはしばらくリリアを見ていた。
やがて、ほんの少しだけ困ったように目を細めた。
「七時半か」
「うん」
「分かった」
「来てくれる?」
「ああ」
「五分前?」
「……たぶんな」
リリアは笑った。
「じゃあ私も五分前に行く」
「好きにしろ」
「待っててね」
「ああ」
カイルはそう答えてから研究室へ入った。
リリアもその後を追う。
机の上に苺のタルトを置き、二人分の皿を探しながら、明日の朝のことを考えている自分に気づいた。
まだ今日も始まったばかりなのに、もう次に会う約束が嬉しい。
それが何という気持ちなのか、リリアにはまだ分からなかった。
ただ、明日も七時半になれば、あの人が自分を待っている。
そう思うだけで、今日一日が少しだけ特別になる。
一方、カイルはコーヒーを淹れながら、先ほどリリアと繋いでいた右手を無意識に握っていた。そこにはもう何の温度も残っていないはずなのに、掌だけが妙に熱い。
かつて、この手で一人の少女の命を終わらせた。
その記憶があるから、今のリリアには必要以上に触れないと決めていた。
守るとしても距離を置く。過去と現在を混同しない。彼女の人生に、自分の罪悪感を持ち込まない。
そのはずだった。
けれど今日、手を差し出したのはリリアではない。
自分だった。
迷わないようにという理由なら、袖を掴ませるだけで十分だった。それなのに、自分から彼女の手を取った。
しかも、離したくないと思った。
昔のリリアと同じ顔だからではない。
昔の彼女なら、あんなふうに「恋人みたい」などと平然と言って自分を困らせたりしなかった。甘いものを貰っただけであんなに嬉しそうに笑ったり、迷子になることを理由に手を繋ごうとしたりもしなかった。
今のリリアだからだ。
その事実に気づくほど、カイルは困る。
「クロフォード先輩」
後ろから呼ばれて振り返る。
「何だ」
「お皿どこ?」
「上だ」
「届かない」
見ると、リリアが棚へ腕を伸ばしている。
身長が足りていない。
「退け」
「取れる?」
「当たり前だ」
背後から腕を伸ばす。
皿を取るだけのつもりだった。
けれど棚が狭く、自然とリリアを後ろから囲うような形になった。
銀白の髪がすぐ目の前にある。
甘い香りがした。
リリアが振り返ろうとする。
「クロフォード先輩?」
「動くな」
「何で?」
「……頭が当たる」
「あ、そっか」
リリアは素直に止まった。
カイルは皿を取る。
すぐ離れればいい。
それなのに、一瞬だけ動けなかった。
この距離で抱きしめたら、どんな顔をするのだろう。
そんな考えが浮かんだ自分に驚いた。
カイルはすぐに一歩下がった。
「ほら」
「ありがとう」
何も知らないリリアが皿を受け取る。
「クロフォード先輩?」
「何だ」
「顔赤い?」
「赤くない」
「また?」
「見るな」
リリアが笑う。
その笑顔を見て、カイルは小さく息を吐いた。
明日も七時半。
また会う。
それが嬉しいと思ってしまった時点で、もう距離を置くという選択は、思っていたよりずっと難しくなっていた。
約束より二分早い。普段なら朝の二分など気にも留めないのに、今日はなぜか部屋を出る前から時計を何度も確認してしまった。別に急ぐ必要はないし、カイルが迎えに来るというだけで特別な予定があるわけでもない。それでも昨日の「明日は、迷う前に待っていろ」という声を思い出すと、少しだけ胸が落ち着かなかった。
外へ出て、すぐに足を止める。
カイルはもういた。
女子寮から少し離れた木の下で、深紅のネクタイを締めた長身の青年が腕を組んで立っている。朝の光の中でも相変わらず近寄りがたい雰囲気なのに、リリアを見つけるとすぐにこちらへ歩いてきた。
「早いですね」
「お前もな」
「何時からいたの?」
「少し前だ」
「何分?」
「どうでもいい」
「気になる」
「五分だ」
「七時二十五分?」
「ああ」
「私、七時半って言ったのに」
「遅れるよりいい」
「もしかして楽しみだった?」
カイルの足が一瞬止まった。
「何がだ」
「私に会うの」
「……朝から妙なことを言うな」
「違うんだ」
「そういう問題ではない」
「じゃあ何?」
「行くぞ」
答えずに歩き始める。
昨日より分かりやすい。
