朝、目を覚ましたリリアは、しばらく天井を見つめていた。
昨日、自分が「リリア」でありながら「エリシア」という独立した存在でもあることを知った。十二の世界にいた少女とは魂が繋がっておらず、誰かの生まれ変わりでもなければ、誰かを愛するために作られた存在でもない。世界から与えられた存在目的は未定義で、これから何を選ぶのかは全部自分で決めていいのだと知った。
その事実を受け止めたあと、最後に自分へ問いかけたことがある。
もし明日、授業も約束も何もなくて、好きなところへ行けるなら誰に会いたいのか。
答えはまだ出ていない。
ノアといれば楽しい。レオンと話していると、王子ではない彼をもっと知りたいと思う。アレンの真っ直ぐさにはいつも心を揺らされるし、ルシアンには知りたいことが山ほどある。セシルの隣は安心する。
そして、もう一人。
「……クロフォード先輩」
名前を口にしただけで、胸の奥が少しだけ重くなった。
怖い人ではない。
最初はそう思っていたけれど、今は違うと知っている。
無愛想で、言葉が足りなくて、こちらを見る目が時々怖いほど真剣で、それなのにリリアが近づくと自分から距離を取る。
六人の中で、一番分からない人だった。
そしておそらく、一番自分を知っている人でもある。
「……会いたいのかな」
自分で呟いて、首を傾げた。
会いたい、と素直に言うには少し違う気がする。
むしろ、昨日までなら避けたかった。
カイルと目が合うと、知らない誰かを見られているような気持ちになることがあったからだ。
けれど、自分が昔のリリアとは違うと知った今なら、聞ける気がした。
あなたは私を見ているのか。
それとも、昔の彼女を見ているのか。
答えが欲しかった。
リリアはベッドから起き上がった。
*
カイル・クロフォードは朝が早い。
その情報を教えてくれたのはノアだった。
「クロフォード先輩? この時間なら北塔じゃないかな」
「北塔?」
「うん。朝、よく一人で魔法陣弄ってるよ」
「何で知ってるの?」
「僕、学院のこと大体知ってるから」
「怖い」
「褒めてる?」
「褒めてない」
廊下で偶然会ったノアは笑った。
「でも珍しいね。リリアからクロフォード先輩探すなんて」
「聞きたいことがある」
「昨日のこと?」
「それも」
ノアは少しだけリリアを見つめた。
「そっか」
「何?」
「ううん。行っておいで」
「北塔で合ってる?」
「合ってる。ただし、リリア一人だと西塔に着く可能性が高い」
「失礼」
「案内しようか?」
「大丈夫」
「本当に?」
「大丈夫」
「じゃあ十五分後に西塔見に行くね」
「行かなくていい!」
笑うノアと別れ、リリアは北塔へ向かった。
そして十分後。
「……ここどこ?」
見覚えのない中庭にいた。
学院に半年近く通っているのに、まだ知らない場所があるらしい。
「北塔……どっち?」
「逆だ」
背後から低い声がした。
振り返る。
黒髪の青年が立っていた。
深紅のネクタイ。
朝の光を受けても柔らかくならない端正な顔。
「クロフォード先輩」
「なぜここにいる」
「北塔に行こうとして」
「ここは南棟だ」
「……惜しい」
「どこがだ」
カイルは呆れたように眉を寄せた。
「北と南だぞ」
「方向としては二択」
「東西を消すな」
「でも会えたから結果的には正解」
カイルが黙った。
「何?」
「……俺を探していたのか」
「はい」
答えると、カイルの表情が僅かに変わった。
ほんの一瞬だった。
驚いたように見えた。
「何の用だ」
「話したい」
「ここで?」
「できれば二人で」
カイルが完全に黙った。
「駄目ですか?」
「いや」
「じゃあどこか行こう」
「リリア」
「はい」
「簡単に男へ二人きりになりたいと言うな」
「クロフォード先輩だから言ってるんですけど」
また黙る。
今日はよく黙る人だ。
「……それも簡単に言うな」
「何で?」
「お前は分からなくていい」