リリアは少し笑いながら隣へ並んだ。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「歩くの遅くしてる?」
「していない」
「昨日より遅い」
「気のせいだ」
「私に合わせてる?」
「……お前は朝からよく喋るな」
「答えないってことは当たり?」
「好きに解釈しろ」
「じゃあ優しいってことにします」
カイルは何も言わなかったが、歩く速度は変わらなかった。
北塔へ向かうには一年生棟とは反対方向へ進む必要がある。本来ならリリアがわざわざ行く理由はない。それでも昨日見た研究室が気になっていたし、何よりカイルと話したかった。
「昨日の魔法陣、続きを見てもいい?」
「ああ」
「触っても?」
「駄目だ」
「何で?」
「壊す」
「壊さない」
「お前の魔力は干渉が強い。触れた瞬間に術式が変わる可能性がある」
「じゃあクロフォード先輩が一緒なら?」
「俺が見ていても駄目だ」
「厳しい」
「研究を何だと思っている」
「面白そうなもの」
「触るな」
「まだ何もしてない」
カイルが小さく息を吐く。
昨日までは、この溜息をつかれると嫌われているのかと思っていた。
今は少し違う。
「クロフォード先輩、私と話す時よく溜息つきますね」
「誰のせいだ」
「嫌?」
カイルがこちらを見る。
「何が」
「私と話すの」
「……嫌なら迎えに来ていない」
胸が少しだけ鳴った。
「そうですね」
「何だ」
「何でもない」
「急に静かになるな」
「クロフォード先輩のせい」
「なぜ俺のせいになる」
「知らない」
今度はリリアが前を向いた。
少しだけ頬が熱い。
それを見られたくなかった。
*
研究室へ入ると、昨日と同じ魔法陣が浮かんでいた。
カイルは机の上に資料を広げ、リリアへ一冊の古い本を渡した。
「これを読め」
「朝から勉強?」
「見たいと言ったのはお前だ」
「見るだけかと思った」
「理解せずに見ても意味がない」
「先生みたい」
「嫌なら帰れ」
「読みます」
椅子へ座り、本を開く。
魂と魔力の結合について書かれた専門書らしく、一ページ目から知らない用語が並んでいた。
「……難しい」
「どこが」
「最初から」
「貸せ」
カイルが隣へ来る。
リリアの持っている本へ手を伸ばし、ページを指差した。
「ここは飛ばしていい。必要なのは魂が魔力情報を保持する仕組みだ」
「魂って記憶を持つの?」
「通常は完全な形では持たない。だが強い魔力や感情が結びついた場合、痕跡が残ることがある」
「クロフォード先輩の記憶みたいに?」
「俺の場合は特殊だ」
「生まれた時から覚えてたんでしょ?」
「ああ」
「怖くなかった?」
カイルの指が止まった。
「何が」
「赤ちゃんの時から知らない人生の記憶があるの」
「幼い頃は夢だと思っていた」
「いつ本当だって気づいた?」
「五歳頃だ」
「早い」
「夢で見た魔法陣を書いたら発動した」
「五歳で?」
「ああ」
「天才」
「お前に言われたくない」
「私も天才だから?」
「自覚があるのか」
「あります」
「そこは謙遜しろ」
「事実なので」
カイルの口元が僅かに緩んだ。
「笑った」
「笑っていない」
「今笑った」
「気のせいだ」
「最近そればっかり」
「お前が余計なところを見ているからだ」
「見たいから」
言ってから、自分でも少し驚いた。
カイルも黙る。
「……何をだ」
「クロフォード先輩」
今度は考えてから答えた。
「もっと知りたい」
カイルの視線が本からリリアへ移った。
近い。
隣に座っているから、昨日よりずっと近い距離に顔がある。
「なぜ」
「分からない」
「昨日からそればかりだな」
「クロフォード先輩も分からないって言ってたでしょ」
「俺は」
何か言いかけて止まる。
「何?」
「……いや」
「また隠した」
「隠していない」
「じゃあ言って」
「必要ない」
「ほら」
リリアは少しむっとして本を閉じた。
「クロフォード先輩、私には何でも聞くくせに、自分のこと全然言わない」
「何でもは聞いていない」
「昨日だって私が何で来たのか聞いた」
「それは普通だろう」
「私だって普通に聞いてる」
「何を知りたい」
「いっぱい」
リリアは指を折った。