「そういうところ」
「何だ」
「すぐ分からなくていいって言う」
リリアはカイルを見上げた。
「私、もう何も知らないままでいるつもりないですよ」
カイルの表情が変わる。
「昨日、全部聞いたから。昔の私と今の私は違うってことも、私には私の名前があるってことも」
「……ああ」
「だからクロフォード先輩にも聞きたい」
「何を」
リリアは少しだけ迷った。
それでも、ここまで来たのだから聞く。
「クロフォード先輩は、私を見る時、誰を見てるんですか?」
朝の中庭が静かになった。
カイルは答えない。
リリアも急かさなかった。
やがて彼は視線を逸らした。
「場所を変える」
「はい」
カイルが歩き出す。
リリアもその隣へ並んだ。
「どこ行くの?」
「北塔」
「行きたかったところ」
「俺を探していたならな」
「案内してください」
「お前を一人で歩かせる方が危険だ」
「そこまで?」
「南まで来る奴が何を言ってる」
反論できなかった。
カイルの歩幅は大きい。
リリアが少し早足になっていると気づいたのか、途中から速度が落ちた。
何も言わない。
ただ、自然に合わせてくれる。
そういうところがずるいと思う。
優しいなら、もっと分かりやすく優しくすればいいのに。
*
北塔の最上階には、小さな研究室があった。
机の上には魔法陣の資料が広げられ、壁一面に術式が書き込まれている。中央には複雑な魔法陣が浮かび、淡い光を放っていた。
「これ、クロフォード先輩が?」
「ああ」
「すごい」
「触るな」
「まだ触ってない」
「触ろうとしただろ」
「ちょっとだけ」
「だから言った」
伸ばしかけていた手を引っ込める。
「何の魔法陣?」
「魂と魔力の接続について調べている」
「……私の?」
カイルは答えなかった。
それが答えだった。
「ずっと調べてたの?」
「ああ」
「いつから?」
「入学前からだ」
「私が入学する前?」
「ああ」
リリアは机に積まれた資料を見る。
古いものも多い。
「何で?」
「必要だったからだ」
「私のために?」
「……そうだ」
胸の奥が妙にざわついた。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「私のこと、ずっと知ってた?」
「存在は」
「会う前から?」
「ああ」
「昔の私を知ってたから?」
カイルの表情が硬くなる。
ようやく核心に触れたのだと分かった。
「座れ」
「はい」
二人で窓際の椅子へ座る。
カイルはしばらく何も言わなかった。
言葉を選んでいるようだった。
「俺は、前の世界を覚えている」
「うん」
「一つではない」
リリアは黙って聞く。
「生まれた時から、断片的に記憶があった。成長するにつれて鮮明になった。お前がいたことも、世界が壊れたことも、俺が何をしたかも」
「私を殺したこと?」
カイルの目が僅かに揺れた。
「……誰に聞いた」
「ルシアン先輩から少し。全部は知らない」
「そうか」
「クロフォード先輩が話したくないなら、今すぐ全部聞こうとは思ってない」
「怖くないのか」
「何が?」
「俺が」
リリアは少し考えた。
「今のところは」
「今のところ?」
「だって今のクロフォード先輩、私を殺そうとしてないし」
「当たり前だ」
「じゃあ怖くない」
「そんな単純な話じゃない」
「私には結構単純です」
カイルが苦しそうに眉を寄せた。
「俺は、お前を殺した」
「昔の私を」
「俺にとっては同じだった」
「でも今は?」
カイルが黙る。
リリアは彼を見た。
「昨日までは、私も分からなかった。でも今は違うって知ってる。私は昔のリリアじゃない」
「……分かっている」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ最初の質問」
カイルがこちらを見る。
「クロフォード先輩は、私を見る時、誰を見てるんですか?」
長い沈黙が落ちた。
窓から朝の光が差し込み、机の上の魔法陣を照らしている。
「最初は」
カイルがようやく口を開いた。
「昔のお前を見ていた」
リリアは何も言わなかった。
「顔も同じだった。魔力も似ていた。癖まで似ているところがあった。だから、また会えたと思った」
「嬉しかった?」
「……嬉しいと思う前に、怖かった」
「どうして?」
「また同じことになると思ったからだ」
カイルの手が膝の上で僅かに握られる。
「だから近づきたくなかった」
「それで避けてたの?」
「避けていたつもりはない」
「避けてました」
「……そうかもしれない」
「目が合うとすぐいなくなるし」
「それは」
「話しかけても短いし」
「元々だ」
「私が近づくと怖い顔する」
「それも元々だ」
「じゃあ元々感じ悪いんですね」
「お前は俺に喧嘩を売りに来たのか?」
「違います」
思わず笑う。
カイルもほんの少しだけ口元を緩めた。
その顔を見て、リリアは不意に思った。
もっと見たい。
いつも無表情なこの人が、普通に笑うところ。
「でも」
カイルの表情がまた真剣になる。
「途中から違うと分かった」
「何が?」
「お前が、昔のリリアとは違う」
胸が少しだけ鳴った。
「いつ?」
「分からない」
「覚えてない?」
「明確な瞬間はない。ただ、お前ならこうすると思った時に違うことをすることが増えた」
「例えば?」
「初対面に近い男へ平気で失礼なことを言う」
「それ私?」
「お前だ」
「昔の私は言わなかった?」
「もっと大人しかった」
「じゃあ今の私の方が性格悪いみたい」
「そうは言っていない」
「他は?」
「道に迷う」
「昔の私は?」
「迷わなかった」
「負けた」
「勝負なのか?」
「何となく」
カイルがまた少し笑った。
「あと、すぐ顔に出る」
「昔の私は出なかった?」
「隠すのが上手かった」
「それはちょっと格好いい」
「真似するな」
「何で?」
「お前は今のままでいい」
あまりにも自然に言われた。
リリアは瞬きをした。
カイルも、自分が何を言ったのか少し遅れて気づいたらしい。
「……そういう意味ではない」
「どういう意味?」
「昔のお前に似せる必要はないという意味だ」
「じゃあ、今の私のままでいいってことで合ってる」
「……そうだ」
リリアは少し笑った。
「嬉しい」
カイルが目を逸らした。
「何でそっち向くの?」
「何でもない」
「耳赤い?」
「赤くない」
「見せて」
「触るな」
手を伸ばすと、カイルが避ける。
それが面白くてもう一度手を伸ばした。
「ちょっとだけ」
「やめろ」
「確認するだけ」
「何を確認する必要がある」
「照れてるのかなって」
「照れていない」
「じゃあ見せられるでしょ」
「リリア」
名前を呼ばれた。
いつもより低い声。
思わず動きを止める。
カイルがこちらを見ていた。
距離が近い。
耳を見ようとして身を乗り出していたせいで、思った以上に顔が近づいていた。
「……近い」
カイルが言う。
「クロフォード先輩が避けたから」
「お前が寄ったんだろう」
「そうだっけ」
「戻れ」
「はい」
離れようとした。
その瞬間、腕を掴まれた。
「え?」
リリアは止まる。
カイル自身も驚いたような顔をしていた。
反射的に掴んだらしい。
「クロフォード先輩?」
「……悪い」
すぐに手が離れた。
でも、その指先が離れる時、ほんの少しだけ惜しむように感じた。
「何で掴んだの?」
「分からない」
「分からないことあるんだ」
「ある」
「もう一回やってみる?」
「何をだ」
「離れるから」
「やらなくていい」
「確認」
「必要ない」
リリアは笑った。
でも、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
今の一瞬。
腕を掴まれた時。
驚いたのに、嫌ではなかった。