「好きな食べ物」
「特にない」
「それ禁止」
「なぜ」
「会話が終わるから。何かあるでしょ」
「……コーヒー」
「食べ物じゃない」
「甘くない焼き菓子」
「あるじゃん」
「お前は?」
「甘いもの」
「知っている」
「何で?」
「よく食べている」
リリアは瞬きをした。
「見てたの?」
「目に入る」
「どんなの食べてた?」
「先週は食堂で苺のタルト。その前は図書館前の売店で蜂蜜菓子。実戦祭の時はノアからチョコレートを貰っていた」
「……めちゃくちゃ見てない?」
カイルが固まった。
「クロフォード先輩」
「偶然だ」
「三回も?」
「学院は狭い」
「広いですよ」
「……本を読め」
「誤魔化した」
カイルが本を開き直し、リリアの前へ置く。
耳が少し赤い。
昨日は確認できなかった。
今日ははっきり見えた。
「やっぱり赤い」
「何が」
「耳」
「赤くない」
「赤い」
「見るな」
「可愛い」
今度こそカイルがこちらを向いた。
「……誰が」
「クロフォード先輩」
「俺にその言葉を使うな」
「何で?」
「似合わない」
「でも可愛い」
「やめろ」
「照れてる」
「リリア」
「はい」
「黙って読め」
「怒った?」
「怒っていない」
「じゃあ可愛い」
「……帰すぞ」
「読みます」
笑いを堪えながら本へ視線を落とす。
でも、内容はしばらく頭に入ってこなかった。
カイルの耳が赤くなること。
自分が何を食べているのか覚えていたこと。
そんな些細なことばかりが気になった。
怖い先輩だと思っていたのに。
知れば知るほど、全然違う。
*
それから数日、朝の約束は自然に続いた。
最初は北塔へ行くためだった。
二日目も研究室。
三日目も研究室。
四日目になると、リリアが「今日は別に研究しなくてもいい」と言った。
「なら、なぜ来た」
「会いたかったから」
カイルはその場で黙った。
「……それだけか」
「うん」
「研究は?」
「今日はいい」
「では何をする」
「散歩?」
「朝から?」
「嫌?」
「嫌ではないが」
「じゃあ行こう」
そうして二人で学院の庭を歩いた。
五日目にはカイルがコーヒーを持ってきた。
リリアの分は甘いミルクティーだった。
「何で私の甘いの?」
「苦いものは飲まないだろう」
「知ってるんだ」
「……見ていれば分かる」
「また見てた」
「その言い方をやめろ」
六日目にはリリアが焼き菓子を持っていった。
甘くないものを選んだ。
カイルは一口食べて「悪くない」と言った。
「美味しいって言えばいいのに」
「悪くないは褒めている」
「分かりづらい」
「覚えろ」
「じゃあクロフォード先輩が『悪くない』って言ったら『好き』って意味?」
「飛躍するな」
「私のことは?」
「何が」
「悪くない?」
カイルがむせた。
初めて見た。
「大丈夫?」
「お前……」
「冗談」
「そういう冗談を言うな」
「何で?」
「……何でもだ」
それからリリアは、その質問を何となく忘れられなくなった。
*
七日目。
いつもの場所へ行くと、カイルがいなかった。
リリアは時計を見る。
七時三十分。
「珍しい」
遅刻する人には見えない。
七時三十五分。
まだ来ない。
七時四十分。
少し不安になる。
「何かあった?」
前日の別れ際には何も言っていなかった。
研究で徹夜でもしたのだろうか。
体調を崩したのかもしれない。
七時四十五分になったところで、リリアは待つのをやめた。
「探そう」
北塔ならもう一人でも行ける。
一週間通ったのだ。
さすがに覚えた。
そう思って歩き出し、数分後。
「……ここどこ?」
見覚えのない階段にいた。
「何で?」
「それは俺が聞きたい」
後ろから声がした。
勢いよく振り返る。
「クロフォード先輩!」
階段の下にカイルが立っていた。
いつもより少し息が上がっている。
「何でここにいる」
「探してた」
「待っていろと言っただろ」
「遅かったから」
「十五分だ」
「十五分も」
「それくらい待て」
「何かあったのかと思った」
言うと、カイルが黙った。
「研究で倒れてるかもしれないし、体調悪いのかもしれないし」
「リリア」
「何?」
「心配したのか」
「するでしょ」
「……そうか」
「何でちょっと嬉しそうなの?」