むしろ、もう少しそのままでもよかったと思ってしまった。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「私、今日ここに来てよかった」
「なぜ」
「前よりクロフォード先輩のこと分かったから」
「大したことは話していない」
「でも、私を昔のリリアと同じだと思ってないって分かった」
「ああ」
「それが知りたかった」
リリアは立ち上がった。
「じゃあ授業行きます」
「送る」
「一人で行けます」
「南棟に着く」
「今日はもう道覚えた」
「信用できない」
「ひどい」
「事実だ」
カイルも立ち上がる。
二人で研究室を出た。
階段を下りながら、リリアは前を歩くカイルの背中を見る。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「明日もここにいる?」
カイルが足を止めた。
「朝か?」
「うん」
「いるが」
「じゃあまた来てもいい?」
振り返ったカイルの顔には、珍しくはっきりと驚きが出ていた。
「なぜ」
「もっと話したいから」
「俺と?」
「他に誰がいるの?」
昨日までは、こんなことを思わなかった。
むしろ近づきづらい人だった。
それなのに、一度中を覗いてしまったら、もっと知りたくなった。
「迷惑?」
「……いや」
「じゃあ来る」
「一人で来るな」
「何で?」
「迷う」
「じゃあ迎えに来て」
言ってから、少し図々しかったかと思った。
けれどカイルは断らなかった。
「何時だ」
「え?」
「迎えに行く。何時に寮を出る」
「七時半くらい」
「分かった」
「本当に?」
「お前が北塔へ来るまで待っていたら昼になる」
「そんなに迷わない」
「今日南棟にいた」
「それはたまたま」
「明日もたまたま迷う」
「じゃあお願いします」
リリアは笑った。
「明日、七時半」
「ああ」
「約束ね」
「分かった」
階段を下り終え、廊下へ出る。
授業へ向かう生徒が増えてきた。
人の流れに紛れる前に、リリアはもう一度カイルを見る。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
返事は短い。
いつものカイルだ。
それでも数歩歩いたところで、後ろから声がした。
「リリア」
振り返る。
カイルはまだ同じ場所に立っていた。
「何?」
少しの沈黙のあと、彼は言った。
「……明日は、迷う前に待っていろ」
リリアは笑った。
「はい」
今度こそ教室へ向かう。
なぜか少しだけ足取りが軽かった。
明日の朝、会う約束をした。
それだけなのに楽しみだった。
昨日、自分に問いかけた時には分からなかった「会いたい」という気持ちが、今は少しだけ分かる。
好きなのかは、まだ知らない。
でも、もっと知りたい。
それはきっと、誰かを好きになるより少し手前にある気持ちなのだろう。
一方、リリアの姿が見えなくなったあとも、カイルはしばらくその場を動かなかった。
明日、七時半。
ただそれだけの約束が、頭から離れない。
かつてのリリアとは、何度も約束をした。その多くは守れず、最後に残ったのは、自分の手で彼女の命を終わらせた感触だった。
だから今のリリアには近づかない方がいいと思っていた。
過去の罪悪感を彼女へ重ねないためにも、自分の感情を昔の続きだと勘違いしないためにも、それが正しいと思っていた。
それなのに、明日も会いたいと言われただけで嬉しかった。
昔のリリアではない。
それはもう分かっている。
むしろ違うからこそ、気になる。
何を考えているのか知りたい。次に何を言うのか聞きたい。また突然失礼なことを言って、自分を困らせるのだろうかと考えてしまう。
カイルは自分の右手を見た。
先ほど、離れようとしたリリアの腕を掴んだ手だった。
殺した時の感触を覚えている手で、今の彼女へ触れた。
それが怖くて、ずっと避けてきたはずなのに。
「……明日か」
誰にも聞こえない声で呟く。
明日が来るのを待ち遠しいと思ったのは、いつ以来だろう。
カイルは答えを探さなかった。
ただ明日の七時半に遅れないよう、いつもより少し早く研究を切り上げようと思った。
昨日、自分が「リリア」でありながら「エリシア」という独立した存在でもあることを知った。十二の世界にいた少女とは魂が繋がっておらず、誰かの生まれ変わりでもなければ、誰かを愛するために作られた存在でもない。世界から与えられた存在目的は未定義で、これから何を選ぶのかは全部自分で決めていいのだと知った。
その事実を受け止めたあと、最後に自分へ問いかけたことがある。
もし明日、授業も約束も何もなくて、好きなところへ行けるなら誰に会いたいのか。
答えはまだ出ていない。
ノアといれば楽しい。レオンと話していると、王子ではない彼をもっと知りたいと思う。アレンの真っ直ぐさにはいつも心を揺らされるし、ルシアンには知りたいことが山ほどある。セシルの隣は安心する。
そして、もう一人。
「……クロフォード先輩」
名前を口にしただけで、胸の奥が少しだけ重くなった。
怖い人ではない。
最初はそう思っていたけれど、今は違うと知っている。
無愛想で、言葉が足りなくて、こちらを見る目が時々怖いほど真剣で、それなのにリリアが近づくと自分から距離を取る。
六人の中で、一番分からない人だった。
そしておそらく、一番自分を知っている人でもある。
「……会いたいのかな」
自分で呟いて、首を傾げた。
会いたい、と素直に言うには少し違う気がする。
むしろ、昨日までなら避けたかった。
カイルと目が合うと、知らない誰かを見られているような気持ちになることがあったからだ。
けれど、自分が昔のリリアとは違うと知った今なら、聞ける気がした。
あなたは私を見ているのか。
それとも、昔の彼女を見ているのか。
答えが欲しかった。
リリアはベッドから起き上がった。
*
カイル・クロフォードは朝が早い。
その情報を教えてくれたのはノアだった。
「クロフォード先輩? この時間なら北塔じゃないかな」
「北塔?」
「うん。朝、よく一人で魔法陣弄ってるよ」
「何で知ってるの?」
「僕、学院のこと大体知ってるから」
「怖い」
「褒めてる?」
「褒めてない」
廊下で偶然会ったノアは笑った。
「でも珍しいね。リリアからクロフォード先輩探すなんて」
「聞きたいことがある」
「昨日のこと?」
「それも」
ノアは少しだけリリアを見つめた。
「そっか」
「何?」
「ううん。行っておいで」
「北塔で合ってる?」
「合ってる。ただし、リリア一人だと西塔に着く可能性が高い」
「失礼」
「案内しようか?」
「大丈夫」
「本当に?」
「大丈夫」
「じゃあ十五分後に西塔見に行くね」
「行かなくていい!」
笑うノアと別れ、リリアは北塔へ向かった。
そして十分後。
「……ここどこ?」
見覚えのない中庭にいた。
学院に半年近く通っているのに、まだ知らない場所があるらしい。
「北塔……どっち?」
「逆だ」
背後から低い声がした。
振り返る。
黒髪の青年が立っていた。
深紅のネクタイ。
朝の光を受けても柔らかくならない端正な顔。
「クロフォード先輩」
「なぜここにいる」
「北塔に行こうとして」
「ここは南棟だ」
「……惜しい」
「どこがだ」
カイルは呆れたように眉を寄せた。
「北と南だぞ」
「方向としては二択」
「東西を消すな」
「でも会えたから結果的には正解」
カイルが黙った。
「何?」
「……俺を探していたのか」
「はい」
答えると、カイルの表情が僅かに変わった。
ほんの一瞬だった。
驚いたように見えた。
「何の用だ」
「話したい」
「ここで?」
「できれば二人で」
カイルが完全に黙った。
「駄目ですか?」
「いや」
「じゃあどこか行こう」
「リリア」
「はい」
「簡単に男へ二人きりになりたいと言うな」
「クロフォード先輩だから言ってるんですけど」