「嬉しくない」
「嘘」
「それより戻るぞ」
「何で遅れたの?」
カイルは答えない。
「クロフォード先輩」
「……これだ」
差し出されたのは小さな紙袋だった。
「何?」
「開けろ」
中を見る。
小さな苺のタルトが入っていた。
「……これ」
「先週食べていただろう」
「食堂の?」
「同じ店のものだ」
「何で?」
「朝、店が開く時間が遅れた」
「それで遅刻したの?」
「遅刻ではない」
「十五分遅れた」
「……悪かった」
リリアはタルトを見る。
それからカイルを見る。
「私に?」
「他に誰がいる」
昨日までなら、ただ嬉しかったと思う。
でも今は違った。
胸の奥がきゅっと縮まって、そこから熱が広がる。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「これ、かなり嬉しい」
「そうか」
「ありがとう」
「ああ」
「私が好きだから買ってきたの?」
「タルトが、だろう」
「うん」
「そうだ」
「私が喜ぶと思った?」
カイルが一瞬黙った。
「……そうだ」
「喜ばせたかった?」
「質問が多い」
「答えて」
カイルは視線を逸らした。
「そうだ」
胸がまた鳴った。
「何で?」
「何でとは」
「私を喜ばせたい理由」
「……知らない」
「分からない?」
「ああ」
「私も分からない」
「何が」
「何でこんなに嬉しいのか」
カイルがこちらを見る。
リリアは紙袋を胸元へ抱えた。
「タルト貰ったからだけじゃない気がする」
「……そうか」
「うん」
少しだけ沈黙が落ちた。
今までなら気まずかったかもしれない。
でも今日は違う。
カイルの顔を見ているだけで、何となく落ち着く。
「食べるか」
「ここで?」
「研究室へ行く」
「一緒に?」
「俺が買ったんだ。感想くらい聞かせろ」
「じゃあ半分あげる」
「甘いものは食べない」
「一口」
「いらない」
「恋人みたい」
口から出た。
二人とも止まった。
「……何がだ」
カイルの声が僅かに低くなる。
「朝迎えに来て、好きなもの買ってきて、一緒に食べるの」
「それだけで恋人になるのか」
「ならないけど、ちょっとそれっぽい」
「お前は」
カイルが何か言いかけて、止めた。
「何?」
「そういうことを、他の男にも言うのか」
今度はリリアが黙った。
「言わないと思う」
「思う?」
「少なくとも、今はクロフォード先輩にしか言ってない」
カイルの目が僅かに揺れる。
「そうか」
「何で?」
「何でもない」
「またそれ」
リリアは少し考えてから、彼の袖を摘んだ。
「行こう」
「……何をしている」
「迷わないように」
「袖を掴む必要はない」
「じゃあ手?」
カイルが完全に固まった。
「手を繋げば迷わない」
「必要ない」
「何で?」
「お前は簡単に男と手を繋ごうとするな」
「簡単じゃないですよ」
「今言っただろう」
「クロフォード先輩だから」
昨日と似た言葉。
でも今日は、言った自分の方が先に恥ずかしくなった。
カイルも黙っている。
袖を摘んでいた指を離そうとした。
「……じゃあ、袖でいい」
その瞬間。
手首を掴まれた。
昨日より優しく。
カイルの手が、そのまま少し下へ滑る。
指先が触れる。
リリアは息を止めた。
「クロフォード先輩?」
「迷うんだろう」
「……うん」
「なら」
大きな手がリリアの手を包んだ。
完全に指を絡めるわけではない。
ただ掌を重ねているだけ。
それでも、初めてだった。
「これでいい」
カイルは前を向いたまま言った。
耳が赤い。
リリアも自分の顔が熱いことを自覚していた。
「……クロフォード先輩」
「何だ」
「私、今ちょっと緊張してる」
「言うな」
「先輩も?」
「言うな」
「してるんだ」
「リリア」
「はい」
「黙って歩け」
「手は?」
「……そのままでいい」
胸の奥がまた大きく鳴った。
二人で歩き出す。
いつもよりずっと近い。
カイルは前を向いたまま、こちらを見ない。
それなのに手だけは離さない。
リリアも何も言わず、その手を握った。
恋人ではない。
好きだとも言っていない。
ただ、朝に会う約束をして、好きなものを覚えていてくれて、手を繋いで歩いているだけ。