また黙る。
今日はよく黙る人だ。
「……それも簡単に言うな」
「何で?」
「お前は分からなくていい」
「そういうところ」
「何だ」
「すぐ分からなくていいって言う」
リリアはカイルを見上げた。
「私、もう何も知らないままでいるつもりないですよ」
カイルの表情が変わる。
「昨日、全部聞いたから。昔の私と今の私は違うってことも、私には私の名前があるってことも」
「……ああ」
「だからクロフォード先輩にも聞きたい」
「何を」
リリアは少しだけ迷った。
それでも、ここまで来たのだから聞く。
「クロフォード先輩は、私を見る時、誰を見てるんですか?」
朝の中庭が静かになった。
カイルは答えない。
リリアも急かさなかった。
やがて彼は視線を逸らした。
「場所を変える」
「はい」
カイルが歩き出す。
リリアもその隣へ並んだ。
「どこ行くの?」
「北塔」
「行きたかったところ」
「俺を探していたならな」
「案内してください」
「お前を一人で歩かせる方が危険だ」
「そこまで?」
「南まで来る奴が何を言ってる」
反論できなかった。
カイルの歩幅は大きい。
リリアが少し早足になっていると気づいたのか、途中から速度が落ちた。
何も言わない。
ただ、自然に合わせてくれる。
そういうところがずるいと思う。
優しいなら、もっと分かりやすく優しくすればいいのに。
*
北塔の最上階には、小さな研究室があった。
机の上には魔法陣の資料が広げられ、壁一面に術式が書き込まれている。中央には複雑な魔法陣が浮かび、淡い光を放っていた。
「これ、クロフォード先輩が?」
「ああ」
「すごい」
「触るな」
「まだ触ってない」
「触ろうとしただろ」
「ちょっとだけ」
「だから言った」
伸ばしかけていた手を引っ込める。
「何の魔法陣?」
「魂と魔力の接続について調べている」
「……私の?」
カイルは答えなかった。
それが答えだった。
「ずっと調べてたの?」
「ああ」
「いつから?」
「入学前からだ」
「私が入学する前?」
「ああ」
リリアは机に積まれた資料を見る。
古いものも多い。
「何で?」
「必要だったからだ」
「私のために?」
「……そうだ」
胸の奥が妙にざわついた。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「私のこと、ずっと知ってた?」
「存在は」
「会う前から?」
「ああ」
「昔の私を知ってたから?」
カイルの表情が硬くなる。
ようやく核心に触れたのだと分かった。
「座れ」
「はい」
二人で窓際の椅子へ座る。
カイルはしばらく何も言わなかった。
言葉を選んでいるようだった。
「俺は、前の世界を覚えている」
「うん」
「一つではない」
リリアは黙って聞く。
「生まれた時から、断片的に記憶があった。成長するにつれて鮮明になった。お前がいたことも、世界が壊れたことも、俺が何をしたかも」
「私を殺したこと?」
カイルの目が僅かに揺れた。
「……誰に聞いた」
「ルシアン先輩から少し。全部は知らない」
「そうか」
「クロフォード先輩が話したくないなら、今すぐ全部聞こうとは思ってない」
「怖くないのか」
「何が?」
「俺が」
リリアは少し考えた。
「今のところは」
「今のところ?」
「だって今のクロフォード先輩、私を殺そうとしてないし」
「当たり前だ」
「じゃあ怖くない」
「そんな単純な話じゃない」
「私には結構単純です」
カイルが苦しそうに眉を寄せた。
「俺は、お前を殺した」
「昔の私を」
「俺にとっては同じだった」
「でも今は?」
カイルが黙る。
リリアは彼を見た。
「昨日までは、私も分からなかった。でも今は違うって知ってる。私は昔のリリアじゃない」
「……分かっている」
「本当に?」
「ああ」
「じゃあ最初の質問」
カイルがこちらを見る。
「クロフォード先輩は、私を見る時、誰を見てるんですか?」
長い沈黙が落ちた。
窓から朝の光が差し込み、机の上の魔法陣を照らしている。
「最初は」
カイルがようやく口を開いた。
「昔のお前を見ていた」
リリアは何も言わなかった。
「顔も同じだった。魔力も似ていた。癖まで似ているところがあった。だから、また会えたと思った」
「嬉しかった?」
「……嬉しいと思う前に、怖かった」
「どうして?」
「また同じことになると思ったからだ」
カイルの手が膝の上で僅かに握られる。
「だから近づきたくなかった」
「それで避けてたの?」
「避けていたつもりはない」
「避けてました」
「……そうかもしれない」
「目が合うとすぐいなくなるし」
「それは」
「話しかけても短いし」
「元々だ」
「私が近づくと怖い顔する」
「それも元々だ」
「じゃあ元々感じ悪いんですね」
「お前は俺に喧嘩を売りに来たのか?」
「違います」
思わず笑う。
カイルもほんの少しだけ口元を緩めた。
その顔を見て、リリアは不意に思った。
もっと見たい。
いつも無表情なこの人が、普通に笑うところ。
「でも」
カイルの表情がまた真剣になる。
「途中から違うと分かった」
「何が?」
「お前が、昔のリリアとは違う」
胸が少しだけ鳴った。
「いつ?」
「分からない」
「覚えてない?」
「明確な瞬間はない。ただ、お前ならこうすると思った時に違うことをすることが増えた」
「例えば?」
「初対面に近い男へ平気で失礼なことを言う」
「それ私?」
「お前だ」
「昔の私は言わなかった?」
「もっと大人しかった」
「じゃあ今の私の方が性格悪いみたい」
「そうは言っていない」
「他は?」
「道に迷う」
「昔の私は?」
「迷わなかった」
「負けた」
「勝負なのか?」
「何となく」
カイルがまた少し笑った。
「あと、すぐ顔に出る」
「昔の私は出なかった?」
「隠すのが上手かった」
「それはちょっと格好いい」
「真似するな」
「何で?」
「お前は今のままでいい」
あまりにも自然に言われた。
リリアは瞬きをした。
カイルも、自分が何を言ったのか少し遅れて気づいたらしい。
「……そういう意味ではない」
「どういう意味?」
「昔のお前に似せる必要はないという意味だ」
「じゃあ、今の私のままでいいってことで合ってる」
「……そうだ」
リリアは少し笑った。
「嬉しい」
カイルが目を逸らした。
「何でそっち向くの?」
「何でもない」
「耳赤い?」
「赤くない」
「見せて」
「触るな」
手を伸ばすと、カイルが避ける。
それが面白くてもう一度手を伸ばした。
「ちょっとだけ」
「やめろ」
「確認するだけ」
「何を確認する必要がある」
「照れてるのかなって」
「照れていない」
「じゃあ見せられるでしょ」
「リリア」
名前を呼ばれた。
いつもより低い声。
思わず動きを止める。
カイルがこちらを見ていた。
距離が近い。
耳を見ようとして身を乗り出していたせいで、思った以上に顔が近づいていた。
「……近い」
カイルが言う。
「クロフォード先輩が避けたから」
「お前が寄ったんだろう」
「そうだっけ」
「戻れ」
「はい」
離れようとした。
その瞬間、腕を掴まれた。
「え?」
リリアは止まる。
カイル自身も驚いたような顔をしていた。
反射的に掴んだらしい。
「クロフォード先輩?」
「……悪い」
すぐに手が離れた。
でも、その指先が離れる時、ほんの少しだけ惜しむように感じた。
「何で掴んだの?」
「分からない」
「分からないことあるんだ」
「ある」
「もう一回やってみる?」
「何をだ」
「離れるから」
「やらなくていい」
「確認」
「必要ない」
リリアは笑った。
でも、胸の奥が少しだけ落ち着かなかった。
今の一瞬。
腕を掴まれた時。
驚いたのに、嫌ではなかった。