それなのに、昨日までとは明らかに何かが違っていた。
北塔へ着く頃には、リリアはもう道順をほとんど覚えていた。
それでも、カイルには言わなかった。
手を離す理由を、自分から作りたくなかったからだ。
研究室の前へ着くと、カイルが扉を開けるために手を離した。
たったそれだけなのに、掌が急に寒く感じた。
リリアは自分の手を見る。
「……何だろ」
「何が」
「何でもない」
「そうか」
カイルが扉を開ける。
「入れ」
「うん」
部屋へ入ろうとして、リリアは足を止めた。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「明日も迎えに来る?」
カイルは少しだけ目を見開いた。
「もう道は覚えただろう」
ばれていた。
「……たぶん」
「なら一人で来られる」
「そうだけど」
「何だ」
リリアは迷った。
理由を言ってしまったら、何かが変わる気がした。
それでも、昨日「もっと知りたい」と言った時と同じように、口から先に出た。
「迎えに来てほしい」
カイルの表情が止まった。
「何で?」
「分からない」
「またそれか」
「でも、来てほしい」
カイルはしばらくリリアを見ていた。
やがて、ほんの少しだけ困ったように目を細めた。
「七時半か」
「うん」
「分かった」
「来てくれる?」
「ああ」
「五分前?」
「……たぶんな」
リリアは笑った。
「じゃあ私も五分前に行く」
「好きにしろ」
「待っててね」
「ああ」
カイルはそう答えてから研究室へ入った。
リリアもその後を追う。
机の上に苺のタルトを置き、二人分の皿を探しながら、明日の朝のことを考えている自分に気づいた。
まだ今日も始まったばかりなのに、もう次に会う約束が嬉しい。
それが何という気持ちなのか、リリアにはまだ分からなかった。
ただ、明日も七時半になれば、あの人が自分を待っている。
そう思うだけで、今日一日が少しだけ特別になる。
一方、カイルはコーヒーを淹れながら、先ほどリリアと繋いでいた右手を無意識に握っていた。そこにはもう何の温度も残っていないはずなのに、掌だけが妙に熱い。
かつて、この手で一人の少女の命を終わらせた。
その記憶があるから、今のリリアには必要以上に触れないと決めていた。
守るとしても距離を置く。過去と現在を混同しない。彼女の人生に、自分の罪悪感を持ち込まない。
そのはずだった。
けれど今日、手を差し出したのはリリアではない。
自分だった。
迷わないようにという理由なら、袖を掴ませるだけで十分だった。それなのに、自分から彼女の手を取った。
しかも、離したくないと思った。
昔のリリアと同じ顔だからではない。
昔の彼女なら、あんなふうに「恋人みたい」などと平然と言って自分を困らせたりしなかった。甘いものを貰っただけであんなに嬉しそうに笑ったり、迷子になることを理由に手を繋ごうとしたりもしなかった。
今のリリアだからだ。
その事実に気づくほど、カイルは困る。
「クロフォード先輩」
後ろから呼ばれて振り返る。
「何だ」
「お皿どこ?」
「上だ」
「届かない」
見ると、リリアが棚へ腕を伸ばしている。
身長が足りていない。
「退け」
「取れる?」
「当たり前だ」
背後から腕を伸ばす。
皿を取るだけのつもりだった。
けれど棚が狭く、自然とリリアを後ろから囲うような形になった。
銀白の髪がすぐ目の前にある。
甘い香りがした。
リリアが振り返ろうとする。
「クロフォード先輩?」
「動くな」
「何で?」
「……頭が当たる」
「あ、そっか」
リリアは素直に止まった。
カイルは皿を取る。
すぐ離れればいい。
それなのに、一瞬だけ動けなかった。
この距離で抱きしめたら、どんな顔をするのだろう。
そんな考えが浮かんだ自分に驚いた。
カイルはすぐに一歩下がった。
「ほら」
「ありがとう」
何も知らないリリアが皿を受け取る。
「クロフォード先輩?」
「何だ」
「顔赤い?」
「赤くない」
「また?」
「見るな」
リリアが笑う。
その笑顔を見て、カイルは小さく息を吐いた。
明日も七時半。
また会う。
それが嬉しいと思ってしまった時点で、もう距離を置くという選択は、思っていたよりずっと難しくなっていた。