むしろ、もう少しそのままでもよかったと思ってしまった。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「私、今日ここに来てよかった」
「なぜ」
「前よりクロフォード先輩のこと分かったから」
「大したことは話していない」
「でも、私を昔のリリアと同じだと思ってないって分かった」
「ああ」
「それが知りたかった」
リリアは立ち上がった。
「じゃあ授業行きます」
「送る」
「一人で行けます」
「南棟に着く」
「今日はもう道覚えた」
「信用できない」
「ひどい」
「事実だ」
カイルも立ち上がる。
二人で研究室を出た。
階段を下りながら、リリアは前を歩くカイルの背中を見る。
「クロフォード先輩」
「何だ」
「明日もここにいる?」
カイルが足を止めた。
「朝か?」
「うん」
「いるが」
「じゃあまた来てもいい?」
振り返ったカイルの顔には、珍しくはっきりと驚きが出ていた。
「なぜ」
「もっと話したいから」
「俺と?」
「他に誰がいるの?」
昨日までは、こんなことを思わなかった。
むしろ近づきづらい人だった。
それなのに、一度中を覗いてしまったら、もっと知りたくなった。
「迷惑?」
「……いや」
「じゃあ来る」
「一人で来るな」
「何で?」
「迷う」
「じゃあ迎えに来て」
言ってから、少し図々しかったかと思った。
けれどカイルは断らなかった。
「何時だ」
「え?」
「迎えに行く。何時に寮を出る」
「七時半くらい」
「分かった」
「本当に?」
「お前が北塔へ来るまで待っていたら昼になる」
「そんなに迷わない」
「今日南棟にいた」
「それはたまたま」
「明日もたまたま迷う」
「じゃあお願いします」
リリアは笑った。
「明日、七時半」
「ああ」
「約束ね」
「分かった」
階段を下り終え、廊下へ出る。
授業へ向かう生徒が増えてきた。
人の流れに紛れる前に、リリアはもう一度カイルを見る。
「じゃあ、また明日」
「ああ」
返事は短い。
いつものカイルだ。
それでも数歩歩いたところで、後ろから声がした。
「リリア」
振り返る。
カイルはまだ同じ場所に立っていた。
「何?」
少しの沈黙のあと、彼は言った。
「……明日は、迷う前に待っていろ」
リリアは笑った。
「はい」
今度こそ教室へ向かう。
なぜか少しだけ足取りが軽かった。
明日の朝、会う約束をした。
それだけなのに楽しみだった。
昨日、自分に問いかけた時には分からなかった「会いたい」という気持ちが、今は少しだけ分かる。
好きなのかは、まだ知らない。
でも、もっと知りたい。
それはきっと、誰かを好きになるより少し手前にある気持ちなのだろう。
一方、リリアの姿が見えなくなったあとも、カイルはしばらくその場を動かなかった。
明日、七時半。
ただそれだけの約束が、頭から離れない。
かつてのリリアとは、何度も約束をした。その多くは守れず、最後に残ったのは、自分の手で彼女の命を終わらせた感触だった。
だから今のリリアには近づかない方がいいと思っていた。
過去の罪悪感を彼女へ重ねないためにも、自分の感情を昔の続きだと勘違いしないためにも、それが正しいと思っていた。
それなのに、明日も会いたいと言われただけで嬉しかった。
昔のリリアではない。
それはもう分かっている。
むしろ違うからこそ、気になる。
何を考えているのか知りたい。次に何を言うのか聞きたい。また突然失礼なことを言って、自分を困らせるのだろうかと考えてしまう。
カイルは自分の右手を見た。
先ほど、離れようとしたリリアの腕を掴んだ手だった。
殺した時の感触を覚えている手で、今の彼女へ触れた。
それが怖くて、ずっと避けてきたはずなのに。
「……明日か」
誰にも聞こえない声で呟く。
明日が来るのを待ち遠しいと思ったのは、いつ以来だろう。
カイルは答えを探さなかった。
ただ明日の七時半に遅れないよう、いつもより少し早く研究を切り上げようと思った。

